ブレアアソール

和名:ブレアアソール

英名:Blair Athol

1861年生

栗毛

父:ストックウェル

母:ブリンクボニー

母父:メルボルン

種牡馬の皇帝を父に、英ダービーを勝った世紀の名牝を母に持つ超良血馬で、当時世界最良の馬と評された幻の英国三冠馬

競走成績:3歳時に英仏で走り通算成績7戦5勝2着2回

誕生からデビュー前まで

英国ヨークシャー州にあったスプリングコテージにおいて、調教師兼生産者兼馬主だったウィリアム・イアンソン氏により生産・所有・管理された。英2000ギニーと英セントレジャーを制した大種牡馬ストックウェルと、英ダービーと英オークスを制した超名牝ブリンクボニーの間に産まれた超良血馬であった。両親も顔に流星を有していたが、本馬の流星は顔の大半を覆っており、顔が真っ白で目立つ馬だった。

このルックスや良血、好馬体から、幼少期から本馬の事はヨークシャー近郊で噂になっていた。そのため、高額で本馬を買いたいというオファーが相次ぎ、その中には有名なブックメーカーのジョン・ジャクソン氏からの7千ギニーで買いたいという申し出も含まれていたが、イアンソン氏はそれを全て拒否した。拒否されてもジャクソン氏は現役時代を通じて本馬の事を応援し続けたという。

競走生活(3歳前半まで)

しかし2歳になった本馬は原因不明(後に驚くべきその原因が発覚する)の跛行を発症し、出走登録したレースを次々と回避。結局2歳戦には1度も出走する事が出来なかった。3歳当初も状態は改善せず、かろうじて歩くことが出来る程度で、調教などは論外という状況が続いた。イアンソン氏は英2000ギニーに本馬を出走登録していたのだが、結局間に合わずに回避となった。

英ダービーには間に合わせるべく、前哨戦のディーSに出走登録されていたのだが、これも結局回避。これにより9戦連続で出走登録したレースを回避するという異常事態になり、色々な憶測が流れた。イアンソン氏が本馬をいきなり英ダービーという晴れの舞台でデビューさせようとしたとか、口内疾患で調整が遅れているのだなどが言われていた。

ところが、英ダービーが目前に迫ったある日、2歳時から続いていた本馬の跛行の原因が判明した。なんと、担当厩務員が本馬を日常的に虐待していたのである。その理由は、本馬がレースに出走するのを阻止しようとした他馬陣営又は悪徳ブックメーカーが、当該厩務員を買収したからだと言われている。この厩務員により繰り返し脚を痛めつけられていた本馬は、ずっと跛行が続いていたのだった。しかも本馬は脚だけでなく男性器までも攻撃を受けており、本馬はあやうく不能になるところだった(仮に男性器が無くなれば騙馬ということになり、英国クラシック競走には出走不可となる)。しかし真相を知ったイアンソン氏が警察に通報してこの厩務員は逮捕され、最悪の事態は免れた。

そして英ダービー(T12F)には何とか間に合ったのだった。この英ダービーの時点では、本馬はイアンソン氏と、その友人で仕事上の仲間だったコーニッシュ氏(後に本馬の叔父ボニースコットランドを米国に輸出した人物)の共同名義になっていた。いかに良血の期待馬と言っても実戦経験皆無の上にろくな調教も出来ていなかった本馬が人気になる事は無く、単勝オッズ15倍の伏兵扱いだった。英2000ギニー馬ジェネラルピールと、後に3歳にしてアスコット金杯を勝つスコッティシュチーフの2頭が並んで単勝オッズ5.5倍の1番人気に支持されていた。それでもヨークシャー近隣の人々は皆本馬に賭けたと言われている。

レースは8回ものフライングがあり、スタートは非常に遅れた。そして正規のスタート時において、経験不足の本馬は出遅れてしまった。しかし本馬鞍上のジェームズ・スノーデン騎手は、事前に言われていたイアンソン氏の指示どおりに、本馬に後方待機策を採らせ、脚を溜めさせた。そしてタッテナムコーナーで仕掛けると、前を行くジェネラルピール以下をかわして瞬く間に先頭に踊り出た。そして2着ジェネラルピールに2馬身差、3着スコッティシュチーフにはさらに3馬身差をつけて、2分43秒0のレースレコードで優勝した(2分43秒6とする資料もあるが、それまでの最速は2分45秒0だったから、このタイムでもレースレコードである)。もっとも、スノーデン騎手は本馬を全力で追っておらず、その気になれば10馬身差はつけられたとも述べている。本馬の熱烈なファンだった前述のジャクソン氏は本馬の勝利にしこたま賭けており、4万ポンドもの巨利を得たという。また、所有者イアンソン氏も本馬の勝利に賭けており、1万5千ポンドの利益を得たという(この年の英ダービーの優勝賞金は6450ポンド)。

その後は仏国に遠征して、パリ大賞(T3000m)に出走した。しかし本馬を乗せてドーバー海峡を渡った船は激しい波に襲われ、船内にいた本馬はかなり揺られて体調を悪化させた。ようやくロンシャン競馬場に到着したのはレース前夜であり、しかも慣れない環境はキャリアの浅い本馬の精神状態にも悪影響を及ぼした。さらに、本馬の鞍上はスノーデン騎手からトム・チョロナー騎手に乗り代わっていたのだが、ロンシャン競馬場に詰めかけていた観衆からチョロナー騎手に対してかなりの罵声が浴びせられた(当時はナポレオン戦争が終わって49年後で、まだその記憶が新しく、英国と仏国間における国民感情はかなり悪かった)。仏国民が応援していたのは、仏オークスだけでなく「敵国」の英国に乗り込んで英オークス・ウッドコートS・モールコームS・クリテリオンSも勝っていた地元の名牝フィーユドレール(後にロワイヤルオーク賞なども勝っている)だった。

こうした四面楚歌状態でスタートが切られたのだが、チョロナー騎手は冷静に本馬を速やかに後方につけ、英ダービーと同じく脚を溜めさせた。そして徐々に位置取りを上げていき、直線では先頭集団に取り付いた。しかしスタートから先頭に立ってずっとレースを支配していたヴェルムト(後にバーデン大賞などに勝っている)に最後まで追いつくことが出来ず、2馬身差の2着に敗れた。人気を集めていたフィーユドレールは3着だったが、本馬が敗れた事にロンシャン競馬場の観衆は大喜びしたそうである。しかし経緯からすればよく頑張ったと言えるだろう。

競走生活(3歳後半)

英国に戻った本馬はスプリングコテージで調整された後に、アスコット競馬場に向かい、トリエニアルS(T8F)に出走。このレースには、前年の英シャンペンSでフィーユドレールを2着に破って勝利し、この年のプリンスオブウェールズS・グランドデュークマイケルSを制し、翌年には2着ジェネラルピールを12馬身ちぎってアスコット金杯を勝ち、さらにグッドウッドCを勝つことになるエリーという強敵の姿があった。しかし本馬が2着エリーに2馬身差をつけて勝利した。7月にはグッドウッド競馬場に向かい、グラトウィックS(T12F)を馬なりのまま勝利した。次走のゼトランドプレートでは対戦相手が現れず単走で勝利した。続くグレートヨークシャーS(T14F)では、エリーとの先行争いを制して直線で先頭に立ち、そのまま勝利するかと思われたが、7ポンドのハンデを与えていたザマイナーという馬にゴール前で強襲されて1馬身差の2着に敗れた。

次走は、それから間もなく行われた英セントレジャー(T14F132Y)となった。ジェネラルピール、ジュライSの勝ち馬カンバスカン(キンチェムの父)、ザマイナー、エリーといった強敵が勢揃いする中で、英ダービーのときよりも遥かに状態が良く見えた本馬は単勝オッズ3倍の1番人気に支持された。レース当時は暴風雨となったのだが、この悪天候にも関わらず、ドンカスター競馬場には、同競馬場がある本馬の地元ヨークシャーのファンが大勢詰めかけて、本馬と鞍上のスノーデン騎手に声援を送った。レースでは得意の後方待機策を採り、直線に入るまでじっと我慢。そして直線では内側を突いて伸びてきて、残り1ハロン地点で外側に持ち出してさらに加速。ゴール前では馬なりのまま走り、2着ジェネラルピールに2馬身差、3着カンバスカンにはさらに頭差をつけて優勝した。

しかし本馬はこのレース中に他馬に誤って蹴られており、膝を痛めていた。レース後の本馬の膝は腫れており、しかも腱の炎症を起こしていた。そのため、次走に予定していたドンカスターCは回避し、そのまま競走馬引退となった。本馬が不在となったドンカスターCは、ジェネラルピールが勝利した。

1年足らずの現役生活で、出走したレースも僅か7戦だったが、英国における競馬関係者の多くは本馬の事を「かつて見た中で最良の馬」と評した。確かに本馬と一緒に戦った馬のレベルはかなり高かったようであるが、果たしてそれだけが理由だろうか。本馬を最初に担当した厩務員が真っ当な人間であれば、おそらく本馬は英2000ギニーも勝って、英国三冠馬になっていただろう。「幻の三冠馬」というその悲劇性もまた本馬の評価をむしろ押し上げているのかもしれない。馬名はスコットランドのパースシャー町にある有名なウイスキー蒸留所のブレアアソール蒸留所にちなんでいる。

血統

Stockwell The Baron Birdcatcher Sir Hercules Whalebone
Peri
Guiccioli Bob Booty
Flight
Echidna Economist Whisker
Floranthe
Miss Pratt Blacklock
Gadabout
Pocahontas Glencoe Sultan Selim
Bacchante
Trampoline Tramp
Web
Marpessa Muley Orville
Eleanor
Clare Marmion
Harpalice
Blink Bonny Melbourne Humphrey Clinker Comus Sorcerer
Houghton Lass
Clinkerina Clinker
Pewett
Cervantes Mare Cervantes Don Quixote
Evelina
Golumpus Mare Golumpus
Paynator Mare
Queen Mary Gladiator Partisan Walton
Parasol
Pauline Moses
Quadrille
Plenipotentiary Mare  Plenipotentiary Emilius
Harriet
Myrrha Whalebone
Gift

ストックウェルは当馬の項を参照。

ブリンクボニーは当馬の項を参照。→牝系:F10号族②

母父メルボルンはウエストオーストラリアンの項を参照。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬に対しては、オーストリア・ハンガリー帝国からも輸入のオファーがあったが、イアンソン氏は拒否した。最終的に本馬は、かつて幼少期に本馬の購入を拒否されたジャクソン氏により5千ギニー(7500ギニーとする資料もある)で購入されて、フェアフィールドスタッドで種牡馬入りする事になった。本馬が種牡馬入りするためにスプリングコテージからフェアフィールドスタッドに向かう道中では、多数の群衆が沿道に立って見送ったという。

本馬は1865年から種付け料100ギニーで種牡馬生活を開始した。しかし1868年、ジャクソン氏の健康状態が悪化した(翌年41歳の若さで病死)ため、本馬はウィリアム・ブレンキロン氏により5千ギニーで購入されてミドルパークスタッドに移動した。ここでは本馬の全弟ブレッドアルバン(米国顕彰馬ヘンリーオブナヴァルの母父ジイルユーストの父)も種牡馬生活を送っていた。後の1870年には本馬より1歳年下の英国三冠馬グラディアトゥールも同牧場にやって来て、しばらくこの3頭が一緒に種牡馬生活を送った。

しかし1872年にブレンキロン氏が死去すると、この3頭はセリに掛けられて分散する事になった。既に種牡馬として成功していた本馬は、タタソールズ社の競売人が「世界最良の馬のために何を話せば良いのか?」と言ったほどで、結局コブハブスタッドのウィリアム・アリソン氏により1万2500ギニーで落札された。本馬は1872・73・75・77年と4度の英首位種牡馬に輝く成功を収めたが、種付け料は100ギニーより上がる事は無かった(1度だけ200ギニーに値上げしようとしたことがあったらしいが、不評だったために断念された)。

1876年に本馬は肺炎に罹り健康状態が悪化したため繁殖牝馬の集まりが悪くなり、種付け料は100ギニーより下がった。1879年にはウルフ氏という人物により4500ギニーで購入され、さらに1881年にはラヴレース卿という人物により1950ギニーで購入されてパウンドスタッドファームに移動した。翌1882年の9月、本馬はランニングから戻ってきた数時間後に馬房内で倒れて息を引き取った。享年21歳だった。診断の結果は肺炎で、既に片方の肺は6年前肺炎に罹った時に機能を失っており、本馬はその後もう片方の肺だけで生きていた事が判明した。遺体はパウンドスタッドファームに埋葬された。

1886年6月に英スポーティングタイムズ誌が競馬関係者100人に対してアンケートを行うことにより作成した19世紀の名馬ランキングにおいては52票を獲得し、第5位にランクされた(1位は65票のグラディアトゥール)。また、同時に行われた「自分の目で見た最も偉大な競走馬」の投票では6票を獲得し、これも第5位となった(これも1位は11票のグラディアトゥール)。前述のとおりグラディアトゥールは本馬と1歳違いなのだが、圧倒的な強さを発揮して19世紀英国最強馬と言われる英国三冠馬グラディアトゥールと本馬の当時における評価にはそれほど大きな差は無かったのである(現在の知名度は天と地ほどの差があるが)。本馬の直系子孫は英国だけでなく米国でも一定の繁栄を示し、何代か続いたが、現在では途絶えている。しかし本馬の直系種牡馬を母系に有する活躍馬は多数出ている。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1866

Scottish Queen

英1000ギニー

1868

Lady Atholstane

ナッソーS

1869

Prince Charlie

英2000ギニー・ミドルパークS・クイーンズスタンドプレート・オールエイジドS3回

1870

Cecilia

英1000ギニー

1870

Tangible

クイーンズスタンドプレート

1871

Ecossais

ニューS・ジュライS・オールエイジドS

1872

Craig Millar

英セントレジャー・ドンカスターC・モールコームS

1872

Palmyra

独ダービー

1872

Skotzka

パークヒルS

1873

Templer

独2000ギニー

1873

Twine the Plaiden

パークヒルS

1874

Covenanter

セントジェームズパレスS

1874

Rob Roy

ニューS

1874

Silvio

英ダービー・英セントレジャー・アスコットダービー・ジョッキークラブC

1875

La Merveille

ケンブリッジシャーH

1875

Redwing

コロネーションS

1882

The Child of the Mist

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