ヒンドゥー

和名:ヒンドゥー

英名:Hindoo

1878年生

鹿毛

父:ヴァージル

母:フローレンス

母父:レキシントン

ケンタッキーダービーを含む18連勝(19連勝とも)を達成するなど生涯成績35戦30勝着外無しの成績を誇った19世紀米国有数の名馬中の名馬

競走成績:2~4歳時に米加で走り通算成績35戦30勝2着3回3着2回

シガーやサイテーションを上回る連勝記録

1996年にシガーが米国三冠馬サイテーションの保持する16連勝の記録に並んだ際に大変な盛り上がりを見せたのは、既に一昔も前の話になってしまったが、筆者の記憶の中ではまだ鮮明である。しかしサイテーションやシガーが樹立した16連勝というのは、その当時においてもチャンピオンクラスの競走馬が樹立した北米記録では無かった。本当に当時の北米記録だったのは、ケンタッキーが1864年から1866年にかけて記録した20連勝で、それに次ぐのが本項の主人公ヒンドゥーが1881年のたった1年だけ(正確には約3か月)で樹立した18連勝である。後の2010年にゼニヤッタが19連勝を記録したから本馬の連勝記録は更新されたように見えるが、本馬の記録は後述する理由により19連勝だったとも言えるから、完全に更新されたとは断言できない。シガーがサイテーションの記録に並んだ際にケンタッキーや本馬に関して殆ど触れられなかった理由はよく分からないが、時代が古い馬だから同列に論ずる事が出来なかったというのが妥当な理由であろう。19世紀における米国最強馬を挙げるように言われた場合、筆者は真っ先に本馬の名を挙げるし、それに異論を挟む人もあまりいないだろう。

誕生からデビュー前まで

米国ケンタッキー州ストックウッドファームにおいてダニエル・スワイガート氏により生産・所有された。成長すると体高16ハンドに達した当時としては大柄で見栄えがする馬であり、生後間もない本馬を見たジム・ウィリアムズ氏という人物が1000ドルで譲って欲しいとスワイガート氏に申し出たが、スワイガート氏はそれを断ったという逸話がある。

そして本馬はエドワード・D・ブラウン調教師に預けられた。1850年にケンタッキー州に産まれたブラウン師は当初黒人奴隷であり、7歳時にウッドバーンスタッドの所有者ロバート・A・アレクサンダー氏(レキシントンを種牡馬として所有していた人物)に購入された。アレクサンダー氏のところで競走馬に関する知識を学んだ彼は、米国南北戦争で奴隷が解放された後もアレクサンダー氏のところに残り、専属騎手として活躍。1867年にアレクサンダー氏が死去した後にウッドバーンスタッドのマネージャーだったスワイガート氏が独立すると彼の専属騎手となり、1870年にはスワイガート氏の所有馬キングフィッシャーでベルモントSを勝利。その後は体重が増えたために障害騎手を経て調教師に転向し、1877年のケンタッキーダービーをスワイガート氏の所有馬バーデンバーデンで勝利していた。19世紀後半における卓越した騎手及び調教師の1人として評価され、後年には調教師部門で米国競馬の殿堂入りも果たしている。そんなブラウン師の育成を受けた本馬は2歳戦から圧倒的な強さを発揮した。

競走生活(2歳時)

ケンタッキー州レキシントンで施行されたデビュー戦のコルト&フィリーS(D6F)では、後のケンタッキーダービー3着馬アルファンブラを2着に、後にルイビルレディーズS・グレーヴセンドH・コニーアイランドS・ケンタッキーS・オータムS・セプテンバーS・ナーサリーS・チェサピークS・ヴェルタルS・シーブリーズS・ブライトンビーチブルックリンH・マーチャンズHを勝ちまくる名牝ブラムバレッタを3着に破って勝利。それから6日後のアレクサンダーS(D4F)でも、後のスピナウェイS2着馬バンターを1馬身半差の2着に退けて勝利した。さらに5日後のテネシーS(D6F)にも勝利。その後もジュヴェナイルS(D6F)を4馬身差で勝ち、さらに3日後のジョッキークラブS(D8F)では2着レレックスに6馬身差(資料によっては2馬身差)で勝利した。さらにイリノイ州シカゴに移動して出走したクリテリオンS(D6F)では同馬主のリップルを2着に破って勝ち、6日後のトレモントホテルS(D8F)もリップルを3着に破って勝利。

しかしニューヨーク州サラトガ競馬場で出走したデビュー8戦目のウィンザーホテルS(D5F)では、後のウィザーズS・ディキシーS勝ち馬にして本馬の生涯最大の宿敵となるクリックモア、牝馬ボニーリジーの2頭に僅かに届かずに、クリックモアの1馬身差3着に敗れて、連勝は7で止まった。同じくサラトガ競馬場で出た次走のデイボートラインS(D6F)では、ボニーリジーには先着したが、8ポンドのハンデを与えた牝馬ゾラ(後のモンマスオークス・アラバマSの勝ち馬)に敗れて2着に終わった。サラトガ競馬場は後にマンノウォーが生涯唯一の敗北を喫したのをきっかけに「チャンピオンの墓地」と呼ばれるようになるが、マンノウォーの敗北より40年近く前のこの時点で既に「チャンピオンの墓地」だったのである。2歳時は9戦7勝の好成績で、後年になってこの年の米最優秀2歳牡馬に選出されている。

この2歳シーズンの後半に、本馬はマイク・ドワイヤー氏とフィル・ドワイヤー氏の兄弟によって1万5千ドルで購入され、以降はドワイヤーブラザーズステーブル名義で走ることになった。それと同時に管理調教師もサー・ジェームズ・G・ロウ師に変更になった。後に米国競馬史上においても1、2を争う名調教師と言われるようになるロウ師は管理馬を比較的大事に扱う人物であった。しかし正反対にドワイヤー兄弟は所有馬を経済動物としてしか考えていない外道馬主として当時から悪名高く、3歳になった本馬はドワイヤー兄弟の元で酷使される事になる。

競走生活(3歳時)

3歳時は5月12日のブルーリボンS(D12F)から始動して3馬身差で勝利。5日後のケンタッキーダービー(D12F)では、単勝オッズ4倍の1番人気に支持された。このレースではそれまで後方待機策が多かった本馬は珍しくスタートから先頭を走っていた(ただし本馬が最初から先頭に立つことは事前に予想されていたという)が、レース中盤でレレックスに先頭を奪われた。レレックスは前年のジョッキークラブSで本馬の2着に敗れていたが、サンフォードS・ヤングアメリカSなどを勝っていた同世代屈指の有力馬だった。本馬がレレックスに抜かれた様子を見た観衆は本馬がそのまま失速する事を覚悟したというが、本馬は再加速して最終コーナーでレレックスを追い抜き、直線で鞍上のジム・マクラフリン騎手が鞭を2度入れると一気に後続との差を広げ、2着レレックスに4馬身差をつけて圧勝した。

その後も連勝街道を邁進し、クラークS(D10F)ではケンタッキーダービーで3着だったアルファンブラを6馬身差の2着に破って勝利。その後はジェロームパーク競馬場で一般競走を2回走っていずれも勝利し、タイダルS(D8F)に向かった。このレースにはかつてウィンザーホテルSで本馬を破ったクリックモアに加えて、この年のプリークネスSとベルモントSを勝っていたソーンタラー(この当時は現在のような米国三冠競走という概念が皆無だったためケンタッキーダービーには不参戦だった)という強敵が登場した。しかし本馬がクリックモアを2着に、ソーンタラーを3着に破って勝ち、同世代最強馬の地位を確固たるものにした。

こうなると本馬に挑もうとする馬が少なくなってくるのは道理であり、次走のコニーアイランドダービー(D9F)はバレットという馬との2頭立てだった。バレットは後にジェロームHを勝つ馬であり決して弱い相手ではなかったのが、既に前年のジュヴェナイルSでバレットを3着に一蹴していた本馬の敵ではなく、単勝オッズ1.05倍という圧倒的な支持を集めた本馬が10馬身差で圧勝した。次走のオーシャンS(D9F)は初の古馬相手のレースとなった。対戦相手の筆頭格は、ジェロームH・ディキシーSの勝ち馬でベルモントS2着の実績があった2歳年上のモニターであり、前年のアラバマS・マーメイドSなどを勝っていた4歳牝馬グリデリアの姿もあった。しかし本馬がモニターを2着に破って勝利した。次走のロリラードS(D12F)では、再びクリックモアとソーンタラーの2頭との対戦となったが、結果はタイダルSと全く同じ着順となり、本馬が勝利を収めた。次走のモンマススウィープS(D12F)では対戦相手が集まらずに単走で勝利。トラヴァーズS(D14F)でもこれといった対戦相手はおらず、あっさりと勝利した。さらにセキュールS(D14F)では2着グリーンランドに6馬身差をつけて圧勝。さらにユナイテッドステーツホテルS(D12F)ではクリックモアを2着に破って勝ち、ケナーS(D16F)ではクリックモアを5馬身差の2着に圧倒して勝利した。

モンマスパーク競馬場で出た米チャンピオンS(D12F)ではモニターに加えて、パロールという超強敵の姿もあった。本馬より5歳年上のパロールは、サラトガCをいずれも2連覇し、後の米国顕彰馬テンブロック、プリークネスS勝ち馬トムオキルトリーとの3頭マッチレースにも勝利していた。そしてこの2年前の英国遠征では、ニューマーケットHでアイソノミーを破って勝ち、その6日後のシティ&サバーバンHもアイソノミーを破って勝ち、その翌日のグレートメトロポリタンHやエプソム金杯も勝つなど大活躍して米国調教馬の実力を英国競馬関係者にまざまざと見せ付けていた歴史的名馬だった。しかし結果は本馬がモニターを3馬身差の2着に、パロールを3着に破って勝利した。その3日後のニュージャージーセントレジャー(D14F)では牝馬ボナファイドとの2頭立てとなり、本馬が4馬身差で勝利を収めた。さらにシープスヘッドベイ競馬場に向かい、サーヒューという馬との距離1マイルのヒート競走に出走。1戦目では4馬身差、2戦目では6馬身差で圧勝して勝利馬となった。その4日後には一般競走に出て勝利し、これで18連勝を記録した。全てのレースで2着馬に1馬身以上の差をつける完勝で、しかもこの18連勝に要した期間は僅か3か月だった。

本馬を管理したロウ師は、酷使され続ける本馬の体調管理にことのほか気を配っていたが、それでも限度があったようで、前走の一般競走から2日後に出たブライトンビーチH(D12F)では、クリックモアと1着同着となった。当時の米国競馬では、1着同着は勝利ではなく2着と同じ(要するに引き分けなのだから、完全な勝利とは言えないという見方も確かに道理である)とみなされていたために、連勝は18で止まった。ただし現在の基準に照らし合わせて、まだ連勝は止まっていないと記載する資料も存在する。

しかしそれから2週間後の9月1日に出たセプテンバーS(D14F)では、クリックモア、レディーズHを勝っていた牝馬アエラの2頭に後れを取ってクリックモアの3着に終わり、ここで完全に連勝は途切れた。ロウ師は本馬のレース出走を止めるようにドワイヤー兄弟に進言。さすがのドワイヤー兄弟も渋々これを受け入れ、本馬は3歳時を20戦18勝で終えた。本馬がこの年稼いだ賞金は4万9100ドルに達し、これは米国競馬における1年間の収得賞金新記録だった。後年になってこの年の米最優秀3歳牡馬に選出されている。

競走生活(4歳時)

4歳時はディキシーナS(D8.5F)から始動したが、チェックメイトの2着に敗退。しかし2日後のルイビルC(D16F)では、チェックメイトを2着に破って勝利した。そのまた4日後には加国オンタリオ州のウィンザー競馬場に姿を現し、マーチャントS(D9F)に出走。ここでもチェックメイトを2着に破って勝利した。さらにターフH(D9F)を8馬身差で勝ち、コニーアイランドH(D9F)ではバレットを2着に破って勝利した。次走のコニーアイランドC(D18F)では、パロール、前年のベルモントS2着馬イオレとの激戦を制し、イオレを2着に、パロールを3着に破って勝利した。しかしこの激闘が祟ったのか脚の腱に故障を起こしたために4歳時6戦5勝の成績で引退した。後年になってこの年の米最優秀ハンデ牡馬に選ばれている。

なお、ドワイヤー兄弟とロウ師は、本馬の競走馬引退からしばらく後、種牡馬入りする本馬との交換トレードでドワイヤー兄弟の所有馬となった名牝ミスウッドフォードの酷使に関して対立。その結果としてロウ師はドワイヤー兄弟の元を離れて、後にコマンドコリンなど数々の名馬を手掛けることになる。

本馬の戦法は典型的な追い込み型だったが、気性が素直な馬で、主戦のマクラフリン騎手の指示には素早く従い、しかもレースではずば抜けた闘争心を発揮するという理想的な競走馬だった。そのために非常に安定した成績を残しており、生涯成績は35戦30勝2着3回3着2回着外無し(ブライトンビーチHの同着を1着とみなせば35戦31勝2着2回3着2回となる)というものだった。生涯獲得賞金は7万1875ドルで、当時の米国賞金王になった(この記録を破ったのは米国競馬史上初の10万ドルホースとなったミスウッドフォードである)。

血統

Virgil Vandal Glencoe Sultan Selim
Bacchante
Trampoline Tramp
Web
Tranby Mare Tranby Blacklock
Orville Mare
Lucilla Trumpator
Lucy
Hymenia Yorkshire St. Nicholas Emilius
Sea Mew
Miss Rose Tramp
Sancho Mare
Little Peggy Cripple Medoc
Grecian Princess
Peggy Stewart Blackburn's Whip
Mary Bedford
Florence Lexington Boston Timoleon Sir Archy
Saltram Mare
Sister to Tuckahoe Ball's Florizel
Alderman Mare
Alice Carneal Sarpedon Emilius
Icaria
Rowena Sumpter
Lady Grey
Weatherwitch Weatherbit Sheet Anchor Lottery
Morgiana
Miss Letty Priam
Orville Mare
Birdcatcher Mare Birdcatcher Sir Hercules
Guiccioli
Colocynth Physician
Camelina

父ヴァージルはアレクサンダー氏の生産馬で、ミルトン・H・サンフォード氏(プリークネスSの名称由来となった競走馬プリークネスの所有者)の所有馬となった後にいったんはスワイガート氏に購入されたが、後に再びサンフォード氏の所有馬となっている。競走馬としては少なくとも16戦を走り、3歳時には8戦6勝の好成績を挙げた記録があるが、記録に散逸があり詳細は不明である(障害競走に出走した事もあるらしい)。競走馬引退後はサンフォード氏が所有するプリークネススタッドで種牡馬入りしていたが、本馬が3歳時の1881年にプリークネススタッド共々スワイガート氏に購入された(この際にプリークネススタッドはエルメンドルフスタッドと改名されている)。

競走馬としてどの程度のものだったのか不明確なヴァージルだが、種牡馬としては確実に成功を収めており、本馬の他にもケンタッキーダービー馬ベンアリ、プリークネスS勝ち馬ヴァンガードなどを出し、1885年に北米首位種牡馬に輝いた。

ヴァージルの父ヴァンダルは大種牡馬グレンコーの直子だが、競走馬としてのキャリアははっきりしておらず、種牡馬としても同時代にレキシントンがいたため北米首位種牡馬にはなっていない。

母フローレンスは競走馬としての経歴は不明。本馬の半姉リリーアール(父グレネルグ)の子にカオス【ベルモントフューチュリティS】とルビコン【ジェロームH】、孫にラッシュ【ケンタッキーオークス】がいる。また、本馬の全姉フロリダの子には、82戦47勝の成績を挙げた米国顕彰馬フィレンツェ【モンマスオークス・ジェロームH・ガゼルH・マンハッタンH・モンマスH】、玄孫にポールジョーンズ【ケンタッキーダービー・サバーバンH】がいる他、フロリダの牝系子孫にはキャリーバック【ケンタッキーダービー・プリークネスS・カウディンS・フロリダダービー・ジェロームH・メトロポリタンH・ホイットニーH】がいる。また、本馬の半妹フロス(父モルトメール)の孫にはレースキング【メトロポリタンH】がいる。フローレンスの半弟にはフォンソ(父キングアルフォンソ)【ケンタッキーダービー】がいる。→牝系:F24号族

母父レキシントンは当馬の項を参照。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は、前述したようにミスウッドフォードとの交換トレード(正確には、ミスウッドフォード+9千ドルに対する本馬との交換)の形で、米国ケンタッキー州ラニミードスタッドの所有者ケーツビー・ウッドフォード大佐とエゼキエル・フィールド・クレイ大佐の所有馬となり、ラニミードスタッドで種牡馬入りした。種牡馬としては現役時代に匹敵するほどの活躍は出来なかったが、初年度産駒ハノーヴァーが競走馬として、また種牡馬として大きな成功を収めた。1901年7月にラニミードスタッドにおいて23歳で他界。1955年に米国競馬の初代殿堂入りを果たした。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1884

Hanover

ベルモントS・ウィザーズS・サプリングS・ディキシーS・ブルックリンダービー

1884

Jim Gore

クラークH

1886

Buddhist

プリークネスS

1888

Sallie Mcclelland

アラバマS

TOP