ガルティモア

和名:ガルティモア

英名:Galtee More

1894年生

鹿毛

父:ケンダル

母:モルガネッティ

母父:スプリングフィールド

愛国生まれの第7代英国三冠馬は後にロシアや独国で種牡馬として活躍して独国の競馬レベル向上に貢献する

競走成績:2・3歳時に英で走り通算成績13戦11勝2着1回

史上7頭目の英国三冠馬。19世紀末から20世紀初頭にかけて、愛国産馬が英国で数多くの大レースを勝利し、愛国産馬のレベルが英国産馬に引けを取らないものである事を証明している。本馬は、名牝プリティポリー、英ダービー馬オービー、半弟のアードパトリック等と共に、それを如実に示した1頭である。

誕生からデビュー前まで

愛国の馬産家ジョン・ガビンズ氏により生産された。ガビンズ氏は若年の頃から競馬狂で、特に障害競走に熱中していた。彼の長兄スチーマー・ガビンズ氏が1879年に死去した時、兄が愛国リムリック州ブルレーの近郊に所有していたノッカニースタッドを受け継いで本格的に馬産を始めた。当初は障害競走馬の生産を主に行っていたが、やがて平地競走馬の生産も行うようになった。そのために購入したのが本馬の母モルガネッティである。

モルガネッティの父は名馬スプリングフィールドで、モルガネッティの母レディモルガンの産駒にはジュライSの勝ち馬ルペラや、プリンスオブウェールズSの勝ち馬アロウェーがおり、レディモルガンの半妹には英オークス・英セントレジャー・コロネーションS・ヨークシャーオークスなどを制した名牝マリースチュアートがいたため、血統的にはかなり優秀だった。しかしモルガネッティは見栄えが悪かった上に、デビュー戦で着外に敗れた後、喘鳴症が判明して引退となり、そのまま売却に出されていた。ガビンズ氏はモルガネッティの血統を評価し、その外見や競走成績、それに喘鳴症を気に掛けることなく購入した(価格は200~600ポンド程度だったという)。モルガネッティはガビンズ氏所有の種牡馬ケンダルとの間に後の愛ダービー馬ブレアファインドを産み、その翌年にブレアファインドの全弟である本馬を産んだ。

本馬はノッカニースタッドを見下ろすガルティ山地で一番高い(と言っても標高919mで、登山が難しい山ではない)ガルティモア山にちなんで命名された。体高は16ハンドで、非常に整った馬体を有し、強靭な骨格と筋肉を有した馬で、幼少期から「欠点が無い馬」として非常に評判が良かった。

競走生活(2歳時)

英国ウィルトシャー州に厩舎を構えていたサム・ダーリン調教師に預けられ、2歳7月にストックブリッジ競馬場で行われたハーストボーンS(T5F)でデビュー。1番人気は後のアスコットダービーの勝ち馬ミンストレルだったが、本馬が後のロイヤルハントCの勝ち馬ジャックマールを2着に、ミンストレルを3着に破って楽勝した。次走のランカシャーブリーダーズSでは2ポンドのハンデを与えたブリッグ、8ポンドのハンデを与えたグレンカリーとの大接戦の末に、勝ったブリッグから短頭差の2着(グレンカリーと同着)に敗れてしまった。その後は7月にグッドウッド競馬場でモールコームS(T6F)に出走して勝利。

怪我のため8月はレースに出ず、9月にドンカスター競馬場で行われたロウスプレート(T6F)で復帰した。このレースには、ニューSでヴェラスケスの3着していた後のセントジェームズパレスS2着馬モントレーも出走しており、本馬共々131ポンドのトップハンデを課せられていた。しかし単勝オッズ2.875倍の1番人気に支持された本馬が、12ポンドのハンデを与えた2着ピーコックに1馬身半差で勝利を収め、モントレーは3着に終わった。

続くミドルパークプレート(T6F)では、ニューS・ジュライS・英シャンペンSを勝つなど無敗を誇りこの年の2歳馬では最強と言われていたヴェラスケスとの対戦となった。5頭立てのレースだったが、事実上のマッチレースとみなされていた。人気はヴェラスケスが単勝オッズ1.2倍という断然の支持を集め、本馬は単勝オッズ6倍だった。しかし結果は、モーニントン・キャノン騎手鞍上の本馬がスタートからゴールまで完璧な逃げ切りを決めて、2着ヴェラスケスに6馬身差をつけて圧勝した。ただし、レースが不良馬場で行われた事や、斤量は本馬の方が3ポンド軽かった事もあり、2歳戦終了時点では本馬とヴェラスケスの評価は同等か、むしろヴェラスケスの方がやや高かったようである。それでも英ダービーの前売りオッズではヴェラスケスと並んで4倍の1番人気に支持されるようになった。

2歳時の成績は5戦4勝だった。この頃、ガビンズ氏の元に本馬を購入したいという申し出があったが、ガビンズ氏は最低でも2万ポンドという高額の条件を出して拒否した。

競走生活(3歳前半)

3歳になった本馬の主戦はチャールズ・ウッド騎手が務めた。ウッド騎手は英ダービーで2勝を挙げ、セントサイモンに騎乗してアスコット金杯を勝った事もあったが、英国ジョッキークラブの規則に違反する競走馬を所有したとして、雇用主共々10年間の追放処分を受けており、この年に騎手に復帰したばかりだった。

3歳初戦となった英2000ギニー(T8F11Y)では、ヴェラスケスと2度目の対戦となった。1番人気は単勝オッズ2.25倍の本馬で、僅差の2番人気が単勝オッズ2.5倍のヴェラスケスだった。レースではアークルやリースオアが先頭を引っ張り、本馬が先行し、ヴェラスケスが本馬をマークするように進んだ。かなりのハイペースでレースが進行したために、前にいる本馬よりも後ろにいるヴェラスケスのほうに有利と思われた。しかし2歳時よりもさらに成長した本馬が、ヴェラスケスがまるで止まっているかのように見える加速を残り2ハロン地点から披露。最後は2着ヴェラスケスに4馬身差、3着ミンストレルにはさらに頭差をつけて圧勝した。

このレース後に、銅山王と言われた米国モンタナ州の事業家マーカス・デイリー氏からガビンズ氏に、本馬を売ってほしいという申し出があった。デイリー氏は本馬と同世代のベルモントSの勝ち馬スコティッシュチーフテンの生産・所有馬でもあり、後には本馬より1歳年下の名馬ハンブルグも購入する人物だった。デイリー氏がガビンズ氏に提示した価格は12万5千ドル(ちなみにハンブルグを購入した金額は4万ドル)という破格の値段だったが、それでもガビンズ氏はその申し出を断った。

その後は英ダービーの前哨戦として、ニューマーケットS(T10F)に出走。ここでは単勝オッズ1.06倍という圧倒的な1番人気に支持された。そして「信じられない容易さ」「レースとも呼べない」と言われるほどの馬なりで走り、英シャンペンSとデューハーストプレートでいずれも2着していたバーザクを2馬身差の2着に破って勝利した。

その後、ヴェラスケス贔屓の人間が本馬に危害を加えるかも知れないという噂が流れ、ダーリン師は番犬としてニューファンドランドレトリバー(ラブラドールレトリバーの原型)を本馬に付けた。英ダービーに出走するためにエプソム競馬場に向かう途中、本馬の乗った列車が他の列車を通すために遅れて移動が長引き、本馬は消耗した。また、本馬が到着したエプソム競馬場の厩舎はネズミが横行しており、猫が必要になるほどだった。こんな状況下でも本馬は動じることなく平然としていたという。

そして迎えた英ダービー(T12F29Y)では、本馬が単勝オッズ1.25倍という同競走史上2番目に低い断然の1番人気(ちなみに史上最も低かったのは1894年の勝ち馬ラダスの単勝オッズ1.22倍)に支持され、ヴェラスケスが単勝オッズ11倍の2番人気、他の出走馬8頭は全て単勝オッズ26倍以上のその他大勢扱いだった。ガビンズ氏はレース前にウッド騎手に対して「きついコーナーを恐れることはありません。行けると思ったら行ってください」という簡単な指示を出していた。スタートが切られると、プライムミニスターやオークディーンが先頭を引っ張り、本馬はその後方の好位につけた。そしてタッテナムコーナーを回りながら加速して直線に入ると、前を行くオークディーンを悠々と抜き去った。そこへ後方からヴェラスケスがやってきて、本馬に並びかけようとした。しかし必死になってヴェラスケスが走っているのに、本馬は馬なりのまま走り、ヴェラスケスを寄せ付けなかった。最後は2着ヴェラスケスに2馬身差、3着ヒストリーにはさらに8馬身差をつけて優勝。これでヴェラスケスと本馬の優劣は決定的なものとなった。レース後には熱狂した観客が本馬の鬣を引き抜く事態が発生したが、本馬は特に驚く風も無く物静かに佇んでいたという。また、本馬の地元愛国では、名前の由来となったガルティモア山の山頂でかがり火を焚いて本馬の勝利を祝ったという(当時はまだ英国の支配下にあった愛国では反英感情が強かった)。ヴェラスケスは英ダービーの後、プリンセスオブウェールズS・英チャンピオンSを勝ち、翌年にはエクリプスSを勝ち、英チャンピオンSの2連覇を果たしたが、本馬と戦う事は二度と無かった。後にウッド騎手は「(英)ダービーを勝つ秘訣は何ですか?」と尋ねられて、「優れた馬さえいれば、後は鞍と手綱があれば十分です」と応じたという。

競走生活(3歳後半)

英ダービーを勝った本馬はその後にプリンスオブウェールズS(T13F)に出走して、単勝オッズ1.03倍という圧倒的な1番人気に支持された。そして最大で16ポンドのハンデを与えた他3頭の出走馬を馬なりのまま撃破して、2着オヴァンドに1馬身半差で勝利した。さらにサンドリンガム金杯に出走したが、本馬に立ち向かってきたのはコーテジャーという牝馬1頭のみであり、本馬があっさりと勝利した。

秋には英セントレジャー(T14F132Y)に出走。本馬に挑戦してきたのは僅か4頭で、その中で手強いと言えるのは、英1000ギニー・ナショナルブリーダーズプロデュースS・インペリアルプロデュースSの勝ち馬で英オークス2着のチェランドリーくらいだった。当然のように本馬は単勝オッズ1.1倍という断然の1番人気に支持されたのだが、レースは予想外の苦戦を強いられることになった。ペースがスローで推移したため、本馬は早めに逃げ馬を捕らえた。しかし終盤に差し掛かるとチェランドリーに並びかけられ、さらにはセントクラウドとシルバーフォックスの2頭も追い込んできて、ゴール前では4頭が一団となった。しかし本馬が辛くもチェランドリーを半馬身差の2着、セントクラウドをさらに首差の3着、シルバーフォックスをさらに頭差の4着に退けて勝利した。今までの本馬の楽勝ぶりとは程遠い内容ではあったが、これで本馬は1893年のアイシングラス以来4年ぶり史上7頭目の英国三冠馬になった。

その後、1歳年上の英ダービー・英セントレジャー・アスコット金杯・エクリプスSの勝ち馬パーシモンと本馬の2頭を招待するマッチレースを、リングフィールドパーク競馬場が企画した。パーシモンはエクリプスSでヴェラスケスをを2着に破って勝っており、実現すれば本馬とパーシモンのどちらが現役最強馬なのかが決まるレースとなるはずだった。しかしパーシモンはエクリプスSで脚を痛めていたために、パーシモン陣営はこの招待を拒否。そのままパーシモンは引退となったため2頭の対決は実現しなかった。

その後に本馬はサンダウンパークフォールS(T10F)に出走。単勝オッズ1.08倍の1番人気に応えて、馬なりのまま走り、2着コーテジャーに3馬身差をつけて勝利した。続いてケンブリッジシャーH(T9F)に出走した。本馬には132ポンドの斤量が課せられ、これは3歳馬としては同競走史上最高の斤量だった(資料によっては130ポンドとなっているが、いずれにしても3歳馬としては異例の負担重量だった)。元々このレースには、前年の同競走やこの年のリンカンシャーH・ドンカスターC・コンセイユミュニシパル賞を勝っていた4歳牡馬ウインクフィールズプライドや、前年のリンカンシャーHを勝っていた6歳牡馬クロラーヌが出走する予定だったが、ウインクフィールズプライドは132ポンド、クロラーヌは136ポンドの斤量を嫌って回避してしまい、本馬が古馬を含めても最高重量で出走する羽目になった。英セントレジャーで本馬から3/4馬身差の3着だったセントクラウドの斤量は98ポンドだったから、かなり無茶な斤量設定だった。それでも単勝オッズ5.5倍の1番人気に支持された本馬だったが、先行するも終盤で失速。セントクラウドを頭差の2着に抑えて勝った斤量100ポンドの3歳牡馬コンフリーの10着に敗れた。どうやらこのレース中に故障を起こしたようで、これが現役最後のレースとなった。3歳時の成績は8戦7勝だった。ダーリン師は、元々本馬は脚部不安を抱えていたとしている。

血統

Kendal Bend Or Doncaster Stockwell The Baron
Pocahontas
Marigold Teddington
Ratan Mare
Rouge Rose Thormanby Windhound
Alice Hawthorn
Ellen Horne Redshank
Delhi
Windermere Macaroni Sweetmeat Gladiator
Lollypop
Jocose Pantaloon
Banter
Miss Agnes Birdcatcher Sir Hercules
Guiccioli
Agnes Clarion 
Annette
Morganette Springfield St. Albans Stockwell The Baron
Pocahontas
Bribery The Libel
Splitvote
Viridis Marsyas Orlando
Malibran
Maid of Palmyra Pyrrhus the First
Palmyra
Lady Morgan Thormanby Windhound Pantaloon
Phryne
Alice Hawthorn Muley Moloch
Rebecca
Morgan La Faye Cowl Bay Middleton
Crucifix
Miami Venison
Diversion

父ケンダルはベンドアの初年度産駒で、同世代同厩には、同父で自身の従兄妹リリーアグネスの息子でもあるオーモンドがいた。デビュー前の試走ではオーモンドに勝った事もあった素質馬で、2歳時にジュライS勝ちなど8戦6勝の成績を残したが、故障のため引退。16戦全勝の英国三冠馬となったオーモンドとは競走成績では大差をつけられた。種牡馬としてガビンズ氏に購入され、初年度産駒のロイニール、3年目産駒のブレアファインド(本馬の全兄)と続けて愛ダービー馬を出した。そして4年目産駒である本馬の活躍により、当時猛威を振るっていたセントサイモンの8連覇を阻止して1897年の英首位種牡馬に輝いた。本馬が誕生する前年に2万ギニーで英国に買い戻されたが、その後1901年に亜国に売られた。彼の地でも1908/09シーズンの首位種牡馬になったが、この1908年に25歳で他界している。後継種牡馬としては本馬以外にトレデニスが成功し、直系からは第1回凱旋門賞優勝馬カムラッドなどが出ている。

母モルガネッティは前述のとおり。繁殖牝馬としては本馬の全兄ブレアファインド【愛ダービー】、半弟アードパトリック(父セントフローリアン)【英ダービー・エクリプスS・プリンスオブウェールズS・プリンセスオブウェールズS】も産み、非常に優秀な成績を収めている。本馬の全妹テンプルヒルの牝系子孫には、パラサング【カーターH・ヴォスバーグS】、ビッグピストル【ハスケル招待H(米GⅠ)】、日本で走ったプレクラスニー【天皇賞秋(GⅠ)】などがいる。

モルガネッティの半兄にはルペラ(父アドベンチャラー)【ジュライS】、全弟にはアロウェー【プリンスオブウェールズS】がいる他、モルガネッティの半姉モルジアナ(父スコティッシュチーフ)の子にはロゼル【コロネーションS】、アドリアナ【ニューS】、モルガネッティの半姉フローレンスマッカーシー(父マカロニ)の子にはタイヤ【オールエイジドS】、ティレイレリー【クラウンオークス】、ベッシーマッカーシー【AJCオークス】がいる。

モルガネッティの母レディモルガンの半妹にはマリースチュアート【英オークス・英セントレジャー・ヨークシャーオークス・ニューS・コロネーションS・アスコットゴールドヴァーズ】がいる。レディモルガンの祖母マイアミは英オークス馬で、その牝系子孫からは、エクワポイズシービスケットジェベルインテンショナリーモムズコマンド、スイープトウショウが出るなど、一大牝系を形成している。→牝系:F5号族③

母父スプリングフィールドは当馬の項を参照。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬に関して、ロシア皇帝ニコライ2世の父の従兄弟だったドミトリー・コンスタノビッチ氏からガビンズ氏に種牡馬としての購入オファーがあった(オーストリア・ハンガリー帝国からもオファーがあったという噂が流れたが、これはデマだったようである)。当時のロシアは盛んに英仏からサラブレッドを輸入しており、その本当の目的は優秀な軍馬を生産する事にあったとされている。1896年にニコライ2世からロシア帝国の馬産における責任者に任命されたコンスタノビッチ氏は、まだ本馬が現役時代の頃から本馬に目を付け、その購入を最優先課題とし、交渉のために3名の代表団をガビンズ氏の元に派遣していた。この代表団達は、本馬の姿を見て圧倒されて逃げ出してみせたり、ガビンズ氏の後援者に対して取引は無事成立したと語ってみせたりした。ガビンズ氏はこれらの行為を不愉快に思い、本馬の売却を断る方向に心が動いていたようだが、2万2500ポンド(資料によって金額が異なり、2万5千ポンドだったり2万1千ポンドだったりする)という巨額の購入額を提示された事や、アードパトリックの項にも記載したように彼は痛風を患って今後の馬産に支障が生じる事が予想されていた事なども重なり、最終的には本馬の売却に同意。本馬は4歳時から当時ロシア領だったポーランドのワルシャワで種牡馬入りする事になった。

本馬は3頭のロシアダービー馬、4頭のポーランドダービー馬、1頭のポーランドオークス馬を出し、ロシアにおける名種牡馬として大いに活躍した。しかし1904年、本馬は独国に1万4千ポンドで売却された。この理由は同年に発生した日露戦争における敗戦に加えて、長引く経済不況がロシアの政治不安に一層の拍車を掛けていたためであろう。結局1905年に血の日曜日事件が発生し、ロシアは革命への道を一気に突っ走る事になったため、独国に売られた事は本馬にとっては幸運だった。

独国では既に本馬の半弟アードパトリックも種牡馬入りしていたドイツ帝国牧場で種牡馬供用された。本馬は独国においても初年度産駒から独2000ギニー・独セントレジャー・ベルリン大賞勝ちなど57戦19勝の成績を残し独歴代賞金王にもなったフェーヴァーなど多くの活躍馬を出し、1910年の独首位種牡馬になるなど成功を収め、4度の独首位種牡馬に輝いた半弟アードパトリックと共に独国競馬のレベル向上に貢献した。1917年1月、ドイツ帝国牧場からユニオンスタッドに移動するための輸送中、駅で脚を滑らして転倒し、列車とプラットフォームの間の隙間に脚を挟んで骨折。ドイツ帝国牧場に戻った後に予後不良と診断され、安楽死の措置が執られた。

本馬の直系は、フェーヴァーが4度の独首位種牡馬になる成功を見せたが、現在は残っていない。しかし母父として独首位種牡馬9度のオレアンダーを出すなどして、半弟のアードパトリック共々独国における活躍馬の血統表に本馬の名前は数多く残されている。また、ロシアを倒して成立したソ連においても本馬の血は受け継がれており、ソ連最強馬と言われるアニリンの母系にも本馬の名を見る事が出来る。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1906

Fervor

独2000ギニー・ベルリン大賞

1910

Orchidee

独オークス

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