アチーヴメント

和名:アチーヴメント

英名:Achievement

1864年生

鹿毛

父:ストックウェル

母:パラダイム

母父:パラゴン

史上初の英国牝馬三冠馬にはなれなかったが、英1000ギニー・英セントレジャー勝ちなど23戦着外無しの成績で、全兄の英国三冠馬ロードリオンより高い評価を得る

競走成績:2~4歳時に英で走り通算成績23戦16勝2着6回3着1回

誕生からデビュー前まで

英国ノーサンプトンシャー州とレスターシャー州の中間あたりにある町オーカムの郊外にあったオークリーホールスタッドファームにおいて、マーク・ピアソン大佐により生産された。成長しても体高15.3ハンドとたいして大きい馬ではなかったが、1歳年上の全兄である英国三冠馬ロードリオン(本馬の幼少期はまだ英国三冠馬ではなかったが)もほぼ同じ体格だったから、特に気にされなかったようである。優れた血統に加えて、見る者を夢中にさせるほど美しい黒鹿毛の馬体の持ち主だった。

兄ロードリオンはピアソン大佐の競馬仲間ロバート・サットン氏との共同所有馬だったが、本馬の場合はサットン氏と共同所有したという記述が無く、ピアソン大佐が単独で所有したようである。本馬は兄ロードリオンも管理していたジェームズ・ドーヴァー調教師に預けられた。主戦は兄と同じくヘンリー・カスタンス騎手が務めた。

競走生活(2歳時)

2歳4月にニューマーケット競馬場で行われたビーコンS(T4F)でデビューした。この時期は兄ロードリオンがまだ英国クラシック競走に参戦する前の段階だったが、既に英国クラシック競走の有力候補としては認知されていた。そのために本馬もまた注目馬であり、単勝オッズ1.57倍の1番人気に支持された。そして期待どおりに2馬身差で勝利を収めた。その後はアスコット競馬場に向かい、グランドスタンドプレート(T5F)に出走。ここでは3/4馬身差の辛勝だった。その後はエプソム競馬場に向かい、ウッドコートS(T5F)に出走。このレースには、バイエニアルSを勝ってきたハーミットという牡馬も出走してきた。ハーミットもデビュー前から高い素質を見せており、本馬と並んで1番人気に支持された。しかし結果は本馬がハーミットを3馬身差の2着に下して完勝した。このウッドコートSに前後して行われた英ダービーを、兄ロードリオンが英2000ギニーに続いて制覇しており、本馬の評判もますます上昇していった。

その後は再びアスコット競馬場に赴き、トリエニアルSに出走。2着ヴォーバンに1馬身半差をつけて勝利した。引き続き出走したニューS(T5F)では、2着となった牝馬アラペイレに3馬身差をつけて快勝。さらに翌7月にはニューマーケット競馬場に向かい、ジュライS(T6F)に出走して勝利。さらにチェスターフィールドS(T5F)も勝利した。同月にはグッドウッド競馬場に向かい、ラヴァントSを勝利した。

9月には兄ロードリオンと一緒にドンカスター競馬場に向かった。兄は英セントレジャーで英国三冠を獲りに行き、本馬は英シャンペンS(T8F)に出走した。この英シャンペンSは前年に兄が2着に負けてしまったレースだったのだが、本馬のほうは難なく勝利した。これに前後して兄ロードリオンは英セントレジャーを勝って英国三冠馬に輝き、ロードリオンと本馬は英国最強兄妹として名を馳せた。本馬は10月も走り、ニューマーケット競馬場で英ホープフルS(T6F)に出走。単勝オッズ1.1倍という圧倒的な1番人気に応えて、3馬身差で勝利した。しかし次走のクリアウェルSでは、4ポンドのハンデを与えた牡馬プローディットの頭差2着に敗れてしまい、デビューからの無敗記録は10で止まった。

次走はミドルパークプレート(T6F)となった。現在でも英国主要2歳競走の地位を維持しているこのミドルパークプレートはこの年に創設されたばかりだった。記念すべき第1回競走の勝ち馬として名を残したいところだったが、7ポンドのハンデを与えた牡馬ザレイクの2着に敗れてしまった。その後はクリテリオンS(T7F)に出走した。このクリテリオンSは、ミドルパークプレートや、後の1875年にデューハーストプレートが創設されると相対的にその価値が低下していったが、本馬の時代はニューマーケット秋季開催の2歳競走としては最高の権威を有していた。ここでは2着フリポニアーに2馬身差をつけて勝利を収め、同世代最強馬は自分であることを完全に証明してみせた。2歳時の成績は13戦11勝だった。

当然のように翌年の牝馬クラシック競走の最有力候補となったのだが、兄ロードリオンが本質的にはスピードに長けた馬でスタミナ面においては(英セントレジャーを勝った後でさえも)疑問視されていた事もあり、本馬に関しても距離不安が囁かれていた。また、本馬には喘鳴症の症状が稀に発現しており、距離が伸びるクラシック競走では厳しいのではないかという意見もあった。

競走生活(3歳前半)

3歳初戦は英1000ギニー(T7F178Y)となった。距離不安が言われていてもこの距離なら問題ないと判断されたようで、単勝オッズ1.125倍という断然の1番人気に支持された。レースでは全くの馬なりのまま、2着メイフラワーに3馬身差をつけて完勝した。

次走の英オークス(T12F)では、距離不安が影響したのか前走より僅かにオッズが上昇していたが、それでも単勝オッズ1.33倍の1番人気に支持された。やはり距離不安があったためか、カスタンス騎手は本馬を馬群のやや後方につけさせた。レースがスローペースで進行したため、いつまでも後方にいるわけにはいかず、徐々に位置取りを上げていった。そして直線に入ってから本格的に仕掛けて先頭に立った。ところが残り1ハロン地点で失速したところに、後方からヒッピア、ロンピングガールの2頭が差してきた。本馬はロンピングガールには抜かさせずに同着に持ち込んだが、ヒッピアには完全に差されてしまい、半馬身差の2着に敗れた。この敗因に関しては色々と取り沙汰された。ある人は、ゴール前の失速ぶりはおそらく喘鳴症の発症によるものだろうと主張した。別の人は、事前に厳しい調教を課しすぎた事を挙げた。さらに別の人は、本馬が起伏の激しいエプソム競馬場の上り下りに上手く対応できていなかった事を挙げた。しかし半馬身差の2着だった故か、前から言われていたスタミナ面の不足を敗因として挙げた人はあまりいなかったようである。

その後はコロネーションS(T8F)に向かい、ニューSで本馬の3馬身差2着だったアラペイレを今度は8馬身差の2着に破って圧勝した。ところがコロネーションSを勝った同じ日の午後、プリンスオブウェールズS(T13F)に出走した本馬は、かつてトリエニアルSで1馬身半差の2着に破ったヴォーバンに3馬身差をつけられて2着に敗れてしまった。もっとも、このヴォーバン、実はこの年の英2000ギニーを優勝しており、英ダービーでも3着していた同世代トップクラスの牡馬だったから、こんな無茶苦茶な出走で2着に入った本馬はむしろ賞賛されるべきで何一つ恥じ入ることは無かった。それよりもこんな馬鹿な出走をさせた陣営こそが恥じ入るべきであろう。本馬が故障でもしたらどうするつもりだったのだろうか。

競走生活(3歳後半)

しかし本馬は故障することは無かったようで、その後は少しだけ間隔を空けて、8月にヨーク競馬場で行われたグレートヨークシャーS(T14F)に出走した。英オークスとプリンスオブウェールズSでいずれも2着していた本馬だったが、このグレートヨークシャーSはさらに距離が伸びたため、距離不安を指摘する意見が再燃した。対戦相手は3頭しかいなかったが、その中には同月のグッドウッドCも勝利するヴォーバンが含まれていた事もあり、本馬はここでは2番人気の評価だった。ところが蓋を開けてみると、距離不安を指摘していた人達が裸足で逃げだすような走りを本馬は披露してみせた。2着ヴォーバンに10馬身差もの大差をつけて圧勝。他の出走馬2頭は道中であまりにも差をつけられたために完走を断念してしまうほどの壮絶な勝ちっぷりだった。これにより、プリンスオブウェールズSでヴォーバンに負けたのは同日に2競走に出走するという無茶使いが原因だった事が証明されると同時に、スタミナ面の不安も払拭された。

そうなると次走は英セントレジャー(T14F132Y)となるのは自然な流れだった。このレースには、ヴォーバン、後にこの年のシザレウィッチHを勝つジュリアスなどに加えて、かつてウッドコートSで本馬に3馬身差をつけられたハーミットも出走していた。ハーミットは諸々の事情(その辺りはハーミットの項を参照)により英ダービーでは超人気薄だったが、それを覆して見事に優勝していた。そしてその後のセントジェームズパレスSも勝って、英ダービーの勝利がまぐれではない事を証明していた。そのハーミットが単勝オッズ2.2倍の1番人気に支持され、本馬は単勝オッズ2.875倍の2番人気となった。この評価の差には騎手の乗り代わりの影響もあったようである。本馬の主戦だったカスタンス騎手はハーミットの主戦でもあり、ここではハーミットを選択したのだった。そのために本馬にはトム・チャロナー騎手が騎乗した。2番人気ではあったが、しかしレース前から誰が見ても本馬の状態は抜群だった。小柄な馬体も本来より大きく見えたと言うが、それは単なる気のせいでは無く、実際に夏場を越して本馬の馬体は(体高こそ低いままだったが)大きく成長していたようである。

スタートが切られると、チャロナー騎手はスタミナ不安を払拭していた本馬を積極的に先行させた。そして直線に入ってから完全に先頭に立って抜け出した。ゴール前ではハーミットとジュリアスの2頭が迫ってきたが影は踏ませず、2着ハーミットに1馬身差、3着ジュリアスにさらに頭差をつけて優勝した。これで本馬が仮に英オークスを勝っていれば史上初の英国牝馬三冠馬という栄誉も手にすることが出来たのだが、惜しい結果に終わった(翌年にフォーモサが達成)。

本馬の3歳時の出走はこれが最後では無く、おまけがあった。それは英セントレジャーの僅か2日後に出走したドンカスターC(T18F)だった。このレースにもハーミットが出走してきて、本馬と3度目の対戦となった。結果は本馬がハーミットを3/4馬身差の2着に抑えて勝ち、ハーミットとの対戦成績を3戦全勝とした。3歳時はこれが最後のレースで、この年の成績は7戦5勝だった。

競走生活(4歳時)

4歳時も現役を続け、まずは3月にバス競馬場で行われたビューフォートCに出走した。しかしここでは、前年の英セントレジャー3着後にシザレウィッチHを勝っていたジュリアスに、15馬身差もの大差をつけられて2着に敗れた。6月にはアスコット競馬場でトリエニアルSに出走したが、エボアHの勝ち馬で後にこの年のドンカスターCを勝つマンドレイクの2着に敗れた。同月にストックブリッジ競馬場で出走したストックブリッジC(T7F)では、前年の英2000ギニー2着馬ナイトオブザガーターの3着に敗退。このレースを最後に、4歳時3戦未勝利の成績で競走馬を引退した。

1886年6月に英スポーティングタイムズ誌が競馬関係者100人に対してアンケートを行うことにより作成した19世紀の名馬ランキングにおいては、全体の第27位にランクインした(ハーミットは第34位で、兄ロードリオンはランク外だった)。牝馬としては、ヴィラーゴプレザントゥリクルシフィックスブリンクボニーホイールオブフォーチュンに次ぐ第6位だった。

血統

Stockwell The Baron Birdcatcher Sir Hercules Whalebone
Peri
Guiccioli Bob Booty
Flight
Echidna Economist Whisker
Floranthe
Miss Pratt Blacklock
Gadabout
Pocahontas Glencoe Sultan Selim
Bacchante
Trampoline Tramp
Web
Marpessa Muley Orville
Eleanor
Clare Marmion
Harpalice
Paradigm Paragone Touchstone Camel Whalebone
Selim Mare
Banter Master Henry
Boadicea
Hoyden Tomboy Jerry
Ardrossan Mare
Rocbana Velocipede
Miss Garforth
Ellen Horne Redshank Sandbeck Catton
Orvillina
Johanna Selim
Skyscraper Mare
Delhi Plenipotentiary Emilius
Harriet
Pawn Junior Waxy
Pawn

ストックウェルは当馬の項を参照。

母パラダイムは2歳時のみ走って2戦未勝利だったが、デビュー戦では後の英2000ギニー馬ロードオブジアイルズの頭差2着に入っている。2戦目のラベンダーSで着外に敗れた後に故障のため引退。パラダイムの母エレンホーンはピアソン大佐が元々妻の乗馬用に18ギニーで購入してきた馬で、パラダイム自身も競走馬引退後、繁殖入りする前には乗馬として使役されていた時期があったようである。パラダイムは繁殖牝馬としては13頭の産駒を産み、本馬の半兄ブルーマントル(父キングストン)【ニューS】、半姉ガーデヴィシュア(父ヴェデット)【ウッドコートS】、全兄ロードリオン【英2000ギニー・英ダービー・英セントレジャー】と活躍馬を続出させた。パラダイム産駒の多くが勝ち上がっているが、その大半は仕上がり早い短距離馬であり、本馬やロードリオンも本質的には同タイプで、能力の絶対値が違っていたから長距離戦でも好走できたと考えられる。パラダイムは牝系子孫もかなり発展させている。しかしあまりにも発展している上に、ロードリオンの項でかなり端折りながらも主要な馬は既に列挙しているので、本項では省略させてもらう。→牝系:F1号族④

母父パラゴンはタッチストン産駒で、複数のマッチレース勝利の他に5勝を挙げているが、種牡馬としては競走馬よりも狩猟用の馬の生産のために使役されており、種付け料3ギニーの無名種牡馬だった。後に独国に輸出され、3頭の独オークス馬を出している。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬はピアソン大佐の元で繁殖入りした。しかし1872年に8歳の若さで夭折してしまった。亡くなるまでに3頭の子を産んだが、そのうちの2頭は死産。唯一成長したのは英国三冠馬グラディアトゥールとの間に産まれた牡駒だったが、競走馬になることなく終わり、種牡馬になる事も無かった。そのために本馬の血を引く馬は残念ながら存在していない。

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