フェアプレイ
和名:フェアプレイ |
英名:Fair Play |
1905年生 |
牡 |
栗毛 |
父:ヘイスティングス |
母:フェアリーゴールド |
母父:ベンドア |
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好敵手コリンには歯が立たなかったがコリンが競馬場を去った後に豊富なスタミナを武器に活躍し、種牡馬としてマンノウォーを送り出す |
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競走成績:2~4歳時に米英で走り通算成績32戦10勝2着11回3着3回 |
誕生からデビュー前まで
ベルモントパーク競馬場の創設者、米国ジョッキークラブの初代会長としても知られる米国競馬界の大御所オーガスト・ベルモント・ジュニア氏により、同氏が所有する米国ケンタッキー州ナーサリースタッドにおいて生産・所有された。父ヘイスティングスと母フェアリーゴールドは共にベルモント・ジュニア氏が購入して自身の牧場で繋養していた馬だった。後に多くの名馬を生産するベルモント・ジュニア氏にとっては、本馬がおそらく最初の大物生産馬である。
本馬を預かったのはアンドリュー・ジャクソン・ジョイナー調教師だった。ノースカロライナ州エンフィールド出身のジョイナー師は幼少期から競馬ファンであり、17歳時に自身が描いたレースの絵を郵便局内にたくさん飾ったところ、ウィリアム・バーチ調教師に目をかけられてバーチ師の元で働くことになった。後に調教師として開業し、師匠バーチ師と同様に米国競馬の殿堂入りも果たす名伯楽にまでなるという人物だった。
競走生活(2歳時)
2歳時に競走馬デビューした本馬は、デビュー戦こそ4着に敗れたが、ブライトンビーチ競馬場で行われた次走のハンデ競走を3馬身半差で勝ち上がった。最後は馬なりで走ったにもかかわらず、勝ちタイムはコースレコードだったという。さらに2週間後には同じくブライトンビーチ競馬場で行われたモントークS(D6F)に勝利。サラトガ競馬場で出走した次走のフラッシュS(D5.5F)でも、ジムギャフニーを2着に、後のブルーグラスSの勝ち馬でケンタッキーダービー2着のサークレジェスを3着に破って勝利した。3連勝で迎えたホープフルS(D6F)では、前走フラッシュSで破ったジムギャフニーに雪辱されて2馬身差の2着。ユナイテッドステーツホテルS(D6F)では、レスティゴーシュの3着だった(ジムギャフニーが2着)。
次走のベルモントフューチュリティS(D6F)では、デビューからナショナルスタリオンS・エクリプスS・グレートトライアルS・ブライトンジュニアS・サラトガスペシャルS・グランドユニオンホテルSなど7戦無敗の快進撃を続けていたコリンとの初顔合わせとなった。しかし勝ったコリンから4馬身差をつけられて4着に敗れた。次走のプロデュースS(D6F)でもコリンとの対戦となり、勝ったコリンから5馬身差の2着に敗退(後のプリークネスSの勝ち馬ロイヤルツーリストが3着だった)。メイトロンS(D6F)でも、勝ったコリンから3馬身差の2着に敗れた(今回もロイヤルツーリストが3着だった)。2歳最終戦となったナーサリーH(D6F)では、32ポンドのハンデを与えた伏兵ドランテ(ただし翌年にトラヴァーズSを勝っている)の3着に敗退。2歳時の成績は10戦3勝2着3回3着2回だった。
本馬の同世代馬コリンは稀に見る快速馬で、2歳時に12戦全勝の成績を誇り、後の世になってこの年の米年度代表馬にも選ばれたほどであり、どちらかと言えば長距離向きである本馬にとって、2歳戦でコリンと戦うのは厳しかった。
競走生活(3歳時)
しかし本馬が3歳になっても、コリンは大きな壁となって立ち塞がる事になる。本馬はまずジャマイカ競馬場で行われたダート5.5ハロンの一般競走に出走して、フレミングの2着。次走の一般競走では、翌年にメトロポリタンHやブルックリンHを制して米最優秀ハンデ牡馬に選ばれる同世代のトレモントSの勝ち馬キングジェイムスの1馬身差2着。3歳3戦目となったウィザーズS(D8F)では、3着キングジェイムスには先着したものの、4度目の対戦となったコリンに2馬身差をつけられ2着に敗れた。
次走のベルモントS(D11F)でも、コリンやキングジェイムスとの対戦となった。距離が伸びたために距離適性の面で逆転できる可能性があると目された。豪雨と濃霧でコース内の様子が良く分からない状況で行われたレースでは、コリンが単騎逃げを打ち、本馬を含む後続馬勢は3~4馬身ほど後方を追走した。直線に入るとコリンが後続をいったん引き離したが、コリンが失速した隙を突いて本馬が他馬勢を置き去りにして肉薄した。しかし驚異的な粘りを見せたコリンに惜しくも頭差届かなかった。本当のところは、コリン鞍上のジョー・ノッター騎手がゴール板を誤認して追うのを止めたためにコリンが失速したにも関わらず、それに届かなかったものであり、実力的に肉薄できたとは少し言い難いのだが、3着キングジェイムスには15馬身差をつけていたから、本馬は優れた走りを見せたと言える。
その後コリンはタイダルHを勝った後に英国に遠征した(しかし故障のため結局英国ではレースに出ることなく引退)ため、本馬とコリンの対戦はベルモントSが最後で、結果は本馬の5戦全敗だった。
本馬はベルモントSの2日後にブルックリンH(D10F)に出走したが、2分04秒2のコースレコードで走破した同世代馬ケルト(コリンの同厩馬)の2着に敗れた(3着キングジェイムスには先着している)。これで本馬は、3歳最初の5戦で全て2着に敗れる善戦馬状態となってしまった。
しかしコリンがいなくなり、かつ、出走するレースの距離が伸びると、本馬は豊富なスタミナを武器に米国3歳馬の中心的存在となった。まずはブルックリンダービー(D12F・現ドワイヤーS)を、2着キングジェイムスに2馬身半差で勝利。1週間後に出走したサバーバンH(D10F)では、この年と2年後の2度に渡り米最優秀ハンデ牡馬に選ばれる4歳馬バロット(コリンの同厩馬)とキングジェイムスの2頭に屈して、2分03秒0のコースレコードで勝ったバロットの3着に敗れた。しかしコニーアイランドジョッキークラブS(D12F)では、キングジェイムス、ドランテなどを撃破して、10ポンドのハンデを与えた2着ヘシアンに1馬身差で勝利。ローレンスリアライゼーションS(D13F)でも馬なりのまま走り、キングジェイムスを3馬身差の2着に、ドランテを3着に破って勝利した。
サラトガ競馬場で出走したハンデ競走では、127ポンドを背負いながらも、2着ドランテに4馬身差で圧勝。セプテンバーS(D9.5F)では、15ポンドのハンデを与えたビッグチーフの2着だった。ファーストスペシャル(D10F)では、2分03秒4のコースレコードを樹立して、キングジェイムス以下に勝利した。次走のオリエンタルH(D9.5F)では、18ポンドのハンデを与えたアンジェラスが1分59秒0のコースレコードを計時して勝利を収め、本馬は2着に敗れたが、3着ドランテには先着した。ジェロームH(D10.5F)では14ポンドのハンデを与えたアンジェラスを着外に沈めて、2分10秒4のコースレコードを樹立して、2着マスターロバート以下に快勝。ミュニシパルH(D14F)も24ポンドのハンデを与えた2着マスターロバートに1馬身差で勝利した。オータムHではマスターロバートの2着に敗れてしまったが、3歳時16戦7勝2着8回3着1回着外無しの好成績を残した。
競走生活(4歳時)
ところが、本馬が3歳シーズンの暮れに、ニューヨーク州で賭博禁止法が成立し、本馬が本拠地としていたニューヨーク州の競馬は大幅に規模が縮小される事態となった。そのために、本馬やコリン、バロットを始めとする多くの有力米国馬は大西洋を渡って英国に本拠地を移した(コリンが故障で英国では不出走に終わったのは前述の通り)。
本馬はニューマーケットを本拠地として、4歳時から英国のレースに参戦した。本馬の優秀なスタミナは英国の長距離戦でも通用すると思われていたが、ダート競走ばかり走ってきた本馬は英国の芝コースに上手く適合できなかった。さらに、本馬が出走したレースでは、いつも本馬には酷なハンデが課せられた。しかも、元々父譲りの難しい気性を有していた本馬は、慣れない環境に苛立ちを募らせていった。
コロネーションC(T12F29Y)では、シティ&サバーバンH2回・トライアルS(現クイーンアンS)2回などの勝ち馬ディーンスウィフト、ナショナルブリーダーズプロデュースS・サセックスS・シティ&サバーバンHの勝ち馬で英セントレジャー2着・英2000ギニー3着のホワイトイーグル、プリンスオブウェールズSの勝ち馬でエクリプスS2着・英セントレジャー3着のサントストラトといった地元英国の強豪馬勢に歯が立たず、ディーンスウィフトの着外に敗退。グッドウッドC(T16F)でも、カルーセルの着外だった。他にも、グレートジュビリーH(T10F)・マンチェスターC(T12F)でも着外など、まったく振るわなかった。最後には本馬は走る事自体を拒否するようになった。本馬は英国では6戦したが4着1回が最高で、1度も入着できないまま4歳秋に米国に戻された。
米国では競馬が行われている州もあったため、陣営はそこで行われるレースに出走させようとしたようだが、本馬の気性難は既にレースに出られるような状態ではなくなっていたため、1度もレースに出ることなくそのまま競走馬引退となった。
本馬は優秀なスタミナを有した名馬だったが、デビュー当初の短距離戦ではコリンがいたせいもあり本領を発揮できず、ようやく長距離戦で本領を発揮できるようになった途端に賭博禁止法が成立するなど、競走馬としては運に恵まれなかった。本馬は体高15.3ハンドとそれほど背は高くなかったが、優れた肩、強靭な下半身を有するまとまった好馬体の持ち主であり、いかにも長距離馬といった体格だったという。ジョイナー師は本馬を数値以上に大きな馬と評している。顔には大きな流星があったが、脚には白い箇所は無かった。本馬は気性の激しさや青鹿毛の毛色こそ父ヘイスティングス譲りだったが、体格や能力は母父ベンドアや曾祖母の父ハーミットに似ていると言われた。なお、本馬の産駒には稀にベンドア班が出る事があり、この事実も母父ベンドアの血が本馬に強く受け継がれている事を現しているとされる。
血統
Hastings | Spendthrift | Australian | West Australian | Melbourne |
Mowerina | ||||
Emilia | Young Emilius | |||
Persian | ||||
Aerolite | Lexington | Boston | ||
Alice Carneal | ||||
Florine | Glencoe | |||
Melody | ||||
Cinderella | Tomahawk | King Tom | Harkaway | |
Pocahontas | ||||
Mincemeat | Sweetmeat | |||
Hybla | ||||
Manna | Brown Bread | Weatherbit | ||
Brown Agnes | ||||
Tartlet | Birdcatcher | |||
Don John Mare | ||||
Fairy Gold | Bend Or | Doncaster | Stockwell | The Baron |
Pocahontas | ||||
Marigold | Teddington | |||
Ratan Mare | ||||
Rouge Rose | Thormanby | Windhound | ||
Alice Hawthorn | ||||
Ellen Horne | Redshank | |||
Delhi | ||||
Dame Masham | Galliard | Galopin | Vedette | |
Flying Duchess | ||||
Mavis | Macaroni | |||
Merlette | ||||
Pauline | Hermit | Newminster | ||
Seclusion | ||||
Lady Masham | Brother to Strafford | |||
Maid of Masham |
父ヘイスティングスは当馬の項を参照。
母フェアリーゴールドは英国産馬で、競走馬としても英国で走り10戦3勝、ウッドコートS・ウェルターHに勝っている。ウッドコートSではコヴェントリーS・ジュライSを勝つ有力2歳牡馬にして後の英愛首位種牡馬にも輝くセントサイモン産駒のデスモンドを首差2着に負かしている。競走馬引退後はしばらく英国で繁殖生活を送っていたが、1903年の夏、7歳時にベルモント・ジュニア氏によって3600ギニーで購買されて米国に移動していた。そして翌年にヘイスティングスと交配され、翌1905年に産んだ米国における初子が本馬である。1919年に23歳で他界している。
本馬以外の産駒には、半兄ゴールデンメジャー(父フロリゼル)【アスコットゴールドヴァーズ・エボアH】、全弟フリッターゴールド(大レース勝ちは無いが150戦29勝の成績を残した)、半弟フライアーロック(父ロックサンド)【ベルモントS・ブルックリンH・サバーバンH】などがいる。
また、本馬の全妹ゴールデンビューの子にはロックビュー【ウィザーズS・ブルックリンダービー・トラヴァーズS・ローレンスリアライゼーションS・トボガンH】、牝系子孫には、クラッシーキャシー【アッシュランドS(米GⅠ)・アラバマS(米GⅠ)・ガゼルH(米GⅠ)】などがいる。
さらに、フェアリーゴールドが英国に残してきた初子である本馬の半姉セントルクレ(父セントセルフ)は、ジャックルマロワ賞を牝馬として初めて勝ったザリバ【モルニ賞・フォレ賞・ジャックルマロワ賞・モーリスドギース賞・ダリュー賞・ペネロープ賞・プラージュフルーリ賞(現クインシー賞)・エドモンブラン賞・エドヴィル賞】を産んだ。ザリバは繁殖牝馬としては超一流であり、ゴイェスカス【英チャンピオンS・イスパーン賞・サブロン賞(現ガネー賞)】、コリーダ【凱旋門賞2回・モルニ賞・仏共和国大統領賞・ベルリン大賞】、アブジェ【ミドルパークS】、ゴヤ【セントジェームズパレスS・サブロン賞】と活躍馬を次々に産んだ。ザリバの半姉ゴールデンレジェンドの子にはダークロナルドの後継種牡馬として活躍したダークレジェンドが、コリーダの子にはコアラズ【仏ダービー・モルニ賞・ジャックルマロワ賞・イスパーン賞2回・サンクルー大賞】がいる他、セントルクレの牝系子孫には数々の活躍馬がいるのだが、その辺りの詳細はコリーダの項を参照してほしい。
また、フェアリーゴールドの半妹フェレリス(父アンフィオン)の牝系子孫からは、マーシャス【カドラン賞4回・ジャンプラ賞2回・グッドウッドC・ドンカスターC】、カラカラ【凱旋門賞・パリ大賞・ロワイヤルオーク賞・アスコット金杯】、アルバール【カドラン賞・アスコット金杯・ジャンプラ賞】、アスメナ【英オークス】、アルベル【イスパーン賞・ジャックルマロワ賞】の兄妹達も出ている。→牝系:F9号族②
母父ベンドアは当馬の項を参照。
競走馬引退後
競走馬を引退した本馬は、1910年から生まれ故郷のナーサリースタッドで種牡馬生活を開始した。この牧場には、本馬の父ヘイスティングスを始め、1899年の米最優秀3歳牡馬エセルバート、1894・95年の米年度代表馬ヘンリーオブナヴァル、そして1903年の英国三冠馬ロックサンドなども繋養されていた。しかし本馬は種牡馬としては、それらのライバル種牡馬はもちろんのこと、現役時代の宿敵コリンをも遥かに上回る大成功を収めた。260頭の産駒から登場したステークスウイナーは49頭(ステークスウイナー率は18.8%)、そのうち10万ドルホースが6頭に上った。1920・24・27年と北米首位種牡馬には3回輝いている。
本馬の名声を不動のものとしたのは、ロックサンド牝駒マフバーとの間に産まれた、現在でも米国競馬史上最高の名馬との誉れ高い代表産駒マンノウォーの大活躍である。
また、本馬は繁殖牝馬の父としても活躍し、1931・34・38年と3度の北米母父首位種牡馬になっている。
1924年にベルモント・ジュニア氏が71歳で死去すると、ナーサリースタッドと、そこに繋養されていた馬達は翌年にセリに掛けられた。この際にナーサリースタッドにいた若い馬達の大半は、後のニューヨーク州知事ウィリアム・アヴェレル・ハリマン氏やジョージ・ハーバート・ウォーカー氏(第41代米国大統領ジョージ・ハーバート・ウォーカー・ブッシュ氏の祖父で、第43代米国大統領ジョージ・ウォーカー・ブッシュ氏の曽祖父)達の共同馬主団体ログキャビンステーブルに購入されていった。しかし当時20歳の本馬は米国の事業家兼馬主だったジョセフ・アーリー・ワイドナー氏(後にハイアリアパーク競馬場の所有者となっており、同競馬場で施行されたワイドナーHは彼の名に由来する)によって10万ドルで購買されて、彼が所有するケンタッキー州エルメンドルフスタッドに移動した(当時15歳だったマフバーも同時にワイドナー氏に購入されている)。
エルメンドルフスタッドにおいても本馬は種牡馬生活を続けたが、別にワイドナー氏は種牡馬として本馬を購入したわけではなかったようで、自分達の生活に明るい光を灯してくれたマンノウォーの父である偉大なる本馬を自分の手元に置きたいと思ったのが動機だったようである。もっとも、ワイドナー氏により購入されたときに本馬は「まるで王のようなエネルギーを発していた」らしいから、馬体に惹かれた側面も確かにあったようである。エルメンドルフスタッドに移動後はこれといった活躍馬を出せなかったが、それでも24歳時の1929年まで現役種牡馬だった。しかし同年12月に簡単な運動後に牧場内で突然倒れて他界した。遺体はエルメンドルフスタッドを見下ろせる小高い丘の上に埋葬された。ワイドナー氏はその2年後の1931年にマフバーが21歳で他界すると、本馬の妻として本馬の墓の隣に埋葬した。現在、本馬が埋葬されている丘はノルマンディーファームの敷地となっており、ワイドナー氏が作らせた等身大の本馬の銅像がそこに建てられている。1956年に米国競馬の殿堂入りを果たした。
本馬の後継種牡馬としては、マンノウォー、チャタートン、チャンスプレイの3頭がいずれも北米首位種牡馬となる活躍を見せた。しかしそれほど直系は広がりを見せず、現在ではマンノウォーの直系のみが生き残り、貴重な三代始祖の1頭ゴドルフィンアラビアンの直系を後世に伝えている。
主な産駒一覧
生年 |
産駒名 |
勝ち鞍 |
1911 |
Stromboli |
マンハッタンH・ジェロームH・メトロポリタンH・サバーバンH |
1912 |
Norse King |
ブルックリンダービー |
1912 |
Trial by Jury |
ジェロームH・カーターH |
1916 |
Earlocker |
米グランドナショナル |
1916 |
Lillian Shaw |
ケンタッキーオークス |
1916 |
Mad Hatter |
メトロポリタンH2回・ジョッキークラブ金杯2回・サバーバンH・ヨークタウンH・トボガンH・クイーンズカウンティH |
1917 |
プリークネスS・ベルモントS・ホープフルS・ベルモントフューチュリティS・ウィザーズS・ドワイヤーS・トラヴァーズS・ローレンスリアライゼーションS・ジョッキークラブ金杯・スタイヴァサントH |
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1918 |
Sporting Blood |
トラヴァーズS |
1919 |
My Play |
ジョッキークラブ金杯 |
1920 |
Dunlin |
ホープフルS・ドワイヤーS |
1920 |
How Fair |
CCAオークス |
1921 |
Bracadale |
ウィザーズS |
1921 |
Ladkin |
ドワイヤーS |
1921 |
Mad Play |
ベルモントS・ブルックリンH・ヨークタウンH・クイーンズカウンティH・サラトガC |
1923 |
Chance Play |
ジョッキークラブ金杯・トボガンH・サラトガC |
1923 |
Display |
プリークネスS・ホーソーン金杯 |
1924 |
Chance Shot |
ベルモントS・サラトガスペシャルS・ウィザーズS |
1925 |
Fair Mist |
デモワゼルS |
1929 |
Best Play |
米グランドナショナル |