ベンブラッシュ

和名:ベンブラッシュ

英名:Ben Brush

1893年生

鹿毛

父:ブランブル

母:ローズヒル

母父:リフォーム

2歳時から大活躍した距離短縮後初のケンタッキーダービー優勝馬は種牡馬としても活躍し一世を風靡する

競走成績:2~4歳時に米で走り通算成績40戦25勝2着5回3着5回

誕生からデビュー前まで

ミスウッドフォードハノーヴァーなどを世に送り出した米国ケンタッキー州の名門牧場ラニミードスタッドにおいて、同牧場の所有者ケーツビー・ウッドフォード大佐とエゼキエル・フィールド・クレイ大佐により生産された。ただし、実際に両親の交配を実行に移したのは母ローズヒルの所有者だった馬主兼馬産家兼調教師のH・ユージーン・リー氏であり、リー氏は本馬を受胎中のローズヒルをラニミードスタッドに売却していたのだった。

誕生した本馬は、ラニミードスタッドにおける当歳時のセリで、事実上の生産者リー氏とエドワード・D・ブラウン氏の両名により1200ドルで購入された。

競走生活(2歳時)

調教師でもあったブラウン氏の管理馬となった本馬は、2歳5月にチャーチルダウンズ競馬場で行われたダート5ハロンの一般競走でデビューすると、2着キャプティヴに5馬身差をつける圧勝を果たした。8日後のカデットS(D4.5F)も3馬身差で完勝。6月に出走したハロルドS(D5F)では、ニムロッドやザドラゴンという同世代の有力馬が対戦相手となったが、まったくの馬なりのまま走った本馬が、10ポンドのハンデを与えた2着ニムロッドに3馬身差で勝利した。7月にはオハイオ州オークリー競馬場に向かい、エメラルドS(D5F)に出走して、2着ラミロに2馬身差で勝利した。さらにダイヤモンドS(D5.5F)に出走すると、2着ベンエダーに1馬身差で勝利を収め、デビュー5連勝とした。

そこで、8月にニューヨーク州に遠征した。まずはシープスヘッドベイ競馬場に向かい、ダート6ハロンの一般競走に出たが、勝ったライトロイヤルに5馬身差をつけられた3着と初黒星。9月に出たダート5ハロンのハンデ競走では、19ポンドのハンデを与えた2着マッスルマンに1馬身差で勝利した。5日後に出走したフラットブッシュS(D7F)では、同世代におけるニューヨーク州最強のリクァイタルとの顔合わせとなった。ここでは直線で先に先頭に立つもリクァイタルに差されて、2馬身差の2着に敗退。さらに4日後のグレートイースタンH(D5.75F)では、牝馬ワンアイラヴの8着と大敗した。しかしグレーヴセンド競馬場に移動して出走したホーリーH(D5F)では、前走グレートイースタンHで2着だったマーグレイヴ(翌年のプリークネスSやタイダルSの勝ち馬)を1馬身差の2着に抑えて勝利した。

ケンタッキー州産馬を田舎者として馬鹿にしていたニューヨーク州の競馬ファンは本馬の事を「過大評価されている山羊」に過ぎないと嘲笑していたのだが、このホーリーHを見て本馬を評価した人物がいた。それは米国の事業家で、本馬の父ブランブルの現役時代の所有者でもあったドワイヤー兄弟(米国の3歳馬限定競走ドワイヤーSの名の由来となっている)の一人マイケル・F・ドワイヤー氏だった。借金まみれのギャンブラーとして当時も今も評判が悪いドワイヤー兄弟だが、相馬眼は確かであり、大枚をはたいて本馬を購入した(購入金額は公式には不明だが、1万2千ドルから1万8千ドルまでの間だったとされている。“Thoroughbred Heritage”ではその中間を取って1万5千ドルとしている)。そして本馬はハーディ・キャンベル・ジュニア厩舎に転厩した。

食肉業で財を成したドワイヤー兄弟は、競走馬も家畜としてしか見ておらず馬を酷使する事でも知られており、この名馬列伝集においても彼等の犠牲となった数々の名馬を紹介してきた。本馬もまた同様の目に遭うことは避けられなかった。もっとも、ドワイヤー兄弟の所有馬として走ったトップホースは本馬が最後であり、もう彼等の犠牲馬を紹介する機会は無いので安心してほしい。

まずはホーリーHの13日後にグレーヴセンド競馬場ダート5.5ハロンの一般競走に出走。このレースから本馬の主戦はウィリー・シムス騎手が務める事になった。アフリカ系米国人のシムス騎手は、一昨年、前年と2年連続で北米首位騎手に輝いていた当時のトップ騎手で、ケンタッキーダービー・プリークネスS・ベルモントSと後に米国三冠競走に位置付けられる3競走を全て勝利した史上唯一のアフリカ系米国人騎手として、後の1977年に米国競馬の殿堂入りも果たす名手だった。この新コンビ初戦は馬なりのまま走った本馬が、2着マーグレイヴに半馬身差で勝利した。その5日後にはプロスペクトH(D6F)に出走して、ホーリーHで3着だったクレッシェンドを2馬身差の2着に、この年のトレモントS・ダブルイベント2回などを勝つハンドスプリングを3着に破って勝利。

その7日後には古馬相手のヘビーH(D6F)に出走。名前が“Heavy Handicap”だったこのレースは、馬場状態も重馬場(a heavy track)だった。しかし本馬は基本的に重馬場を苦にしない馬であり、ここでも2着サルヴェーブルに1馬身半差で勝利した。その3日後にはモリスパーク競馬場に場所を移してナーサリーH(D6F)に出走。127ポンドという2歳馬としてはかなり厳しい斤量が課せられたが、スプリングS・ホワイトプレインズH・グランドユニオンホテルS・ジューンSを勝っていた同世代トップクラスのハズレットを半馬身差の2着に抑えて勝利した。その16日後にはアルバニーS(D6F)に出走。今回は128ポンドが課せられてしまったが、それでも2着メリープリンスに3/4馬身差で勝利した。そして同じ日にはシャンペンS(D7F)に出走して、10ポンドのハンデを与えた2着プリンスリーフに半馬身差で勝利した。さすがにこの年はここで出走が終わった。

2歳時の成績は16戦13勝と抜群で、ベルモントフューチュリティSを勝ったリクァイタルと共に、後年になってこの年の米最優秀2歳牡馬に選ばれている。2歳シーズン後半の本馬の強さは印象的であり、米国ジョッキークラブの公式ハンデキャッパーだったウォルター・S・ヴォスバーグ氏は「1歳年上の馬と戦わせても勝てるでしょう」と賞賛した。相変わらず本馬に対して偏見を抱いていたニューヨーク州の競馬ファンの多くは「そんな事などあり得ない」と否定的だったが、実際に本馬が勝利したヘビーHでは年上の馬を破っているから、ニューヨーク州の競馬ファンの見解は現実を見ていないものであり、専門家であるヴォスバーグ氏の意見のほうが正しいだろう(ヘビーHにおける本馬の斤量は108ポンドと恵まれていたのは確かだが)。

競走生活(3歳時)

3歳時は5月のケンタッキーダービー(D10F)から始動した。1875年創設のケンタッキーダービーは範となった英ダービーと同じく距離12ハロンで実施されていたのだが、この年から距離10ハロンに短縮されていた。それでも過去に本馬が出走したレースの最長距離が7ハロンだった事を思えば、距離面の不安があることは否めなかった。さらに悪いことに、本馬はスタート直後に躓いて体勢を崩し、鞍上のシムス騎手は危うく落馬するところだった。それでも何とか体勢を立て直すと、既に前を行っていた他馬勢を追撃。向こう正面で馬群に追いつくと、先頭のファーストメイトをかわして一気に先頭に立ってしまった。過去最長距離のレースで、スタートで出遅れた上に、こんなに早く仕掛けてしまっては、弥生賞におけるサイレンススズカのように直線で失速するのが関の山なのだが、本馬にはそんな競馬の常識は通用せず、直線で並びかけてきたアーカンソーダービー2着馬ベンエダーとの競り合いを鼻差で制して勝利。ケンタッキーダービーが現在の距離になった以降では初めての勝ち馬となった。また、恒例となっているケンタッキーダービー勝利馬に掛けられる薔薇のレイに関してもこの年から開始されており、本馬は薔薇のレイを掛けられた初のケンタッキーダービー馬という栄誉も手にした。

しかしレース中にシムス騎手は本馬に拍車(靴のかかとに装着して、馬の腹を刺激する金具)を使い過ぎたらしく、レース後にシムス騎手が本馬の脇腹に目をやると、そこは血に染まっていた。勝った瞬間には勝利の雄叫びを上げたシムス騎手だったが、本馬の脇腹を見て「何て恥ずかしい騎乗をしてしまったのか!」と涙を流して自分を責めた。それでもチャーチルダウンズ競馬場の審判員をしていたクラーク大佐は「それは私が過去に見てきたどんなレースよりも素晴らしいものでした。世界中で行われてきた全ての名勝負と比べてもきっと遜色ないものだったでしょう」と肯定的な評価をしている。

その10日後には同じチャーチルダウンズ競馬場でシュルテS(D8F)に出走して、アーカンソーダービー・テネシーオークスの勝ち馬レディイネツと1着同着。同日中に同コースの決勝戦を走り、今度はレディイネツに1馬身差で勝利した。なお、レディイネツとベンエダーはいずれもウィリアム・マクギガン氏という人物の所有馬だったのだが、この2頭が本馬にとって将来の禍根となる事を懸念したドワイヤー兄弟は、後にマクギガン氏から2頭共に購入して自分達の所有馬としてしまい、本馬の邪魔にならないようにしている。その5日後にはオークリーダービー(D10F)に出走したが、プリンスリーフ、ベンエダーの2頭に屈して、プリンスリーフの1馬身半差3着に敗退。少し間隔を空けて3週間後のバックアイS(D9F)に出走し、今度はプリンスリーフを頭差の2着に破って勝利した。この1週間後のナショナルダービー(D12F)でも、プリンスリーフ、ベンエダーとの顔合わせとなった。ベンエダーはこの時点で既にドワイヤー兄弟の所有馬となっていたため、事実上は本馬とプリンスリーフの対決だった。レースでも同斤量のこの2頭がゴール前で大激闘を演じたが、プリンスリーフが頭差で勝利を収め、本馬は2着に敗れた(2頭より5ポンド斤量が軽かったベンエダーが3着だった)。さらに5日後のラトニアダービー(D12F)では、2着ベンエダーに1馬身半差で勝利した。

その後は何事かあったのか、2か月近く間隔が空き(理由は海外の資料に明記されていない。単なる夏休みだった可能性もあるが、ドワイヤー兄弟の過去の行動からして少し考え辛い)、8月にシープスヘッドベイ競馬場で行われたフォールH(D5.75F)で復帰した。しかし、トレモントSの勝ち馬ゴッサム、ハンウェル、オーシャンHの勝ち馬バックマッシーとのゴール前の大接戦に屈して、勝ったゴッサムから僅か首差の4着に敗れた。3日後のシープスヘッドベイ競馬場ダート8ハロンのハンデ競走では、鼻差で1位入線するも進路妨害で失格となった。繰り上がって勝ったのは、この年のケンタッキーオークス・ラトニアオークス・シンシナティオークスなどの勝ち馬スーフレで、翌月にジェロームHを勝ち、後にこの年の米最優秀3歳牝馬に選出されている。3歳時の出走はこれが最後となった。3歳時は8戦(決勝戦を含めれば9戦)して4勝の成績で、後年になって選定された米最優秀3歳牡馬のタイトルは獲得できなかった(ローレンスリアライゼーションS・ツインシティHを勝ったリクァイタルが米年度代表馬と共々選出されている)。

競走生活(4歳時)

4歳6月に復帰すると、この年は3か月半の間に16戦という過密日程で走る事になる。まずはグレーヴセンド競馬場ダート8.5ハロンの一般競走に出て、カーターHの勝ち馬プレミアの首差2着。5日後のグレーヴセンド競馬場ダート8ハロンの一般競走では、一昨年のプリークネスS・ベルモントSを勝っていたベルマーとの対戦となったが、2着ベルマーに3馬身差で勝利。その5日後にはトップハンデとなる123ポンドを背負って出たサバーバンH(D10F)で、2着ザウィナー(ジェトームHとメトロポリタンHで2着していた)に1馬身差で勝利した。次走のシープスヘッドベイH(D8F)では、128ポンドの斤量が堪えたのか、前走サバーバンHで3着だったハボックの9馬身3/4差6着に完敗。3日後のロングアイランドH(D9F)では、かつてドミノヘンリーオブナヴァルといった実力馬達と互角に戦い、米最優秀3歳牡馬・米最優秀ハンデ牡馬にも選ばれ、さらに後には本馬より69年遅れで米国顕彰馬にも選ばれるクリフォード、前年のブルックリンHを筆頭にグレートアメリカンS・タイダルS・オムニウムH・ロリラードS・ロングアイランドHなどを勝っていたサーウォルターという2頭の強豪7歳馬との対戦となった。結果はクリフォードが勝ち、サーウォルターが2着で、本馬はクリフォードから2馬身半差の4着に敗れた。シープスヘッドベイHもロングアイランドHも、本馬の脚に異変を感じていたシムス騎手が全力疾走させることを避けて、ゴール前では馬なりのまま走らせた結果の敗戦でもあったのだという。

4日後のブライトンH(D10F)では少し調子が戻っていたようで、ロングアイランドHと同じ125ポンドを背負いながらも、2着ザフライアー(シャンペンSの勝ち馬で、後のローレンスリアライゼーションSの勝ち馬)に2馬身差で勝利した。その19日後のミッドサマーH(D8F)ではやはり125ポンドを課せられた。ここでも本馬の脚には変調が起きており、シムス騎手が無理に追わなかったために、サーウォルターの1馬身差3着に敗れた。さらに10日後に出たシチズンズS(D10F)ではやはり125ポンドを背負いながら、クリフォードを1馬身差の2着に退けて勝利した。125ポンドの斤量で好走を続けたためか、シチズンズSの10日後に出たブライトンC(D18F)では130ポンドが課せられた。さすがにこの距離でこの斤量は厳しかったようで、勝ったザフライアーから10馬身差をつけられた3着最下位に敗れた。

9日後に出たシープスヘッドベイ競馬場ダート9ハロンのハンデ競走では127ポンドに斤量が下がったが、このレースでシムス騎手が本馬の鞍上から一時的に降ろされた影響があったのか、サーウォルターの1馬身差3着に敗れた。シムス騎手が降ろされた理由は不明だが、脚部不安を抱える本馬をまともに追わないレースが何度かあったのがドワイヤー兄弟のお気に召さなかったのではないかと思われる。しかしここでシムス騎手を降ろして敗戦した事に関して世間から轟々たる非難を受けたドワイヤー兄弟は、さすがにすぐにシムス騎手を本馬の鞍上に戻したのだった。

5日後のオムニウムH(D9F)では125ポンドを背負わされた。しかもクリフォードに加えて、同世代のベルモントSの勝ち馬ヘイスティングスという強敵が参戦してきた。しかし本馬がヘイスティングスを3/4馬身差の2着に、クリフォードを3着に下して勝利した。10日後のオリエンタルH(D10F)では127ポンドを背負わされてしまい、ハボックの鼻差2着に敗れた。それから4日後のファーストスペシャルS(D8.5F)では、リクァイタル、ヘイスティングスといった強敵揃いのレースとなったが、2着ヘイスティングスに2馬身差、3着リクァイタルにはさらに5馬身差をつけて圧勝した。次走は1週間後のセカンドスペシャルSのはずだったが、余程余裕があったのか、5日後の一般競走に出走。対戦相手が集まらず単走で勝利した。その2日後にセカンドスペシャルS(D10F)に出走した。対戦相手は1頭だけだったが、その1頭は、クラークH・オークリーダービー・ラトニアダービー・セントルイスダービー(本馬が前年に敗れたナショナルダービーから名前が変わった同一競走)などを勝ち、後にこの年の米最優秀3歳牡馬に選ばれるオーナメントだった。しかしオーナメントより9ポンド重い斤量を背負っていた本馬が3馬身差で勝利した。

その4日後にグレーヴセンド競馬場ダート8.5ハロンの一般競走に出走。しかしヘイスティングスの半弟で当時2歳だった後のケンタッキーダービー馬プローディットに敗れて頭差の2着。兄の敵を弟に取られた。なお、プローディットを管理していたのは、本馬のかつての所有者兼管理調教師だったブラウン氏であり、この点においても因縁めいている。もっとも、本馬はプローディットより36ポンドも重い斤量を背負っていたから、実力負けであるとはとても言えない。本馬はこのレースを最後に競走馬を引退。4歳時は16戦8勝の成績だった。後年になって選定された米年度代表馬の座はセカンドスペシャルSで破ったオーナメントに譲ったが、米最優秀ハンデ牡馬には選出された。

馬名と特徴に関して

馬名は最初の所有者兼調教師だったブラウン氏の命名によるもので、ニューヨーク州シープスヘッドベイ競馬場の代表者だったベン・ブラッシュ氏に由来する。ブラウン氏がシープスヘッドベイ競馬場に厩舎を構えようとした際に、ブラッシュ氏がそのための場所を確保してくれた事に対する感謝の念を込めたものだったという。ブラッシュ氏は非常に厳格な人物として知られており、当時の競馬関係者達から恐れられていた。そんなブラッシュ氏だが、自分と同じ名前をブラウン氏が本馬に付ける事はあっさり許可したため、とある人物が「他の人には厳しいのにブラウン氏に対して寛大であり、相手によって態度が違いすぎるのでは?」とブラッシュ氏に対して不満を漏らすと、ブラッシュ氏は「お前のような鬱陶しい輩の相手をする事に比べれば、自分と同じ名前の馬がいる事くらい、全然たいしたことは無いよ!」と言い返いたという逸話がある。

かなり頑健に走り続けて一流の成績を残した本馬だったが、その馬体は小柄で脚は短く、見栄えは良くなかったらしい。競馬歴史研究家ジョー・パルマー氏は著書“Names in Pedigrees”の中で、本馬に関して「特別に印象に残るような馬体ではありませんでした」と述べている。

血統

Bramble Bonnie Scotland Iago Don John Waverley
Comus Mare
Scandal Selim
Haphazard Mare
Queen Mary Gladiator Partisan
Pauline
Plenipotentiary Mare  Plenipotentiary
Myrrha
Ivy Leaf Australian West Australian Melbourne
Mowerina
Emilia Young Emilius
Persian
Bay Flower Lexington Boston
Alice Carneal
Bay Leaf Yorkshire
Maria Black
Roseville Reform Leamington Faugh-a-Ballagh Sir Hercules
Guiccioli
Pantaloon Mare Pantaloon
Daphne
Stolen Kisses Knight of Kars Nutwith
Pocahontas
Defamation Iago
Caricature
Albia Alarm Eclipse Orlando
Gaze
Maud Stockwell
Countess of Albemarle
Elastic Kentucky Lexington
Magnolia
Blue Ribbon Revenue
Parachute 

父ブランブルはボニースコットランド産駒で、前述のとおりドワイヤー兄弟の所有馬として走り、50戦31勝の成績を残した。2歳時にヤングアメリカSに勝利。3歳時にはアメリカンスタリオンS・フォールマックスウェルハウスSに勝利し、ウィザーズS・ベルモントS・トラヴァーズSで各2着。4歳時にはボルチモアC・ウエストチェスターC・モンマスC・サラトガC・ブライトンC・コングレスホールSに勝利。5歳時にはセンテニアルSに勝利と、2歳から5歳まで頑健に走り続けた。20戦15勝の成績を挙げた1879年には米最優秀ハンデ牡馬に選ばれている。種牡馬としては当初ボニースコットランドが繋養されていたテネシー州ナッシュビル近郊のベルミードスタッドにいたが、後にリー氏に購入されてラニミードスタッドに移動していた。息子の本馬は小柄な馬だったが、父のブランブルはさらに小さかったらしく、“Names in Pedigrees”によると、本馬より頭一つ分だけ背が低かったという。

母ローズヒルの競走馬としての経歴は不明。その産駒には、本馬の半弟アホム(父サーディクソン)【ブルックリンダービー】もいる。ローズヒルの1歳年下の全弟にはアズラ【ケンタッキーダービー・トラヴァーズS・クラークH】がいる。→牝系:A1号族

母父リフォームはリーミントン産駒で、ナーサリーSで2着、ウィザーズSで3着している。目立つ勝ち鞍は無いが、サラトガ競馬場ダート14ハロンのコースレコード3分05秒75を計時した事もあるスタミナ自慢の馬だった。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は、馬産には興味が無いドワイヤー兄弟の手を離れて、ジェームズ・R・キーン氏に売却された。当時キーン氏は、1897年に他界したドミノの後釜となる種牡馬を求めていたのだった。キーン氏がケンタッキー州に所有していたキャッスルトンスタッドで種牡馬入りした本馬は、スウィープ、デリー、ブルームスティックなどの活躍馬を送り出し、1909年の北米首位種牡馬に輝く成功を収めた。1913年にキーン氏が死去した後は、米国の上院議員だったジョンソン・N・カムデン氏に1万ドルで購入され、カムデン氏所有のハートランドスタッドに移動。1918年6月に25歳で他界した。ハートランドスタッドには墓碑が建てられたが、何故か1917年没と誤った没年が記載されている(理由は不明)。1955年には初年度で米国競馬の殿堂入りを果たした。

本馬の直系は、スウィープとブルームスティックの2頭の後継種牡馬を経由して20世紀上四半期の米国競馬界で一大勢力を築いた。現在では直系は途絶えているが、本馬の血を受け継いでいる活躍馬は数多く、1972年以降に登場したケンタッキーダービー馬は全て本馬の血をどこかしこに受け継いでいる。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1901

Broomstick

トラヴァーズS

1901

Delhi

ベルモントS・ウィザーズS・ブルックリンH

1904

Gretna Green

カーターH

1907

Sweep

ベルモントS・ベルモントフューチュリティS・ローレンスリアライゼーションS

1912

Pebbles

メイトロンS

1917

Lorraine

ケンタッキーオークス

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