ストックウェル

和名:ストックウェル

英名:Stockwell

1849年生

栗毛

父:ザバロン

母:ポカホンタス

母父:グレンコー

種牡馬として大成功を収めて現在の数多くの主流血統の始祖となり「種牡馬の皇帝」と言われる英2000ギニー・英セントレジャー優勝馬

競走成績:2~5歳時に英で走り通算成績16戦11勝2着3回(異説あり)

誕生からデビュー前まで

ザバロンを種牡馬として繋養していたジョン・シアボールド氏が所有する、ロンドンのクラッパム地区近郊にあるストックウェルという場所にあった牧場において誕生し、生誕地にちなんで命名された。

本馬が誕生したときに既に齢80歳を過ぎていたシアボールド氏は、それまで数多くの馬を見てきたのだが、その中でも本馬は幼少期から飛び抜けて大きな馬体の持ち主であり、さすがに大きすぎるとシアボールド氏は感じたという。しかし牧場の厩務員をしていたジョン・ロウリー氏は本馬の素質を評価し、第2代エクセター公爵ブラウンロー・セシル卿に本馬の購入を薦めた。セシル卿は英国ジョッキークラブの名誉会員であり、30年以上に渡って競馬と関わってきた人物だった。彼は1832年の英1000ギニー・英オークスの勝ち馬ガラタなど6頭の英国クラシック競走の勝ち馬を所有した経験があったが、ガラタの競走馬引退以降はそれほど所有馬に恵まれていなかった。本馬を見たセシル卿は、シアボールド氏と同じく、これは大きすぎるという感想を抱いたらしいが、本馬が万が一にも英ダービーを勝利した暁には500ポンドの追加料金を支払うというオプション付きで、本馬を180ソヴリンで購入した。

セシル卿の所有馬となり、ウィリアム・ハーロック調教師に預けられた本馬は、その後もどんどん成長していき、最終的には体高16ハンドを超える、当時としては非常に大柄な馬体となった。また、競走能力とは関係ないが、顔立ちはかなり不格好であり、ある競馬作家は「醜さの極致」とまで評したという。頭は平坦で、ザバロンから受け継いだらしい鷲鼻の持ち主だった(ザバロンの母エキドナも非常に不恰好な顔立ちだったらしいから、そこから遺伝したのかもしれない)。

もっとも、体格のほうは優れており、調和が取れた肩、荷馬車馬に例えられたほど強靭な腰、そして力強い脚を有していた。特に脚の力強さは素晴らしく、重い斤量を背負っても勝利する本馬の競走能力の源になったと考えられている。ただし、速さよりも力強さに長けていたためか、少々加速力に劣る面もあった。トップスピードに乗れば非常に速かったが、それまでにかかる時間は誰が見ても長すぎるほどであり、それが仕上がりの遅さに繋がったようである。また、祖父バードキャッチャーから受け継いだと思われる、栗毛の馬体に黒い斑点があるという特徴的な毛色の持ち主(同じ栗毛馬だった父ザバロンにこの特徴があったという話は無い)であり、これは本馬の孫であるベンドアを経由して後世に伝えられることとなる。

気性はかなり激しかったらしく、「不愉快で野蛮」と評されている。この気性もザバロン譲りだったと言われているが、母ポカホンタスも極めて気性が激しい馬だったから、おそらく父と母の両方から受け継いだものである。なお、ポカホンタスは喘鳴症を患っていたが、本馬自身が喘鳴症を発症することはなかった(ただし本馬の血を受け継ぐ馬はしばしば発症したというから、発症しなかっただけで喘鳴症の遺伝子自体は本馬も有していた公算が大きい)。

息子である本馬に見栄えと気性の悪さを受け継がせた父ザバロンは、種牡馬としてあまり評価されておらず、本馬が産まれた年の10月にシアボールド氏が83歳で死去するとセリに掛けられて仏国に売られていってしまった。母ポカホンタスも気性難や喘鳴症が影響して現役時代は未勝利に終わっており、しかも本馬以前の繁殖成績が非常に悪かったため、シアボールド氏が死去すると、本馬の全弟ラタプランを受胎した状態で転売されていった。ザバロンとポカホンタスは、結局は共に優秀な繁殖成績を残すことになるのだが、それは本馬がデビューした後の話であり、客観的に見てこんな両親から優れた馬が誕生するとは誰も考えなかったのは無理からぬ話である。

競走生活(3歳前半まで)

前述のとおり仕上がりが遅かった本馬は、デビュー戦が2歳シーズン末までずれ込んだ。デビュー戦のプレンダーガストS(T5F)はメイドストーンの頭差2着と惜敗。2戦目はクリテリオンS(T6F)となった。クリテリオンSはニューマーケット競馬場で行われる重要な2歳戦であったが、この年はケンブリッジヒル競馬場で施行された。1番人気に支持されたのは英シャンペンSで2着していた、“北方の魔術師”ジョン・スコット厩舎所属のダニエルオルークだった。この後に本馬と何度も顔を合わせるダニエルオルークは、本馬の祖父バードキャッチャーの産駒だったが、本馬とは対照的に非常に小柄な馬で、体高は14.2~15ハンドだったと言われる。2頭の初対決は、本馬は4着、ダニエルオルークは5着と共倒れに終わり、勝ったのは牝馬レッドハインドだった。本馬の2歳時は2戦未勝利となった。

3歳時はニューマーケット競馬場で行われたクレイヴンS(T8F)から始動して、首差の2着。次走は英2000ギニー(T8F17Y)となった。3戦未勝利の本馬が人気になるわけもなく、単勝オッズ11倍で9頭立て5番人気の評価だった。人気を集めていたのは、同じく未勝利ながら名伯楽スコット師が自信を持って送り込んできたダニエルオルークなどだった。ところがダニエルオルークは5着に沈み、ジョン・ノルマン騎手騎乗の本馬が好位から良く伸びて、2着ホームブレッドに半馬身差をつけて優勝。初勝利をこの大一番で挙げた。

次走のニューマーケットS(T8F)では、プレンダーガストSで本馬を破ったメイドストーンや、ニューマーケットHの勝ち馬ファーザーテムズなど5頭が対戦相手となったが、単勝オッズ1.44倍の1番人気に支持された本馬が2着メイドストーンに頭差で勝利した。そして勇躍英ダービー(T12F)に参戦したのだが、27頭立てとは言え英2000ギニーより人気薄で、単勝オッズ17倍で7番人気の低評価だった。人気を集めていたのは、他頭数の激しいレースを既に経験していたリトルハリーなどであり、英2000ギニーやニューマーケットSを勝ったと言っても、いずれも少頭数のレースだった本馬は、競馬ファンの信任を得るには至らなかったようである。レースは本馬より人気薄の単勝オッズ26倍まで評価を落としていた未勝利馬ダニエルオルークが重馬場の中を激走して優勝。一方の本馬は馬群から抜け出せないまま8着に沈んだ。この敗因は本馬の歯肉に腫れ物が出来ていたためとも言われている。

競走生活(3歳後半)

しかしその後は立て直し、まずはグッドウッド競馬場で行われたスウィープSを、2着となったタッチストン産駒ハービンジャーに半馬身差で勝利した。次走のスウィープSは単走で勝ち、レーシングステークスHでは他馬より断然重い斤量を背負いながらも、メイドストーンやファーザーテムズを相手に2馬身差で勝利した。さらにグレートヨークシャーS(T14F)も、2着ロングボウに1馬身差で勝利した。

そして4連勝で英セントレジャー(T14F132Y)に参戦。セントジェームズパレスSも勝ってきたダニエルオルーク、ハービンジャー、英オークス馬ソングストレスなど5頭が対戦相手となったが、ノルマン騎手が騎乗する本馬が単勝オッズ2.75倍の1番人気に支持された。そしてこのレースでは本馬に敵う馬は存在せず、2着ハービンジャーに10馬身差をつけて大圧勝した。次走のフォールSは単走で勝利。グランドデュークマイケルSでは馬なりのまま、後にシザレウイッチHを勝利しグレートメトロポリタンHでヴィラーゴの2着するモスコヴァイトを3馬身差の2着に破って楽勝。シーズン最後の出走となったニューマーケットセントレジャー(T14F)も2着フランティックに2馬身差で快勝した。3歳時は12戦10勝の成績だった。

競走生活(4・5歳時)

4歳時は大ロシア皇帝陛下プレート(T20F)から始動した。このレースは同年にクリミア戦争が勃発して、英国とロシアが敵同士になったため、翌年からアスコット金杯に改名されるレースだった。ここでは1歳年上の英ダービー・ドンカスターC・モールコームSの勝ち馬テディントン(本馬の後継種牡馬ドンカスターの母父になっている)など6頭との対戦となった。斤量は本馬よりテディントンのほうが9ポンド重かった。レースは本馬が先行して、テディントンが後方を追走する展開となった。そして本馬がそのまま押し切るかと思われた残り1ハロン地点で、テディントンの凄まじい末脚が炸裂し、ゴール寸前でかわされた本馬は頭差2着に敗れた。このレース後に本馬は故障してしまい、4歳時はこの1戦のみで休養入りした。

5歳時はザホイップという名称のレース1戦のみに出走。このレースは2頭立てで、唯一の対戦相手は、グッドウッドCの勝ち馬で、ドンカスターCでテディントンと大激戦を演じて首差2着、ニューマーケット競馬場で開催されたテディントンとのマッチレースでは勝利を収めていた、後の名種牡馬キングストンだった。しかしレース中にキングストンが故障したために本馬の独走状態となり、30馬身差で勝利した。これが現役最後のレースとなった。

なお、本馬は本項に掲載した以外にも非公式の競走に出走した事があるらしく、山野浩一氏の著書「伝説の名馬Ⅲ」においては、20戦12勝という競走成績で紹介されている。本馬は英2000ギニー・英セントレジャーの優勝馬であり、特に英セントレジャーの勝ち方は圧倒的だったが、大ロシア皇帝陛下プレートにおいてテディントンに負けている事もあり、強い馬には違いないがトップクラスの競走馬という評価は得られなかった。後の1886年6月に英スポーティングタイムズ誌が競馬関係者100人に対してアンケートを行うことにより作成した19世紀の名馬ランキングにおいては、テディントン(第20位)を上回る第14位にランクインしたが、これはおそらく種牡馬成績が加味されていると思われる。

血統

The Baron Birdcatcher Sir Hercules Whalebone Waxy
Penelope
Peri Wanderer
Thalestris
Guiccioli Bob Booty Chantcleer
Ierne
Flight Escape
Young Heroine
Echidna Economist Whisker Waxy
Penelope
Floranthe Octavian
Caprice
Miss Pratt Blacklock Whitelock
Coriander Mare
Gadabout Orville
Minstrel
Pocahontas Glencoe Sultan Selim Buzzard
Alexander Mare
Bacchante Williamson's Ditto
Mercury Mare
Trampoline Tramp Dick Andrews
Gohanna Mare
Web Waxy
Penelope
Marpessa Muley Orville Beningbrough
Evelina
Eleanor Whiskey
Young Giantess
Clare Marmion Whiskey
Young Noisette
Harpalice Gohanna
Amazon

ザバロンは当馬の項を参照。

ポカホンタスは当馬の項を参照。→牝系:F3号族①

母父グレンコーは当馬の項を参照。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は、セシル卿が所有するバーリースタッドで種牡馬入りした。しかし、英2000ギニー・英セントレジャーの勝ち馬と言っても、優れた競走馬止まりであり、偉大な競走馬という評価までは受けていなかった本馬に対する種牡馬としての期待は大きくなかったようである。種牡馬生活1年目シーズンが終わった1855年末には、タタソールズ社のセリに出されてしまい、初代ロンデスボロー男爵アルバート・デニソン卿によって3千ギニーで購入された。3千ギニーというと結構な高額であるが、これはデニソン卿の金銭感覚に問題があったためだったようである。元々カニンガムという姓だったデニソン卿は、借金過多のためにロンドンから逃げ出したが、富豪だった伯父のデニソン氏が死去すると、カニンガムからデニソンに姓を改めるという条件付きで遺産を相続し、ロンドンに返り咲いたという経歴の持ち主だったのである。そしてその豊富な資金に任せて優秀な馬を買い漁っており、本馬の1歳年下の英国三冠馬ウエストオーストラリアンは5千ギニーで購入している。

デニソン卿が1850年に購入していたカークビーファーム(後に本馬の功績を讃えてストックウェルファームと改称される)に移動した本馬は、ウエストオーストラリアンと一緒に、種付け料30ギニーで種牡馬生活を続けた。デニソン卿が1860年に死去すると、本馬はウエストオーストラリアンと共にセリに掛けられた。ウエストオーストラリアンは仏国の政治家シャルル・オーギュスト・ルイ・ジョゼフ・ド・モルニ卿により4千ギニーで購入され、仏国へと去っていった。モルニ卿は本馬も購入するつもりだったらしいが、種牡馬として今ひとつ期待に応えられていなかったウエストオーストラリアンと異なり、当初の予想に反して種牡馬として大きな成功を収めつつあった本馬(カークビーファーム繋養時代の産駒から8頭の英国クラシック競走の勝ち馬が出ている)をモルニ卿は競り落とす事が出来ず、本馬はリヴァプールの銀行家リチャード・C・ネイラー氏により4500ギニーで落札された。

「種牡馬の皇帝」

そしてヨークシャー州ロウクリフスタッドに移動して、種付け料40ギニーで種牡馬生活を続けた。種付け料は以前より値上がりしたが、この頃には本馬の種牡馬人気は不動のものとなっており、毎年50頭の交配予約は瞬く間に満口になってしまったという。1862年の終わりには、ネイラー氏自身が所有するフートンパークスタッドファームに移動。この地で一日15マイルの散歩を日課としながら種牡馬生活を続けた。本馬はその後も活躍馬を続出させ、種牡馬として大成功を収めた。1860・61・62・64・65・66・67年の7回も英首位種牡馬に輝いた。英種牡馬ランキング2位にも、1863・68・72・73年の4度入っている。412頭の産駒中208頭(209頭とする説もある)が勝ち上がり、延べ1150勝(1147勝とする説もある)をマークし、獲得賞金総額は当時としてはかなりの高額である36万2451ポンドに達した。英国クラシック競走の勝ち馬は12頭(延べ17勝)輩出し、英国クラシック競走の入着馬も13頭出している。

仕上がりが遅かった自身と異なり、産駒は仕上がりが早く、2歳戦から活躍する傾向が強かった。最晩年の種付け料は当時としては破格の300ギニーまで達していた。そのため、本馬はいつしか“The Emperor of Stallions(種牡馬の皇帝)”と言われるようになっていた。本馬は1870年4月末の種付け中に転倒。痛みを堪えながらも起き上がって種付けをこなしたが、その際に背骨を骨折していたようで、その9日後の5月5日に21歳で他界した。牧場従業員の証言によると、本馬は苦しみながらもゆっくりと歩き回り、そして突然大きく嘶くと地面に崩れ落ちたという事で、「私がかつて見た馬の死の中で最も勇ましい最後だった」という。遺体はいったん埋葬されたが後に掘り出されて、骨格が大英博物館に展示されている。本馬の直系子孫は、ドンカスター、ベンドア、そしてファラリスオームへとサイアーラインが続き、現代に繋がる数多くの基礎種牡馬の根幹となった。また、繁殖牝馬の父としても優秀で、多くの活躍馬を送り出した。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1856

Audrey

シザレウィッチH

1857

St. Albans

英セントレジャー

1857

Stockade

ヨークシャーオークス

1858

Asteroid

アスコット金杯

1858

Bathilde

ケンブリッジシャーH

1858

Caller Ou

英セントレジャー

1858

Pardalote

ナッソーS

1859

Ace of Clubs

モールコームS

1859

Bertha

ナッソーS

1859

Carisbrook

アスコットダービー・セントジェームズパレスS・プリンスオブウェールズS

1859

The Marquis

英2000ギニー・英セントレジャー・英シャンペンS

1860

Lady Augusta

英1000ギニー・コロネーションS

1861

Blair Athol

英ダービー・英セントレジャー

1861

Sweet Katie

独オークス

1862

Breadalbane

プリンスオブウェールズS

1862

Out and Outer

トライアルS・スチュワーズC

1862

Regalia

英オークス

1862

The Duke

グッドウッドC

1863

Lord Lyon

英2000ギニー・英ダービー・英セントレジャー

1863

Repulse

英1000ギニー

1863

Rustic

プリンスオブウェールズS

1864

Achievement

英1000ギニー・英セントレジャー・ニューS・ジュライS・英シャンペンS・コロネーションS・ドンカスターC

1865

Athena

コロネーションS・パークヒルS

1865

Typhoeus

スチュワーズC

1865

Virtue

英シャンペンS

1866

Belladrum

ニューS・モールコームS

1866

Cherie

シザレウィッチH

1868

Bothwell

英2000ギニー・ジムクラックS

1869

Highland Lassie

コロネーションS

1870

Doncaster

英ダービー・アスコット金杯・グッドウッドC

1870

Gang Forward

英2000ギニー・アスコットダービー・セントジェームズパレスS・クレイヴンS

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