プローディット
和名:プローディット |
英名:Plaudit |
1895年生 |
牡 |
鹿毛 |
父:ヒムヤー |
母:シンデレラ |
母父:トマホーク |
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ドクターファーガーやホーリーブルの直系先祖となったヒムヤー直子のケンタッキーダービー馬 |
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競走成績:2・3歳時に米で走り通算成績20戦8勝2着5回 |
誕生からデビュー前まで
米国ケンタッキー州のキンダーガーテンスタッドにおいて、J・D・ニート博士により生産された。ニート博士の馬産活動は小規模であり、所有する繁殖牝馬も限られていたが、本馬の2歳年上の半兄であるヘイスティングスがベルモントSを勝つなど活躍したためにその生産者である彼の名も知られるようになっていた。ニート博士はヘイスティングスを自身では所有しなかったが、本馬に関しては自分が所有者となる事に決め、かつて歴史的名馬ヒンドゥーの最初の管理調教師だった元黒人奴隷のエドワード・D・ブラウン調教師に預けた。
競走生活(2歳時)
初勝利は7月にシンシナティ競馬場で出走したエメラルドS(D5.5F)で、2着マックアイヴァーに5馬身差をつける圧勝だった。しかしその後のベルモントフューチュリティS(D5.75F)では、牝馬ラルエットの4着に敗れた。しかしこの時に本馬はケンタッキー州の大馬主ジョン・E・マッデン氏の目に留まった。そして本馬は6500ドルでマッデン氏に購買され、アルバート・シモンズ厩舎に転厩した。
その後9月に本馬はグレーヴセンド競馬場で行われたダート8.5ハロンの古馬混合の一般競走に出走した。本馬は単勝オッズ41倍の人気薄だったが、前年のケンタッキーダービー馬ベンブラッシュ(かつてブラウン師の管理馬だった)を鼻差で破って勝ち、大穴を空けた。
翌月に出走したシャンペンS(D7F)では、16ポンドものハンデを与えたフューチュリティS2着馬リディアンを2着に破って勝利。その後はナーサリーS(D6F)で、ハンドボール(トレモントS勝ち馬で、後にジェロームHやタイダルSなどに勝利)を破って勝利。しかしダッシュS(D5F)では、単勝オッズ31倍の牝馬アリスファーリーの2着に破れ、今回は自分が大穴を空けられる立場となった。2歳時の成績は12戦4勝で、後世において選出された米最優秀2歳牡馬の座は、同じマッデン氏の所有馬だったハンブルグ(名馬ドミノの甥で、135ポンドを背負って勝ったり、古馬相手に2着したりするなど2歳時16戦12勝を挙げ、ドミノより優れた2歳馬と評されていた)のものとなった。
競走生活(3歳時)
3歳時は、ケンタッキーダービー(D10F)から始動して、リーバーカールという馬に次ぐ2番人気に支持された(ただし4頭立て)。3番人気のイザベイがまずハナを切ったが、やがてリーバーカールが先頭を奪い、そのまま直線に突入していった。ウィリー・シムス騎手が騎乗する本馬は後方待機策を採り、最後の直線での追い込みに賭けた。逃げるリーバーカールと追いかける本馬の差は一気に縮まり、最後は本馬が鼻差差し切って優勝した。なお、3着イザベイは20馬身後方だったとされている。
続いてクラークS(D9F)に出走。ここではリーバーカールとの2頭立てだったが、5ポンド重い斤量を背負った本馬が今度は4馬身差をつけて勝利した。さらにオークリーダービー(D10F)でもリーバーカールとの2頭立てとなり、今回は2ポンド重い斤量を背負った本馬が三度勝利を収めた。バックアイSでは対戦相手が集まらずに単走で勝利した。しかし次走のセントルイスダービー(D12F)では、20ポンドのハンデを与えたピンクコートという馬に敗れて2着。続くラトニアダービー(D12F)ではケンタッキーダービーで4着最下位だったハンドールとの2頭立てだったが、13ポンドの斤量差が響いたようで敗北。
この頃、前年の最優秀2歳牡馬ハンブルグも本馬とは別のレースで活躍していた。ハンブルグはベルモントSこそボーリングブロークの3着に敗れていたが、スプリングシリアルS・スウィフトSを勝って、前年同様の強さを発揮していた。本馬がラトニアダービーを走った後、米国で弁護士・政治家・実業家と多岐に渡る活躍を見せていたウィリアム・コリンズ・ホイットニー氏が、本馬を2万5千ドルで購入したいとマッデン氏に持ちかけていた。後に米国有数の馬主ホイットニー一族の祖となる彼は、この時期に競馬にも興味を抱き、ロングアイランドの一角にウェストベリーステーブルを開業し、競走馬の所有と生産を始めていたのだった。マッデン氏がこの申し出に応じたため、本馬はホイットニー氏の所有馬となり、ローレンスリアライゼーションS(D13F)に出走した。このレースでは本馬と別馬主になってしまったハンブルグも出走しており、この年の3歳最強馬を決める一戦となったが、ハンブルグが勝利し、本馬は2着に敗れてしまった。
本馬は次の一般競走でも2着に敗れ、しかもレース中に故障してしまった。その状況を知ったマッデン氏は1万2千ドルで本馬をホイットニー氏から買い戻した。本馬はその後レースに出る事なく現役引退となった。3歳時の成績は8戦4勝2着4回だったが、米最優秀3歳牡馬の座はハンブルグ(年度代表馬も受賞)のものとなった。
本馬はそれほど大柄ではなかったが、バランスが取れた筋肉質の馬体を有していた。しかし脚が湾曲しており、脚部はあまり丈夫ではなかったようである。
血統
Himyar | Alarm | Eclipse | Orlando | Touchstone |
Vulture | ||||
Gaze | Bay Middleton | |||
Flycatcher | ||||
Maud | Stockwell | The Baron | ||
Pocahontas | ||||
Countess of Albemarle | Lanercost | |||
Velocipede Mare | ||||
Hira | Lexington | Boston | Timoleon | |
Sister to Tuckahoe | ||||
Alice Carneal | Sarpedon | |||
Rowena | ||||
Hegira | Ambassador | Plenipotentiary | ||
Jenny Mills | ||||
Flight | Leviathan | |||
Charlotte Hamilton | ||||
Cinderella | Tomahawk | King Tom | Harkaway | Economist |
Fanny Dawson | ||||
Pocahontas | Glencoe | |||
Marpessa | ||||
Mincemeat | Sweetmeat | Gladiator | ||
Lollypop | ||||
Hybla | The Provost | |||
Otisina | ||||
Manna | Brown Bread | Weatherbit | Sheet Anchor | |
Miss Letty | ||||
Brown Agnes | West Australian | |||
Miss Agnes | ||||
Tartlet | Birdcatcher | Sir Hercules | ||
Guiccioli | ||||
Don John Mare | Don John | |||
Lollypop |
父ヒムヤーは当馬の項を参照。
母シンデレラは英国産馬で、1歳時に米国に輸入されてセリに出され、ニート博士により500ドルという安値で購入された。競走馬としてはデビュー前調教で故障して不出走に終わったが、繁殖牝馬としては非常に優秀で、13頭の産駒のうち4頭がステークスウイナーとなった。その内訳は、本馬の半兄ヘイスティングス(父スペンドスリフト)【ベルモントS・トボガンH】、本馬、半弟ハンサム(父ハノーヴァー)【ハイドパークS】、半弟グレニム(父ハノーヴァー)【ジュヴェナイルS】である。また、本馬の半妹スリッパーズ(父メドラー)はプリークネスS勝ち馬バスキンの母となり、さらに牝系子孫を今日まで伸ばしている(その詳細はヘイスティングスの項に記載)。ヒムヤー、シンデレラ、ヘイスティングスの3頭はいずれも非常に気性が激しい馬だったが、本馬の気性に関しては伝わっていない。→牝系:F21号族①
母父トマホークは、名種牡馬キングトムと英オークス馬ミンスミートの間に産まれた良血馬で、ウェストフィールドC・ポーツマスSの勝ち馬。なお、本馬の母父はトマホークではなく、ブルールインという馬である可能性も高い。英国血統書(ジェネラルスタッドブック)にも“Blue Ruin or Tomahawk”と記載されている。筆者が調べた限りでは、一応トマホークを母父として扱っている資料の方が多かったが、どちらが本当の母父なのかは不明である。ブルールインはウインザーHなどを勝った記録がある。その父はブルーマントルで、遡るとグッドウッドC勝ち馬キングストン、ヴェニスン(英愛首位種牡馬2回)、パルチザンを経てウォルトンに行きつく。
競走馬引退後
競走馬を引退した本馬は、マッデン氏がケンタッキー州レキシントンに新規開設したハンブルグプレイスファーム(マッデン氏が所有馬ハンブルグを3万ドルでマーカス・デーリー氏に売却した資金で開設したため、この名が付いた)で種牡馬生活を開始した。しかし半兄ヘイスティングスがフェアプレイなどを出して北米首位種牡馬に2度輝く成功を収めたのとは対照的に、本馬の種牡馬成績は振るわなかった。ヘイスティングスはステークスウイナーを51頭出したが、本馬は12頭しか出せなかった。その後の1912年に既に北米首位種牡馬に輝いていたスターシュートがハンブルグプレイスファームにやって来て数多くの繁殖牝馬を集めたため、晩年の本馬は殆ど産駒を出せなかった。1919年に24歳で他界し、遺体はハンブルグプレイスファームに埋葬された。
種牡馬としては失敗に終わった本馬だが、直系自体は代表産駒のキングジェームズを通じて伸びた。キングジェームズはコリンやフェアプレイと同世代であり、ベルモントS・ウィザーズSではコリンとフェアプレイに続く3着、ブルックリンダービー・ローレンスリアライゼーションSではフェアプレイの2着と、3歳まではこの2頭に隠れた存在だったが、4歳時はメトロポリタンH・ブルックリンHを勝って1909年の米最優秀ハンデ牡馬に選出された。キングジェームズは種牡馬として10頭のステークスウイナーしか出せず、49頭のステークスウイナーを出したフェアプレイには遠く及ばなかったが、1916年のトラヴァーズS・ウィザーズS・ジェロームHを勝ったスパーを出した。スパーも種牡馬としてはそれほど活躍しなかったが、1925年のメトロポリタンH・サバーバンHを勝ったスティングを出した。スティングも種牡馬としてはそれほど活躍しなかったが、1931年のメトロポリタンH・ブルックリンHを勝ったクエスショネアを出した。クエスショネアは種牡馬としてはかなりの成功を収め、多くの活躍馬を出したが、その直系を伸ばしたのは1944年の米最優秀2歳牡馬フリーフォーオールのみだった。フリーフォーオール自身の種牡馬成績はそれほどではなかったが、代表産駒であるサンタアニタダービー馬ラフンタンブルから、米国競馬史上最高の快速馬ドクターファーガーが出て、ここに本馬の直系は大きく開花した。ドクターファーガーは優秀な種牡馬でもあったが早世した影響もあり直系は残っていない。しかし本馬の直系はラフンタンブルの息子ミネソタマック、その息子グレイトアバヴという2頭の目立たない馬を経由して、エクリプス賞年度代表馬ホーリーブルへと受け継がれ、21世紀まで繋がっている。
主な産駒一覧
生年 |
産駒名 |
勝ち鞍 |
1905 |
King James |
メトロポリタンH・ブルックリンH |
1911 |
Bringhurst |
ホープフルS |