オーモンド

和名:オーモンド

英名:Ormonde

1883年生

鹿毛

父:ベンドア

母:リリーアグネス

母父:マカロニ

英国三冠競走全制覇など生涯16戦無敗の戦績を誇り、19世紀のみならず全時代を通じて最高の名馬と賞賛されたが、種牡馬としては各地を流浪する

競走成績:2~4歳時に英で走り通算成績16戦16勝

誕生からデビュー前まで

史上4頭目の英国三冠馬であり、生涯一度も敗れたことがないという19世紀屈指の名馬。英国イートンスタッドにおいて、父ベンドアの所有者でもあった初代ウェストミンスター公爵ヒュー・グローヴナー卿により生産・所有された。産まれたのは1883年3月18日の夕方6時半であると資料にある(この時代の競走馬は誕生日さえも記録に残っていない事が多いが、本馬の場合は時間帯まで記録に残っている)。

通常、サラブレッドの妊娠期間は11か月間だが、本馬は母リリーアグネスの胎内で12か月間過ごした。そのためかどうかは分からないが、幼少期から膝が極端に湾曲しており、イートンスタッドの運営者リチャード・チャップマン氏は、競走馬にはなれそうに無いとグローヴナー卿に伝えたという。その後に湾曲はある程度解消されたらしく、競走馬にはなれそうにないという発言はやがて撤回されたようであるが、脚が真っ直ぐになる事が見込めない状態には変わりが無かった。

また、本馬はかなり成長が遅い馬だったようであるが、それでも1歳時から本馬を預かったジョン・ポーター師は「貴方から任された1歳馬の中では最良の馬です」とグローヴナー卿に伝えたという。しかし1歳の冬に膝を痛めてしまい、2歳夏までまともに調教する事が出来なかった。

ようやく調教が開始されて競走馬デビューを控えていた時期、ポーター師は本馬を同世代のケンダル(本馬の近親でもあり、後に英国三冠馬ガルティモアを出して英愛首位種牡馬となっている)、ウィッパーイン、ホワイトフライアーの3頭と試走させた。結果は本馬より斤量が1ポンド軽かったケンダルが本馬に1馬身差をつけて先着したが、この時点で既にケンダルはジュライS勝ちなど何度も公式戦を走っており、本馬はデビュー前から経験豊富な馬と互角に戦った事にはなる。

成長が遅かった本馬だが、この頃には体高は16ハンドに達し、非常に筋肉質な馬体に変貌していた。ポーター師は「私がかつて見た中で最も素晴らしい筋肉の持ち主でした」と語っており、本馬は後に“a Racing Machine”の異名を戴くこととなる。歩く時はそれほど印象的な動きではなかったが、いざ走る段になると頭をやや低くして大跳びの力強い走りを披露した。本馬に何度か試しに乗ってみたグローヴナー卿は「頭を撃たれたような衝撃を感じました。この馬の推進力は実に猛烈でした」と述懐している。気性は父ベンドアに似て穏やかだったという。食欲旺盛で好き嫌いなく何でも食べた。また、花が大好きで、身近な人間が花を所持しているとそれをひったくって嬉しそうにしていたという。

競走生活(2歳時)

2歳10月にニューマーケット競馬場で行われたポストS(T6F)で公式戦デビューを迎えた本馬は、このレースで早速、2歳時にグレートチャレンジS勝ちなど10戦8勝の成績を残す事になる牝馬モドウェナ(名馬ドノヴァンの全姉)という強敵と対戦する事になった。モドウェナが単勝オッズ1.83倍の1番人気に支持され、本馬は単勝オッズ2.25倍の2番人気だったが、重馬場の中を先頭で走り抜け、モドウェナを1馬身差の2着に退けて勝利した。

次走のクリテリオンS(T6F)では、オベロンや後のジュライC勝ち馬メフィストといった馬が相手となったが、単勝オッズ1.67倍の1番人気に支持された本馬がオベロンを3馬身差の2着に下して楽勝した。

続くデューハーストプレート(T7F)では、主戦となるフレッド・アーチャー騎手とコンビを組んだ。後にオールエイジドSを2連覇する同厩馬ホワイトフライアーや、後に英1000ギニー・英オークス・パークヒルS・ナッソーSを勝つ名牝ミスジャミーなどが対戦相手となったが、本馬が単勝オッズ1.36倍の1番人気に支持された。スタートから逃げ馬を見るように先行した本馬は、アーチャー騎手が仕掛けると鋭く反応し、2着ホワイトフライアーに4馬身差をつけて快勝した。

2歳時3戦無敗の成績を残した本馬だが、この年の2歳馬は16戦全勝の成績を誇ったザバードを筆頭に、英シャンペンS・ミドルパークプレートを勝ったミンティング、ニューSの勝ち馬サラバンド(名牝プリティポリーの母父)など数々の有力馬がひしめきあっており、2歳馬としては史上最高の世代という誉れが高かったため、まだ本馬は誰もが認める世代最強という評価を得るには至らなかった。それでも翌年の英ダービーの有力候補の1頭ではあり、英ダービーの前売りオッズは6.5倍でザバード、ミンティング、サラバンドの3頭とほぼ横並びだった。

競走生活(3歳前半)

3歳時は4月の英2000ギニー(T8F17Y)から始動した。6頭立てのこのレースにはザバードこそ不在だったが、ミンティング、サラバンドの2頭が出走しており、本馬と合わせて3強対決と目された。ミンティングが単勝オッズ2.1倍の1番人気に支持され、サラバンドが単勝オッズ4倍の2番人気、本馬が単勝オッズ4.5倍の3番人気だった。アーチャー騎手がサラバンドに騎乗したため、本馬にはジョージ・バレット騎手が騎乗した。

レースは当初各馬が横一線になって進んだが、2ハロン経過地点でサラバンドが遅れ始め、本馬とミンティングの2頭が抜け出した。最後はこの2頭による一騎打ちとなったが、本馬がミンティングを2馬身差の2着に下して勝利した。3着のメフィストはミンティングからさらに10馬身差をつけられており、サラバンドはさらに2馬身後方の4着でゴールインした。この勝ち方により、本馬は英ダービーの最有力候補に躍り出た。

この直後の6月に英スポーティングタイムズ誌が競馬関係者100人に対してアンケートを行うことにより作成した19世紀の名馬ランキングにおいては、早くも第9位にランクインした。

次走の英ダービー(T12F29Y)ではミンティングは不在だった(渡仏してパリ大賞を圧勝している)が、代わりに今度はザバードが本馬の対戦相手となった。アーチャー騎手が再び鞍上に戻った本馬が単勝オッズ1.47倍の1番人気に支持され、ザバードが単勝オッズ4.5倍の2番人気だった。

9頭立てで行われたレースは人気薄のコラクルが後続を6馬身ほど引き離す逃げを打ったが、タッテナムコーナーで本馬とザバードが進出して先頭に立った。そして直線ではこの2頭による一騎打ちとなった。ザバードがいったんは首差ほど前に出たが、アーチャー騎手が送った合図に反応した本馬が差し返し、ザバードを1馬身半差の2着に退けて勝利した(3着セントミリンはザバードから10馬身後方だった)。

次走のセントジェームズパレスS(T8F)では3頭立てとなり、本馬が単勝オッズ1.03倍という圧倒的な1番人気に応えて、2着カライスに3/4馬身差で勝利した。

その僅か3日後には古馬相手のハードウィックS(T12F)に出走。このレースには前年の英ダービー・英セントレジャーを筆頭にミドルパークプレート・ニューS・クリテリオンS・グレートフォールSを勝っていたメルトンが出走しており、本馬だけでなく本馬の同世代のレベルが試される一戦となった。しかし単勝オッズ1.3倍の1番人気に支持された本馬が、単勝オッズ4.5倍の2番人気だったメルトンを直線で並ぶ間もなく差し切り、2馬身差をつけて勝利を収めた。ただし斤量はメルトンの136ポンドに対して本馬は120ポンドであり、本馬のほうが16ポンド軽かった。なお、基礎資料においてこのレースにおける本馬の単勝オッズは4.33倍(10/3)となっているが、これはおそらく記載誤りで1.3倍(30/100)が正しいと思われる。

競走生活(3歳後半)

その後は秋の英セントレジャーに向けて休養したが、この時点で既に英セントレジャーにおける本馬の前売りオッズは1.5倍という低さになっていた。そして迎えた英セントレジャー(T14F132Y)では、単勝オッズは1.14倍まで下がっていた。しかし実はこのレースの数日前に行われた朝の調教時に、本馬が口笛のような雑音を発する事にポーター師は気付いていた。後に本馬を悩ませる喘鳴症の症状が現れていたのである。しかしレースでは何の影響も無いような走りを見せ、アーチャー騎手が少しの努力をする事も無く2着セントミリンに4馬身差をつけて完勝し、1866年のロードリオン以来20年ぶり史上4頭目の英国三冠馬となった。デビューから無敗で英国三冠馬となったのは本馬が史上初である。

次走のグレートフォールS(T12F)では131ポンドが課せられたが、単勝オッズ1.67倍の1番人気に支持された。そして7ポンドのハンデを与えたメフィストを3馬身差の2着に退けて楽勝した。続くニューマーケットセントレジャー(T14F)では対戦相手が現れなかったため、単走で勝利した。次走の英チャンピオンS(T10F)では単勝オッズ1.01倍という究極の1番人気に支持され、2着オベロンに1馬身差で勝利した。次走のニューマーケットフリーH(T12F)では128ポンドのトップハンデながら単勝オッズ1.14倍の1番人気に支持され、28ポンドのハンデを与えたメフィストを8馬身差の2着に下して圧勝した。

次走は、英ダービー2着後にグッドウッドCを勝っていたザバード、ハードウィックS2着後にジュライCを勝っていたメルトン、この年の第1回エクリプスSを筆頭にケンブリッジシャーH・リンカンシャーH・ハードウィックSを勝っていたベンディゴとの4頭マッチレースの舞台として用意されたプライベートスウィープSとなった。しかしベンディゴは結局このレースに招待されず、ザバードとメルトン陣営は揃って罰金を払って回避したため、唯一の出走馬となった本馬が単走で勝利。3歳時はこれが最後のレースで、この年は10戦全勝の完璧な成績を残した。

しかし本馬の主戦だったアーチャー騎手がプライベートスウィープSから間もない11月に自殺するという悲劇が発生した。この経緯を簡単に述べると、彼は2年前に生後間もない長男と結婚2年目の妻を相次いで失ったために精神を病んでいた。また、178cmの長身だった彼は当時減量に苦しんでいたが、ケンブリッジシャーHに斤量118ポンドで出走するセントミリンに騎乗するために無理な減量を行った。そのために体調を崩して高熱を発症し、錯乱して発作的に自らの頭部を拳銃で撃ち抜いたとされる。さらに本馬の喘鳴症の症状も確実に悪化しており、シーズン終了頃には“a Roarer(吠える者)”と呼ばれるほどだった。

競走生活(4歳時)

それでも4歳時も現役を続行。毎日のように胸と喉に直流電気を流すという、効果があるのか無いのかよく分からない実験もどきの治療を受けながらの現役続行だった。また、亡きアーチャー騎手の代わりにトム・キャノン騎手が本馬の主戦を務める事になった。

復帰戦は6月にアスコット競馬場で行われたロウス記念S(T8F)だった。強敵はこの年の英セントレジャーで致命的な出遅れを犯しながら勝利する事になる3歳馬キルワーリンだった。斤量は本馬の132ポンドに対してキルワーリンは107ポンドしか無く、その差は実に25ポンドもあった。キルワーリンの所有者だったジェームズ・オクタヴィウス・マーケル大尉(「英国競馬史上最も優れた出走計画立案人の一人」と言われていた人物で、かつては英ダービー馬ハーミットを、後には英国三冠馬アイシングラスのレースプランを担当している)はポーター師に対して「25ポンドものハンデが無くてもキルワーリンが勝つ」と言い放った。しかし蓋を開けてみれば、単勝オッズ1.25倍の1番人気に支持された本馬がスタートからレースを支配して、キルワーリンを6馬身差の2着に下して圧勝した(公式着差は6馬身差だが、ポーター師を始めとして12馬身差はついていたと主張する人が多かったという)。レース後にポーター師から「今のお気持ちはどうですか」と意地悪く聞かれたマーケル大尉は「オーモンドは馬ではなく、蒸気機関車だ」と応じた。

この翌日にはハードウィックS(T12F)に出走。ここでは、前年のパリ大賞勝利後に故障でしばらく休養していたが直前のアスコットジュビリーSを勝利して復活してきたミンティング、キルワーリンの半兄でもあるベンディゴの2頭が本馬の強敵として立ち塞がった。ミンティングを管理していたマット・ドーソン師は、本馬の喘鳴症の悪化具合からして今回こそミンティングが勝つと確信して愛馬を送り出した。また、ポーター師も今回ばかりは本馬はミンティングに負けるかもしれないと思っていたという。本馬は1番人気には支持されたが、不安を指摘する意見が多かったために単勝オッズは1.8倍止まり(これでも英ダービー以降では最も高い数値である)だった。ミンティングが単勝オッズ2.75倍の2番人気で、アスコットジュビリーSでミンティングに敗れていたベンディゴは単勝オッズ13.5倍の3番人気だった。

出走馬は本馬を含めて4頭だったが、かつて英2000ギニーを本馬で制したバレット騎手がこの年の英2000ギニー2着馬フィルに騎乗して本馬の進路を徹底して塞ぎにかかった。最後の直線では、キャノン騎手が鞭を使用して何とかフィルの妨害をかわした本馬とミンティングの叩き合いとなり、そこに後方からベンディゴも襲い掛かってきた。しかし本馬が2着ミンティングに首差、3着ベンディゴにさらに3馬身差をつけて勝利した。本馬の現役時代において唯一全力で走ったのがこのレースだったとされている。ゴール前の激戦中は静寂に包まれていたアスコット競馬場内は、本馬の勝利を見届けると大歓声に包まれ、観衆は本馬が厩舎に戻るまで拍手を続けた。ポーター師は「かつて競馬場で見られた最も熱狂的な光景でした」と語った。

翌月にはインペリアル金杯(T6F・現ジュライC)に出走し、単勝オッズ1.03倍の1番人気(基礎資料は1.03倍(3/100)で、他の資料には1.3倍(30/100)とあるが、今回は基礎資料のほうが正しそうである)に応えて、2着ホワイトフライアーに2馬身差で勝利した。このレースを最後に4歳時3戦全勝の成績で競走馬生活に終止符を打った。レース後にはヴィクトリア女王の誕生祭に主賓として招待された。

競走馬としての評価

三冠馬の同世代馬は弱いと言われる事が多いが、本馬の場合は当てはまらず、ザバードやミンティングはいずれも英ダービーに10回出れば9回は勝てると言われたほどの器だった。これら同世代の強豪馬に加えて、上下の世代のトップクラスとも戦いながら、16戦して遂に一度も敗れる事は無かった本馬は、19世紀のみならず全時代を通じて最も偉大なサラブレッド競走馬の1頭であると一般的に言われており、“Horse of the Century”の異名で呼ばれた。他馬を引き離して勝つ事はそれほど多くなく、同じ19世紀の名馬であるグラディアトゥールセントサイモンより勝ち方の派手さでは劣るが、競走馬の実力は着差だけでは計れない。英国三冠を含む16戦無敗という成績を残した安定感、叩き合いの強さ、逃げても差しても勝てる自在性、従順な気性など、競走馬としての総合力において本馬はほぼ完璧である。健康面の問題が唯一の欠点だが、それが原因で目標のレースに出走できなかったり敗れたりした事は無いため、本馬はサラブレッドの理想形に最も近い馬であると言える。「勇気と光輝に包まれた馬」と評されたのも頷ける話である。

血統

Bend Or Doncaster Stockwell The Baron Birdcatcher
Echidna
Pocahontas Glencoe
Marpessa
Marigold Teddington Orlando
Miss Twickenham
Ratan Mare Ratan
Melbourne Mare
Rouge Rose Thormanby Windhound Pantaloon
Phryne
Alice Hawthorn Muley Moloch
Rebecca
Ellen Horne Redshank Sandbeck
Johanna
Delhi Plenipotentiary
Pawn Junior
Lily Agnes Macaroni Sweetmeat Gladiator Partisan
Pauline
Lollypop Voltaire
Belinda
Jocose Pantaloon Castrel
Idalia
Banter Master Henry
Boadicea
Polly Agnes The Cure Physician Brutandorf
Primette
Morsel Mulatto
Linda
Miss Agnes Birdcatcher Sir Hercules
Guiccioli
Agnes Clarion 
Annette

ベンドアは当馬の項を参照。

リリーアグネスは当馬の項を参照。→牝系:F16号族①

母父マカロニは当馬の項を参照。

競走馬引退後:英国→亜国→英国→米国と各国を転々とする

競走馬を引退した本馬は、生まれ故郷のイートンスタッドで種牡馬入りした。しかし授精率が悪く、初年度は16頭の繁殖牝馬と交配して誕生した産駒は7頭だった。グローヴナー卿は既にベンドアという有力種牡馬を所有していたため、本馬は2年目にジェラード卿にリースされてモールトン牧場で供用された。しかし本馬は体調を崩してしまい、この年はほとんど交配する事ができず、産駒数は僅か1頭だった。その後イートンスタッドに戻って体調は回復したが、それから間もなくして本馬は1万2千ポンドで亜国の馬産家フアン・サルバドール・ブコー氏に売却された。本馬が亜国へ輸出されるという報を耳にした英国民は仰天したという。

本馬を亜国へ輸出した理由についてグローヴナー卿は、喘鳴症を患っていた本馬の血が英国内に広まる事を避けたかったのと、健康不安を抱えていた本馬にとっては亜国の温暖で乾燥した気候で過ごすほうが望ましいと判断したためであると語った。それも確かに理由ではあっただろうが、本馬の授精率の悪さも大きな要因だった事はほぼ間違いないだろう。また、グローヴナー卿はベンドアが本馬を出して成功したのを見届けると、ベンドアの父ドンカスターをオーストリア・ハンガリー帝国に輸出したという経歴があり、所有する馬を海外に輸出する事には抵抗が無い人物だったようである。

6歳夏の間中、海外旅行に適応させるために毎日5~6時間の歩行運動を続けた本馬は、秋に亜国へ向かって旅立った。無事にブエノスアイレスの港に到着した本馬は船から降りてくると、ここに我ありと言わんばかりに大声で嘶いたという。本馬が英国に残した産駒は僅か8頭(本馬とメルトンのどちらが父か分からないジュライC勝ち馬ベストマンを除く)だったが、そのうち6頭が勝ち馬となり、ゴールドフィンチ、オーム、エルランソニーといった活躍馬も登場した。一方、亜国では20頭の産駒を出したが、そのうち勝ち馬は僅か4頭だった。

本馬が英国に残した産駒の活躍を見た英国の馬産家J・ヒューム・ウェブスター氏は本馬を買い戻すためにシンジケートを結成しようとした。しかし、やはり英国における本馬の産駒の活躍を耳にしていたブコー氏は3万2千ポンドという高額を提示してきた。この金額を捻出できるほどシンジケート加入者が集まりきらなかったため、ウェブスター氏の買い戻し計画は失敗に終わった。

しかしブコー氏が提示した3万2千ポンドという金額を耳にした米国テネシー州の馬産家チャーリー・リード氏とカリフォルニア州の富豪ウィリアム・オブライエン・マクドナー氏の両名は共同で、本馬を購入したい旨をブコー氏に伝えた。交渉の結果、15万ドルで取引が成立したが、当時は亜国と米国の間に直通の船便が無く、いったん本馬を英国に戻してから米国に移す必要があったため、そのための必要経費として2万5千ドルが追加で支払われた。

こうして1893年、10歳の夏に本馬はいったん英国に戻り、亜国からの旅行で消耗した体力を回復するためにリッチモンド公爵が所有するグッドウッド邸でしばらく過ごした。この時期にかつて本馬を管理したポーター師は本馬に面会し、本馬の鬣の一部を記念として持ち帰ったという。本馬はこの年の暮れにニューヨーク経由でカリフォルニア州へと旅立った。

こうして米国で種牡馬生活を開始した本馬だったが、相変わらず授精率が悪く、11年間に及ぶ米国における種牡馬生活の中で送り出した産駒数は僅か16頭だった。しかしそのうち5頭がステークス(又は現在のステークスと同格の競走)ウイナーとなっており、産駒の質は高かった。1904年5月21日、21歳の本馬は呼吸困難と半身不随の症状に突然襲われ、安楽死の措置が執られた。遺体は供用されていたマクドナー氏所有の牧場にいったん埋葬されたが、その後骨格が掘り出されて英国に返され、現在はロンドンの自然博物館に展示されている。その後、英国における僅かな供用期間で輩出したオームが種牡馬として成功し、さらにその直系子孫からテディが登場し、本馬の血を現代に伝えている。日本初の三冠馬セントライトも本馬の直系子孫である。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1889

Goldfinch

ニューS

1889

Llanthony

アスコットダービー・エボアH

1889

Orme

エクリプスS2回・リッチモンドS・デューハーストS・ミドルパークS・サセックスS・英チャンピオンS・ゴードンS

1890

Best Man

ジュライC・クイーンズスタンドプレート・トライアルS・コンセイユミュニシパル賞

1901

Ormonde's Right

カーターH

1903

Ormondale

ベルモントフューチュリティS

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