エレノア

和名:エレノア

英名:Eleanor

1798年生

鹿毛

父:ウィスキー

母:ヤングジャイアンテス

母父:ダイオメド

牝馬として史上初めて英ダービーを勝ち英オークスも勝っただけでなく、現存するサラブレッド全ての先祖となった、サラブレッド史上初の歴史的名牝

競走成績:3~7歳時に英で走り通算成績46戦29勝2着8回3着3回

この名馬列伝集に掲載している牝馬の中で最も年代が古い馬であり、唯一18世紀生まれである。その卓越した競走成績に加えて、本馬の血を引かないサラブレッドは現在1頭も存在しないという繁殖牝馬として後世に与えた影響力の大きさなどは、まさしく世界競馬史上初の歴史的名牝と呼ぶに相応しいものである。

誕生からデビュー前まで

本馬の母父でもある第1回英ダービーの勝ち馬ダイオメドの所有者で、英国ジョッキークラブ会長も務めた英国競馬界の大御所・第6代准男爵トマス・チャールズ・バンベリー卿により生産・所有された。バンベリー卿と言えば、第12代ダービー伯爵エドワード・スミス・スタンリー卿とコイントスをして負けたため、1780年にエプソム競馬場において新設されたレース名は「ザ・ダービー・ステークス」となり「ザ・バンベリー・ステークス」にはならなかったという逸話でも有名である。

本馬は競走馬としては成功しなかった母ヤングジャイアンテスの3番子に当たるが、2歳年上の半兄ソーサラーが既に競走馬として活躍していたため、本馬にも期待が掛けられ、英オークスだけでなく英ダービーの登録もされていた。J・フロスト調教師に預けられた本馬は、2歳時にはレースに出ず、3歳時から出走を開始した。主戦はジョン・サンダース騎手が務めた。

競走生活(3歳時)

デビュー戦は4月にニューマーケット競馬場で行われた250ギニースウィープSで、ミスフエリーという牝馬など2頭を破って勝利を収めた。

次走が英ダービー(T12F)となった。対戦相手は9頭の牡馬と1頭の牝馬であり、本馬を含めて11頭立てとなった。レースは単勝オッズ2.25倍の1番人気に支持された本馬が、2着となったフィジェット産駒の無名の牡馬や3着となった牝馬レムナント以下に勝利を収め、英ダービー22回目にして初の牝馬制覇を成し遂げた。次に牝馬が英ダービーを勝つのは、1857年にブリンクボニーが勝利するまで56年間待たなければならなかった。所有者のバンベリー卿にとっては、ダイオメドで第1回を勝って以来21年ぶり2度目の同競走制覇となった。

この翌日には英オークス(T12F)に出走。5頭の対戦相手を抑えて単勝オッズ1.5倍の1番人気に支持されると、2着チューリップや3着クレイジーポエテス以下に勝利を収めた。

その後はアスコット競馬場で215ギニースウィープSに出走したが、他の出走牡馬勢より7ポンド重い斤量が効いたのか、後にテディザグラインダーと命名される当時無名の牡馬の2着に敗れた。英セントレジャーには登録が無かったようで出走せず、秋はニューマーケット競馬場で行われた700ギニーを賭けたミスフエリーとのマッチレースに出走して勝利。その後は牡馬フランボウとの距離10ハロンの200ギニーマッチレースに出走した。斤量は同一であり牝馬に与えられるアドバンテージは無かったが、本馬が勝利を収めた。3歳時の成績は6戦5勝2着1回だった。

競走生活(4歳時)

4歳時は、春先にニューマーケット競馬場で行われたレースから始動したが、牡馬ムーリーモロクの4着最下位に敗れた。ちなみに本馬の血を後世に拡散させる功労馬ともなる本馬の孫ムーリーモロクとこのムーリーモロクは当然別馬である。その後はしばらくレースに出ず、秋になって復帰。ニューマーケット競馬場で行われた350ギニースウィープSで、通算18勝を挙げる同世代の名牝ペネローペ(ホエールボーンの母)と対決。揃って後世のサラブレッドを自分達の子孫ばかりにしてしまうこの2頭の初対戦は、本馬が勝利を収めた。その数日後には距離4マイルのキングズプレートに出走して、5頭の対戦相手を蹴散らして勝利。さらに距離10ハロンの50ギニースウィープSに出走して、後に英国王ジョージⅣ世となるジョージ・オーガスタス・フレデリック英国皇太子の所有馬ショックなど3頭を破って勝利した。4歳時の成績は4戦3勝だった。

競走生活(5歳時)

5歳時は、ニューマーケット競馬場においてフィールドフェアという馬とのマッチレースから始動する予定だったが、フィールドフェア陣営が罰金を支払って回避したため、本馬が単走で勝利した。引き続き出走したオーツランドSでは、後に本馬との間に子をもうける1歳年下のウォルトン(後に2度の英首位種牡馬を獲得する)の3着に敗れた。その後に出走した距離3マイルのキングズプレートでは、これまた後に本馬との間に子をもうける1歳年上のディックアンドリューズ(通算26勝)の2着に敗れた。その後はイプスウィッチ競馬場に向かい、距離2マイルの50ポンドヒート競走に出走して、130ポンドを背負いながらも勝利。

引き続きオックスフォード競馬場で出走した距離3マイルのヒート競走オックスフォードCでは、ジュライSを勝ち英オークスで2着していた1歳年下の全妹ジュリアと対決。結果は姉である本馬が妹を破って勝利した。さらに距離3マイルの50ポンドヒート競走に2回出走していずれも勝利した。その後はハンティンドン競馬場に向かい、50ポンドスウィープSを勝利。さらにリンカーン競馬場で出走した距離3マイルのキングズプレートも勝利した。10月にはニューマーケット競馬場で行われた距離4マイルの375ギニースウィープSで、ペネローペと再び対戦。今回はペネローペが勝利を収め、本馬は2着に敗れた。その後は2戦したがいずれも着外に終わり、5歳時を終えた。5歳時の成績は12戦7勝2着2回3着1回だった。

競走生活(6歳時)

6歳時は例によって春のニューマーケット開催から始動。まずはクレイヴンSに出走したのだが、牝馬アニシードとウォルトンの2頭に屈して、アニシードの3着に敗れた。引き続き出走した距離3マイルのキングズプレートでは、ペネローペの2着に敗れた。しかし次走の50ポンドサブスクリプションHでは、7頭の対戦相手を破って勝利を収めた。5月には、サプライズという牝馬とニューマーケット競馬場でマッチレースをすることになっていたが、サプライズ陣営が罰金を払って回避したために本馬が単走で勝利した。その10日後にブロケットホール競馬場で出走した100ギニーゴールドカップでは、同世代の英セントレジャー馬クイズの2着に敗退。イプスウィッチ競馬場で出走したタウンプレートでは勝利した。引き続きニューマーケット競馬場で50ポンドスウィープSでは、128ポンドを背負いながら、7ポンドのハンデを与えたクイズを破って勝利した。さらに別の50ポンドスウィープSも勝利した。

その後はチェルムスフォード競馬場で3歳牝馬コークサーとの50ポンドマッチレースに出走して勝利。8月にハンティンドン競馬場で出走した2歳年下の牝馬カペラとの50ポンドマッチレースも勝利した。9月にベッドフォード競馬場で出走したレースでは、対戦相手が逃げ出してしまったために単走で勝利した。10月にはニューマーケット競馬場でサブスクリプション競走に出走したが、2歳年下の牡馬サーハリーディムズデールとペネローペの2頭に屈して、サーハリーディムズデールの3着に敗れた。しかし引き続き出走したニューマーケット金杯は、3歳牝馬ヴィルトゥオーサや1歳年上の牡馬リグナムバイタなど12頭を撃破して勝利。10月にニューマーケット競馬場で出走した375ギニーサブスクリプション競走では、1歳年下の英セントレジャー馬オーヴィルと対決した。後に本馬の血を後世に拡散させる息子ミュレーの父となるオーヴィルとの夫婦喧嘩(?)は、本馬が年上妻の貫禄を見せて(?)勝利を収めた。引き続きニューマーケット競馬場で、1795年の英ダービー馬スプレッドイーグルの全弟に当たる2歳年上の牡馬イーグルとのマッチレースに臨んだが、ここでは敗北した。6歳時の成績は15戦10勝2着3回3着2回だった。

競走生活(7歳時)

7歳時は過去4年と異なりニューマーケット競馬場ではなく、ロンドン近郊のエガム競馬場から始動した。50ギニースウィープSでは、クイズを破って勝利した。他にもエガムC、100ポンドスウィープSを勝ち、3勝を挙げてエガム競馬場を後にした。その後はニューマーケット競馬場に向かい、3歳年下の牡馬ツァーリピョートルとの200ギニーマッチレースに出走。斤量は本馬が133ポンド、ツァーリピョートルは112ポンドと、その差は21ポンドあったが、本馬が勝利を収めた。その後はニューマーケット金杯に出走したが、5頭立てでバスタードの2着に敗れた。10月に再び出走したニューマーケット金杯では、5頭立てでストレッチの2着に敗退。その後は3戦して全て着外に敗れ、この年限りで競走馬を引退した。7歳時の成績は9戦4勝2着2回だった。

血統

Whiskey Saltram Eclipse Marske Squirt
Hutton's Blacklegs Mare
Spilletta Regulus
Mother Western
Virago Snap Snip
Sister to Slipby
Regulus Mare Regulus
Crab Mare
Calash Herod Tartar Croft's Partner
Meliora
Cypron Blaze
Salome
Teresa Matchem Cade
Partner Mare
Brown Regulus Regulus
Miss Starling Junior 
Young Giantess Diomed Florizel Herod Tartar
Cypron
Cygnet Mare Cygnet
Young Cartouch Mare
Sister to Juno Spectator Crab
Partner Mare
Horatia Blank
Sister One to Steady
Giantess Matchem Cade Godolphin Arabian
Roxana
Partner Mare Croft's Partner
Brown Farewell
Molly Long Legs Babraham Godolphin Arabian
Sachrissa 
Foxhunter Mare Coles Foxhunter 
Partner Mare 

父ウィスキーは、本文中にも名前が出てきた後の英国王ジョージⅣ世ことフレデリック皇太子の生産・所有馬。競走馬としてはそれほど実績を挙げておらず、無名競走に勝った程度だった。英ダービーにも参戦しているがジョンブルの6着に終わっている。4歳限りで競走馬を引退した後にバンベリー卿に購入されて種牡馬入りすると、現役時代以上の成功を収めた。ウィスキーの父ソルトラムはエクリプス産駒で、1783年の第4回英ダービーの勝ち馬。英ダービーは翌年から距離12ハロン強で行われるが、第4回まではマイル戦であり、ソルトラムはマイルで行われた英ダービーの最後の勝者である。競走馬引退後はフレデリック皇太子に購入されて種牡馬入りしたが、あまり成功しなかったためか、後に米国へと売られていった。

母ヤングジャイアンテスはバンベリー卿の生産・所有馬で、英国においては種牡馬として殆ど評価されていなかった第1回英ダービー馬ダイオメドが米国に輸出される前に出した数少ない産駒の1頭。ヤングジャイアンテスの母ジャイアンテスは8戦3勝を挙げたが、ヤングジャイアンテスは競走馬としては3歳時に2戦だけして未勝利と振るわなかった。しかし繁殖牝馬としての成績は優秀で、初子の牡駒ソーサラー(父トランペッター)が競走馬として21戦15勝の成績を挙げる活躍を見せ、種牡馬としても1811~13年まで3年連続で英首位種牡馬に輝く成功を収めた。また、本馬の全妹ジュリアはジュライSを勝ち英オークスで2着している。ジュリアの子には英ダービー馬ファントムが、本馬の全妹クレシダの子には英2000ギニー馬アンター、英ダービー・クレイヴンS・グッドウッドC2回の勝ち馬で史上初めて英米両国で首位種牡馬になったプライアムが、本馬の半妹ウォルトンメアの子には英2000ギニー馬ニコロがいる。ウォルトンメアの牝系子孫は発展したが、その詳細はソーサラーの項に記載したのでそちらを参照してほしい。→牝系:F6号族①

母父ダイオメドは当馬の項を参照。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は、バンベリー卿が所有するバートンホールスタッドで繁殖入りした。母としては10頭の子を産んだが、しかし繁殖牝馬として成功したとは言えない。

9歳時には初子の牝駒ネル(父ジョニー)を産んだが、競走馬としても繁殖牝馬としても実績は残っていない。11歳時には2番子の牝駒(父ジャイルズ)を産んだが、この子は名前が付けられる前に1歳で他界した。12歳時には3番子の牡駒ミュレー(父オーヴィル)を産んだ。ミュレーは5歳時のみ走り4戦2勝の成績を残した後に種牡馬入りした。13歳時には4番子の牡駒トロイラス(父ウォルトン)を産んだが、競走馬としても種牡馬としても実績は残っていない。15歳時には5番子の牡駒(父サンダーボルト)を産んだが、名前は付けられておらず、競走馬としても種牡馬としても実績は残っていない。16歳時には6番子の牝駒(父ディックアンドリューズ)を産んだ。この子は正式な名前は付けられなかったが、本馬の半兄ソーサラーの息子である1813年の英2000ギニー・英ダービー馬スモレンスコとの間に、14勝を挙げたピクトンという活躍馬を産んだため、「ピクトンの母」と暫定的に呼ばれた。このディックアンドリューズ牝駒の曾孫にはマルガレーテ【独オークス】が出たが、牝系はそれ以上発展せず、ピクトンも種牡馬として不成功に終わった。17歳時にはアシュトンを不受胎だったため産駒がおらず、18歳時にはハファザードとの間に子を産んだが、性別すらも記録に残っていないところを見ると、死産か幼少期に他界したかのいずれかであろう。19歳時には8番子の牡駒(父ハファザード)を産んだ。この子は名前が付けられないまま4歳時にインドに送られ、その後の消息は不明である。22歳時には9番子の牝駒アクティヴ(父パルチザン)を産んだ。アクティヴの競走馬としての経歴は不明だが、繁殖入りはしており、その玄孫にはスプリングボック【ベルモントS・サラトガC2回】が出た。しかしこの牝系もそれ以上の発展はしなかったし、スプリングボックも種牡馬としてはそれほど成功しなかった。23歳時にはマーリンを不受胎だったため産駒はいなかった。

そしてこの1821年3月にバンベリー卿が80歳で死去したため、本馬は翌1822年に売りに出された。しかしいくら英ダービー・英オークスの勝ち馬と言っても、既に24歳で繁殖牝馬としての将来があまり残されていない本馬に高値が付くことは無く、91ポンドという安値でラッシュ氏という人物により購入された。ラッシュ氏の元で本馬は25歳時に最後の子となる牝駒アントアン(父パイオニア)を産んだ。アントアンは競走馬としての経歴は不明だが、繁殖入りはした。しかし繁殖牝馬としても良績を残せなかったため、後にスウェーデン政府に売却された。その後の消息は不明である。そしてアントアンを産んだのが、記録に残る本馬最後の出来事であり、その後の正確な記録は残っていない。英国血統書(ジェネラルスタッドブック)には、アントアンを産んだ際か、翌26歳時の分娩時に他界した可能性が高いと書かれている。

このように本馬の産駒は競走馬としてそれほど優れた成績を収めた子はおらず、直子の競走成績だけで言えば、繁殖牝馬としては失敗だったと言わざるを得ない。それでも牝系が発展したのであればまだ失敗繁殖牝馬の汚名を返上できるのだが、後継繁殖牝馬として牝系を発展させた牝駒はいないため、本馬自身の牝系は現在ほぼ残っていない。しかしそれでも本馬の血は現在世界中に存在する全てのサラブレッドの中に含まれている。それは3番子の牡駒ミュレーの存在があったからである。

孝行息子ミュレー

ミュレーは成長すると体高16.1ハンドに達し、当時としては非常に大柄な馬だった。これは種牡馬入り後、18歳時の話であるが、その太い骨格と強靭な筋肉は当時英国にいたあらゆるサラブレッド種牡馬のそれを凌駕するものだったと評価された。しかし同時に奇妙な脚の持ち主とも評されており、脚に何らかの異常があったらしい。その脚の異常がその巨大な体格によるものか、そしてその脚部不安が競走馬としての経歴に悪影響を及ぼしたのかは断定できないが、前述のとおりミュレーは5歳時に4戦したのみに終わった。

デビュー戦は春先にニューマーケット競馬場で行われた距離10ハロンの50ポンドハンデ競走で、1歳年上の英セントレジャー馬オッテリントンなど11頭を相手に勝利を収めた。その後はしばらくレースに出ず、次走は秋にニューマーケット競馬場で行われたスウィープSとなった。ここでは1歳年上の英2000ギニー馬クールーなど2頭と戦ったが、3着最下位に敗れた。次走の50ギニープレートでは、128ポンドを背負っての出走となり、斤量100ポンドの3歳牡馬アンティシペイション(後にアスコット金杯を2勝する)の2着に敗れたが、2歳年上のドンカスターCの勝ち馬スレンダービリー(斤量126ポンド)など8頭には先着した。そして距離2マイルの50ソヴリンハンデ競走で、124ポンドを背負いながら、10~21ポンド前後のハンデを与えた他馬6頭を破って勝利したのを最後に競走生活を終えた。出走回数は少ないが、その内容からすると、かなり高い潜在能力を有していたようである。

競走馬引退後は種牡馬入りしたが、交配される繁殖牝馬の質量ともに恵まれず、長年に渡り不遇をかこっていた。この時期にミュレーが出した唯一の良駒は、ミュレーが13歳時に産まれた牡駒リヴァイアサンで、競走馬として19戦15勝の成績を挙げただけでなく、後に米国で種牡馬入りして1837・38・39・43・48年と5度の北米首位種牡馬に輝く成功を収めている。リヴァイアサンが競走馬として最も活躍したのは3歳時で、9戦7勝の成績を挙げている。おそらくはそれに目をつけたのだろう、アレクダンサー・ノウェル氏という人物が現れて、当時16歳のミュレーを種牡馬として入手した。

ノウェル氏の元で種牡馬生活を続行したミュレーは次々に活躍馬を輩出。1832年の英セントレジャー馬マーグレイヴ、1833年の英オークス馬ベスパ、1840年の英ダービー馬リトルワンダーと、3頭の英国クラシック競走の勝ち馬を出し、1837年に27歳で他界した。しかしミュレーの血を後世に拡散させたのはこの3頭では無く、いずれもミュレーが20歳時に生まれた牡馬ムーリーモロクと牝馬マルペッサの2頭である。

ミュレーの子孫達

ムーリーモロクは種牡馬として名牝アリスホーソンを出し、アリスホーソンは自身も世界的名牝系の祖となっただけでなく名馬トーマンバイの母となり、トーマンバイはベンドアの母父となって後世にその血を大きく広げた(トーマンバイはベンドアの母父ではない可能性があるのはベンドアの項に記載したとおりだが、あくまでも可能性の話であり、血統表が訂正されるような事は100%無いだろう)。

マルペッサは大繁殖牝馬ポカホンタスの母となり、ポカホンタスからは種牡馬の皇帝ストックウェルセントサイモンの母父キングトムが登場した。そんなわけで、現在走っているサラブレッドの血統を遡ると、必ず複数個所に本馬の名前が出てくるようになっているのである。

あと、これはサラブレッドの話ではないが、ある意味ではその存在が無ければサラブレッド血統地図は全く違うものになっていたであろうミュレーの孝行息子リヴァイアサンや、8番子の牝駒アクティヴの曾孫に当たるレキシントン産駒のウッドバーンはいずれもスタンダードブレッドの種牡馬として活躍しており、この2頭を経由してスタンダードブレッド界にも本馬の血が広まったようである。

TOP