クリフォード

和名:クリフォード

英名:Clifford

1890年生

黒鹿

父:ブランブル

母:ダッチェス

母父:キングフィッシャー

生涯62戦して着外は大きく出遅れた2戦のみ、ヘンリーオブナヴァルやベンブラッシュといった強豪馬達と互角に張り合い、死後97年目に米国顕彰馬に選ばれる

競走成績:2~7歳時に米で走り通算成績62戦42勝2着10回3着8回

誕生からデビュー前まで

かつて本馬の父方の祖父に当たる名種牡馬ボニースコットランドが繋養されていたテネシー州ナッシュビル近郊の名門牧場ベルミードスタッドにおいて、同牧場の所有者ウィリアム・ヒックス・ジャクソン将軍により生産された。

1歳4月にベルミードスタッドが実施したセリに出品されたが、その馬体は「売りに出されたあらゆる生き物の中でも最も貧相なものの1つに見えた」と評されたほど見栄えが悪かったようである。それでも買い手は付き、W・J・チェリー氏という人物により900ドルで購入された。しかしチェリー氏は速やかに本馬を転売。本馬はケンタッキー州レキシントン在住のクリフォード・ポーター氏という人物の所有馬となった。ポーター氏は自分の名前をそのまま本馬に付けた。

競走生活(2・3歳時)

2歳9月にケンタッキー州ラトニア競馬場で行われたダート4.5ハロンの未勝利戦でデビューして、初戦で勝ち上がった。2歳時の出走はこの1戦のみだったが、本馬に注目したH・ユージーン・リー氏という人物が現れてポーター氏と交渉し、本馬を4千ドルで購入した。後に本馬と戦うことにもなる同父の名馬ベンブラッシュの実質的な生産者となり、マンノウォーの祖母メリートークンを英国から米国に輸入するなど、米国競馬史に決して小さくない功績を残すリー氏は、本馬を買った時点で既に40年間も馬産家・馬主・調教師をしており、その長年に渡る経験から本馬の素質を感じ取ったそうである。本馬は、リー氏と彼の知人であるブックメーカー業者ロバート・L・ローズ氏の共同所有馬となり、リー氏の調教を受けた。

3歳初戦はスタートで大きく出遅れてしまい、生涯2度しか無い着外の1回目を喫した。しかし翌日に出走したフェニックスH(D9F)ではすぐに巻き返して勝利を収めた。その後に出走したラトニアスプリングプライズH(D9F)も勝利した。するとケンタッキー州を飛び出してシカゴのホーソーン競馬場に向かい、5週間の間に11連勝した。この中には133ポンドを背負ってのものも含まれており、他馬に25ポンド以上のハンデを与えての勝利は日常茶飯事だった。オースティンHでは遂に140ポンドを課せられてしまい、36ポンドのハンデを与えた馬の3着に敗れ、連勝は止まった。しかし賞金7千ドルのスペシャルスウィープSでは巻き返して勝利した。

その後も勝ち星を積み重ねた本馬は、この年の10月には、最終成績73戦44勝を挙げる名牝ヨタンビエン(後年になって前年の米最優秀3歳牝馬とこの年の米最優秀ハンデ牝馬に選出)、最終成績66戦29勝を挙げるランプライター(後年になってこの年の米最優秀ハンデ牡馬に選出)といういずれも1歳年上の強豪馬2頭との3頭立てマッチレースに挑んだ。結果は本馬が2着ヨタンビエンに8馬身差、ランプライターにはさらに11馬身差をつけて勝利した。3歳時はこれが最後の勝利で、この年の成績は24戦18勝2着1回3着4回だった。後年になって、シカゴダービー・ドレクセルSなどを勝ったモレロ(前年にはベルモントフューチュリティSを勝って米最優秀2歳牡馬に選出)と共にこの年の米最優秀3歳牡馬に選ばれている。

競走生活(4歳時)

4歳時はニューヨーク州に腰を据え、まずはブルックリンH(D10F)から始動した。このレースには、ウィザーズS・ホープフルS・ジュヴェナイルS・オーガストSの勝ち馬で前年のベルモントS2着のドクターライス、アトランティックS・グレートアメリカンS・グレートエクリプスS・ロリラードS・オムニウムH・タイダルSの勝ち馬サーウォルターという同世代の強豪馬2頭に加えて、この段階では本格化直前だった1歳年下のヘンリーオブナヴァルも参戦してきた。ところが本馬はスタートで大きく出遅れてしまい、上記3頭全てに先着されて、ドクターライスの着外に敗退。しかしこれが本馬にとって生涯最後の着外となり、その後は着実に実績を積み重ねていった。

シーフォームS(D5.5F)では、ブロンクスデールH・フライトS・カルヴァーSなどの勝ち馬ドクターハズブルックを2着に、最終成績122戦38勝を挙げる名牝コレクションを3着に破って勝利。フライトS(D7F)では、2歳時にグレートイースタンH・フラットブッシュS・オータムS・ラッシーS・フォームSなどを勝利して後年に米最優秀2歳牝馬に選ばれる同世代馬レディヴァイオレットを2着に下して勝利した。

この年の9月にリー氏は、ローズ氏が所有していた本馬の権利を2万5千ドルで買い取り、自身の単独所有馬とした。同時に自身は本馬の調教から手を引き、本馬をジョン・W・ロジャーズ調教師に任せた。

同月始めにシープスヘッドベイ競馬場で行われた距離1マイルのマッチレースに出走した。このレースの対戦相手は、グレートアメリカンS・グレートエクリプスS・グレートトライアルS・ハイドパークS・プロデュースS・ベルモントフューチュリティS・メイトロンS・ウィザーズS・フライングS・オーシャンHを勝っていた稀代の快速馬ドミノだった。しかしマイル以下では当時無敗を誇っていたドミノのほうがこの距離では一日の長があったようで、本馬は3/4馬身差で敗れた。

同月末、本馬はグレーヴセンド競馬場でセカンドスペシャルS(D9F)に参戦。このレースの対戦相手は1頭だけだったが、その1頭とは、ブルックリンH2着後にベルモントS・トラヴァーズS・フォックスホールS・イロコイS・マンハッタンH・ドルフィンS・スピンドリフトS・ベイSなど9連勝をマークしていたヘンリーオブナヴァルだった。本馬とヘンリーオブナヴァルの手に汗を握る壮絶な一騎打ちとなったレースは、最後に本馬が鼻差だけ先着して勝利を収めた。

その後はモリスパーク競馬場に赴き、“The Race of the Decade”と言われたダート9ハロンの3頭マッチレースに参戦。対戦相手の1頭はヘンリーオブナヴァル。もう1頭は、本馬とのマッチレースを勝った後にカルヴァーS・サードスペシャルSを勝っていたドミノだった。3頭全てが後に米国顕彰馬に選ばれるという文字通りの世紀のマッチレースは、逃げたドミノが直線で失速し、先行してドミノをかわしたヘンリーオブナヴァルに本馬が並びかけて、またしても手に汗を握る2頭の壮絶な一騎打ちとなった。しかし今回はヘンリーオブナヴァルがゴール前で抜け出して勝利を収め、本馬は1馬身差(資料によっては3/4馬身差)の2着に敗退。ちなみにドミノは本馬から10馬身後方だった。4歳時の成績は16戦10勝2着4回3着1回で、後年になって、メトロポリタンH・サバーバンH・オリエンタルHを勝ったラマポと共に、この年の米最優秀ハンデ牡馬に選ばれている。

競走生活(5~7歳時)

5歳時は過去2年と異なり初戦から勝利を積み上げて4連勝した。シープスヘッドベイ競馬場で出走したオムニウムH(D9F)では、前年のブルックリンH3着後にロングアイランドHを勝っていたサーウォルターを2着に、コリーンS・マーメイドS・ハンターHの勝ち馬ベルデメアを3着に撃破して勝利。グレーヴセンド競馬場で出走したオリエンタルH(D10F)では、シャンペンS・ホワイトプレインズH・オーガストS・オーシャンビューH・マンハッタンHの勝ち馬サーエクセスを2着に、もはや完全に米国最強馬の地位を手に入れていたヘンリーオブナヴァルを3着に破って勝利した。しかしモリスパーク競馬場で出走した新設競走ミュニシパルH(D14F)では、ヘンリーオブナヴァルだけでなく、前年のアメリカンダービーの勝ち馬レイエルサンタアニタにも後れを取り、ヘンリーオブナヴァルの3着に敗れた。ファーストスペシャルS(D10F)でも、3着サーウォルターには先着するも、ヘンリーオブナヴァルの2着に敗れた。しかしセカンドスペシャルS(D9F)では勝利を収めて2連覇を達成。この年は他にもクラブメンバーズH・カーニーHを勝利した。5歳時の成績は10戦7勝2着2回3着1回だった。

6歳時も現役を続行。フライトS(D7F)で2年ぶりの同競走勝利を挙げた他に、メモリアルHを勝利した。ブルックリンH(D10F)では2年連続同競走3着だったサーウォルターに鼻差屈して2着に敗退。サバーバンH(D10F)では、ヘンリーオブナヴァルの3着に敗れ、これが現役最終戦だった好敵手に花道を飾らせる結果となった。6歳時の成績は6戦3勝2着1回3着1回だった。

7歳時も現役を続行。カーニーHでは、前年のベルモントSの勝ち馬ヘイスティングスと戦い、1着同着となった。シープスヘッドベイ競馬場で出走したロングアイランドH(D9F)では、サーウォルターに加えて、本馬の所有者リー氏が実質的な生産者である3歳年下のケンタッキーダービー・サバーバンH・カデットS・ハロルドS・エメラルドS・ダイヤモンドS・ホーリーH・プロスペクトH・ナーサリーH・アルバニーH・シャンペンS・スクルテS・バックアイS・ラトニアダービーの勝ち馬ベンブラッシュも参戦してきた。ベンブラッシュが完調であれば名勝負になったのかも知れないが、馬主のドワイヤー兄弟に酷使されていたベンブラッシュは本調子では無く、3着に敗退。レースはトップハンデを課せられていた本馬がサーウォルターを2着に抑えて勝利を収めた。オムニウムH(D9F)では、ベンブラッシュ、ヘイスティングスとの対戦となった。今回はベンブラッシュが勝利を収め、ヘイスティングスが2着で、本馬は3着だった。そしてこのレース後に脚を痛めた本馬は、これを限りに競走馬を引退した。7歳時の成績は5戦3勝2着1回3着1回だった。

本馬の競走馬引退が発表されると、ニューヨーク・タイムズ紙は「かつて米国の競馬場において見られた最も輝かしい競走馬の1頭」と惜別の言葉を掲載した。

血統

Bramble Bonnie Scotland Iago Don John Waverley
Comus Mare
Scandal Selim
Haphazard Mare
Queen Mary Gladiator Partisan
Pauline
Plenipotentiary Mare  Plenipotentiary
Myrrha
Ivy Leaf Australian West Australian Melbourne
Mowerina
Emilia Young Emilius
Persian
Bay Flower Lexington Boston
Alice Carneal
Bay Leaf Yorkshire
Maria Black
Duchess Kingfisher Lexington Boston Timoleon
Sister to Tuckahoe
Alice Carneal Sarpedon
Rowena
Eltham Lass Kingston Venison
Queen Anne
Maid of Palmyra Pyrrhus the First
Palmyra
Lady Blessington Eclipse Orlando Touchstone
Vulture
Gaze Bay Middleton
Flycatcher
Philo Mariner Shark
Bonnets o'Blue
Cassandra Priam
Flirtilla

父ブランブルはボニースコットランド産駒で、現役成績50戦31勝。ヤングアメリカS・サラトガC2回・ブライトンC2回・モンマスC2回・サラトガS・アメリカンスタリオンS・フォールマックスウェルハウスS・ボルチモアC・ウエストチェスターC・コングレスフォールS・センテニアルSを勝ち、後年になって1879年の米最優秀ハンデ牡馬に選ばれた強豪馬。1880年に他界した父ボニースコットランドと入れ代わるようにベルミードスタッドで種牡馬入りしていた。種牡馬としては本馬とも対戦経験があるベンブラッシュなどを出して成功した。

母ダッチェスはサプリングS・モンマスオークス・レディーズH・ウエストエンドホテルS・マーメイドSを勝った活躍馬。本馬以外にはこれといった産駒を産むことは無かった。

ダッチェスの全姉レディローズベリー【シャンペンS】の子にレディプリムローズ【マンハッタンH】、孫にマーグレイヴ【プリークネスS】、マスターマン【ベルモントS】、ウォーターヴェイル【プリークネスS】、玄孫世代以降に、マッドハター【メトロポリタンH2回・ジョッキークラブ金杯2回・サバーバンH】、マッドプレイ【ベルモントS・ブルックリンH】、米国顕彰馬サンボウ、アムールドラーケ【モルニ賞・仏2000ギニー・ジャックルマロワ賞・コロネーションC】、バトルジョインド【サラトガスペシャルS】、本邦輸入種牡馬リィフォー、ウイン【マンハッタンH(米GⅠ)・マンノウォーS(米GⅠ)】、ステラージェーン【マザーグースS(米GⅠ)・ガゼルH(米GⅠ)・ラフィアンH(米GⅠ)】などがいる。→牝系:F4号族⑤

母父キングフィッシャーはレキシントン産駒で、ベルモントS・トラヴァーズS・米チャンピオンS・ジェロームHに勝つなど13戦7勝。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は、マンノウォーが生涯唯一の敗北を喫したサンフォードSの名の由来となった米国の政治家兼馬産家ジョン・サンフォード氏により7千ドルで購入され、サンフォード氏が所有するニューヨーク州ハリカーナファームで種牡馬入りした。種牡馬としては何頭かの活躍馬を出したが、それほど大きな成功は収めなかった。

現役時代から大きな大衆人気を得ていた本馬は、繋養先がニューヨーク州という事もあって、種牡馬入り後にも多くのファンからの訪問を受けた。その中には、現行のクインズベリー・ルール下で初めての世界チャンピオンとなった、米国ボクシング界の伝説的存在ジョン・ローレンス・サリバン氏もいた。サリバン氏は本馬が競走馬としてデビューした年の7月に生涯最初で最後の公式戦敗北を喫し、それを最後に一線級から退いていた。その後は表舞台に出ることは無かったが、競走馬時代から本馬の熱狂的なファンとして知られ、頻繁に競馬場に姿を見せていたという。そして本馬が種牡馬入りした後も本馬に会うために頻繁にハリカーナファームを訪れていた。1917年9月に本馬はハリカーナファームにおいて27歳で他界した。本馬に会うことが生き甲斐となっていたらしいサリバン氏も、それから間もない1918年2月にこの世を去っていった。

2014年、米国競馬名誉の殿堂博物館は歴史的考察により本馬の競走実績を評価し、本馬の殿堂入りを発表した。本馬の直系は残らなかったが、牝駒ラヴクリフやスプリングタイムが牝系をそれなりに発展させ、21世紀まで本馬の血が残る原動力となった。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1899

Caughnawaga

サラトガC

1904

Kennyetto

アラバマS

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