ブルーガウン

和名:ブルーガウン

英名:Blue Gown

1865年生

鹿毛

父:ビーズマン

母:バスブルー

母父:ストックウェル

同世代同馬主馬の3番手評価だったが3歳時に急成長して英ダービー・アスコット金杯を制覇するも、最後は大嵐により大西洋上でその命を散らす

競走成績:2~5歳時に英仏独で走り通算成績34戦22勝(入着回数は不明。異説あり)

誕生からデビュー前まで

名馬テディントンや父ビーズマンなどの所有者で、最終的に英国クラシック5競走全てを制覇する名馬主・第3代准男爵ジョセフ・ヘンリー・ハーレイ卿により生産・所有された。馬名は、当時スコットランドの救貧院に入っている人が托鉢をする際に身に纏った青いガウンの意味で、父ビーズマン(Bedesman)が英語で「救貧院(又は救貧院に入っている人)」を意味する事と母バスブルーの名前から連想して命名された。成長後の体高は15.3ハンドと背が高い馬ではなく、脚が短く、よく言えばコンパクトにまとまった馬体の持ち主だった。気性は至って穏やかだったという。

競走生活(2歳時)

ジョン・ポーター調教師に預けられた本馬は、2歳春に競走馬としてデビューした。初戦はアスコット競馬場で出走したサニングヒルSで、デビュー戦勝ちを収めた。その後はバス競馬場でウェストンSに出走したが、後にニューSを勝つ牝馬レディエリザベスの3着に敗れた。次走は6月にアスコット競馬場で行われたファーンヒルS(T4F)となった。古馬相手のレースだったが、本馬が勝利を収めた。その後はしばらく休養を取り、9月にドンカスター競馬場で行われた英シャンペンS(T8F)で復帰した。ここでは2位入線の牝馬ヴァーチュに半馬身差をつけてトップゴールした。ところが本馬に騎乗していたジョン・ウェルズ騎手が、レース後の検量で規定より2ポンド重量超過したため、本馬は失格となってしまった。同月にはドンカスター競馬場でスウィープSに出走したが、最下位に敗退。

次走は公式戦では無く、10月に行われた、ハーレイ卿が所有する牡馬ロージクルージャン、牝馬グリーンスリーヴの2頭との試走だった。本馬を含むこの3頭は世代が同じであるだけでなく、父親も同じビーズマンだった。結果はロージクルージャンが再先着し、この段階では公式戦未出走だったグリーンスリーヴが2着で、本馬は最下位だった。ロージクルージャンは後にクリテリオンS・クイーンアレクサンドラプレート・アスコットSを勝つ馬(名馬サルダナパルの祖母の父にもなる)で、後に数々の名馬を手掛けたポーター師をして「オーモンドを除けばロージクルージャンが最も優れた馬でした」とまで言わしめた素質馬だった。そしてグリーンスリーヴは同月中に出走したミドルパークプレートで、そのロージクルージャンを2着に破って勝利する馬だった。したがって確かに相手も手強かったが、この試走における斤量は本馬よりロージクルージャンのほうが6ポンド重く、これで先着されたのだから、この時点における本馬の実力はハーレイ卿が所有する2歳馬の中では3番手という事が立証されてしまった。試走を走ったこの3頭は揃ってニューマーケット競馬場に向かった。グリーンスリーヴとロージクルージャンは前述のとおりミドルパークプレートに出走したが、他2頭より実力下位とみなされた本馬はクリアウェルSに回った。ここでは馬なりのまま走り、2着セントロナンに1馬身半差をつけて勝利した。2歳時の成績は6戦3勝だった。

競走生活(3歳時)

3歳になった本馬は、相変わらずハーレイ卿が所有する同世代馬の中では3番手扱いだった。グリーンスリーヴとロージクルージャンは英2000ギニーに出走したのだが、本馬は参戦させてもらえなかった。本馬の3歳時は春先にニューマーケット競馬場で行われたバイエニアルSから始まり、ジアールという馬と同着で勝利した。実はこのジアール、後にパリ大賞・セントジェームズパレスS・アスコットダービーを勝っており、かなりの実力馬だった。なお、“Thoroughbred Heritage”には本馬の3歳初戦は2着と書かれている事から、決勝戦が実施されて本馬が敗れたか不参戦だったかのいずれかだった可能性もあるが、状況が判然としないので本項では1着として扱う。本馬はその後に下級競走に2回出走して2回とも勝利を収めた。

グリーンスリーヴとロージクルージャンの2頭が英2000ギニーで揃って凡走した事もあり、本馬は英ダービーには出走させてもらえることになった。しかしハーレイ卿は未だに本馬を3番手扱いしていた。その理由は、英ダービーの前に本馬とロージクルージャンを試走させてみたところ、冬場に馬インフルエンザに罹ったために本調子ではなかったロージクルージャンが先着したからでもあった。しかしその事実を知らない世間一般の本馬に対する評価は3歳時の3戦で急上昇していた。前年の英シャンペンSで失敗を仕出かしたウェルズ騎手は、グリーンスリーヴやロージクルージャンに騎乗する事も可能だったが、本馬に乗る事を選んだ。

こうして迎えた英ダービー(T12F)では、本馬は単勝オッズ4.5倍で18頭立ての1番人気の評価を受けることになった。レース前の返し馬で、本馬は小柄な馬体が大きく見えるほど大跳びで堂々と走り、見る者に感銘を与えた。幾度かのフライングの後に正規のスタートが切られると、ウェルズ騎手は本馬を逃げ馬の直後につけた。そしてそのままの位置取りでタッテナムコーナーを回り、3番手で直線に入ってきた。前方では人気薄のクリテリオンS3着馬キングアルフレッドが逃げ粘っていた。しかし残り1ハロン地点でキングアルフレッドに追いついた本馬が、叩き合いを半馬身差で制して優勝。3着には前月のシティ&サバーバンHを古馬相手に勝ってきたスペキュラムが入り、ロージクルージャンは5着、グリーンスリーヴは9着に終わった。ハーレイ卿はこれで英ダービー4勝目を挙げたが、本馬を軽視していた彼は本馬ではなくロージクルージャンに賭けており、そのせいで損害を被ったと伝えられている(英ダービーの優勝賞金より多い損害だったかどうかは不明)。

その後は翌月のアスコット金杯(T20F)に出走した。このアスコット金杯は言うまでもなく当時の英国古馬路線の最高峰に位置する大競走だった。ところがこの年の出走馬は、本馬、キングアルフレッド、スペキュラムの英ダービー上位3頭だけであり、古馬は1頭もいなかった。18頭立てだった英ダービーと異なり3頭立てで距離も大きく違っていたが、結果はたいして英ダービーと変わらなかった。キングアルフレッドとスペキュラムの順位が逆になっただけで、本馬が勝利を収めた。

その後はしばらく休養を取り、秋にドンカスター競馬場に向かった。当然目的は英セントレジャーと思われるかもしれないが、どうやら本馬は英セントレジャーの登録が無かったようで、出走したのはフィッツウィリアムS(T6F)だった。結果は本馬が勝利を収めた。その後はシザレウィッチH(T18F)に出走した。しかし123ポンドを課せられた本馬は、斤量80ポンドの3歳牡馬セシルの着外に敗れてしまった。次走のケンブリッジシャーH(T9F)では、前走の敗戦にも関わらず斤量がさらに増えて126ポンドとなった。ここでは斤量114ポンドのシーソーという3歳牡馬が勝利を収め、本馬は1馬身半差の2着だった。それでも、3着となった斤量107ポンドの3歳牡馬マーキュリー(前月の英セントレジャーでフォーモサの3着していた)には3馬身差をつけており、実力を見せることは出来た。その後はニューマーケットフリーH(T10F)に出走して勝利。その後にもさらに2戦したがいずれも対戦相手がいなかったために単走で勝利を収めた。3歳時の成績は11戦9勝だった。

競走生活(4・5歳時)

4歳時は、4月にニューマーケット競馬場で行われたクレイヴンS(T8F)を単走で勝利。エプソム競馬場で出走したトライアルSも勝ち、ニューマーケット競馬場で出走したバイエニアルS、ウィンチェスター競馬場で出走したクイーンズプレートも勝利した。そして2連覇を目指してアスコット金杯(T20F)に出走したのだが、英オークスを勝ってきた3歳牝馬ブリガンティンの2着に敗れた。グッドウッド競馬場で出走したクレイヴンSでは、4月にニューマーケット競馬場で出走したクレイヴンSと異なり3頭の対戦相手がいたのだが、本馬が勝利を収めた。ブライトン競馬場で出走したシャンペンSも勝利した。4歳暮れに本馬は仏国の馬主団体により5千ギニーで購入され、仏国に移籍した。4歳時の成績は10戦8勝だった。

本馬を購入した馬主団体は仏国の大競走への出走を目標としたのだが、しかし仏国では5歳時にリヨン競馬場で出走したレースで着外に終わった1戦しかしなかった。6月には独国ハンブルグ競馬場でヘンケル賞に出走して、ここでは単勝オッズ1.1倍の1番人気に応えて勝利を収めている。5歳後半には英国に戻り、5つの競走に出走したが、ニューマーケット競馬場で行われた下級ハンデ競走で1勝を挙げたのみに留まり、他にはリンカーン競馬場で出走したクイーンズプレートで3着したのが目立つ程度だった。この年限りで競走馬を引退した。5歳時の成績は7戦2勝だった。

1886年6月に英スポーティングタイムズ誌が競馬関係者100人に対してアンケートを行うことにより作成した19世紀の名馬ランキングにおいては、第30位にランクインした。

血統

Beadsman Weatherbit Sheet Anchor Lottery Tramp
Mandane
Morgiana Muley
Miss Stephenson
Miss Letty Priam Emilius
Cressida
Orville Mare Orville
Buzzard Mare
Mendicant Touchstone Camel Whalebone
Selim Mare
Banter Master Henry
Boadicea
Lady Moore Carew Tramp Dick Andrews
Gohanna Mare
Kite Bustard
Olympia
Bas Bleu Stockwell The Baron Birdcatcher Sir Hercules
Guiccioli
Echidna Economist
Miss Pratt
Pocahontas Glencoe Sultan
Trampoline
Marpessa Muley
Clare
Vexation Touchstone Camel Whalebone
Selim Mare
Banter Master Henry
Boadicea
Vat Langar Selim
Walton Mare
Wire Waxy
Penelope

ビーズマンは当馬の項を参照。

母バスブルーの競走馬としての経歴は不明。本馬の全姉ブルーガーターの子にブルーモンキー【独2000ギニー】、曾孫にタイタン【オークレイプレート・VRCサイアーズプロデュースS・AJCサイアーズプロデュースS・トゥーラックH】、トリエステ【AJCオークス】、玄孫世代以降にレベニュー【メルボルンC・AJCサイアーズプロデュースS】、カーリタ【ローズヒルギニー・クラウンオークス・ヴィクトリアダービー】、フランセストレッサディ【クラウンオークス・ヴィクトリアダービー】、パゴパゴ【AJCサイアーズプロデュースS・ゴールデンスリッパー】、クラフツマン【ヴィクトリアダービー・オーストラリアンC2回】、マジックフルート【MRC1000ギニー(豪GⅠ)・ドンカスターマイル(豪GⅠ)】、サバンナサクセス【新オークス(新GⅠ)・アンセットオーストラリアS(豪GⅠ)】、ヴェンジェンスオブレイン【クイーンエリザベスⅡ世C(香GⅠ)・香港C(香GⅠ)・ドバイシーマクラシック(首GⅠ)】、サヴァビール【コックスプレート(豪GⅠ)・スプリングチャンピオンS(豪GⅠ)】などが、本馬の半妹ニルガウ(父ムスジド)の牝系子孫にウィークエンドディライト【クラウンオークス(豪GⅠ)】、ティアーズアイクライ【エミレーツS(豪GⅠ)】などが、本馬の半妹ソーサリス(父ロージクルージャン)の曾孫にザヴィクトリー【メルボルンC・AJCプレート】、アスカロン【ロベールパパン賞】、玄孫世代以降にワットアニューサンス【メルボルンC(豪GⅠ)】などがおり、オセアニアの活躍馬が非常に目立っている。

バスブルーの半妹コロンバ(父チャールストン)の子にロブロイ【ニューS】、曾孫にドージュ【パリ大賞】、玄孫世代以降にモーヴィック【ケンタッキーダービー・サラトガスペシャルS・ホープフルS・ピムリコフューチュリティ】がいる。母系を遡ると根幹種牡馬ホエールボーンの全妹ワイヤーに行きつくことが出来る。→牝系:F1号族③

母父ストックウェルは当馬の項を参照。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬はすぐにオーストリア・ハンガリー帝国に輸入されて種牡馬入りした。本馬は彼の地で種牡馬として成功し、複数の活躍馬を出した。14歳時の1879年には墺首位種牡馬に輝いた。この前年に本馬は英国に買い戻されていた。当時の英国競馬界ではヒューム・ウェブスター氏という人物が、ブレアアソール、ジョージフレデリック、マカロニといった英ダービー馬や、本馬をケンブリッジシャーHで2着に破ったシーソーといった有力種牡馬をかき集めようとしており(マカロニの入手には失敗した模様だが)、本馬にもその一環として白羽の矢が立ったのだった。英国に戻ってきた本馬は、英国サウスイースト州サリーにあるマーデンディアパークスタッドにおいて、同1879年から種付け料50ギニーで種牡馬供用された。

しかし本馬が英国で種牡馬として暮らした期間は僅か2年だった。ウェブスター氏は自身の生産馬を英国外に販売する事を得意技としており、英国外の馬主とも付き合いが深かった。その中の1人に米国の投資家ジェームズ・R・キーン氏がいた。後に米国有数の名馬主となるキーン氏はこの4年前の1876年に馬主業を開始したばかりであり、自分でも馬産活動を行うつもりで本馬に目をつけたのだった。そして1880年の繁殖シーズン終了後、キーン氏により13300ポンド(約2万ドル)で購入された本馬は渡米する事になった。

こうして本馬は蒸気船に乗って大西洋を渡ることになったのだが、その途中の11月25日、本馬が乗った船は大嵐に襲われた。沈没は免れたものの、舵を始めとする船体各部は大きく損傷した。沈没を避けるために悪戦苦闘した乗組員が一息ついて本馬がいた小屋を覗いてみると、本馬は息絶えていた。あまりにも船体が揺れたために馬体が小屋の壁に容赦なく叩きつけられた結果として内臓破裂を起こしたのが死因のようである。資料によると遺体は海に捨てられたと書かれている。これだけ読めばなんて酷い事をしたのかと憤慨されるかもしれないが、それは早計である。そのまま遺体を米国に運ぶという行為は、腐敗した遺体から菌が繁殖するため衛生上の理由で望ましくなかった。現在の日本においても、こうした衛生上の問題などの正当な理由があればいくつかの条件を満たした上で、海洋上で死去した人間の遺体を水葬する事が法律で認められている。当時の乗組員達も、止むを得ず本馬の遺体を海に流したと考えるのが妥当である。

オーストリア・ハンガリー帝国では種牡馬として成功した本馬だが、供用期間が短かった英国では活躍馬を出すことは出来ず、直系も伸ばせなかった。本馬の血を引く馬は東欧やロシアで僅かに残っている模様であるが、活躍馬は出ていない。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1872

Germania

独オークス

1874

Zutzen

独2000ギニー

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