テンブロック
和名:テンブロック |
英名:Ten Broeck |
1872年生 |
牡 |
鹿毛 |
父:フェイトン |
母:ファニーホルトン |
母父:レキシントン |
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1マイルから4マイルまで6つの異なる距離で全米レコードを樹立した米国ヒート競走時代最後の名馬はモリーマッカーティーとのマッチレースでも知られる |
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競走成績:2~6歳時に米で走り通算成績30戦23勝2着3回3着1回 |
誕生からデビュー前まで
米国ケンタッキー州ミッドウェイのナンチュラストックファームにおいて、“アンクル”・ジョン・ハーパー氏(本馬の叔父ロングフェローの生産者で、レキシントンやグレンコーを一時的に種牡馬供用していた人物)により生産された。後にハーパー氏が死去したため、甥のフランク・B・ハーパー氏の所有馬となった。馬名はおそらく、本馬の母父でもある大種牡馬レキシントンの競走馬時代の所有者リチャード・テン・ブロック氏に由来すると思われる。
競走生活(2~4歳時)
ハリー・コルストン調教師に預けられて2歳時にケンタッキー州レキシントンで行われたレースでデビューしたが3着に敗れ、この年の出走はこの1戦のみだった。3歳初戦となったフェニックスホテルS(D9F)では泥だらけの不良馬場を快走して、2着アリスティデス以下を破って初勝利を挙げた。しかし記念すべき第1回ケンタッキーダービー(D12F)では、逃げるアリスティデスを追ってレース中盤で2番手に上がったものの、最後は失速して、アリスティデスの5着に敗れた。3歳時の成績は9戦5勝2着1回で、ダート13ハロンの全米レコード2分49秒25を樹立した事もあったとは言え、まだ本格化したとは言い難い状況だった。
本格化したのは翌4歳時で、ダート21ハロンの全米レコード4分58秒5、ダート3マイルの全米レコード5分26秒5、そしてダート4マイルの全米レコード7分15秒75を樹立するなど8戦7勝2着1回の成績を残した。なお、本馬が更新したダート4マイルの全米レコードに関する変遷であるが、1854年にルコントがレキシントンを破ったレースで7分26秒0を計時。翌1855年にはレキシントンがそのルコントの全米レコードに挑戦するタイムトライアルレースで7分19秒75を計時して更新。このタイムは19年間破られなかったが、1874年にフェロークラフトという馬がサラトガ競馬場で行われたレースで7分19秒5を計時して更新した。本馬が破ったのはこのフェロークラフトのタイムである。この年唯一の敗戦は、5月にレキシントン競馬場において行われたアリスティデスとの距離17ハロンのマッチレースに敗れたものだった。しかしアリスティデスの項にも記載したが、本馬がこの年にアリスティデスに敗れたのは距離20ハロンの一般競走であるという説もある。いずれが正しいのかは定かではないが、どちらのレースでもアリスティデスは全米レコードで走っており、このレースではアリスティデスが本馬を凌駕する実力を披露したと言える。
競走生活(5歳時)
5歳時も単走のタイムトライアルレースにおいてダート2マイルの全米レコード3分27秒5を樹立し、ダート1マイルでは1分39秒75という驚異的な全米レコードを樹立(このレコードを更新したのは13年後のサルヴェイターだが、サルヴェイターの資料にはそれまでの全米レコードは1分39秒25と記載されている。いずれかが間違っているのか、それとも途中で別の馬がレコードを更新しているのかははっきりしない)するなど勝ち星を積み重ね8連勝をマークした。
10月にはメリーランド州に向かい、プリークネスS・サラトガCの勝ち馬トムオキルトリー、サラトガCの勝ち馬パロールとの3頭によるボルチモアスペシャルマッチレースに参戦した。このレースは事前から大変な注目を集めていた。合衆国議会を延期してきた米国の上院・下院議員達が見守る中でスタートしたレースは、本馬が先手を奪ってレース全般を支配したが、最後に猛然と追い上げてきたパロールに4馬身差をつけられて2着に敗れた。斤量は本馬がパロールより9ポンド重かったが、4馬身差をつけられれば完敗である。パロールも後の米国顕彰馬であるから、後から見れば別に恥ずかしい相手に負けたわけではないのだが、3頭の中では当時最も評価が低かったパロールに本馬が完敗を喫した事実は本馬の支持者に大きな衝撃を与えたという。しかしその僅か3日後に出走した距離4マイルのヒート競走ボウイーSでは、難なく勝利を収めて汚名を返上。5歳時はボルチモアスペシャルマッチレースが唯一の敗戦で、10戦9勝2着1回の成績だった。
競走生活(6歳時):モリーマッカーティーとのマッチレース
6歳時も現役を続けた本馬は、1戦1勝した後の7月4日にチャーチルダウンズ競馬場で行われた距離4マイルのマッチレース(優勝賞金1万ドル)に出走した。このレースの対戦相手モリーマッカーティーはカリフォルニア州で13戦無敗を誇りカリフォルニアのスターと呼ばれた名牝で、後にサンタアニタパーク競馬場の事実上の創設者となる“ラッキー”ボールドウィン氏に購入されて東上してきていた。米国東西のスーパースターの競演とあって、当日は3万人を超える観衆が詰め掛けた。レースは前夜の大雨により泥だらけの不良馬場で行われた。ジョン・F・ウォール大佐という人物による観戦記によると、レース前の本馬は生気が無く目がどんよりとしており、走る気を起こさせるためにビリー・ウォーカー騎手が鞭を使わなければならないほどだったという。
第1戦のヒート競走は、逃げるモリーマッカーティーを本馬が差し切って勝利。第2戦のヒート競走はモリーマッカーティーが逃げ切って勝利した。そして決勝となった第3戦のヒート競走は先行した本馬がそのまま逃げ切って勝利し、モリーマッカーティーに生涯初の黒星をつけた。モリーマッカーティーはこの第3戦では既にスタミナ切れを起こしていたようで、本馬は最後に全くの馬なりのまま走ったという。そしてこれが本馬の現役最後のレースとなった。
なお、本馬とモリーマッカーティーのマッチレースの経緯は米国の有名なフォークソング“モリー&テンブロック”で描写されている。この“モリー&テンブロック”は元々愛国の民謡だったのを、本馬とモリーマッカーティーのマッチレースをモデルに替え歌にしたものであるらしい。替え歌にする際に事実を色々と脚色しているようで、本馬を栗毛と表現する(本馬は鹿毛馬である)など事実と異なる部分が含まれている。したがってこの歌はむしろ架空の競走を歌ったものと言ってしまってもよいのだが、この歌の存在により本馬やモリーマッカーティーの名前が後世に残っている一面があるのも否定できない。なお、このマッチレースを最後に米国競馬においてヒート競走は廃れていく事になる。
血統
Phaeton | King Tom | Harkaway | Economist | Whisker |
Floranthe | ||||
Fanny Dawson | Nabocklish | |||
Miss Tooley | ||||
Pocahontas | Glencoe | Sultan | ||
Trampoline | ||||
Marpessa | Muley | |||
Clare | ||||
Merry Sunshine | Storm | Touchstone | Camel | |
Banter | ||||
Ghuznee | Pantaloon | |||
Languish | ||||
Falstaff Mare | Falstaff | Touchstone | ||
Decoy | ||||
Emilius Mare | Emilius | |||
Variation | ||||
Fanny Holton | Lexington | Boston | Timoleon | Sir Archy |
Saltram Mare | ||||
Sister to Tuckahoe | Ball's Florizel | |||
Alderman Mare | ||||
Alice Carneal | Sarpedon | Emilius | ||
Icaria | ||||
Rowena | Sumpter | |||
Lady Grey | ||||
Nantura | Brawner's Eclipse | American Eclipse | Duroc | |
Miller's Damsel | ||||
Henry Mare | Henry | |||
Young Romp | ||||
Quiz | Bertrand | Sir Archy | ||
Eliza | ||||
Lady Fortune | Fenwick's Brimmer | |||
Old Buzzard |
父フェイトンはキングトム産駒の英国産馬。体高16ハンドに達した見栄えがする馬で、頭、首、肩、胴体、脚など全てが素晴らしく、これより優れた馬体の持ち主を見つけるのは困難と評されたほどだったが、慢性的な脚部不安を抱えており、競走馬としては2戦未勝利、グッドウッド競馬場で行われたファインドンSで3着した程度に終わった。その後、本馬の名前の由来となったと思われるブロック氏により米国に種牡馬として輸入されて成功を収めたが、10歳の若さで他界している。
母ファニーホルトンも競走馬としてのキャリアは不明。繁殖牝馬としては、複数のマッチレースに勝利し、ウエストチェスターCでハリーバセットの2着した本馬の半兄リットルトン(父リーミントン)を産んでいる。ファニーホルトンの半弟には米国顕彰馬ロングフェロー(父リーミントン)がいる。→牝系:A14号族
母父レキシントンは当馬の項を参照。
競走馬引退後
競走馬を引退した本馬は生まれ故郷のナンチュラストックファームで種牡馬入りした。種牡馬としての成績はまずまずと言ったところだった。1887年に15歳で他界し、遺体はナンチュラストックファームに埋葬された。本馬が埋葬された場所には墓碑が建立され(ケンタッキー州において競走馬のために墓碑が立てられたのは本馬が初めて)、その6年後に他界した叔父ロングフェローの墓碑と並んで現存している。1982年に米国競馬の殿堂入りを果たした。
主な産駒一覧
生年 |
産駒名 |
勝ち鞍 |
1880 |
Drake Carter |
モンマスH |
1881 |
Tolu |
アラバマS |
1882 |
Bersan |
トラヴァーズS・クラークH |
1885 |
Ten Penny |
ケンタッキーオークス |