ベンドア
和名:ベンドア |
英名:Bend Or |
1877年生 |
牡 |
栗毛 |
父:ドンカスター |
母:ローグローズ |
母父:トーマンバイ |
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明るい栗毛に黒い特徴的な斑点を有する英ダービー馬は種牡馬としても大成功を収めて近代競馬のスピード化の父となる |
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競走成績:2~4歳時に英で走り通算成績14戦10勝2着2回 |
誕生からデビュー前まで
初代ウェストミンスター公爵ヒュー・グローヴナー卿により生産・所有された。彼は自由党に所属した政治家であった。英国王族の血を引いてもおらず、王室と縁続きというわけでもなかったが、1874年には貴族として最高位の公爵位を授けられており、当時の英国における名士中の名士だった。非常な資産家でもあった彼の自宅はチェシャー州イートンホールにあり、そこにあったイートンスタッドで馬産も行っていた。
本馬は数々の名馬を生産したグローヴナー卿の最初の傑作の一頭で、父ドンカスターも手掛けたロバート・ベック厩舎に所属した。父ドンカスターや父方の祖父ストックウェルは仕上がりが遅かったが、それに比べると本馬はかなり早い段階で仕上がっていたという。
競走生活(2歳時)
2歳7月にニューマーケット競馬場で行われたチェスターフィールドS(T5F)でデビュー。単勝オッズ3.25倍の1番人気に応えて、2着ペタルに4馬身差(1馬身差とする資料もある)で勝利した。続いてグッドウッド競馬場で出走したリッチモンドS(T6F)では、他馬より6ポンド重い128ポンドを背負いながら、2着フォーエイジャー(この段階では無名馬であり後に命名されている)に3/4馬身差で勝利。さらに3戦目となったヨーク競馬場のプリンスオブウェールズS(T5F)でも、単勝オッズ1.5倍という断然の1番人気に応えて、スタートから先手を取るとそのまま逃げ切って、2着ブラザートゥエルシリアに半馬身差で勝利した。このレース終了後時点における翌年の英ダービーにおける本馬の前売りオッズは8倍であり、既に英ダービーの有力候補に挙げられていた。
ニューマーケット競馬場で出走したトリエニアルプロデュースS(T5F140Y)も、2着ザソングに1馬身差で勝利。同じくニューマーケット競馬場で出走したロウス記念S(T5F)も、2着ブラザーフッドに2馬身差で勝利した。派手な着差こそ付けなかったが瞬発力の違いは歴然だった。しかしその後は脚部不安に見舞われ、2歳シーズンは以後全休となり、2歳時の成績は5戦全勝となった。
競走生活(3歳前半)
3歳になってもなかなか状態は改善せず、1回も前哨戦を使えないまま3歳初戦の英ダービー(T12F)を迎えてしまった。しかも英ダービーの1か月前には主戦のフレッド・アーチャー騎手が他馬に噛みつかれ右腕を負傷するという事態が起きていた。しかしアーチャー騎手は医師や調教師の説得に応じず、腕に鉄板と痛み止めの薬を巻き付けて、出走19頭中単勝オッズ3倍の1番人気に支持された本馬と共に英ダービーに挑んだ。
スタート直後は先行態勢を取ったが、アーチャー騎手が抑えたため、道中は馬群の中団を追走した。タッテナムコーナーを6番手で回ると、先行するロバートザデヴィルやマスクを追撃。そのうちマスクが失速したため、本馬とロバートザデヴィルの2頭による一騎打ちとなった。アーチャー騎手は腕の痛みを忘れたかのように本馬を追った。そして最後はロバートザデヴィルに頭差を付けて優勝した(3着マスクはさらに6馬身後方)。この時のアーチャー騎手の騎乗は片腕の勝利として、いまや伝説として語られている。熱狂する観衆に取り囲まれながら本馬とアーチャー騎手は引き揚げていったが、レース中に本馬は脚を痛めていたようで、脚を引きずりながら歩いていたという。
それでも英ダービーの2週間後にはセントジェームズパレスS(T8F)に出走し、単勝オッズ1.3倍という断然の1番人気に支持された。スローペースで進行したレースでは、直線でクレイヴンSの勝ち馬フェルナンデスとの壮絶な一騎打ちとなり、頭差で競り勝ってデビューからの連勝を7に伸ばした。その後、英ダービーのレース中に痛めた脚の状態が悪化したため、夏場は休養した。
本馬がセントジェームズパレスSを勝って休養入りした頃、英ダービーで2着だったロバートザデヴィルの共同馬主であるチャールズ・ブリュワー氏とチャールズ・ブラントン調教師の両名から、「英ダービーでトップゴールしたのは、ベンドアではなく、本当はタドカスターという馬だった」という申し立てが出された。ロバートザデヴィル陣営の言い分は以下のとおりである。1877年にイートンスタッドで繋養されていた2頭の繁殖牝馬がいずれもドンカスターの牡駒を産んだ。2頭の繁殖牝馬は、トーマンバイ牝駒のローグローズと、ニューミンスター牝駒のクレメンスだった。ローグローズが産んだのがベンドアで、クレメンスが産んだのがタドカスターだが、この2頭の子馬をイートンスタッドからニューマーケットの牧場に移し、さらにベック調教師が馬の調教を行っていたラスリーの調教場に移動させた際に、不注意が原因で2頭が入れ代わっており、英ダービーに出走したのは(ベンドアという名前で競走馬登録されていた)タドカスターだった。そのため、ベンドアは失格になるべきであり、ロバートザデヴィルが本当の英ダービー勝ち馬であるという内容だった。ベンドアとタドカスターが入れ代わっていたという証言をしたのはリチャード・アルヌル氏という人物で、彼はイートンスタッドの厩務員だったが、グローヴナー卿により解雇された事を恨んで、復讐のためにロバートザデヴィル陣営を焚き付けたようである。しかし英国ジョッキークラブの裁定により、本馬は紛れも無くローグローズが産んだドンカスター牡駒のベンドアであると確定されたため、この疑惑は間もなく晴れた(ただし、この件については後日談がある。詳細は本項の末尾に記載している)。
競走生活(3歳後半)
秋は英セントレジャー(T14F132Y)に直行して、単勝オッズ2.25倍の1番人気に支持された。しかしこの時期の本馬は脚部不安が悪化して競走能力にも影響を及ぼし始めていたようである。暴風雨の中で行われたレースは不良馬場となり、それも災いしたのか、英ダービー2着後にパリ大賞を勝っていたロバートザデヴィルに大差を付けられた5着に敗退して初黒星を喫した。
次走のグレートフォールS(T10F73Y)では、同じ131ポンドを背負ったロバートザデヴィルとの再戦となった。レースはロバートザデヴィルが先行して、英オークス・英セントレジャーを制した名牝ジャネットの半妹であるナッソーSの勝ち馬ミュリエル(斤量121ポンド)がそれを追い、本馬はその後方を追走した。直線ではミュリエルをかわして2番手に上がった本馬と逃げるロバートザデヴィルの叩き合いとなった。残り50ヤード地点で本馬が前に出る場面もあったが、最後はロバートザデヴィルが差し返し、本馬は頭差2着に敗れた(ミュリエルはさらに3馬身差の3着だった)。
続く英チャンピオンS(T10F)でも、ロバートザデヴィルとの対戦となった。ロバートザデヴィルが単勝オッズ2.1倍の1番人気、本馬が単勝オッズ2.25倍の2番人気で、完全な2強対決ムードだった。しかし結果は、スタートから一度も先頭を譲らなかったロバートザデヴィルが圧勝し、本馬は10馬身差をつけられた2着に終わった(ただし、3着となった前月のグレートヨークシャーHの勝ち馬レベラーにはさらに10馬身差をつけていた)。3歳時の成績は5戦2勝だった。
競走生活(4歳時)
4歳時も現役を続け、4月のシティ&サバーバンH(T10F)から始動した。ここでは126ポンドのトップハンデが課された上に、対戦相手も後にパリ大賞・シザレウィッチH・アスコット金杯などを勝つフォックスホールを筆頭に23頭もおり、厳しい戦いが予想された。本馬の単勝オッズは13.5倍で、ここでは伏兵扱いだったが、35ポンドのハンデを与えたフォックスホールを1馬身半差の2着に破って勝利した。6月のエプソム金杯(T12F・現コロネーションC)では、出走馬は本馬とロバートザデヴィルの2頭だけであり、事実上のマッチレースとなった。斤量は2頭とも同じ126ポンドで、好敵手2頭の一騎打ちに相応しいガチンコ勝負となった。そして今度は本馬が首差で競り勝った。
秋には英チャンピオンS(T10F)に出走。ここには、この年の英ダービー・英セントレジャー・プリンスオブウェールズS・セントジェームズパレスSを勝ち英2000ギニーで2着していた米国産馬イロコイも出走しており、英ダービー馬対決となった。しかし本馬が単勝オッズ1.67倍の1番人気に応えて、2着となったグレートフォールSの勝ち馬スコベルに3/4馬身差をつけて勝利を収め、イロコイは3着だった。
次走のケンブリッジャーH(T9F)では32頭の出走馬の中で、140ポンドのミドルパークプレート・スチュワーズC・ロイヤルハントC・ハードウィックSの勝ち馬ピーターに次いで2番目に重い134ポンドの斤量を背負わされた。それでも単勝オッズ5.5倍の1番人気に支持された本馬だったが、結果は斤量3位の126ポンドだったフォックスホールが勝利を収め、本馬は5着(7着とする資料もある)に敗れた。どうやらこのレース中に脚を痛めていたようで、アーチャー騎手はレース終盤において本馬を追う事はしなかった。これが本馬の最後のレースとなり、4歳時4戦3勝の成績で競走馬を引退した。
1886年6月に英スポーティングタイムズ誌が競馬関係者100人に対してアンケートを行うことにより作成した19世紀の名馬ランキングにおいては、第22位にランクインした。
毛色・気性・健康面・馬名などに関して
本馬は父ドンカスターや父方の祖父ストックウェル、母父トーマンバイなどから受け継いだ体高16.1ハンドの大柄で力強い体格を有していた。それだけでなく、尾花栗毛に黒斑点が点在する非常に特徴的な毛色(栗毛に黒斑点という特徴はストックウェルも有していたが、特にトーマンバイに顕著に見られた)も受け継いでいた。本馬が英ダービーを勝った後にかけられた入れ代わり疑惑がすぐに晴れたのも、本馬の特徴的な毛色は他馬と混同される余地が無かったからだと言われている。この黒斑点は本馬の名を冠して通称ベンドア斑(別名バードキャッチャー斑)と呼ばれており、本馬の血を受け継いだ馬にも時折出現する事で知られるが、出現パターンは詳らかではない。
なお、本馬は非常に気性が優しい馬で、子羊と同じくらい従順と言われた。イートンスタッドの厩務員リチャード・チャップマン氏(本馬の入れ代わり疑惑を告発したアルヌル氏の後釜らしい)は「ベンドアは世界一気立てが優しい馬でした。子どもはベンドアと何でもして遊ぶ事が出来ました」と証言している。また、本馬は猫が好きという、気性の大人しい馬によくある特徴も持ち合わせていた。その反面、レースに出ると「まるでライオンのような」闘争心を発揮するという、競走馬としては理想的な気性の持ち主であった。そのため、周囲の人間から本馬は大変愛されていたという。なお、気性の良さはローグローズ産駒に共通して見られる特徴であり、気性に問題があったクレメンス産駒とは一致しないという証言もあるが、本項の末尾で少し触れているようにローグローズ自身やその血を受け継ぐ馬には人の持ち物を奪って噛み付く悪癖があったという説もあるため、本馬の気性がローグローズ譲りだったかどうかは謎である。
健康面においては、腰が弱いという欠点があり、現役時代を通じてそれに悩まされた。また、種牡馬入り後の写真から、球節に問題があり、脚部不安を抱えていた事が明らかであるとされている。本馬の主戦を務めたアーチャー騎手は、自身が乗った中では最も偉大な馬の一頭として本馬を挙げている。
本馬の名前は「黄金の襷(たすき)」という意味の紋章用語である。これについては以下の話が伝わっている。1385年に時の英国王リチャードⅡ世がスコットランドに侵攻した際に、いずれも王室の騎士だったリチャード・スクループ卿とロバート・グローヴナー卿が、青地に黄金色の襷がかかった同じ紋章を使用している事に気付いた。スクループ家は、この紋章は自分の家に伝わるものだからグローヴナー家は使用しないようにと裁判に訴えた。1389年にスクループ家が勝訴し、グローヴナー家は違う紋章に変更する事になったという。グローヴナー家出身である本馬の所有者グローヴナー卿は、おそらく黄金の襷の紋章を名前だけでも使用したかったのであろう。本馬だけでなく本馬が英ダービーを制する前年に誕生した自身の孫も「ベンドア」の愛称で呼んでいたという。
血統
Doncaster | Stockwell | The Baron | Birdcatcher | Sir Hercules |
Guiccioli | ||||
Echidna | Economist | |||
Miss Pratt | ||||
Pocahontas | Glencoe | Sultan | ||
Trampoline | ||||
Marpessa | Muley | |||
Clare | ||||
Marigold | Teddington | Orlando | Touchstone | |
Vulture | ||||
Miss Twickenham | Rockingham | |||
Electress | ||||
Ratan Mare | Ratan | Buzzard | ||
Picton Mare | ||||
Melbourne Mare | Melbourne | |||
Lisbeth | ||||
Rouge Rose | Thormanby | Windhound | Pantaloon | Castrel |
Idalia | ||||
Phryne | Touchstone | |||
Decoy | ||||
Alice Hawthorn | Muley Moloch | Muley | ||
Nancy | ||||
Rebecca | Lottery | |||
Cervantes Mare | ||||
Ellen Horne | Redshank | Sandbeck | Catton | |
Orvillina | ||||
Johanna | Selim | |||
Skyscraper Mare | ||||
Delhi | Plenipotentiary | Emilius | ||
Harriet | ||||
Pawn Junior | Waxy | |||
Pawn |
父ドンカスターは当馬の項を参照。
母ローグローズは不出走馬。グローヴナー卿は欠点がある繁殖牝馬を次々に放出してより優れた繁殖牝馬を導入する馬産方針の持ち主だったらしいが、ローグローズを放出しなかったのは血統面による影響が大きいと思われる。ローグローズの半姉パラダイム(父パラゴン)は、英国三冠馬ロードリオンと、英1000ギニーと英セントレジャーなどを勝った名牝アチーヴメントの母であり、かなり優秀な牝系だったのである(パラダイムの曾孫には英2000ギニー・英ダービーの勝ち馬ラダスと英1000ギニー馬チェランドリーがおり、さらにその後にもここに書き切れないほどの活躍馬がパラダイムの牝系子孫から登場している)。
ローグローズの牝系子孫もパラダイムほどではないにしても大きく発展しており、本馬の半姉レッドラグ(父ロードリオン)の牝系子孫には、ザバラ【英1000ギニー・チェヴァリーパークS】、サーカスプルーム【英オークス(英GⅠ)・ヨークシャーオークス(英GⅠ)】、ムトト【キングジョージⅥ世&クイーンエリザベスS(英GⅠ)・エクリプスS(英GⅠ)2回】、ドントフォーゲットミー【英2000ギニー(英GⅠ)・愛2000ギニー(愛GⅠ)】、フォーチュンアンドフェイム【愛チャンピオンハードル(愛GⅠ)2回】、デザートキング【愛ナショナルS(愛GⅠ)・愛2000ギニー(愛GⅠ)・愛ダービー(愛GⅠ)】、パワーズコート【タタソールズ金杯(愛GⅠ)・アーリントンミリオンS(米GⅠ)】、ハービンジャー【キングジョージⅥ世&クイーンエリザベスS(英GⅠ)】、フランケル【英2000ギニー(英GⅠ)・デューハーストS(英GⅠ)・セントジェームズパレスS(英GⅠ)・サセックスS(英GⅠ)2回・クイーンエリザベスⅡ世S(英GⅠ)・ロッキンジS(英GⅠ)・クイーンアンS(英GⅠ)・英国際S(英GⅠ)・英チャンピオンS(英GⅠ)】、ノーブルミッション【タタソールズ金杯(愛GⅠ)・サンクルー大賞(仏GⅠ)・英チャンピオンS(英GⅠ)】、日本で走ったメジログッテン【中山大障害春】などが、半姉レッドフラッグ(父ロードリオン)の牝系子孫にはマーカス【ローマ賞・伊共和国大統領賞】などが、半姉ブラッドレッド(父ロードリオン)の牝系子孫にはヘッドプレイ【プリークネスS・サンアントニオH・サンフアンカピストラーノ招待H・サバーバンH】などが、全妹ローズオブランカスターの牝系子孫にはオールドイングランド【プリークネスS】、ウエストコート【メルボルンC・ローソンS】などが、半妹ローズオブヨーク(父スペキュラム)の子にはロクスラーヌ【仏グランクリテリウム・仏1000ギニー・仏オークス】、ロディラール【仏2000ギニー】、牝系子孫にはロイヘロド(ザテトラークの父)、コマンドリー【仏オークス・パリ大賞・ヴェルメイユ賞】、バウンディングホーム【ベルモントS】、ボールド【プリークネスS】、ガンボウ【チャールズHストラブS・サンアントニオH2回・ブルックリンH・ホイットニーH・ウッドワードS・メトロポリタンH】、レヴモス【凱旋門賞・カドラン賞・アスコット金杯】、ルーペ【英オークス・ヨークシャーオークス・コロネーションC(英GⅠ)】、ボールドリーズニング(シアトルスルーの父)、リヴァリッジ【ケンタッキーダービー・ベルモントS・ベルモントフューチュリティS・シャンペンS・ピムリコローレルフューチュリティ・ブルーグラスS・ハリウッドダービー・ブルックリンH(米GⅠ)】、ルモス【アスコット金杯(英GⅠ)2回】、マックディアミーダ【加国際CSS(加GⅠ)・ワシントンDC国際S(米GⅠ)】、スリートロイカス【凱旋門賞(仏GⅠ)・仏1000ギニー(仏GⅠ)・サンタラリ賞(仏GⅠ)・ヴェルメイユ賞(仏GⅠ)】、ハーバー【サンタラリ賞(仏GⅠ)・仏オークス(仏GⅠ)】、キングズスワン【ヴォスバーグS(米GⅠ)】、コミティッド【スプリントCS(英GⅠ)・アベイドロンシャン賞(仏GⅠ)2回】、インザグルーヴ【愛1000ギニー(愛GⅠ)・英国際S(英GⅠ)・英チャンピオンS(英GⅠ)・コロネーションC(英GⅠ)】、アワッド【セクレタリアトS(米GⅠ)・マンハッタンH(米GⅠ)・アーリントンミリオンS(米GⅠ)・ソードダンサー招待H(米GⅠ)】、オース【英ダービー(英GⅠ)】、イングリッシュチャンネル【BCターフ(米GⅠ)・ターフクラシックS(米GⅠ)・ユナイテッドネーションズS(米GⅠ)2回・ジョーハーシュターフクラシック招待S(米GⅠ)2回】、リヴァーサイドシアター【アスコットチェイス(英GⅠ)2回・ライアンエアーチェイス(愛GⅠ)】、スノーフェアリー【エリザベス女王杯(日GⅠ)2回・英オークス(英GⅠ)・愛オークス(愛GⅠ)・香港C(香GⅠ)・愛チャンピオンS(愛GⅠ)】、日本で走ったコクサイプリンス【菊花賞】、ホクトボーイ【天皇賞秋】、エリモエクセル【優駿牝馬(GⅠ)】などが、本馬の半妹ローズベイ(父メルトン)の子にはロベールルディアブル【ドンカスターC】がいる。→牝系:F1号族⑥
母父トーマンバイには独立した項目があるが、改めて触れておく。現役成績25戦14勝。本馬と同じく尾花栗毛に黒斑点という特徴的な毛色の持ち主で、気性も穏やかだったという。ただし本馬と異なり身体は頑丈だったようで、2歳時に15戦してジムクラックS・クリテリオンS・モスティンSなど10勝している。3歳時は英ダービーから始動して優勝、秋は英セントレジャーで5着に敗退と、3歳時の成績は本馬と良く似ている。4歳時にはアスコット金杯・クラレットSを勝っている。アスコット金杯を勝ってはいるが、基本的にはスピード馬だったようで、産駒はマイル以下の距離における活躍が多かった。1869年の英首位種牡馬になっている。トーマンバイの系統を遡ると、ウインドハウンド、パンタルーン、キャストレル、バザード、ウッドペッカーを経由してヘロドに行きつく。
競走馬引退後
競走馬を引退した本馬は、イートンスタッドで種牡馬入りした。種付け料は201ギニー(1ギニーは担当厩務員チャップマン氏のためのものだったらしい)に設定された。腰が悪い事を鑑みてか、本馬の交配頭数は最大でも年間40頭までと制限された。種牡馬入り当初はハーミットが種牡馬として猛威を振るい、その後はセントサイモンやその父ガロピンが種牡馬として猛威を振るったため、本馬は遂に英首位種牡馬になる事は出来なかった(1886年と1892年の2位が最高。それぞれハーミットとセントサイモンが1位である)。それでも無敗の英国三冠馬オーモンド、英2000ギニー優勝馬ボナヴィスタを輩出する成功を収めた。産駒の勝ち鞍数は合計285勝である。なお、1901・02年には2年連続で英母父首位種牡馬に輝いており、母父としては首位種牡馬を獲得している。本馬は1903年1月、午後の散歩に出かけた際に、突然うずくまってそのまま息を引き取った。享年26歳。直前まで健康そのものであり、苦しみも何も無い安らかな旅立ちであったという。
種牡馬としてはハーミットやセントサイモンを上回ることが出来なかった本馬だが、現代競馬における直系の繁栄度は他2頭の比ではない。オーモンドの直系からテディが、ボナヴィスタの直系からファラリスが出現したため、本馬の直系は近代競馬の主流血統を形成している。
主な産駒一覧
生年 |
産駒名 |
勝ち鞍 |
1883 |
Kendal |
ジュライS |
1883 |
英2000ギニー・英ダービー・英セントレジャー・デューハーストS・セントジェームズパレスS・ハードウィックS2回・英チャンピオンS・ジュライC |
|
1885 |
Orbit |
エクリプスS・クレイヴンS |
1885 |
Ossory |
セントジェームズパレスS・プリンスオブウェールズS |
1887 |
Golden Gate |
リッチモンドS |
1887 |
Martagon |
グッドウッドC・ゴールドヴァーズ |
1888 |
Orion |
英チャンピオンS |
1888 |
Orvieto |
ニューS・サセックスS |
1889 |
英2000ギニー |
|
1890 |
Medora |
スチュワーズC |
1890 |
The Prize |
英シャンペンS |
1891 |
Idle boy |
ダリュー賞 |
1892 |
Laveno |
ジョッキークラブS・英チャンピオンS |
1893 |
Conroy |
アスコットダービー |
1894 |
Guernsey |
クレイヴンS |
1898 |
Garb Or |
ジムクラックS |
1898 |
Lord Bobs |
デューハーストS・ジュライC・オールエイジドS |
1902 |
Rouge Croix |
デューハーストS |
1903 |
Radium |
ジョッキークラブC2回・グッドウッドC・ドンカスターC |
英ダービーの疑惑に関する補足
本馬の英ダービーにおける入れ代わり疑惑について補足の必要が生じたので、以下を追記する。1880年の英ダービーでトップゴールしたのは、やはり(ベンドアという登録名で出走した)タドカスターだったことがDNA鑑定により裏付けられたという話が2011年になって出てきたのである。
英タイムフォーム社の記者だったトニー・モリス氏(“A Century of Champions”の著者として知られる)により配信された記事を以下に記載する(全訳すると長いので一部省略・意訳している)。
「1880年代の2つの大きな謎のうち、切り裂きジャックが誰だったかについては解決する見込みは小さいですが、1880年の英ダービーをどの馬が勝ったかについてはそうではありません。記録ではこの年の英ダービーを勝った馬はベンドアです(筆者注:ここでベンドアの血統や経歴が記載されているが省略)。しかしイートンスタッドの厩務員だったリチャード・アルヌル氏は、ドンカスター産駒の牡駒2頭が不注意により牧場で入れ代わったと主張していました。すなわちローグローズを母に持つベンドアと、クレメンスを母に持つタドカスターです。アルヌル氏の証言に基づいて、ロバートザデヴィルの馬主チャールズ・ブリュワー氏とチャールズ・ブラントン調教師は、英ダービーの優勝賞金6375ポンドを自分達に支払うように英国ジョッキークラブ側に要求しました。この要求に基づき、10日間にわたる審議が行われました。審議は4段階で、まず手続きを決める1段階目、2段階目と3段階目は目撃者の証言調べ、4段階目は証言の再調査でした。しかしアルヌル氏がウェストミンスター公爵により解雇されていたため、復讐のために嘘の証言をしたと考えられ、45分間で行われた評決により、アルヌル氏の証言は採用されませんでした。しかしアルヌル氏は死ぬまで同じ主張を繰り返しました。
その後も疑惑が完全に拭い去られたわけではありませんでした。英国ジョッキークラブの裁定は全て内部のみで行われ、提示された証拠のいずれも公表されませんでした。しかし一部の証拠は外部に流出しました。その中には、イートンスタッドにおける馬の管理がいい加減だった事を示すものがありました。1877年に誕生した2頭の子馬をイートンスタッドからニューマーケットの牧場、さらにラスリーの調教場に移動させた際に、どちらがどの母馬の子なのかを示す目印が付けられていなかったのす。アルヌル氏と彼の2人の息子(2人ともイートンスタッドで働いていた)が提出した証拠は全て、英ダービーに出走したのが実はタドカスターである事を示していました。しかしウェストミンスター公爵は当時の英国において最も裕福な人物であり、僅かなスキャンダルであってもそれを拭い去るのに努力を惜しみませんでした。英国最高級の名士と一介の厩務員との闘争では、英国ジョッキークラブがどちらの肩を持つのかは明らかでした。そのうちに大衆の関心は、既に終わった英ダービーよりもその後の英セントレジャーへと移っていったのです。
時は流れて1914年にこの問題は再度噴出しましたが、このときに英国ジョッキークラブが1880年の英ダービーを勝ったのがタドカスターではなくベンドアであるという裁定を下した根拠となる証拠群が公表されました。ベンドアは丸い蹄の持ち主で、それはローグローズの牝系に多く見られる特徴でした。また、ベンドア産駒は人の持ち物を奪って噛み付く癖がありましたが、これもローグローズと同じ悪癖でした(筆者注:ベンドア自身にこの悪癖があったとは書かれていない。ベンドアの代表産駒オーモンドにはこの癖があったようである)。また、ベンドアや他のローグローズ産駒は蹄鉄を容易に取り付ける事が出来たのですが、タドカスターや他のクレメンス産駒はそうではありませんでした。また、ベンドアは栗毛に黒い斑点を有していましたが、同じ栗毛でもタドカスターにはそうした特徴はありませんでした。これらの証拠に基づいて英国ジョッキークラブは判断したのだから、この裁定は正しかったという結論に達して1914年の論争は終わりました。また、この1914年の論争では取り上げられなかったのですが、1882年にクレメンスがベンドアと交配されている事実がありました。もしベンドアが実はタドカスターだったとすると、母と息子を交配させた事になり、ウェストミンスター公爵がそのような馬鹿なことをするはずが無かったのです。
しかし1880年当時はもちろんのこと、1914年時点においてもメンデルの遺伝の法則は多くの人の理解の範疇を超えていました。ブルース・ロウ氏が行った牝系分類研究は、優秀な馬を生産する役には立ちませんでした。しかし遺伝学者によりミトコンドリアが発見されて遺伝研究が盛んになると、ロウ氏の牝系分類が副産物として役立つときがきたのです。そして骨格からDNAを抽出して血統を確認する方法が開発されるに至り、ケンブリッジ大学のミム・バウワー博士率いる研究チームが、ロンドンの自然史博物館で保管されていたベンドアの骨格からDNAを抽出して調べた結果、そのDNAはローグローズが属する1号族のものではなく、クレメンスが属する2号族のものだった事が判明しました。100万頭のサラブレッド血統表を書き直す時が来たのです!あらゆる状況証拠にも関わらず、その骨格はローグローズの息子のものではなかった。ベンドアの好敵手ロバートザデヴィルは、ベンドアと5回戦って3回勝利しましたが、種牡馬としては名を残せませんでした。彼はパリ大賞と英セントレジャーの勝ち馬として有名ですが、私たちは今こそ彼を英ダービーの勝ち馬としても認めなければなりません。」
以上がモリス氏による記事の内容である。ちなみにタドカスターの血統を改めて記すと、父は本馬と同じドンカスター、母はクレメンス、母父はニューミンスターである。クレメンスは英1000ギニー・英セントレジャーを制した名牝インペリュースの半妹で、クレメンスの叔父にはヴォルティジュール、クレメンスの従兄弟の子にはロードクリフデン、クレメンスの娘でタドカスターの半姉であるマーシー(父ノウスレイ)の子には豪州の歴史的名馬カーバインがおり、タドカスター自身も非常に優秀な血統の持ち主だった。
さて、筆者が本馬の項を概ね書き終えた2012年時点で既に、本馬はベンドアではなくタドカスターである事がDNA鑑定で裏付けられたという話は出ていたのだが、筆者が最も信用している海外の資料である“Thoroughbred Heritage”において、「120年も経過した今となっては、ローグローズとクレメンスのいずれがベンドアの母であったとしても、大きな問題ではありません」との意見が述べられており、筆者もまったく同感だったため、2012年の執筆時点では本件にあまり詳しく触れるつもりはなかった。
しかし日本の競馬雑誌「サラブレ」の2013年10月号において血統評論家の栗山求氏がこの話を取り上げたために、日本の競馬ファンの間にもこの件が知れ渡ってしまった。そのために筆者も本件について急遽詳しい内容の確認を行った。その上で筆者なりの意見をここに記すことにする。筆者の意見は「この内容だけでベンドアと思われていた馬が実はタドカスターだったとは断定できないし、仮にそれが事実だったとしても、だから何?という程度にしか思わない」である。
筆者が「この内容だけでベンドアと思われていた馬が実はタドカスターだったとは断定できない」とする理由は以下のとおりである。まず、ロンドン自然史博物館に保管されていた本馬の骨格が本当に本馬のものだったかどうかが断定できない事。英国ではエクリプスの骨格と称するものが複数存在しているという事実があるし、生きている馬の取り違えよりも骨格の取り違えの方が容易に起こりうるからである(英国では名馬の骨格を展示するという日本人の感覚からすると奇異な文化があるが、この場合いったん埋葬した馬の遺体を後から掘り出して展示するのが一般的である。この際に違う馬の骨格を掘り出した可能性がある)。
次に、ケンブリッジ大学の研究チームが証明したのは、あくまで「この骨格の持ち主は2号族に属する」という事柄であり、「この骨格の持ち主はクレメンスの子である」という事柄を証明したわけではない事。イートンスタッドにおける馬の管理がいい加減だったならば、当然そこに繋養されていたローグローズやクレメンスの管理もいい加減だったはずであり、ローグローズが1号族でクレメンスが2号族というのも実は間違っているかもしれないわけである。そうなると間違っているのは本馬ではなく、本馬の先祖だった事になるから、血統表を修正すべきだと声高に言われたところで、いったい血統表のどこをどう直すべきなのかまるで分からなくなってしまう。
また、英国ジョッキークラブの裁定の根拠となった数々の有力な状況証拠は結局のところ何だったのかという点も疑問である。ベンドア班の発現自体はトーマンバイだけでなくストックウェルにも見られた特徴であるから、これをもって本馬がトーマンバイ牝駒のローグローズの息子だという決定的証拠にはならないだろうが、それ以外にも複数の状況証拠が挙げられており、これら全てが偶然の一致だったと言い切るのには抵抗があるし、状況証拠が全て捏造だったとも思えない。このあたりがはっきりしない以上、DNA鑑定だけで即結論を出すのは早計であろう(馬のDNA鑑定がどの程度の精度なのか筆者はよく知らないが、馬よりも鑑定技術が進歩しているはずの人間でさえも、足利事件や東電OL殺害事件のように不正確なDNA鑑定による冤罪事件が発生している現状を鑑みると、天下のケンブリッジ大学による鑑定といえども、鵜呑みには出来ない)。
ただし、断定できないとは思うが、「ベンドアと思われていた馬は本当にベンドアだった」と言い切れないのもまた事実である。しかしモリス氏が興奮して主張するようにサラブレッド血統表を書き換える必要があるとは微塵も思わない。その理由は以下のとおりである。そもそもこのような研究が行われた理由は、本馬が後世に絶大な影響力を有する種牡馬になった事と、たまたま骨格が残っていたためであるが、サラブレッド血統表の中に名前が出てくる馬の中には、複数の父親候補がいる馬も少なからずいるし、現代と異なり血液検査が徹底されていたわけではないから血統詐称のまま子孫を残した馬もおそらく存在していたはずであり(現にDNA鑑定によりサラブレッドの牝系の多くについて血統表とは矛盾する結果が出ているという)、それらを無視して(たまたま目立つ位置にいた)本馬に関してのみ血統表を修正しようという事自体が、はっきり言って無意味(いや、無意味を通り越して労力を費やして混乱をもたらすという点でむしろ有害)であるからである。もっとも、本馬の入れ代わり疑惑を取り上げて騒いでいるのはごく一部の人間に限られるようで、大半の競馬関係者は意に介していない(本馬のケースではないが、2002年に国際血統書委員会が過去に遡っての血統表の修正は今更出来ないと発表している)ようであるから、筆者が心配しなくても血統表が書き換えられることはおそらく無いであろう。
それでも納得できない人は、宝島社が発行している別冊宝島355号「競馬〔隠れ名馬〕読本」に掲載されている漫画「スマノダイドウ物語」を読むことをお奨めする(原作者は栗山求氏)。読める環境に無い人のために、著作権法に抵触しない程度に概要を記載しておく。アングロアラブのミトタカラを父に、サラブレッド系種のトキノメジロを母に持ち、アングロアラブの名競走馬・名種牡馬として大活躍したスマノダイドウだが、実の父はサラブレッドのカブトシローであり、アングロアラブの衣を被ったテンプラ馬であるという疑惑が持たれている。「スマノダイドウ物語」によると、毛色の法則に合わない事(ミトタカラもトキノメジロも栗毛なのにスマノダイドウは鹿毛)から、スマノダイドウがテンプラ馬であるのは確実とされているが、テンプラ馬の疑惑を持たれているのはスマノダイドウだけではないため、それを言い出すとアラブ種自体が成立しなくなる事、血統詐称は人間の都合であり馬に罪は無い事から、深く追求するべきではないと結論付けられている。本馬の場合は入れ代わり疑惑が事実でもサラブレッドである事には変わりが無い点でスマノダイドウと事情はやや異なるけれども、それ以外の点では概ね同様である。いまさら本馬の入れ代わり疑惑を蒸し返したところで、ごく一部の物好きを喜ばせる程度で、全ての生存するサラブレッドや、大半の競馬関係者と競馬ファンには何の得もありはしないのである。ロバートザデヴィルやその陣営には気の毒という気はするが、ロバートザデヴィルやその関係者達が全て鬼籍に入っている今になって、ロバートザデヴィルを英ダービーの優勝馬だと正式に認めたところで、やはり誰も何の得もしないのである。なお、本馬の入れ代わり疑惑について議論や研究がなされるのは、少なくとも本馬の価値を貶めるものではない。普通の馬であれば議論や研究の祖上に上げられる事はないからである。議論や研究の対象となっているという事実は、本馬が偉大な名馬だった事を図らずも証明している事になるのである(この点でもスマノダイドウと同じである)。