フライングチルダース

和名:フライングチルダース

英名:Flying Childers

1714年生

栗毛

父:ダーレーアラビアン

母:ベティリーデズ

母父:ケアレス

飛ぶように走ると評された、サラブレッドの歴史上初めて真に偉大な競走馬の称号を得たとされる名馬

競走成績:6~8歳時に英で走り通算成績7戦7勝(異説あり)

300年以上に及ぶサラブレッドの歴史上初めて真に偉大な競走馬の称号を得たとされる名馬だが、極めて断片的な資料しか残されておらず、その競走成績や生涯については不明な点が多い。そもそも生年すらも確定されておらず、1714年説や1715年説がある。

誕生からデビュー前まで

レオナルド・チルダース大佐により、英国ヨークシャー州ドンカスター近郊のカーハウス(カントレイホールとも)において生産された。チルダース大佐は、本馬の父ダーレーアラビアンを英国に輸入したトマス・ダーレー氏のダーレー家と親しかったらしく、ダーレー家が所有する質が悪い繁殖牝馬と交配される事が多かったダーレーアラビアンを、自身が所有する高品質な繁殖牝馬につけるという事を時々行っていた。その中の1頭ベティリーデズが産んだのが本馬である。

本馬の時代は、まだ英ダービーも英ジョッキークラブも存在しておらず、サラブレッドという言葉も定着していなかった(おそらく本馬の時代はサラブレッドという言葉自体が存在していなかった)。また、サラブレッドは競走用としてだけでなく様々な用途を目的として生産され、本馬自身も競走馬になる前は、郵便物を運ぶ輸送用馬をしていたという。

その後、チルダース大佐は本馬をデヴォンシャー公爵に売却した。英語版ウィキペディアでは、本馬の所有者を、後の1756年に第5代英国首相に就任した第4代デヴォンシャー公爵ウィリアム・キャベンディッシュ卿であるとしているが、第4代デヴォンシャー公爵は1720年生まれであるから、本馬を購入したデヴォンシャー公爵が彼の事であるはずはなく、彼の祖父である第2代デヴォンシャー公爵(1729年没)か、父である第3代デヴォンシャー公爵(1755年没)のいずれかであろう。“Thoroughbred bloodlines Eighteenth Century Stallions”には、第2代デヴォンシャー公爵により購入されたと明記されているから、おそらくこれが正解であり、英語版ウィキペディアの記述は、後に第4代デヴォンシャー公爵が本馬を受け継いで所有者となったという意味であろう。それまで本馬は所有者の名前から単に「チルダース」と呼ばれていたが、デヴォンシャー公爵の所有馬となった後は「デヴォンシャーチルダース」と呼ばれるようになった。

競走生活(6歳時)

デヴォンシャー公爵は本馬を競走馬として走らせる事にしたが、本馬の競走成績は伝説のヴェールに包まれており、正確な記録は定かではない。公式記録では、本馬のデビューは1721年4月26日の事であった。この際の本馬の年齢は6歳であるとなっており、そうなると先に二説があると記載した本馬の生年は1715年が正しいのではと思うかもしれないが、当時の英国では5月1日に馬齢が加算されており、1764年4月1日生まれで1789年2月27日に他界した事が確定されているエクリプスについても、全資料で24歳没となっている。この馬齢加算ルールからすれば、逆に1714年が正しい可能性が高い事になる。このデビュー戦は、ニューマーケット競馬場でスピードウェルという馬と500ギニーマッチレース(距離は4マイル)を行ったものであった。ところが本馬はこのレースで常識はずれの圧勝劇を見せた為、以後予定されていたレースが全てキャンセルになったと言われている。止むを得ずデヴォンシャー公爵は賭け金無しのテストマッチレースで対戦相手を募ったという。

10月にはニューマーケット競馬場で公式に残る2戦目のレース(距離不明)が行われた。これもスピードウェルとの500ギニーマッチレースだったらしいが、スピードウェル陣営が直前になって回避したために、単走で勝利した。また、この年にはニューマーケット競馬場距離30ハロン93ヤード(約6120m)で行われた、年上の馬アルマンザ及び牝馬ブラウンベティとの3頭テストマッチレースにも出走している(他2競走と異なり月が不明であるため、これが3戦目なのかどうか不明)。このレースでは本馬が他2頭より14ポンド重い128ポンドの斤量を背負ったが、本馬が勝ちタイム6分40秒で圧勝したと記録に残っている。

競走生活(7歳時)

翌7歳時に記録に残っているのは2戦のみである。このうち日付が分かっているのは、10月22日にニューマーケット競馬場6マイルで実施された、チャンターという馬との1000ギニーマッチレースである。チャンターは既に12歳という高齢だったが、それでも当時最強クラスの馬であると評されていた。両馬とも140ポンドの斤量を背負って行われたレースでは、やはり本馬が勝利した。このレースの距離に関しては諸説あり、6マイル(=48ハロン)ではなく、33ハロン128ヤード(約6755m)で実施され、本馬が7分30秒で走り抜けたとするものもある(日本語版ウィキペディアには33ハロン138ヤードとなっているが、海外の資料には33ハロン128ヤードとなっている。基本的には海外の資料のほうが信憑性は高いはずだが、これに関しては2つの異なる距離が紹介されている時点で海外の資料の信憑性も疑問である)。

もう一つは、ヨーク近郊で行われたフォックスという馬とのマッチレース(競馬場で距離を定めた実施したレースではなく野原で適当にゴール地点を決めて走ったらしい)であるが、これは日付が記録に無いので、チャンターとのマッチレースとどちらが先かは分からない(普通に考えれば10月実施のレースよりこちらが前だと思われる)。フォックスは2000ギニーの高額マッチレースを制して話題を集めていた実力馬だったが、本馬が2ハロン(日本の資料では350m)もの大差をつけて圧勝したと記録に残っている。

競走生活(8歳時)

翌8歳時には4月にニューマーケット競馬場で行われた、ストリップリング、ロンズデールメアとの3頭による300ギニーマッチレース(距離不明)に出走したが、対戦相手がいずれも50ギニーずつの罰金を払って回避してしまい、単走で勝利した。次走は11月に行われた、ボブセイという馬との200ギニーマッチレース(距離不明)だったが、やはりボブセイ陣営が100ギニーの罰金を払って直前でキャンセルしたため、本馬は単走で勝利した。

その後、デヴォンシャー公爵は他馬に圧倒的に有利なハンデを与える条件で本馬とのマッチレースを申し込んだが、全て拒絶されたため、本馬は以降レースを走る事は無かったようである。しかし本馬の競走記録は、どのレースを出走歴に含めるかが人によって見解が異なるため、6戦全勝説などもある(海外ではフォックスとのマッチレースを含めない事が多いようである。なお、日本では5戦全勝説や8戦全勝説が多いが、いずれも海外の資料には無い)。出走月や対戦相手の名前が具体的に残っているレースを、単走も含めて全て本馬の出走歴に含めたところ7戦全勝になったため、筆者はこれを採用した。なお、これら以外のレースにも出ていた可能性が高いが、筆者が調べた範囲における公式記録には無い。ただ、いずれにしても生涯無敗だったことは確かなようである。そして当時としては信じられない強さを持った馬だった事も確かなようであり、「過去にニューマーケットで走った馬ばかりか、過去に全世界で誕生した全ての馬の中でも、彼が一番速かった」と一般的に信じられていたそうである。本馬はいつしか飛ぶように速い馬という意味で「フライングチルダース」と呼ばれるようになり、現在では「デヴォンシャーチルダース」よりもこの名称の方が一般的になっている。

信憑性が低い逸話

本馬に関しては、地元英国における資料にもあまり信憑性があるものが存在していないのだが、日本では一層それに拍車がかかっている。日本では、「フライングチルダースはサラブレッド史上最初の名馬」と呼ばれたと紹介される事が多いが、本馬の母父ケアレスも名馬と呼ばれていたから、この表現では不十分である。海外の資料では、筆者が本項の最初に記載した表現「サラブレッドの歴史上初めての真に偉大な競走馬」が用いられている。日本では、本馬、エクリプスハイフライヤーの3頭を総称して18世紀3大名馬と呼ぶという説が流布しているが、筆者が調べた範囲における上記3頭いずれの海外の資料にもこの呼び方は無い。エクリプスに匹敵するほど速い馬は本馬のみであると言われたり、逆にエクリプスが本馬以来の名馬だと言われたりはしているようだが、本馬とハイフライヤーを並べているのは見た事が無く、「三大〇〇」という表現を好む日本人が独自に用いたと思われる。また、本馬には1マイルを1分ジャストで走ったという嘘くさい話があるという説が日本では流布しているが、この話は実際には本馬のエピソードではないという説もまた日本で流布している。いずれの説も本馬を紹介した海外の資料には無く、どこからこんな話が沸いて出たのか筆者は首を捻っていたのだが、前述した本馬の公式勝ちタイム(約6120mを6分40秒)を検証して、この競走能力を持つ馬が1マイルを全力走破した場合には、現在の一流馬より30~40秒速いタイムが出せると結論付けている海外の資料(“Thoroughbred bloodlines Eighteenth Century Stallions”など)を見かけたから、ここから上記の話がやや捻じ曲がって流布したのだろう。上記の公式勝ちタイムを1マイルのタイムに単純換算すると1分45秒ほどになるのだが、これはスタミナというものを無視した数字であり、約6120mを6分40秒とかいうのは、確かにサラブレッドとしてはまずあり得ない記録であろう。もっとも、本馬にはアラブ種の血が濃く、その特徴もアラブ種に似ていたというから、サラブレッドのスピードとアラブ馬のスタミナ及びパワーを余すところ無く兼ね備えていれば、あるいはと思えないことも無い(それでも無理か)。

血統

Darley Arabian  ? ? ? ?
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Betty Leedes Old Careless Spanker D'Arcy's Yellow Turk  ?
Sedbury Mare 
Old Morocco Mare  Fairfax Morocco Barb 
Old Bald Peg
Barb Mare  ? ?
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Cream Cheeks Leedes Arabian ? ?
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Spanker Mare Spanker D'Arcy's Yellow Turk 
Old Morocco Mare 
Old Morocco Mare  Fairfax Morocco Barb 
Old Bald Peg

ダーレーアラビアンは当馬の項を参照。

母ベティリーデズはアラブ系輸入繁殖牝馬であるフェアファックスバルブメアの牝系に属する。ベティリーデズの産駒には本馬の1歳下の全弟バトレットチルダースがいる。ベティリーデズの半妹シスタートゥカウンター(父アカスターターク)の娘には、ゴドルフィンアラビアンとホブゴブリンが取り合いをした逸話で知られているロクサーナがいる。ロクサーナはゴドルフィンアラビアンとの間に、本馬以来の名馬と言われたラスを産み、その2年後にラスの全弟ケード(マッチェムの父)を産んだ。また、シスタートゥカウンターの牝系子孫には数々の活躍馬がいる。それを列挙するのは骨が折れるので、主だった馬の名前のみを挙げると、英首位種牡馬3回のソーサラーと英ダービー・英オークスを勝ったエレノアの兄妹、英ダービー馬にして英首位種牡馬と北米首位種牡馬を両方獲得したプライアム、ケンタッキーダービー馬オールドローズバド、米国三冠馬カウントフリート、米国顕彰馬ボールドンデターマインド、13戦無敗のパーソナルエンスン、日本で活躍したネーハイシーザー、メイセイオペラ、トーシンブリザード、ツルマルボーイ、ハーツクライ、テスタマッタ、ノンコノユメといったところである。ベティリーデズの母父リーデスアラビアンもサラブレッドの始祖馬の1頭だが、その直系は数代で途絶えている。→牝系:F6号族①

母父ケアレス(オールドケアレス)も詳細な競走記録は不明だが、1900ギニーという高額マッチレースでデヴォンシャー公爵の所有馬を負かすなど、多くのマッチレースに勝利したらしく、本馬の登場以前は最も優れた競走馬と言われていた。母父としては本馬の他にも前述のホブゴブリンを出している。ケアレスの父スパンカー(オールドスパンカー)の詳細な競走記録は不明だが、種牡馬としては非常に優れていると評されていた。なお、本馬の母ベティリーデズの祖母の父もスパンカーである。スパンカーの父ダーシーズイエロータークもサラブレッドの始祖馬の1頭だが、直系自体は数代で途絶えている。

以上のように、本馬の先祖はアラブ種・ターク種・バルブ種で占められており、本馬もまたアラブ馬の特徴を色濃く残している。本馬の毛色は燃えるように赤い栗毛(ただし鹿毛だったという説もある)で、4本の脚全てに白いストッキングを履き、体高は15.2ハンドと、現在の馬より一回り小さかった。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は、デヴォンシャー公爵が英国ダービーシャー州に所有していたチャッツワース館の牧場で種牡馬供用された。本馬は種牡馬としても成功を収め、一説には1730・36年と2度の英首位種牡馬を獲得した計算になるらしい。1741年(月日は不明)に繋養先のチャッツワース館の牧場において26歳で他界したとされる。

後世に与えた影響

本馬の直系は、競走馬としてはそれほど優秀ではなかった直子スニップから、スナップが登場して一時期繁栄した。スナップは通算成績4戦全勝。スイープS・ヨークフリープレートに勝利し、2度出走した1000ギニーのマッチレースでは2度ともマースク(エクリプスの父)を破っている。僅か4戦のキャリアながら、その優れたスピードから、当時最強クラスの馬とされていた。なお、父スニップの産駒に同名馬が数頭いることから、「オールドスナップ」とも呼ばれる。種牡馬としても生涯無敗の名馬ゴールドファインダーを筆頭に優秀な馬を数多く輩出。1777年に他界するまでの21年間に及ぶ種牡馬生活で送り出した勝ち馬は当時としては破格の261頭にも及び、英首位種牡馬にも4度輝いた。また、母父としてはサーピーターティーズルを出している。スナップの産駒にはスピードに優れるものが多く、当時の畜産家の間では「スピードのスナップ、正しく堅実なマッチェム」という格言がよく知られていた。

ゴールドファインダーは通算成績13戦全勝(11戦全勝説もある)。アスコットS勝ちなど、数多くのマッチレースやヒート競走に勝った無敗の名馬。生年・没年ともにエクリプスと同じで、競走馬としての活躍時期も一緒だった。しかし両馬の対戦はなかなか実現せず、ようやく行われることになったマッチレースもゴールドファインダーの故障引退で結局実現しなかった。同時期の馬としては唯一エクリプスを倒す可能性があった馬であり、未対戦に終わったのを惜しむ声が根強かった。ゴールドファインダーは種牡馬としても悪くない成績を収め、英セントレジャー馬セリナなどを送り出した。しかし後継種牡馬はヘロドやエクリプスなど当時の大種牡馬に押されて成功できなかった。

このような経緯を経て、一時期繁栄した本馬の直系子孫は、5代目当たりで完全に滅亡した。しかし1788年に直系のメッセンジャーが米国に渡り、この馬の子孫がスタンダードブレッドの成立に大きく関わったため、スタンダードブレッドとしては父系を残した(詳細はメッセンジャーの項を参照)。現存するスタンダードブレッドの父系を遡ると、全て本馬に行きつくことができる。また、本馬の直子ブレイズはヘロドの母父となり、競馬史に絶大な影響を与えた。

また、本馬の全弟バトレットチルダースは鼻出血の持病があった(そのために“Bleeding Childers(血を噴くチルダース)”の別名でも呼ばれた)ため競走馬にはなれず、最初から種牡馬として供用されていた。当時の最強馬だった本馬の全弟として種牡馬としての人気は高く、1742年の英首位種牡馬になった。代表産駒のスクワートからはマースクが出て、さらにマースクからはエクリプスが登場し、サラブレッド血統界を覆い尽くすことになる。

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