グレンコー
和名:グレンコー |
英名:Glencoe |
1831年生 |
牡 |
栗毛 |
父:スルタン |
母:トランポリン |
母父:トランプ |
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19世紀半ばの米国を代表する大種牡馬となった英2000ギニー馬は繁殖牝馬の父としても超一流の成績を残す |
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競走成績:3・4歳時に英で走り通算成績10戦8勝2着1回3着1回 |
誕生からデビュー前まで
英国の政治家だった第5代ジャージー伯爵ジョージ・チャイルド・ヴィラーズ卿により、英国オックスフォードシャー州ミドルトンストーニーにおいて生産・所有された。体高は15.4ハンド強とそれほど大きくはなく、しかも胴長の背中は途中で窪んでおり(人が乗ると谷に腰掛けているように見えたという)、年を経るにつれてますます弛んだという。しかしながら、額に大きな流星がある綺麗な頭部、美しく成熟した首、深い胴回り、力強い腰を有し、頑丈な四肢のうち両後脚は白毛で覆われているという、見栄えがする馬だったとされている。本馬の体格は概ね父スルタン譲りのものだったという。ヴィラーズ卿の専属調教師ジェームズ・エドワーズ師に預けられた本馬は、2歳時はレースに出ず、3歳時にニューマーケット競馬場においてデビューした。
競走生活(3歳時)
デビュー戦のセカンドリドルズワースSは馬なりのまま他の出走馬3頭を下して勝利した。2日後に出走した100ポンドスウィープSでは、同世代のトップホースだったプレニポテンシャリーとの対戦となった。本馬鞍上のジェームズ・ロビンソン騎手は本馬のスピードを活かして押し切る戦法を採ったが、馬なりのまま追走してきたプレニポテンシャリーにあっさりとかわされてしまい、最後は4馬身差をつけられて2着に敗れた。しかし次走のデザートSは馬なりで勝利した。
そしてデビュー4戦目となった英2000ギニー(T8F)も、ファーストリドルズワースSの勝ち馬ヴィアター、グランドデュークマイケルSの勝ち馬フラットテラー、クリアウェルS・クリテリオンSの勝ち馬ベントレーなどを下して優勝。エドワーズ師は英2000ギニーを4年連続制覇した史上唯一の調教師となるが、その最初の勝利が本馬によるものだった(残り3回はイブラヒム、ベイミドルトン、アクメットによる勝利だが、本馬も含めて4頭全てスルタン産駒である)。
次走の英ダービー(T12F)では、プレニポテンシャリーとシレラーの2頭に屈して、勝ったプレニポテンシャリーから1馬身半差の3着に終わった。その後は第1回セントジェームズパレスSを回避(このレースはプレニポテンシャリーが単走で勝利した)して、その翌日のロイヤルSを単走で勝利した。続いて出走したのは初の古馬相手となるグッドウッドC(T19F)だった。ドンカスターCの勝ち馬ザサドラー、英セントレジャー・ドンカスターCの勝ち馬ロッキンガム、英ダービー馬セントジャイルズ、後に本馬との間にポカホンタスを産むことになるマーペッサといった強豪古馬勢が相手となった。レースではセントジャイルズやマーペッサなどを先に行かせると、「羽のように軽い走り」「最も一般的な馬なりの走り」と評されたほどの馬なりで先頭に立ち、2着コルウィックに4馬身差をつけて楽勝した。次走のレーシングSも他の出走馬3頭を蹴散らして勝利。10月のガーデンSでは、コルウィックやアスコット金杯の勝ち馬グローカスに4馬身差をつけて勝利した。なお、英セントレジャーには出走していない(単勝オッズ41倍の伏兵だった後の大種牡馬タッチストンがプレニポテンシャリーを破って勝利している)。3歳時の成績は9戦7勝で、ロンドンスポーティングマガジン紙は「登場こそ遅かったですが、彼は世界で最良の馬である事を立証しました。同時代には同斤量で彼に敵う馬は少なくとも英国内には存在しませんでした」と評している。
競走生活(4歳時)
翌4歳時の初戦はアスコット金杯(T20F)となった。プレニポテンシャリーはレース直前に回避(そのまま引退)しており、タッチストンも不参戦だったため、本馬を脅かすような馬は存在しなかった。本馬のペースメーカー役として出走した牝馬ミスノーマーが後続を4馬身ほど引き離してハイペースで逃げたが、そのうちに仕掛けた本馬が「鮫から逃げるイルカのように軽く優雅な」走りで、ミスノーマーをかわして先頭に立った。ゴール前ではヨークセントレジャー勝ち馬で英セントレジャー2着馬のブランが追撃してきたが、本馬鞍上のロビンソン騎手は最後まで彫像のように動く事は無く、そのまま押し切って優勝した。その後は7月にザホイップなる距離4マイルのレースに登録したが、対戦相手が全く現れなかったため、レースを走ることなく勝利した。結局4歳時はアスコット金杯の1戦のみで引退した。英2000ギニーを勝てるほどのスピードと、アスコット金杯を勝てるほどのスタミナを兼備した馬だったと評されている。
血統
Sultan | Selim | Buzzard | Woodpecker | Herod |
Miss Ramsden | ||||
Misfortune | Dux | |||
Curiosity | ||||
Alexander Mare | Alexander | Eclipse | ||
Grecian Princess | ||||
Highflyer Mare | Highflyer | |||
Alfred Mare | ||||
Bacchante | Williamson's Ditto | Sir Peter Teazle | Highflyer | |
Papillon | ||||
Arethusa | Dungannon | |||
Prophet Mare | ||||
Mercury Mare | Mercury | Eclipse | ||
Tartar Mare | ||||
Herod Mare | Herod | |||
Folly | ||||
Trampoline | Tramp | Dick Andrews | Joe Andrews | Eclipse |
Amaranda | ||||
Highflyer Mare | Highflyer | |||
Cardinal Puff Mare | ||||
Gohanna Mare | Gohanna | Mercury | ||
Dundas Herod Mare | ||||
Fraxinella | Trentham | |||
Woodpecker Mare | ||||
Web | Waxy | Pot-8-o's | Eclipse | |
Sportsmistress | ||||
Maria | Herod | |||
Lisette | ||||
Penelope | Trumpator | Conductor | ||
Brunette | ||||
Prunella | Highflyer | |||
Promise |
父スルタンは競走馬としては英ダービーでティレジアスの2着に入ったのが目立つ程度だったが、種牡馬としては大成功。本馬を含めて英2000ギニー勝ち馬を5頭も輩出し、ニューマーケット競馬場の王者と言われた。1832年から37年まで6年連続で英首位種牡馬になっている。スルタンの父セリムは現役時代クレイヴンSなど6勝。種牡馬としても複数の英国クラシック競走の勝ち馬を出し、1814年の英首位種牡馬に輝く成功を収めた。セリムの父バザードはクレイヴンS2連覇の他、ジョッキークラブプレートを勝っている。バザードの父ウッドペッカーはヘロド産駒で、クレイヴンSを3度勝っており、同期のポテイトウズとは良い好敵手だった。
母トランポリンはウインザーフォレストSの勝ち馬で、英1000ギニーでは2着だった。本馬の全妹グレンケアーネの牝系子孫は絶大な繁栄ぶりを見せており、主だったところだけでも、英2000ギニー・英ダービーの勝ち馬カメロニアン、豪州の歴史的名馬バーンボロー、英2000ギニー馬ニアルーラ、名障害競走馬マンダリン、キングジョージⅥ世&クイーンエリザベスSの勝ち馬ヴィミー、豪州顕彰馬トドマン、本邦輸入種牡馬マークオブディスティンクション、英ダービー馬ドクターデヴィアス、凱旋門賞馬モンジュー、日本で走ったサッカーボーイ、シンコウキング、ステイゴールド、スズカフェニックス、ダノンシャーク、スノードラゴン、ショウナンパンドラなどが登場している。
トランポリンの母ウェブは大種牡馬ホエールボーンの全妹という良血馬で、繁殖牝馬として優れた成績を残した。トランポリンの半兄ミドルトン(父ファントム)は現役成績1戦1勝だが、その1勝が英ダービーという珍記録保持馬である。トランポリンの半姉フィラグリー(父スースセイヤー)は、コブウェブ【英1000ギニー・英オークス】、シャーロットウエスト【英1000ギニー】、リドルズワース【英2000ギニー】の母となった。コブウェブの子にはベイミドルトン【英2000ギニー・英ダービー】、アクメット【英2000ギニー】、クレメンティナ【英1000ギニー】がいる。ウェブの牝系子孫からはクイーンバーサやラトロワンヌといった根幹繁殖牝馬が出ており、その牝系子孫から出現した活躍馬は星の数ほどいるが、あまりにも多すぎるのでその詳細は本項には記載しない。→牝系:F1号族③
母父トランプはドンカスターCの勝ち馬で、種牡馬としても英仏両国でクラシック競走の勝ち馬を出して成功した。トランプの父ディックアンドリューズは、エクリプス産駒のジョーアンドリューズを父に持ち、現役時代26勝した活躍馬で、種牡馬としても3頭の英国クラシック競走の勝ち馬を輩出した。
競走馬引退後
競走馬を引退した本馬は、タタソールズ社が所有する英国ドーリーウォールファームで種牡馬入りした。初年度の種付け料は80ドルで、ヴィラーズ卿が所有する3頭の牝馬のほかに40頭の繁殖牝馬を集め、初年度産駒は30頭だった。しかし本馬の英国における種牡馬供用期間は僅か1年であり、5歳暮れにジェームズ・ジャクソン氏により購入されて米国に輸入された。ジャクソン氏は愛国系の米国移民であり、ナッシュビルやニューオーリンズで事業家として成功した後、アラバマ州北部のフォークスオブサイプレスに広大な牧場を購入して馬産を開始していた人物で、既に英国からリヴァイアサン(北米首位種牡馬5回。本馬の交配相手となった繁殖牝馬の多くはリヴァイアサン牝駒だった)を輸入するなど、積極的に英国産馬を米国に導入していた。彼はプレニポテンシャリー、英ダービー馬プライアム、本馬のいずれかを売ってくれるようにタタソールズ社に打診した。タタソールズ社は、プレニポテンシャリーとプライアムの2頭は値が付けられないとして売却を断った(ただし結局プライアムも2年後に米国に輸入され、英米両方で首位種牡馬になっている)が、本馬については1万ドルで売却可能であると返答した(ただしヴィラーズ卿が所有する3頭の繁殖牝馬に関しては本馬に自由に交配できる事という条件付きだったという)ため、取引が成立して本馬が米国に輸入される運びとなったのである。本馬は英国から米国に輸入された最初期の種牡馬の1頭であると海外の資料に記載されている(実際には18世紀末に米国に輸入された第1回英ダービー馬ダイオメドが最初期だと思われるのだが)。
ニューヨーク経由でフォークスオブサイプレスに到着した本馬は、種付け料100ドルで種牡馬生活を開始し、フォークスオブサイプレスにおける供用7年間で132頭の産駒を出した。1840年にジャクソン氏が死去したため、彼の遺産管財人の管理となった本馬は1844年にテネシー州ナッシュビルに移動した。その後の1848年にW・F・ハーパー氏により3千ドルで購入されてケンタッキー州レキシントンのナンチュラスタッドに移動。ナッシュビル供用時代の種付け料は50ドルだったが、レキシントン供用時代は100ドルまで回復した。1857年にはアレクサンダー・キーン・リチャーズ氏に購入されてケンタッキー州ジョージタウンのブルーグラスパークスタッドに移動した。リチャーズ氏は史上初の英国三冠馬ウエストオーストラリアンの息子オーストラリアンを米国に輸入した人物である。リチャーズ氏はブルーグラスパークスタッドにやってきた当時26歳の本馬の年齢を感じさせない美しい馬体を記録に残すために、画家のエドワード・トロイ氏に依頼して本馬の肖像画を作成した。それから3週間後の8月25日、肺炎を患った本馬は猛烈な高熱に侵されてそのまま他界した。英国の報道機関によると、本馬は10日間もの間、高熱と疝痛に耐えながら勇ましく立ち続け、最後に鼻から血を流して遂に倒れたという。遺体はブルーグラスパークスタッドに埋葬された。
本馬は米国における22年間の種牡馬生活で481頭の産駒を出した(そのうち約3分の2に当たる317頭が牝馬だったという)と推定されているが、正式な記録に残っている産駒数は僅か54頭である(当時の米国ではサラブレッドの血統を管理するという概念が確立されていなかったようである)。しかも本馬の産駒が競走馬として走っていた時期に南北戦争が勃発し、本馬の産駒も軍馬に徴用されたり、戦火に巻き込まれて死亡したりという不幸があり、ますます本馬の産駒記録は不明瞭なものとなってしまったようである。それでも本馬はレキシントンに次いで米国競馬史上2番目に多い8度の首位種牡馬に輝くという大成功を収めた。レキシントンの活躍馬は本馬の牝駒を母に持つ馬が多く(例を挙げると、レキシントンの後継種牡馬ノーフォーク、12戦無敗の名馬アステロイド、ケンタッキー、メイドン、メリル、サルタナの4頭のトラヴァーズS勝ち馬、ジェロームHの勝ち馬アクロバット、ジェロームHの勝ち馬ワトソン、ケンタッキーオークス馬ネーシーハレ、モンマスオークス馬サリナなど)、本馬は種牡馬レキシントンの大成功の影の立役者であるとされている。
後世に与えた影響
本馬の直系は、直子ヴァンダルから北米首位種牡馬ヴァージル、ケンタッキーダービーを含む18連勝を記録した名馬ヒンドゥー、ベルモントSの勝ち馬で北米首位種牡馬4回のハノーヴァー、ローレンスリアライゼーションSの勝ち馬ハンブルグとサイヤーラインが伸びたが、20世紀初頭には勢力を失い、現在では完全に滅亡してしまっている。本馬の代表産駒は、ヴァンダルの他に、本馬産駒としては最高の馬と言われたプライヤー、15年間米国賞金王に君臨した名牝ペイトナなどがいる。
しかし本馬の功績は競走馬の父としてよりも、繁殖牝馬の父としての方が圧倒的に顕著である。最も有名なのは、英国における僅か1年の供用時代に送り出したポカホンタスである。競走馬時代に本馬と対戦経験もあるマーペッサの初子として産まれたポカホンタスは競走馬としては未勝利に終わったが、その産駒から「種牡馬の皇帝」ストックウェル、ラタプラン、キングトムの3頭の大種牡馬が登場し、近代競馬に計り知れない影響を与えたのである(詳細はポカホンタスの項を参照)。
ポカホンタス以外に優秀な繁殖成績を収めた牝駒には、10歳まで走って40戦27勝だったチャーマー(米国顕彰馬エンペラーオブノーフォーク、7戦無敗のエルリオレイ、73戦44勝のヨタンビエンの牝系先祖)、フロリネ(ベルモントSの勝ち馬スペンドスリフト、ケンタッキーダービー馬チャント、ケンタッキーダービー馬ピンクスターの牝系先祖)、世界的名牝系の祖となったマグノリア(英ダービー・英セントレジャーの勝ち馬イロコイ、ベルモントSの勝ち馬サーディクソン、史上初のニューヨークハンデキャップ三冠馬ウィスクブルーム、名牝トップフライト、ワシントンDC国際S2連覇のボールドイーグル、BCマイルの勝ち馬コジーン、BCジュヴェナイル・プリークネスSの勝ち馬ティンバーカントリー、BCジュヴェナイルの勝ち馬アンブライドルズソング、ドバイワールドCなどの勝ち馬ドバイミレニアムなどの牝系先祖。日本における牝系子孫の活躍も素晴らしく、東京優駿の勝ち馬アサデンコウとメリーナイス、有馬記念と天皇賞春を勝ったアンバーシャダイ、地方競馬史上最強牝馬ロジータ、短距離王サクラバクシンオー、有馬記念馬シルクジャスティス、世界賞金王テイエムオペラオー、名牝カワカミプリンセス、ダート王エスポワールシチーなど活躍馬が多数出現)、ノーヴィス(無敗の名馬ノーフォークの母で、プリークネスSの勝ち馬サヴァイヴァー、トラヴァーズSの勝ち馬ハーミスの牝系先祖)、19世紀米国競馬における最大の繁殖牝馬と呼ばれる現役成績8戦7勝の名牝リール(レキシントンに生涯唯一の黒星をつけたルコントなど10頭の優れた競走馬の母で、ハリウッド金杯を勝った名牝トゥーリー、ケンタッキーダービー・プリークネスSの勝ち馬ティムタム、ニューヨーク牝馬三冠馬クリスエヴァート、BCジュヴェナイルの勝ち馬チーフズクラウン、ケンタッキーダービー馬ウイニングカラーズ、皐月賞・菊花賞の勝ち馬セイウンスカイ、ジャパンC・宝塚記念の勝ち馬タップダンスシチー、東京優駿・NHKマイルCの勝ち馬ディープスカイなどの牝系先祖)などがいる。
主な産駒一覧
生年 |
産駒名 |
勝ち鞍 |
1837 |