エクリプス

和名:エクリプス

英名:Eclipse

1764年生

栗毛

父:マースク

母:スピレッタ

母父:リギュラス

競走馬としても種牡馬としても大活躍して近代サラブレッドの実質的始祖となった18世紀英国競馬界を代表する無敵の名馬

競走成績:5・6歳時に英で走り通算成績18戦18勝

18世紀に活躍した生涯無敗の伝説的名競走馬であり、現在世界中で走っているサラブレッドの95%程度が本馬の直系子孫になっているという偉大な種牡馬でもあった。

誕生からデビュー前まで

1764年4月1日に、カンバーランド公爵ウィリアム・オーガスタス王子により、彼が所有するクランボーンロッジスタッドにおいて生産された。カンバーランド公爵は英国王ジョージⅡ世の三男であり、勇猛だったため軍人として評価されたが、スコットランドがイングランドに対して起こした反乱を鎮圧した際に「屠殺者カンバーランド」と呼ばれるほど残虐な行為を行ったため、英国史上有数の悪人として有名な人物である。しかし馬産家としては本馬の他にヘロドも生産しておりサラブレッド種の進化に対する功績は大きい。

馬名は「日食」の意味で、本馬が誕生したその日に日食が起こった事に由来するとされている(皆既日食だったとする資料もあるが、筆者がアメリカ航空宇宙局(NASA)のウェブサイトで調べたところ、この日の日食は金環食だったらしい)。

本馬が1歳の時にカンバーランド公爵が死去したため、彼が所有していた馬達は競売に掛けられる事になった。本馬もリチャード・タタソール氏が主催したセリに出品され、食用羊の売買商をしていたウィリアム・ワイルドマン氏により75ギニーで購入された。本馬は非常に気性が激しい馬で、しかも鼻を地面すれすれまで下げる走法だったため、誰も乗りこなせなかった。そのためにワイルドマン氏は本馬の去勢を検討したが、悪名高い密猟者ながら荒馬を乗りこなす達人として知られていたジョン・オークレー氏が本馬を御する事が出来たため、去勢せずにオークレー氏を騎手として本馬を競走馬デビューさせることにした。この時期における英国競馬はヒート競走が主流であり、若駒では一日に何走も出来ない事から、ある程度年を取ってから競走馬になる事が多く、本馬も5歳になるまでは公式戦に出る事は無かった。

競走生活(5歳時)

5歳5月にエプソム競馬場で行われた賞金50ポンドのヒート競走ザ・ノーブルメン&ジェントルメンズプレート(T32F)で公式戦デビュー。単勝オッズ1.25倍の1番人気に応えて、4頭の対戦相手を蹴散らして勝利を収めた。このレースで本馬に賭けていた愛国出身のデニス・オケリー大佐が第2ヒート競走前に発言したのが、現在も英語圏(米国ではスポーツ部門で用いられる事が多いが、英国ではもっと一般的)において「圧倒的な勝利」を意味する慣用句として用いられている、かの有名な“Eclipse first and the rest nowhere(エクリプスが1着、そして残りの馬はどこにもいない)”である。オケリー大佐の予言どおり、本馬が先頭でゴールインした時には、他の全馬が240ヤード以上後方におり、本当にどこにもいないように見えたとされている。本筋から外れるが、オケリー氏の階級についてここで注釈を入れておく。「新・世界の名馬」では彼の階級を「陸軍中佐(英語で“Lieutenant Colonel”)」としている。しかし筆者が調べた海外の資料では、海軍大佐又は陸軍大尉を意味する“Captain”、又は陸軍大佐を意味する“Colonel”が使用されている。英国では“Lieutenant Colonel”を略して“Colonel”と言う事もあるようなので、中佐が正しい可能性もあるが、資料中に一番多く見受けられるのは“Captain”である事から、本項ではオケリー氏の階級を大佐としている。

さて本馬の話に戻るが、デビュー戦の同月にはアスコット競馬場で行われた賞金50ポンドのヒート競走ザ・ノーブルメンズプレート(T16F)にも出走。単勝オッズ1.125倍の1番人気に支持されると、唯一の対戦相手だったクレームドバルバドを一蹴して勝利した。このレース後に、オケリー大佐は本馬の所有権の半分を650ギニーでワイルドマン氏から購入した。この後の本馬は英国中を移動して各地の競馬場に姿を現し、常に圧倒的な強さを発揮して他馬を寄せ付けなかった。もっとも、オケリー大佐は売春婦出自と言われた妻のシャーロット・ヘイズ夫人と組んで賭博で大儲けしていた悪名高い人物であり、上流階級の仲間入りもさせてもらえなかった。そんなオケリー大佐を苦々しく思っていた多くの競馬場運営者達が、本馬が勝っても設定されていた優勝賞金を支払う事を拒否したために、オケリー大佐は本馬が出るレースで本馬に賭ける事により専ら利益を生み出す事になる。

翌6月にはウインチェスター競馬場で行われた賞金100ギニーのキングズプレート(T32F)に出走。単勝オッズ1.1倍の1番人気に応えて、スラウチやチガーなど4頭の対戦相手を蹴散らして勝利した。さらに同月には同じウインチェスター競馬場で行われた賞金50ギニーのシティプレート(T32F)に出走したが、対戦相手がいなかったために単走で勝利した。さらに同月にはソールズベリー競馬場で行われた賞金100ギニーのキングズプレート(T32F)にも出たが、やはり対戦相手がいなかったために単走で勝利した。その翌日にはやはりソールズベリー競馬場で行われたシティフリープレート又はシティアリバーボウルという名称のヒート競走(T32F)に出走。ここには果敢に挑んできた他馬が2頭いたが、単勝オッズ1.1倍の1番人気に支持された本馬がサルファー以下に勝利した。翌7月にはカンタベリー競馬場で行われた賞金100ギニーのキングズプレート(T32F)に出たが、例によって対戦相手が現れなかったために単走で勝利した。同月にはルイス競馬場で行われた賞金100ギニーのキングズプレート(T32F)に出走。ここではキングストンという馬だけが対戦相手となった。結果は単勝オッズ1.1倍の1番人気に支持された本馬が勝利した。9月にはリッチフィールド競馬場で行われた賞金100ギニーのキングズプレート(T24F)に出走。ここではターディという馬だけが対戦相手となった。ここでは本馬は単勝オッズ1.05倍の1番人気に支持され、やはり勝利を収めた。5歳時の成績は9戦全勝だった。

競走生活(6歳時)

6歳4月にオケリー大佐が本馬の所有権の残り半分も1100ギニーで購入したため、本馬は完全にオケリー大佐個人の所有馬となった。この4月には、ニューマーケット競馬場芝33ハロンで行われたブケファロスとの賞金600ギニーを賭けたマッチレースに臨んだ。ブケファロスは当時の英国競馬における最強馬の一角とされていた実力馬だったが、単勝オッズ1.67倍の1番人気に支持された本馬が勝利を収めた。これは本馬の競走馬生活において唯一本気を出したレースとされている。それから2日後にはニューマーケット競馬場で行われた賞金100ギニーのキングズプレート(T32F)に出走。本馬が出走するレースとしては珍しく3頭も対戦相手がいたが、ダイアナやペンショネアといった対戦相手を圧倒して勝利した。6月にはギルフォード競馬場で行われた賞金100ギニーのキングズプレート(T32F)を単走で勝利。7月にはノッティンガム競馬場で行われた賞金100ギニーのキングズプレート(T32F)を単走で勝利。8月にはヨーク競馬場で行われた賞金100ギニーのキングズプレート(T32F)を単走で勝利し、3戦連続単走で勝利した。その3日後にヨーク競馬場で行われたサブスクリプションパース(T32F)では、トータス、ベラーリオという2頭の対戦相手を一蹴して勝利した。9月にはリンカーンハース競馬場で行われた賞金150ギニーのキングズプレート(T32F)を単走で勝利。10月にはニューマーケット競馬場芝33ハロンで行われたコルシカンとの賞金150ギニーを賭けたマッチレースに臨んだ。このレースにおける本馬の単勝オッズはほぼ元返しに近い1.01倍だった。結果は大方の予想どおりに本馬が勝利を収めた。その翌日にニューマーケット競馬場で行われた賞金100ギニーのキングズプレート(T32F)に出走したが、対戦相手が現れなかったために単走で勝利した。

この後には本馬と自身の所有馬を対戦させようなどという勇敢な馬主が全く現れなくなり、賭けが成立しなくなったため、オケリー大佐は6歳時9戦全勝の成績で本馬を引退させることにした。こうして本馬は5歳5月のデビューから6歳10月までの17か月間の競走馬生活にピリオドを打つ事になった。そして本馬はフライングチルダース以来最高の名馬という評価を得る事になった。

本馬のトップスピードは秒速83フィート(約25.3m)に達したと海外の資料にあるが、これは時速換算で約91kmであり、さすがに誇張されていると思われる。かなり大跳びの馬であったのは事実のようで、1回のストライドで25フィート(約7.6m)を走ったという。しかも抜群のスタミナを有しており、何かアクシデントでも無い限りは本馬が負ける事は考えられなかったようである。本馬が他馬と一緒に走る時は、いつもスタートからゴールまで順位が変動することなく終わったため、競走というよりは行列のようだったという。

血統

Marske Squirt Bartlet's Childers Darley Arabian  ?
?
Betty Leedes Old Careless
Cream Cheeks
Snake Mare Snake  Lister Turk 
Hautboy Mare 
Grey Wilkes Hautboy 
Miss Darcys Pet Mare 
Hutton's Blacklegs Mare Hutton's Blacklegs Hutton's Bay Turk  ?
?
Coneyskins Mare  Coneyskins 
Clubfoot 
Bay Bolton Mare  Bay Bolton Grey Hautboy
Pierson's Makeless Mare
Fox Cub Mare  Fox Cub 
Coneyskins Mare 
Spilletta Regulus Godolphin Arabian ? ?
?
? ?
?
Grey Robinson Bald Galloway St.Victor's Barb 
Grey Whynot
Snake Mare Snake 
Grey Wilkes
Mother Western Easby Snake  Snake  Lister Turk 
Hautboy Mare 
Sister to Chaunter  Akaster Turk 
Cream Cheeks
Old Montagu Mare Lor. d'Arcy's Old Montagu  ?
?
Hautboy Mare  Hautboy 
Brimmer Mare

父マースクはカンバーランド公爵の所有馬で、4~6歳時に走り通算成績6戦3勝。同時代には名馬スナップがおり、実際に戦った事もあるが敗れている。種牡馬としては期待されていなかったのか、カンバーランド公爵死去の際には20ギニーという安値で売られていった。しかし本馬の活躍で見直されてワイルドマン氏に1000ギニーで購入されると繁殖牝馬の質も上がり、本馬が引退した後の1775・76年と2度の英首位種牡馬に輝く活躍を見せた。マースクの父スクワートは競走馬として何度か勝ち鞍を挙げた記録はあるが詳細は不明である。スクワートの父バトレットチルダースはダーレーアラビアン直子で、フライングチルダースの全弟。

母スピレッタは現役成績1戦未勝利。本馬の全妹プロサーパインの牝系子孫はかなり発展しており多くの活躍馬が出たが、その中で最も今日に影響力を有するのはプロサーパインの娘ルナの牝系子孫であり、日本で活躍したハイセイコー、タニノムーテイエ、タニノチカラ、アズマハンター、ドクタースパートや、ケンタッキーダービー馬カヴァルケイド、凱旋門賞馬マリエンバードなどが出ている。→牝系:F12号族②

母父レギュラスはゴドルフィンアラビアンの直子で、通算8度の英首位種牡馬(ゴドルフィンアラビアンの系統としては史上最多記録)に輝いた名種牡馬だが、その直系は早い段階で途絶えている。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は、オケリー大佐がエプソム近郊に所有していたオケリーズクレイヒルスタッドで種牡馬入りした。最初の年の種付け料は50ギニーで、その後は25~30ギニーの間を推移した(当初の種付け料は10ギニーだったが、瞬く間に25ギニーまで値上がりし、最大で50ギニーまで達したとする資料もある。本馬の種牡馬としての活躍ぶりからすると、下がるより上がるほうが妥当な気もするが、本馬ほど現役時代に活躍した馬が最初10ギニーだったというのも解せないため、どちらが正しいかは筆者には判断できない)。

24歳時にオケリー大佐がミドルセックス州に所有していたキャノンズスタッドに移動したが、この時に本馬は2頭の牝馬が引く馬車に乗って移動しており、現在で言う「馬運車」に乗った史上初の馬という事になっている。なお、英国の資料では「エクリプスほどの最上級馬を下級馬に運ばせたのは(エクリプスに対する)侮辱だ」と述べているものが散見される。

本馬の産駒は体重が軽くて調教しやすい馬が多かったという。産駒が挙げた勝ち星は344勝(資料によって325勝から400勝まで異なる数値があるらしいが、344勝が最も有力らしい)で、産駒の獲得賞金総額は15万8千ポンドだったという。しかし本馬と同時期に大種牡馬ヘロドとハイフライヤーがいたため、一度も英首位種牡馬になる事は無かった(1778年から88年まで11年連続で英種牡馬ランキング2位という記録が残っている。この11年間は全てヘロドとハイフライヤーのいずれかが首位)。ただし、代を重ねるに連れて本馬の血統勢力は増し、現在ではヘロドの直系を圧倒する超巨大勢力を築き上げているのは周知のとおりである。

1789年2月27日、24歳(現在の基準では25歳だが、当時の英国では5月1日に馬齢が加算されていたらしく、海外の資料には24歳と明記されている)の本馬は疝痛が原因で他界した。検死の結果、本馬の心臓は14ポンドの重さがあったとされており、現代競馬における通常のサラブレッドの平均値9ポンドを1.5倍以上も上回っていた。

馬としての特徴と後世の研究

本馬はジョン・ローレンス氏という人物に、「肩の筋肉が非常に厚く、肩幅は広く、前脚より後脚が発達しており、頑健で健康な馬」と評された。顔には流星が走り、右後脚にソックスを履いていた。気性の激しさで知られた本馬だが、オウムと仲が良いという一面も持っていた(このオウムは賛美歌などを暗唱することが出来たらしい)。

現在、本馬の骨格は英国ハートフォードシャー州にある英国王立獣医科大学で保管されている。また、本馬の蹄を使用したインクスタンドもあるらしいが、数が5つあるらしいので最低でも1つは偽物のはずである。また、本馬の鬣や尾の毛を使って鞭が作られたという。

2005年に、本馬の骨格や遺伝子等から、本馬の強さの秘訣や後世のサラブレッドに与えた影響などを調べる研究が、英国王立獣医科大学とケンブリッジ大学の合同チームにより実施された。その研究結果によると、本馬の体高はそれまで一般的に言われていた16ハンド以上よりも低い15.2ハンドであり、現在のサラブレッドは勿論、当時のサラブレッドの水準と比べても背が低い馬だったようである。また、脚の構造は現在のサラブレッドの標準とほぼ一致したという。ちなみに当該研究では、本馬は特別な才能を有した馬だったわけではなく、単に身体が小柄で体重が軽かったために、脚を速く動かすことが出来たのだったと結論付けているが、軽い馬は速い(逆に言えば重い馬は遅い)などというのは競馬の常識からするとあまりに荒唐無稽であり、天下の英国王立獣医科大学とケンブリッジ大学が発表した説とは思えないほど説得力は無い(そのためだろうか、2005年に研究が実施される事になった旨は日本でも報じられたが、研究結果については日本で報じられた形跡が無い)。

後世における評価と伝説

1886年、本馬の名を冠したエクリプスSが英国のサンダウンパーク競馬場で創設され、現在でも英国有数の大競走としての地位を保っている。また、以前は複数の競馬雑誌が個別に実施していた米国競馬の年度表彰を1971年に統一した際に、表彰の名前は本馬の名を冠したエクリプス賞とされ、各部門の最優秀者及び最優秀馬の所有者には本馬の像が贈呈されている。他にも三菱自動車工業がクライスラーと米国で共同開発したオープンカー「三菱エクリプス」(20世紀末までは日本でも販売されていた)など、本馬にちなんで命名されたものは数多い。

本馬について触れている資料は、原田俊治氏の「新・世界の名馬」を筆頭に日本にも数多くあり、紹介されている逸話も多いが、最近の研究等により否定されたものや、あまり的確ではないもの、又は筆者が調べた範囲内における海外の資料には見当たらないものも少なくない。以下に例を挙げてみる。

①エクリプスは、フライングチルダース、ハイフライヤーと共に18世紀の三大名馬の1頭とされている。→筆者注:本馬がフライングチルダース以来の名馬と言われたのは事実だが、三大名馬という表現は本馬だけでなくフライングチルダースやハイフライヤーに関して書かれた海外のどの資料にも見当たらない。『三大〇〇』という表現を好む日本人が独自に用いたと思われる。

②公式な通算成績は18戦全勝だが、試走や複数回走ったヒート競走を含めると最大で26戦全勝になる。→筆者注:試走が何度かあったのは事実のようだが、本馬の通算成績を記載した海外の資料には一切の例外なく18戦全勝となっている。1度のヒート競走で複数回走るのは当たり前であり、海外においてそれを2度以上の出走として数える事は決して無い。

③体高は16ハンド以上でアラブ系産馬と思えないほど大柄な馬だった。→筆者注:そのように記載されている海外の資料もあるが、現在では研究の結果を反映したためか、体高15.2ハンドの背が低い馬だったと記載されている場合が多い。

④ワイルドマン氏はエクリプスの競売に間に合わず、他者が70ギニーで落札したが、彼は競売が公示時刻より早く始まっていたと抗議して、再度実施されたセリで本馬を75ギニーで落札した。→筆者注:日本語版ウィキペディアに記載されている話だが出典不明であり、海外の資料にも無い。

⑤ワイルドマン氏がエクリプスを去勢しようとした時、彼の友人だったオケリー大佐の助言により去勢は回避された。→筆者注:「新・世界の名馬」に記載があるが、海外の資料には無い。

⑥デビュー前にエプソム競馬場で他馬と試走を行ったところ、予想外の好走を見せた。この試走を目撃したキノコ狩りの老婆は、地の果てまで走り続けてもあの馬には追いつけないでしょうと語った。→筆者注:デビュー前にエプソム競馬場で試走を行った旨の記事は海外の資料にもあるが、具体的な内容は記載されていない。老婆の発言については「新・世界の名馬」に記載があるが、老婆の発言にしては文学的に過ぎるし、本馬の噂を広めるための芝居だったとする説もあると原田氏が追記している。

⑦エクリプスに負けたブケファロスの馬主は半年間自宅に引きこもった→筆者注:「新・世界の名馬」に記載があるが、海外の資料には無い。

⑧エクリプスが産まれた日には日食は無かったという説がある。→筆者注:「新・世界の名馬」に記載があるが、NASAのウェブサイトにおいて本馬が産まれた1764年4月1日に起こった金環食が見られた範囲(もちろん英国もその中に含まれる)の地図が掲載されているため、NASAが間違っているのでなければこの説は完全に否定される。

⑨エクリプスの葬儀には多くの人々が訪れて、ビールと菓子が供された。→筆者注:日本語版ウィキペディアに記載されている話だが出典不明である。なお、ゴドルフィンアラビアンに関する海外の資料にほぼ同様の記述がある。

⑩エクリプスの父はマースクではなく実はシェイクスピアであるという説も有力である。スピレッタがマースクに交配される前にシェイクスピアに交配されていたという厩務員の証言がある事や、馬の特徴(マースクはエクリプスと異なり小柄な馬だったがシェイクスピアは大柄な馬だった)などが証拠である。もっとも、シェイクスピアの父ホブゴブリンはダーレーアラビアンの直系の孫に当たるので、どちらが本当の父でも血統表に大きく影響を与えることはない。→筆者注:本馬の父欄が「シェイクスピア又はマースク」となっているのは事実だが、海外の資料ではマースクを父親として扱っている場合が大半である。上記のシェイクスピア有力説に関しては「新・世界の名馬」に概要が記載されている。しかし前述したように本馬は実は大柄な馬ではなかったらしいので、馬の特徴面からのアプローチではこの説はむしろ否定される結果となる。先に記述した「本馬の産駒は体重が軽くて調教しやすい馬が多かった」という記事も、この説の信憑性を揺らがせている。

⑪エクリプスの骨格と称するものが、ニューマーケット競馬博物館に展示されているものを始めとして5体存在する。→筆者注:本馬の骨格と称するものが複数あるのは事実のようだが、海外の資料では軒並み「現在エクリプスの骨格は英国王立獣医科大学で保管されている」と記載されているため、これが実物であると確定されている模様である。

・・・と、こんなところである。もっとも、本馬は遠い過去の馬であるため、海外の資料に記事があろうが無かろうが、真実の姿は今となっては分からない。

後世に与えた影響

本馬の血を現代まで繋いだ産駒はキングファーガスポテイトウズの2頭である。キングファーガスの系統は直系子孫にセントサイモンが出て、19世紀末に欧州を席巻したが、血の氾濫により廃れて、現在は名馬リボーの系統以外の直系はほとんど残っていない。ポテイトウズの系統は、直系子孫にネアルコネイティヴダンサーハイペリオンテディなどが登場し、現代サラブレッドの中心勢力となっている。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1773

Potoooooooo

ジョッキークラブプレート3回・クレイヴンS

1775

King Fergus

1778

Young Eclipse

英ダービー

1780

Saltram

英ダービー

1781

Serjeant

英ダービー

1782

Alexander

クレイヴンS

1784

Annette

英オークス

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