フォーモサ
和名:フォーモサ |
英名:Formosa |
1865年生 |
牝 |
栗毛 |
父:バッカニア |
母:エラー |
母父:シャンティクリアー |
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英国クラシック競走3.5勝馬とも言われる、英1000ギニー・英オークス・英セントレジャーの3競走を初めて全勝した史上初の英国牝馬三冠馬 |
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競走成績:2~5歳時に英で走り通算成績31戦12勝2着8回3着3回 |
史上初の英国牝馬三冠馬ではあるが英国クラシック競走4勝馬にはあらず?
1814年創設の英1000ギニー、1779年創設の英オークス、1776年創設の英セントレジャーの3競走を総称して“English Fillies Triple Crown(英国牝馬三冠競走)”と呼称する。しかし19世紀の前半期までは、本当に強い牝馬は、英1000ギニーよりも英2000ギニー、英オークスよりも英ダービーに出走するものであるとされており、なかなか英国牝馬三冠競走を全勝する馬は登場しなかった。しかし英1000ギニーの創設により英国牝馬三冠競走が成立してから55年目にして、ようやく史上初の英国牝馬三冠馬が誕生した。それが本馬フォーモサである。
本馬は英ダービーには出ていないが英2000ギニーには出走して同着ながらもトップゴールしており、そのために日本では「英国牝馬四冠馬」として紹介される場合がしばしばある。しかし地元英国において本馬がそのように紹介されることは無い。それは「四冠馬」なる表現が日本独自のものであり英国では使用されない(「二冠馬」という表現も同じで、英国や米国では使用されない)からという理由だけでなく、後述する経緯により本馬は正式な英2000ギニーの勝者として認められない場合が多いからでもある。
誕生からデビュー前まで
英国ダーラム州ダーリントン町ニーシャムにおいて、ジェームズ・クックソン氏により生産された。1歳時のドンカスターセールに出品されたが、クックソン氏は当初本馬を売るべきか自分が所有したままでいるべきか迷っており、自らが700ギニーという最高価格を提示して買い戻す寸前までいった。しかし結局クックソン氏は決心して本馬を手放す事にした。そこで本馬に対して2番目に高い690ギニーを提示していたウィリアム・グラハム氏に交渉を持ち掛けた。グラハム氏は元々レスリングの選手で、製酒業者としても成功していた。その傍らで“G. Jones(G・ジョーンズ)”なる偽名を使用して馬主活動もしており、本馬を購入する前年にはレガリアで英オークスを勝っていた。グラハム氏がクックソン氏に交渉を持ち掛けられた際に彼は朝食中だった。10ギニーを上乗せして700ギニーの価格を提示するようにクックソン氏に依頼されたグラハム氏は、二つ返事でそれを承諾して必要書類や小切手にサインをすると、そのまま朝食を続けたという。
馬名は欧州諸国が台湾を呼ぶときにしばしば使用される名称“Formosa(ポルトガル語で「麗しの島」という意味)”にちなんでいる。台湾が17世紀頃に海賊の本拠地として知られていた(その理由は清朝の統治力があまり及ばなかったためである)事と、本馬の父バッカニア(buccaneer)の馬名が17世紀にカリブ海を荒らしまわった海賊を意味する事から連想して命名された。
成長しても体高は15.1ハンドだったというから当時の基準に照らしても大きい馬では無かったようだが、非常に筋肉質の馬体を有しており、「非の打ち所のない脚で地面を踏みしめて、まるで岩のように立っている」と評された。また、非常に知的な目をしていたという。
競走生活(2歳時)
ヘンリー・ウールコット調教師に預けられ、2歳時にバス競馬場で行われたウェストン2歳S(T4F)でデビューしたが、レディエリザベスの着外に敗れた。アスコット競馬場で出た次走のクイーンズズタンドプレートでは、4歳馬ケクロプスの着外に敗退。トリエニアルSでは単勝オッズ34.33倍の人気薄ながらも、牡馬エウロパの3着に入った。しかし単勝オッズ4倍まで評価を上げたバイエニアルSでは、トレギーグルの4着に敗退。デビュー5戦目となったナーサリーSで、単勝オッズ3.25倍の評価に応えて、2着コンテンプトに1馬身半差をつけてようやく初勝利を挙げた。
6戦目は7月にニューマーケット競馬場で行われたチェスターフィールドS(T5F)となった。このレースでは後のコロネーションS・パークヒルSの勝ち馬アテナが単勝オッズ2倍の1番人気、後のナッソーS・ヨークシャーオークスの勝ち馬レオニーが単勝オッズ5倍の2番人気に支持されており、本馬は単勝オッズ21倍の低評価だった。しかしレースでは意外にも本馬が2着サフォークに1馬身差で勝利を収めた。その後はグッドウッド競馬場に向かい、ベンティック記念Sに出たが、ここでは単勝オッズ2.5倍の評価に応えられずに、トレギーグルの3着最下位に敗れた。その後はアビングドン2歳Sに出走して、単勝オッズ2.25倍の人気に応えて、2着オリオンに1馬身差で勝利を収めた。
そして10月に行われる2歳戦の大競走ミドルパークプレート(T6F)に向かった。しかしここでは単勝オッズ21倍の低評価であり、レースでも、同じ牝馬であるグリーンスリーヴス、レディコヴェントリーや、クリテリオンSを勝ってきた牡馬ロージクルーシャンなどに先着されて、グリーンスリーヴスの着外に敗れ、2歳時の成績は9戦3勝となった。
競走生活(3歳前半)
3歳時はいきなり英2000ギニー(T8F17Y)から始動した。ここではグリーンスリーヴスが単勝オッズ3.5倍の1番人気に支持されていたが、主戦のジョージ・フォーダム騎手が騎乗する本馬も単勝オッズ4倍の2番人気と評価されていた。スタートが切られるとすぐに本馬が飛び出していき、グリーンスリーヴスや単勝オッズ15.29倍の伏兵だったモスレムという名前の牡馬がそれを追いかけていった。レース中盤あたりで本馬とモスレムの2頭が後続に3馬身ほどの差をつけ、そのままこの2頭の一騎打ちとなった。いったんはモスレムが少し前に出たのだが、フォーダム騎手の檄に応えた本馬が残り1ハロン地点から猛然と差し返し、2頭が同時にゴールインした。当時は写真判定なるものは存在せず、2頭の着差は肉眼では判定不能だったため、同競走史上最高の名勝負と言われた2頭の激戦は同着となった。
同着の場合、2頭の所有者が賞金を半分ずつ分け合う事で合意すればそのまま決着するが、同意が得られなかった場合は決勝戦が行われるというルールが当時存在した。これからちょうど10年後の1878年に、独国のバーデン大賞でキンチェムとプリンスジャイルズザファーストが同着となり、その後に決勝戦が実施されたのは有名な話である。そんなわけで同日夕方に決勝戦が行われることが決定したのだが、同着判定から30分後に、2頭の所有者が賞金を山分けする事で合意した事が発表された。ところが何故か決勝戦は予定どおり実施された。しかも本馬は出走せずに、モスレムだけが出るという単走となった。
何故こんな事態になったのかは当時の資料にも明記されておらず、経緯は定かではない。「決勝戦が実施されて、それにモスレムだけが出た」という事を重視すれば、モスレムだけが正式な勝利馬という事になる。そのために冒頭で述べたように、本馬は英2000ギニーの正式な勝利馬ではないとする意見が根強いわけである。“Thoroughbred Heritage”におけるセプター(この馬は紛れもなく英国クラシック競走4勝馬である)の項を見ると、本馬を“she technically won three and a half classics(彼女は厳密に言えば英国クラシック競走を3.5勝しました)”と表現しており、いずれにしても本馬は英国クラシック競走4勝馬として評価されない場合が多いのである。
英2000ギニーの2日後には英1000ギニー(T7F178Y)に出走した。この事実からすると、グラハム氏の脳裏には、本馬を英2000ギニーの決勝戦に出走させて疲労を蓄積させたくなかった考えがあった可能性はある。ここでは本馬が単勝オッズ2.1倍の1番人気に支持され、ミドルパークプレートで本馬に先着する3着だったレディコヴェントリーが単勝オッズ3.75倍の2番人気となった。レースでは本馬が残り1ハロン地点であっさりと抜け出すと後は馬なりのまま走り、2着レディコヴェントリーに3馬身差をつけて勝利した。
競走生活(3歳後半)
英ダービーには出走せず、英オークス(T12F)に向かった。対戦相手は、レディコヴェントリー、アテナ、本馬のデビュー戦を勝利したレディエリザベスなどだった。本馬が単勝オッズ2.375倍の1番人気に支持され、事前調教の動きが良かったレディエリザベスが単勝オッズ4.5倍の2番人気となった。レース当日の朝にエプソム競馬場は雹や雷を伴う暴風雨に襲われた。大雨はレース2時間前まで続いたため、非常に悪化した馬場状態の中でスタートが切られると、本馬陣営が用意したペースメーカー役のジャネットロウクリフという馬が先頭に立ち、本馬はレース中盤まで僚馬を見るように好位を進んだ。そしてタッテナムコーナーを回りながら仕掛けて、直線入り口で先頭に立った。そしてその後は他馬達がまるで後退していくように見えるほど後続馬との差を広げ続け、最後は2着レディコヴェントリーに10馬身差、3着アテナにはさらに6馬身差をつけて大圧勝した。
その僅か11日後にはプリンスオブウェールズS(T13F)に出走した。しかしこのレースでは、本馬が不参戦だった英ダービーでブルーガウンの半馬身差2着だったキングアルフレッドが勝利を収め、モスレムが3着で、本馬は6着に敗れた。それからさらに数日後にはアスコットトリエニアルS(T8F)に出走して、単勝オッズ2.375倍の1番人気に支持されたが、牡馬ヴェールロイヤルの1馬身差2着に敗れた。それでも3着となった後のグッドウッドCの勝ち馬レスティチューションには4馬身差をつけており、そう悪い内容ではなかったようである。
夏場は休養に充て、9月の英セントレジャー(T14F132Y)に直行した。キングアルフレッド、チェスターCを勝っていた同父馬ポールジョーンズ、チェスターフィールドC2着馬マーキュリーなどが対戦相手となった。本馬の鞍上はフォーダム騎手からトム・チャロナー騎手に代わっていたが、それでもキングアルフレッドと並んで単勝オッズ4.33倍の1番人気に支持された。今回は距離を意識したのか過去に出走したクラシック競走に比べるとやや抑え気味に進んだ。そして徐々に位置取りを上げていき、ポールジョーンズ、マーキュリーに次ぐ3番手で直線に入ってきた。マーキュリーの伸びは今ひとつであり、敵はポールジョーンズと見定めたチャロナー騎手は本馬をすぐにポールジョーンズの横につけた。そしてチャロナー騎手が鞭を使う必要もなく競り落とし、最後は2着ポールジョーンズに3馬身差(2馬身差とする資料もある)をつけて快勝。ここに史上初の英国牝馬三冠馬が誕生した。この段階で既に「英国牝馬三冠」なる用語が定着していたのかどうかは調べても良く分からなかったが、ドンカスター競馬場に詰めかけた大観衆は、本馬の勝利を熱狂的に歓迎したと書かれている。
その後は10月のニューマーケットオークス(T14F)に出走して、単勝オッズ3.25倍の1番人気に応えて、2着ニャンザに6馬身差をつけて圧勝。3歳時の成績は7戦5勝(英2000ギニーは勝利としてカウント)だった。
競走生活(4・5歳時)
4歳時も現役を続行し、まずは2月のリンカンシャーH(T8F)から始動したが、5着に敗れた。次走は3月にエプソム競馬場で行われたトライアルSとなった。ここでは、本馬が不参加だった前年の英ダービーの勝ち馬ブルーガウンも出走してきた。レースもこの2頭の接戦となったが、ブルーガウンが勝利を収め、本馬は頭差の2着に惜敗した。5月にバス競馬場で出走したランズタウントライアルSでは単勝オッズ2.75倍の1番人気に応えて、1歳年下の牝馬クラウンプリンセスを2馬身差の2着に破って勝利した。さらに6月にアスコット競馬場で出たトリエニアルSでは、2着レスティチューションに首差で勝利した。
そしてそれから数日後のアスコット金杯(T20F)に出走した。このレースには、ブルーガウンに加えて、直前の英オークスを勝ってきた同父馬ブリガンティンも出走してきた。結果はブリガンティンが2着ブルーガウンを半馬身抑えて勝ち、本馬は3着に敗れた。同月にはストックブリッジC(T6F)に出走したが、前走から一気に距離が3分の1以下になるという無茶な出走計画であり、ガイデイレルの3馬身差2着に敗れた。さらに立て続けにニューマーケット競馬場でハーストボーンCに出走したが、ブリガンティンの2着に敗れた。
7月にはグッドウッド競馬場でベンティック記念S(T29F)に出走した。ここでは単勝オッズ5倍といった程度の評価だったが、本領を存分過ぎるほど発揮し、前年とこの年のグッドウッドCで2年連続2着していたブルースキンを大差(20馬身差とする資料と40馬身差とする資料がある)の2着に葬り去って圧勝した。その後は8月にウェイマウス競馬場で行われたハーマジェスティーズプレートという下級競走に出走して、2着アーリントンに半馬身差で勝利。9月にはドンカスター競馬場でグレートヨークシャーH(T14F132Y)に出走。1年前に楽勝した英セントレジャーと同じコースのレースだったが、ジェアンドバタイユ、アーガイル、ポールジョーンズの3頭の牡馬に屈して、単勝オッズ15.29倍の伏兵ジェアンドバタイユの4着に敗れた。10月にニューマーケット競馬場で出たオールエイジドSでは、本馬が着外に敗れた一昨年のミドルパークプレートで勝ったグリーンスリーヴスに頭差の2着まで食い下がったロージクルーシャンに首差敗れて2着に敗退。11月に出走したリヴァプールオータムC(T12F)では、ラムトン、ココアナッツ、ロペスの3頭に屈して4着に敗れた。4歳時の成績は12戦4勝だった。
5歳時も現役を続行し、まずは5月にチェスター競馬場でトレーズマンズプレート(T18F)に出走した。しかしアワーメアリーアンの2着に敗退。6月にアスコット競馬場で出たゴールドヴァーズ(T16F)では、シデロライトの2着に敗れた。7月にニューマーケット競馬場で出たクイーンズプレートでは、同世代の牝馬ミソティアに10馬身差をつけられて2着に敗れた。あまりにも敗戦が続くので、「彼女は他の多くのバッカニア産駒のような本当の長距離馬ではない」「走るたびにその名声に傷がついている」と世間一般の意見が高まってきた。これには抗しきれなかったようで、グラハム氏は本馬の競走馬引退を決定。5歳時3戦未勝利の成績で競馬場を後にした。
血統
Buccaneer | Wild Dayrell | Ion | Cain | Paulowitz |
Paynator Mare | ||||
Margaret | Edmund | |||
Medora | ||||
Ellen Middleton | Bay Middleton | Sultan | ||
Cobweb | ||||
Myrrha | Malek | |||
Bessy | ||||
Little Red Rover Mare | Little Red Rover | Tramp | Dick Andrews | |
Gohanna Mare | ||||
Miss Syntax | Paynator | |||
Beningbrough Mare | ||||
Eclat | Edmund | Orville | ||
Emmeline | ||||
Squib | Soothsayer | |||
Berenice | ||||
Eller | Chanticleer | Birdcatcher | Sir Hercules | Whalebone |
Peri | ||||
Guiccioli | Bob Booty | |||
Flight | ||||
Whim | Drone | Master Robert | ||
Sir Walter Raleigh Mare | ||||
Kiss | Waxy Pope | |||
Champion Mare | ||||
Tomboy Mare | Tomboy | Jerry | Smolensko | |
Louisa | ||||
Ardrossan Mare | Ardrossan | |||
Lady Eliza | ||||
Tesane | Whisker | Waxy | ||
Penelope | ||||
Lady of the Tees | Octavian | |||
Sancho Mare |
父バッカニアは現役成績19戦11勝、ジュライS・モールコームS・ロイヤルハントC・トライアルSなどの勝ち馬。最も活躍したのは2歳時で、同世代の2歳馬では最良の馬と言われた。基本的にスピードに長けた馬だったらしく、3歳初戦でありながら人気を集めた英ダービーでは7着に敗れている。欠点が無いと評された見事な馬体の持ち主だったが、その気性の激しさでも有名だった。種牡馬としては当初英国で供用されたが、8歳時の1865年(本馬が誕生した年である)の繁殖シーズン終了後にハンガリーに輸出された。3年後の1868年には本馬の活躍により、ストックウェルの5連覇を阻止して英首位種牡馬を獲得。これがヘロドの直系としては史上最後の英首位種牡馬獲得となった。ハンガリーでは種牡馬として大成功し、同国の首位種牡馬に15回、独首位種牡馬にも4回輝いている。1876年にはハンガリーで誕生した産駒のキシュベルが英ダービーとパリ大賞を制し、その能力の高さをまざまざと見せつけた。自身はマイラーだったと評されているが、産駒は長距離色が強かった。バッカニアの父ワイルドデイレルは英ダービー馬。遡ると、英ダービー・英セントレジャー2着馬アイオン、ケイン、パウロウィッツ、サーポールを経てサーピーターティーズルに行きつくヘロド系である。
母エラーは競走馬としては1勝だけしている。1859年の英オークスにも出走しているが、自身の姪に当たるサマーサイドの6着に敗れており、それほど優れた競走成績を挙げた馬では無い。エラーの半姉にはエラーデール(父ラナーコスト)【ジムクラックS・パークヒルS】がいる。そのエラーデールの子にはエリントン【英ダービー・英シャンペンS】、ギルダーマイア【英シャンペンS】、サマーサイド【英オークス】がいる。エラーデールの牝系子孫はそれほど発展したわけではないが、ローズダモール【豪シャンペンS・AJCサイアーズプロデュースS・クラウンオークス】、グランプリ【VRCサイアーズプロデュースS・豪シャンペンS】、米国顕彰馬ローマー【サラトガスペシャルS・カーターH・ブルックリンダービー・トラヴァーズS】、エイプリルザフィフス【英ダービー】、フォーマルゴールド【ドンH(米GⅠ)・ウッドワードS(米GⅠ)】などが出ており、今世紀も何とか残っている。エラーの1歳年上の半姉タンストールメイド(父タッチストン)の孫にはマンティラ【モルニ賞・サラマンドル賞・仏グランクリテリウム】、イヴォワール【ロワイヤルオーク賞・カドラン賞】がいるが、この牝系は廃れている。→牝系:F18号族
母父シャンティクリアはバードキャッチャー産駒で、ドンカスターCの勝ち馬。
競走馬引退後
競走馬を引退した本馬は、グラハム氏が所有する牧場で繁殖入りした。1876年1月にグラハム氏が死去すると売りに出され、同年8月にトーマス・ジー氏という人物により2700ギニーで購入されて、デューハーストロッジスタッドに移り住んだ。しかしその後2年続けて不受胎となったために1879年に再度売りに出され、仏国のM・ルフェーブル氏という人物により1000ギニーで購入されて、仏国に移り住んだ。そして1881年2月に16歳で他界した。
母としては7頭の子を産んだが、全体的にその競走成績は芳しくなく、最後の子となった仏国産の牝駒フォーマライト(父ハーミット)がラクープを勝ったのが目立つ程度である。牝系子孫は、現役時代に対戦経験があるロージクルーシャンとの間に産んだ3番子の牝駒プルクラが輸出先の新国で伸ばすことに成功した。その子孫からは、パディイヴ【クイーンズランドダービー】、パルファー【コーフィールドギニー】、ワイカレ【クイーンズランドダービー・ザメトロポリタン】、トゥルーネス【VRCサイアーズプロデュースS】、トパロア【メルボルンC】、トシング【ドゥーンベンC】、バードウッド【オークレイプレート・ニューマーケットH】、バックケア【WATCダービー】、アレビジュー【ローソンS(豪GⅠ)】、シーブリガンド【サウスオーストラリアンダービー(豪GⅠ)】、アヴェドン【新2000ギニー(新GⅠ)・ベイヤークラシック(新GⅠ)・ワイカトドラフトスプリント(新GⅠ)】、オールドマネー【WATCダービー(豪GⅠ)】、日本でもスカイリーダ【京都記念2回・大阪杯】、フミノアプローズ【きさらぎ賞(GⅢ)】などが出ており、辛うじて今世紀まで牝系を維持している。それ以外には、6番子の牝駒プルケリマ(父ビーズマン)の子にポトリンポス【独ダービー】がいる。