ゴドルフィンアラビアン
和名:ゴドルフィンアラビアン |
英名:Godolphin Arabian |
1724年生 |
牡 |
黒鹿 |
父:? |
母:? |
母父:? |
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誕生から他界までの経歴のほぼ全てが神秘のヴェールに包まれたサラブレッド三大始祖の1頭 |
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競走成績:競走馬としては不出走 |
サラブレッド三大始祖の1頭である。三大始祖3頭の中で生年が最も遅く、英国に輸入された年も最も遅いにもかかわらず、その生涯を伝える信頼できる資料はほとんど存在せず、多くの部分が今も謎に包まれている。本馬に関する逸話は数多くあるが、それらはほとんど伝説の領域となっており、どこまでが事実でどこからが架空なのかは分かっていない。
イエメン~シリア~仏国を経由して英国に輸入?
1724年にイエメンで誕生したとされている。生後数年を経過した頃に、シリア経由でチュニス(現在のチュニジア)に移動した。チュニスは当時仏国の植民地だったため、本馬はチュニスの首長から仏国王ルイ15世に対する献上品として、他3頭(8頭とする資料もある)の馬と一緒に1730年に仏国にやって来た。仏国に来た本馬に関して、マンティ子爵という人物が記述している(彼は本馬の名前を“Shami(シャム)”と記載している)。これによると、本馬は痩せこけた馬で、気性も激しかったため、ルイ15世や厩舎関係者からの評価は一様に低かったという。本馬が痩せていた理由は、チュニスからパリまでの長旅が原因ではないかとも言われている。一緒にルイ15世に献上された他の3頭が家畜の品種改良のために使用されたのに対して、本馬は水を運ぶための荷馬車馬をさせられることになったという。もっとも、この荷馬車馬をさせられていた云々の話は、仏国の小説家ユージェーヌ・シュー氏が1838年に発表した文献が初出であるらしく、どうも後世の創作であるらしい。
本馬は1729年、エドワード・コーク氏という人物により仏国から英国に輸入されたとされている。チュニスから仏国に来たのが1730年なのに、仏国から英国に来たのが1729年というのは明らかにおかしいのだが、それだけ本馬に関する資料が統一性に欠けるという事でもある(1730年は“British Horseracing Authority”に、1729年は“Thoroughbred Heritage”に記載がある)。なお、チュニスから仏国に来たのが1730年だとすると仏国から英国に移動して種牡馬生活を開始したのはおそらく1731年ということになる(本馬の代表産駒ラスの生年が1732年であるため)が、本馬は英国で種牡馬入り後しばらくはアテ馬として使役されていたとする説を信用すれば、英国で種牡馬入りしたその年の種付けでラスが誕生したというのはやや疑問があり、1729年に仏国から英国に来たとする方が整合性は取れると思われる。もっとも、ラスの母ロクサーナとの交配に関しては後述するように単なるピンチヒッターだったとする説もあるから、アテ馬として使役されていた時代にロクサーナと交配したとしてもまったく不自然というわけではない。
話を元に戻すが、コーク氏は仏国の上流階級と親交があり、特にロレーヌ公爵(「太陽王」ことルイ14世の姪の息子であり、ルイ14世の曾孫であるルイ15世とは親戚である。後に女帝マリア・テレジアと結婚して神聖ローマ帝国の皇帝フランツⅠ世となる。つまり、彼はマリー・アントワネットの父親である)とはルネヴィル学院の学友で付き合いが深かった。そのため、コーク氏がロレーヌ公爵から直接本馬を入手した(このときの購入金額は3ポンドだったという)とも、コーク氏の義理の兄弟であるマーマデューク・ウィヴィル卿がロレーヌ公爵から入手した本馬をコーク氏が貰い受けたとも言われている。
英国で種牡馬として成功を収める
コーク氏は英国に連れてきた本馬を、1727年に購入したばかりのダービーシャー州ロングフォードホールスタッドで種牡馬入りさせた。なお、コーク氏は本馬の事を“ye Arabian(イエ・アラビアン。つまり「イエメン出身のアラブ馬」という意味)”という呼び方で記録している。種牡馬入りした当初の本馬はアテ馬をしていたともされる。
1731年、本馬はコーク氏が所有していた牝馬ロクサーナの交配相手に指名された。この件に関しては非常に有名な逸話がある。元々ロクサーナはホブゴブリンという種牡馬と交配される予定だったが、ロクサーナがホブゴブリンとの交配を嫌がったために、代わりに本馬が交配相手となったというものである。しかしこの逸話も伝説の域を出ず、信憑性は不明である。翌年にロクサーナが産んだ牡馬ラスは非常に上品で美しい馬だった。1733年8月、コーク氏は33歳の若さで死去した。彼の遺言により、ロクサーナやラスなどの牝馬や子馬達は、コーク氏の友人で馬産家仲間でもあった第2代ゴドルフィン伯爵フランシス卿に託され、本馬やホブゴブリンなどの種牡馬達は、もう1人の友人で、セントジェームズコーヒーハウスの経営者で馬の販売業も行っていたロジャー・ウィリアムズ氏に託された。しかしこの年のうちにフランシス卿はウィリアムズ氏から本馬を購入した。本馬がゴドルフィンアラビアンと呼ばれるようになったのは、これ以降である(なお、“Godolphin Arabian”は単に「ゴドルフィン伯爵が所有するアラブ馬」という意味であり、固有名詞とは言い難い。そのため、海外の資料では“The Godolphin Arabian”と定冠詞を付して書かれる事が多い)。
本馬はフランシス卿がケンブリッジシャー州ゴグマゴグヒルズに所有するバブラハム牧場で種牡馬生活を続けた。牧場における親友は“Grimalkin(グリマルキン)”という猫だった(“Grimalkin”は英語で「老いた雌猫」という意味であるから、固有名詞ではないかもしれない)。このグリマルキンは本馬を描いた肖像画においてもしばしば登場している。
さて、本馬とロクサーナの間に産まれたラスは、デヴォンシャー公爵により購入されて競走馬となった。ラスはフライングチルダース以来最高の名馬と言われるほど卓越した競走馬であり、クイーンズプレートに9回出走して全て勝利し、本馬の種牡馬としての名声を高める要因となった。その後の本馬はフランシス卿が所有する最有力種牡馬として活躍し、英国各地から優れた繁殖牝馬を集めるようになった。本馬がその生涯で送り出した産駒は90頭ほどであり、1738・45・47年の英首位種牡馬に輝いたという。
本馬はラスの他にも、キングズプレート7勝を含めて生涯無敗のレギュラス(1754・55・56・57・61・63・65・66年と英首位種牡馬8回。エクリプスの母父)、いずれも生涯無敗だったバブラハム、ディスマル、ドールマウスの3頭、ブランク(1762・64・70年と英首位種牡馬3回。ハイフライヤーの母父)、ジムクラックの父となるクリップル、米国の名競走馬で米国ベルレアスタッドにおける基礎繁殖牝馬ともなったセリマ、所謂ファミリーナンバー11号族の始祖となったシスタートゥレギュラスなどの有力馬を送り出したが、本馬の最も重要な産駒は、おそらくケードであると言われている。
1734年産まれのケードはラスの全弟であるが、母ロクサーナが出産から2週間経たないうちに他界してしまったため、牛乳で育てられたという。競走馬としてはラスより見劣りする成績だったケードだが、種牡馬としての成績はケードを遥かに上回るものであり、1752・53・58・59・60年の5回英首位種牡馬に輝いた。特にマッチェムを出した事により本馬の直系が現在まで残る原動力となった。
馬としての特徴
本馬は1753年のクリスマスの日に、29歳という高齢で他界したと伝えられる。死後に執り行われた葬儀ではビールと菓子が振る舞われた。長年の親友だった猫のグリマルキンは本馬の死後しばらくして悲嘆のために他界したと言われている。本馬の墓碑は現在もワンドルベリーリングに存在している。
本馬の血統的出自については諸説あり、一般的にはアラブ馬そのもの、又は主としてアラブ馬の血を引いていた馬であったと言われているが、実はトルコ馬であり、種牡馬入り後に種付け料を引き上げる目的でアラブ馬だと偽ったという説もある。なお、本馬を“Barb(バルブ)”と呼ぶことがあるため、本馬はバルブ種(北アフリカ原産の軽種馬)だったという説もあるようだが、本馬がバルブと呼ばれたのは、チュニジアにあるバーバリー海岸から仏国に渡ってきたとされるためであるらしく、バルブ種の馬だったためというわけではないようである。また、本馬が晩年に差しかかった1750年に、フランシス卿はバルブ種の馬を種牡馬として購入して、この馬をバルブと呼んでいた。この馬も本馬と同じく黒鹿毛であり、違いは額の流星の有無くらいだったという。そのために2頭が混同されている節もあり、本馬がバルブと呼ばれるのは、これに起因するともされる。
本馬を描いた肖像画は複数残されており、いずれも本馬が優れた体格の持ち主だったように描かれているが、肖像画というものは本物より良いように描くのが当たり前であるから当てにはできない。本馬の体格については前述のマンティ子爵の他に、フランシス卿が懇意にしていた獣医師のウィリアム・オスマー氏による記述が存在する。マンティ子爵は、本馬は痩せこけていたとしながらも、「大きな飛節と鉄のような脚を有しており、前脚は無類の軽快さである。その欠点は気性が頑固だった事だけであり、無比の美しい構成の馬格の持ち主だった」と記載している。オスマー氏は「少なくとも私には、その馬が名種牡馬ゴドルフィンアラビアンである資格を有する馬には見えなかった。かつて私が見たどの馬よりも肩は深く窪んでおり、前脚の付け根は胴体から大きく出っ張っていた。肩の後ろ側、腰の筋肉との境目には非常に小さな隙間があった。体高は15ハンドほどだった。発育不良だった前脚とは対照的に、後脚の力強さは私が見てきたどんな馬よりも優れていた」と記載している。別の評価によると「井戸のような形をした首のてっぺんに、小さな平べったい頭が乗っており、耳は垂れており、短い胴体には途方も無く巨大な四肢と、高く突き上がった尻尾がついていた」らしい。体高については15ハンドとするのが一般的だが、14.2ハンドとする説もある。いずれにしても背が高い馬ではなかったようであり、小柄だったと一般的に評されている。しかし骨は太く、行動は豪快で、炎のような気性を有していたという。毛色は黒鹿毛だったが、赤色の斑点が混ざっており、後脚の先端のみに白毛が存在していたという。
「名馬風の王」のモデルとなる
なお、本馬の伝記として1948年に米国の女流作家マーゲライト・ヘンリー女史が“King of the Wind(名馬風の王)”を出版している。あらすじは以下のとおりである。モロッコ王が所有する厩舎で働く、言葉を話せない少年アグバが目をかけていた牝馬がある日、その生命と引き換えに1頭の牡馬を産んだ(これが本馬である)。“Sham(シャム)”と名付けられた本馬は胸に災難の印とされる小麦の穂のような毛が生えており、周囲から敬遠されていた。シャムは非常に脚が速かったが、アグバ少年以外の人間には懐こうとせず、アグバ少年も言葉を話せなかったために他者にシャムの速さを伝えることが出来なかった。ある日、シャムは仏国王ルイ15世に対する贈り物として仏国に送られ、アグバ少年も担当厩務員として共に渡仏した。しかし長旅で疲労したシャムは仏国到着後の状態が悪く、アグバ少年もその事実をきちんと伝えることが出来なかったため、気を悪くしたルイ15世は王宮の料理番にシャムを馬車馬として与えてしまった。しかしこの料理番は、アグバ少年の言うことしか聞かないシャムに無理に言うことを聞かせようとして失敗したため怒って、シャムを転売してしまった。そして荷馬車馬として酷使されていたシャムだったが、たまたま通りかかったコーク氏という人物に購入されてアグバ少年と共に英国に渡った。しかしコーク氏の子どもがシャムを気に入らなかったために、コーク氏は知人にシャムとアグバ少年を預けた。しかしその知人の妻が口のきけないアグバ少年を気味悪がって、彼だけを家から追い出してしまった。アグバ少年はシャムに会うために馬小屋に忍び込んだところを見つかって投獄されてしまった。その後、事情を知ったゴドルフィン伯爵という人物によりシャムとアグバ少年は引き取られたが、種牡馬ホブゴブリンと交配させる予定だった牝馬ロクサーナとシャムが勝手に交配したために、怒ったゴドルフィン伯爵によってシャムとアグバ少年は追い出されてしまった。しかしロクサーナが産んだシャムの息子ラスが素晴らしく速く走るのを見たゴドルフィン伯爵は自分の過ちを認めてシャムとアグバ少年を再度引き取った。そしてゴドルフィン伯爵にちなんでゴドルフィンアラビアンと命名されたシャムは種牡馬として大活躍し、アグバ少年もずっとシャムの世話を続けた。そして「風の王」とまで呼ばれるようになったゴドルフィンアラビアンが29歳で他界した翌日にアグバ少年はモロッコに帰っていったというものである。
以上のあらすじを見れば分かるとおり、本馬に関する数少ない資料がほぼそのまま採用されているが、脚色されている部分も少なからずある。この「名馬風の王」は児童向け文学であり、あくまでも創作であるため、本項執筆の参照にはしていないが、本馬の生涯が非常にロマンチックに描かれているため、興味があれば一読することをお薦めする(ただし現在は絶版で入手困難なため、図書館で借りる必要があるだろう)。
後世に与えた影響
本馬の後継種牡馬としては、ケード、レギュラス、ブランクが活躍し、1750年代から60年代にかけて毎年のように英種牡馬ランキングで上位を占め続けた(特に1752年から1766年まで15年連続で本馬の直子が英首位種牡馬を獲得している)。1770年代に入るとケードの後継種牡馬マッチェムが種牡馬としての全盛期を迎えたが、1770年代後半にヘロドやエクリプスが登場すると、本馬の直系は衰退の道を辿った。しかし現在でもマンノウォーを経由する直系が残っている。また、本馬はエクリプスやハイフライヤーの母父の父となっていることもあり、近代サラブレッドに与えた影響は同じ三大始祖であるダーレーアラビアンやバイアリータークを上回っている(サラブレッドへの血量寄与度は14%弱でダーレーアラビアンの2倍に達する)という研究結果もある。直系という点に拘らなければ、本馬はサラブレッドという品種が成立する過程において最も重要な役割を演じた馬であると言えるだろう。