スペンドスリフト
和名:スペンドスリフト |
英名:Spendthrift |
1876年生 |
牡 |
栗毛 |
父:オーストラリアン |
母:エアロライト |
母父:レキシントン |
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種牡馬としても大きな成功を収めてマッチェムの直系を英国から米国に広める橋渡し役となったベルモントSの勝ち馬 |
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競走成績:2~5歳時に米英で走り通算成績16戦9勝2着5回 |
誕生からデビュー前まで
米国ケンタッキー州ウッドバーンスタッドにおいて、アレクサンダー・ジョン・アレクサンダー氏により生産された。ウッドバーンスタッドは、本馬が誕生する前年に他界した本馬の母父レキシントンが暮らしていた牧場であり、アレクサンダー氏は、レキシントンの所有者で1867年に死去した兄ロバート・エイチェソン・アレクサンダー氏からウッドバーンスタッドの経営を受け継いだ人物だった。
本馬は1歳時にケンタッキー州レキシントンにあったエルメンドルフファームの牧場主ダニエル・スウィガート氏に1000ドルで購入された。スウィガート氏の妻は浪費癖があったらしく、スウィガート氏はそれにちなんで本馬に「浪費家」という意味のスペンドスリフトという名前を付けた。本馬は非常に見栄えが良い馬で、乗りやすい馬だったという。また、重馬場を得意とし、逆にあまり堅い馬場は脚に負担がかかるので良くなかったという。
競走生活(2歳時)
2歳9月にレキシントンで行われたレースで競走馬デビューした。レースは不良馬場だったが、前述のとおり湿った馬場大歓迎の本馬は4馬身差で圧勝した。次走のサンフォードS(後に本馬の曾孫マンノウォーが生涯唯一の敗戦を喫したサンフォードSとは同名だが直接の関係は無い別競走である)は良馬場となったがこれも勝利。3戦目は、売上金を黄熱病患者援助基金に寄付するレースとなり、3馬身差で勝利した。続いてテネシー州ナッシュビルに移動してヤングアメリカS(これまた後のGⅠ競走ヤングアメリカSとは同名の別競走である)に出走。後のケンタッキーダービー馬ロードマーフィーを下して勝利した。次走のマイル戦でも再度ロードマーフィーを下して勝ち、2歳時の成績は5戦全勝となった。
本馬の活躍ぶりは米国東海岸の競馬関係者の注目を浴び、スウィガート氏の元には本馬を購入したいという申し出が次々にやって来た。ジェームズ・ゴードン氏という人物は1万ドルを提示したが断られた。次にジェームズ・R・キーン氏という人物が1万5千ドル(今日の貨幣価値だと37万ドルに相当するという)を提示し、この金額で取引が成立した。キーン氏は英国産まれで、若い頃に家族と一緒に米国に渡り、カリフォルニア州の鉱山会社への投資事業などで成功した人物で、本馬が産まれた年にニューヨークに移住して競走馬の所有を開始していた。19世紀後半から20世紀初頭にかけて米国競馬界をリードする事になる人物であるが、彼が最初に所有した大物競走馬が本馬であった。キーン氏の所有となった本馬は、ニュージャージー州ラザフォードのヴァレーブルックファームでトマス・パーリヤー大佐の調教を受けた。
競走生活(3歳時)
3歳時はまずウィザーズS(D8F)に出走したが、同厩のダンスパーリングの2着に敗れた。しかし5日後に出走したベルモントS(D12F)では湿った馬場状態にも助けられて、後のジェロームH・ロングブランチH2回・米チャンピオンSの勝ち馬モニターを2着に、プリークネスS2着馬ジェリコを3着に、ウィザーズSでも対戦したプリークネスSの勝ち馬ハロルドを着外に破って楽勝した。次走のロリラードS(D12F)では、スタートで他馬(ハロルドかマグネティズムのいずれかとされている)に蹴られて出遅れてしまった。それでも追い上げて先頭のハロルドに並びかけると、最後は1馬身差で勝利した。続くジャージーダービー(D12F)ではウィルフルという馬との2頭立てとなり、本馬が勝利した。
次走のトラヴァーズS(D14F)では、ハロルド、ダンスパーリングに加えて、ファルセットという強敵が相手となった。ファルセットはケンタッキーダービーこそロードマーフィーの2着に敗れていたが、フェニックスホテルS・クラークSに勝つなど当時の有力馬として知られていた。本馬は既にトップクラスの3歳馬という名声を得ていたが、この時期に元々強いとは言えなかった本馬の脚に不安が発生していた。それが影響したのか、このトラヴァーズSではファルセットの2馬身差2着に敗れてしまった(ハロルドが3着だった)。次走のケナーS(D16F)でもやはりファルセットの2馬身差2着と同様の結果となった(ジェリコが3着で、モニターやハロルドは着外だった)。モンマスパーク競馬場で出走した新設競走の米チャンピオンS(D12F)では、ファルセットが不在だった事もあり、ウィザーズSで本馬に次ぐ3着だったレポートを2着に、この年のサラトガC・モンマスC・ブライトンC・ウエストチェスターC・ボルチモアCを勝って後にこの年の米最優秀ハンデ牡馬に選ばれるブランブル(ベンブラッシュの父)を3着に、ハロルドを着外に破って勝利した。しかし次走のジェロームH(D16F)では、モニターの2着に敗退(レポートが3着だった)。その後故障のため3歳シーズンを棒に振る事になった。それでも3歳時8戦4勝の成績で、後年になってファルセットと共にこの年の米最優秀3歳牡馬に選出されている。
競走生活(4・5歳時)
翌4歳時は同じくキーン氏の所有馬になっていたロードマーフィーやフォックスホールと共に英国に遠征した。フォックスホールは欧州における長期間の遠征でパリ大賞やアスコット金杯を勝利するという快挙を達成した。しかし一方の本馬は病気になってしまい、ケンブリッジシャーH(T9F)で牝馬ルセッタの着外(クレイヴンSの勝ち馬でセントジェームズパレスSではベンドアの2着だったフェルナンデスが2着で、前月の英セントレジャーでロバートザデヴィルの2着してきた牝馬シポラータが3着だった)に敗れた1戦のみで帰国した。本馬が敗れたケンブリッジシャーHは、翌年にフォックスホールが勝利を収めて本馬の雪辱を果たしてくれている。4歳時は1戦未勝利の成績だった。
翌5歳時は2戦したが2着1回着外1回の成績に終わり、結局古馬になって以降は勝利を挙げられずに競走馬引退となった。
血統
Australian | West Australian | Melbourne | Humphrey Clinker | Comus |
Clinkerina | ||||
Cervantes Mare | Cervantes | |||
Golumpus Mare | ||||
Mowerina | Touchstone | Camel | ||
Banter | ||||
Emma | Whisker | |||
Gibside Fairy | ||||
Emilia | Young Emilius | Emilius | Orville | |
Emily | ||||
Shoveler | Scud | |||
Goosander | ||||
Persian | Whisker | Waxy | ||
Penelope | ||||
Variety | Soothsayer | |||
Sprite | ||||
Aerolite | Lexington | Boston | Timoleon | Sir Archy |
Saltram Mare | ||||
Sister to Tuckahoe | Ball's Florizel | |||
Alderman Mare | ||||
Alice Carneal | Sarpedon | Emilius | ||
Icaria | ||||
Rowena | Sumpter | |||
Lady Grey | ||||
Florine | Glencoe | Sultan | Selim | |
Bacchante | ||||
Trampoline | Tramp | |||
Web | ||||
Melody | Medoc | American Eclipse | ||
Young Maid of the Oaks | ||||
Haxall's Moses Mare | Haxall's Moses | |||
Whip Mare |
父オーストラリアンは史上初の英国三冠馬ウエストオーストラリアンの子で、英国産馬である。幼少期に自身の母エミリアと共に米国に輸入され、ミリントンという名前で競走馬となり、いくつかのレースに勝利した。後に本馬の生産者アレクサンダー氏の兄ロバート・アレクサンダー氏により購入されてオーストラリアンと改名され、1戦だけして競走馬を引退。その後はウッドバーンスタッドで種牡馬入りした。当時ウッドバーンスタッドには大種牡馬がおり、オーストラリアンはその影に隠れた存在ではあったが、それでも北米種牡馬ランキングで4回2位になる優秀な種牡馬成績を収めた。本馬の母エアロライトはそのレキシントン牝駒であり、オーストラリアンはレキシントン牝駒との交配で活躍馬を出した一面がある。
母エアロライトは不出走馬だが、1860年代の米国で活躍した名牝アイドルワイルドの全妹だった。繁殖牝馬としては優秀で、レキシントンが樹立した4マイルの全米レコードを19年ぶりに更新した本馬の全兄フェロークラフトも産んでいる。また、本馬の全姉ジャージーベルの孫にはマクダフ【シャンペンS】、曾孫にはピンクスター【ケンタッキーダービー】が、本馬の半姉プラチナ(父プラネット)の子にはドレイクカーター【モンマスH】、孫にはベルサン【トラヴァーズS・クラークH】が、本馬の半妹アディーシー(父キングアルフォンソ)の子には本馬との対戦成績2戦2勝だったファルセットの息子でもあるチャント【ケンタッキーダービー・クラークH】がいる。しかし本馬の牝系は米国在来の牝系であり、英国血統書(ジェネラルスタッドブック)に載っていないものだった事もあり、それ以上の発展はしなかった。→牝系:A3号族
母父レキシントンは当馬の項を参照。
競走馬引退後
競走馬を引退した本馬は種牡馬になる事になったが、キーン氏は当時種牡馬を繋養できる牧場を所有しておらず(後年、ケンタッキー州のキャッスルトンファームを購入し、数々の名馬を送り出す事になるが、本馬の競走馬引退から10年以上も先の話である)、本馬はウィリアム・ケニー氏という人物がケンタッキー州レキシントンに所有していた牧場で7歳時から種牡馬入りした。本馬が8歳の時にキーン氏は市場の大暴落で全財産を一時的に失い、本馬を手放す羽目になった。本馬はその後レキシントン在住のE・M・ノーウッド博士という人物の所有馬となり、さらにジョンソン・N・カムデン上院議員とオーヴァートン・シュノー氏、クリストファー・シュノー氏の3名に共同購入されてハートランドスタッドに移動した。後に本馬の名を冠したスペンドスリフトスタッド(本馬の2歳時の馬主だったスウィガート氏の孫ブラウネル・コームズ氏が創設したスペンドスリフトファームとは別の牧場)に移動した。本馬が16歳時にこの3名の共同所有が解消されると、オーヴァートン・シュノー氏は13500ドルで本馬の所有権を全て入手し、本馬を自身が所有するレキシントンのシュノーズファームで繋養した。
本馬は初年度産駒からキングストンを輩出するなど、各地の繋養先で活躍馬を送り出した。1900年に体調を崩し、この年の10月にシュノーズファームにおいて24歳で他界した。
本馬の直系は後継種牡馬ヘイスティングスにより後世に伝えられ、21世紀に至るまで残っている。なお、ヘイスティングス自身やヘイスティングスの血を受け継ぐ馬の多くは気性が激しい事で知られたが、本馬自身からはそうした気性の激しさは微塵も感じられなかったという。
主な産駒一覧
生年 |
産駒名 |
勝ち鞍 |
1884 |
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1890 |
Stowaway |
トラヴァーズS |
1891 |
Assignee |
プリークネスS |
1891 |
Lazzarone |
サバーバンH |
1891 |
Selika |
ケンタッキーオークス |
1893 |
ベルモントS・トボガンH |