モリーマッカーティー
和名:モリーマッカーティー |
英名:Mollie McCarty |
1873年生 |
牝 |
鹿毛 |
父:マンデー |
母:ヘニーファロー |
母父:シャムロック |
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地元カリフォルニア州では無敵を誇り、名馬テンブロックとのマッチレースでも知られる19世紀最高のカリフォルニア州産の牝馬 |
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競走成績:2~6歳時に米で走り通算成績17戦15勝2着2回 |
誕生からデビュー前まで
米国カリフォルニア州において、アドルフ・メイラード氏により生産された。メイラード氏は元々ニュージャージー州の馬産家だったが、1869年にユニオン・パシフィック鉄道が北米最初の大陸横断鉄道を開通させたのを機に、翌1870年にサンフランシスコに移住して馬産活動を継続していた。
本馬は成長しても体高15.2ハンドとそれほど背が高い馬ではなかったが、非常に筋肉質の馬体を有しており、「美しい頭、優れた脚、白鳥のように立派な首、華麗な背中と胴回り、強靭な下半身を有する、非常に完成度が高い馬体」と評された。気性面では、川に飛び込んで逃げ出した母ヘニーファローに似たのか、少々悪戯好きな部分があったが、「子猫のように愛嬌がある」と評されているから、扱い辛くてどうしようもないような馬ではなかったようである。
競走生活(2~4歳時)
セオドア・ウィンターズ氏の所有馬として2歳時に競走馬デビューした。サクラメントで行われた賞金550ドルのダッシュスウィープS(D8F)を勝利したが、2歳時はこの1戦のみで終えた。
3歳時は、4月にカリフォルニア州の都市サンノゼで行われた距離1マイルのヒート競走(賞金200ドル)に出走して勝利。5月にはサンフランシスコでラザムプレート(D12F・現カリフォルニアダービー)を牡馬相手に勝利。引き続き出走した賞金400ドルのソラノS(D14F)も勝利した。9月8日にはカリフォルニア州サクラメントにあるアグリカルチュアルパーク競馬場でウインターS(D10F)を勝つと、同日にはスピリットオブザタイムズS(D8F)というヒート競走に出走してこれも勝利した。3歳最後のレースは、12月にサンフランシスコで行われた距離4マイルのヒート競走カリフォルニアオークスだった(資料によって賞金が異なり、1000ドルから1万ドルまである)。このレースは元々4戦連続で行われる予定だったが、最初のヒート競走において本馬が1頭を除く他馬をことごとく遥か後方に置き去りにして勝利したため、その1頭を除く他馬は全て残りのヒート競走への参加資格を喪失してしまった。そのために2戦目のヒート競走では2頭立てとなった。この2戦目で本馬が勝利したために、3・4戦目は実施されることなく本馬が勝利馬として確定した。3歳時の成績は6戦全勝で、前年からの連勝を7まで伸ばした。
4歳時も連勝は続いた。まずは賞金2250ドルの距離4マイルのヒート競走に出走。ここでも第1戦でバザールという馬1頭を除く他の出走馬4頭を全て遥か後方に置き去りにしたため、2戦目で決着がついてしまった。4月にサクラメントで行われた賞金350ドルのダッシュスウィープS(D20F)では、レディアマンダ以下を一蹴して勝利。その2日後に出走した距離2マイルのヒート競走(賞金500ドル)でも、カウンシルブラフス、レディアマンダ、ウィートリーといった馬達を寄せ付けずに勝利。9月に出走した賞金400ドルのダッシュスウィープS(D8F)でも5頭の対戦相手を蹴散らして勝利した。その4日後に出走した距離2マイルのヒート競走(賞金500ドル)も3頭の対戦相手を蹴散らして勝利を収め、4歳時の成績は5戦全勝となった。
競走生活(5歳前半)
5歳時は、3月2日にサクラメントで行われた、ジェイクという馬との距離2マイルのマッチレース(ヒート競走)に出走した。このマッチレースは元々2月22日に行われる予定だったが、あまりの悪天候のために順延されていた。本馬とジェイクは同世代馬であり、しかもジェイクは牡馬だったのだが、斤量は本馬のほうが14ポンド重い設定となった。しかしジェイクに騎乗した騎手が減量に失敗したために、2頭の斤量差は少し減って11ポンドになっていた。レースでは本馬が第1戦・第2戦を連勝して勝利した。
デビューから無敗の13連勝となった本馬に目をつけたのが、エリアス・ジャクソン・ボールドウィン氏だった。ボールドウィン氏はオハイオ州出身で、幼少期に家族と一緒にインディアナ州に移住した。幼少期から「トム・ソーヤーの冒険」に出てくる少年トムのように良くも悪くも色々な事を仕出かした彼は、ゴールドラッシュの話を聞きつけると当然のようにカリフォルニア州に出向いていった。その旅行中に飢え死にしそうになったところを親切なネイティヴ・アメリカンに助けられたとか、逆に悪意があるネイティヴ・アメリカンに襲われて九死に一生を得たなどの話が伝わっている。カリフォルニア州に到着した彼は、自分で金鉱山を探すのではなく、金の採掘で富豪となった人物に近づいて不動産への投資などを支援。それらが悉く成功したため、彼は地元の有名人となった。さらに借金のかたとして入手した古い鉱山から新たに莫大な量の金鉱脈が出てくるという幸運にも恵まれ、いつしか彼自身も大富豪となっていたのだった。彼はとにかく色々な事に手を出した人物であり、象を狩りにインドまで出かけたり、日本の古典芸能を米国に広めるために東京まで出向いて渡米するように勧誘したりもした。少々長くなりすぎたが、そのあまりの幸運ぶりから、“Lucky Baldwin(ラッキー・ボールドウィン)”の異名で呼ばれていた彼は当然のように競馬にも興味を向けていた。後にサンタアニタパーク競馬場を買収して大改装したのも彼の功績である。
ウィンターズ氏から本馬を購入したボールドウィン氏は、本馬をケンタッキー州に送った。当時の米国における交通事情により、競走馬に北米大陸を横断させるのは困難であり、カリフォルニア州産馬はそのままカリフォルニア州で競走成績を送るのが当たり前だったのだが、チャレンジャーだったボールドウィン氏はあえてそのタブーに挑戦した。本馬はカリフォルニア州産の現役競走馬として初めて米国東部に遠征した馬であると言われている。
テンブロックとのマッチレース
そして7月4日、ルイビルジョッキークラブが所有する競馬場(現チャーチルダウンズ競馬場)で行われた優勝賞金1万ドルの距離4マイルのヒート競走に出走する本馬の姿があった。対戦相手は1頭だけだったが、その1頭とは、このヒート競走出走前の段階で29戦22勝2着3回3着1回の戦績を誇っていた当時の米国最強牡馬テンブロックだった。米国東西のスーパースターの競演とあって、当日は3万人を超える観衆が詰め掛けた。
レースは前夜の大雨により泥だらけの不良馬場で行われた。第1戦は本馬が先行してそのまま逃げ切るかと思われたが、ゴール前で差し切ったテンブロックが制した。第2戦は再び逃げを打った本馬が、今度はテンブロックの追撃を抑えて制した。そして決勝となった第3戦はテンブロックが先行して本馬が追う展開となった。しかし本馬には既にテンブロックを捕まえに行くだけの余力が無く、逃げ切ったテンブロックが第3戦を制してこのヒート競走の勝ち馬となり、本馬は生涯最初の敗北を喫してしまった。しかし本馬の立場からすれば、カリフォルニア州から2300マイル(約3700km)の長旅で疲労困憊であり、ようやく到着した列車から降りてきた際には脚を引きずっていたという。しかもカリフォルニア州とケンタッキー州は気候が違い過ぎ、レース前夜の大雨を見た本馬は戸惑っていたという。そんな状態で米国最強馬と互角に渡り合ったわけであるから、この敗戦は本馬の名声を傷つけるものではないと筆者は思う。なお、本馬とテンブロックのマッチレースの経緯は米国の有名なフォークソング“モリー&テンブロック”で描写されているが、テンブロックを栗毛と表現する(実際には鹿毛馬である)など事実と異なる部分が含まれているようである。また、このマッチレースを最後に米国競馬においてヒート競走は廃れていく事になる。
テンブロックはこのレースを最後に競走馬を引退したが、本馬は現役を続行。その後はミネソタ州ミネアポリスに赴き、ミネアポリスCに出走した。しかしガヴァナーネプチューンの2着に敗れてしまい、生涯2度目の敗北を喫した。5歳時は3戦1勝の成績だった。
このままでは終われないとばかりに6歳時も現役を続行。まずは地元サンフランシスコでダッシュスウィープS(D10F)に出て勝利。その後はイリノイ州シカゴに遠征して、ガーデンシティCに出走。今回の遠征ではクララディーという帯同馬を同伴させた。さらにレースでもクララディーは本馬を支援するためにラビット役として馬群を先導。精神的にもレース内容的にもクララディーに助けられた本馬はこのレースでは勝利を挙げて、ようやく遠征先で結果を出した。このレースを最後に6歳時2戦2勝の成績で競走馬を引退した。馬名はしばしば“McCarthy”、又は“Molly McCarty”と書かれるという。
血統
Monday | Colton | Lexington | Boston | Timoleon |
Sister to Tuckahoe | ||||
Alice Carneal | Sarpedon | |||
Rowena | ||||
Topaz | Glencoe | Sultan | ||
Trampoline | ||||
Emerald | Leviathan | |||
Eliza | ||||
Mollie Jackson | Vandal | Glencoe | Sultan | |
Trampoline | ||||
Tranby Mare | Tranby | |||
Lucilla | ||||
Emma Wright | Margrave | Muley | ||
Election mare | ||||
Fanny Wright | Silverheels | |||
Aurora | ||||
Hennie Farrow | Shamrock | St Patrick | Walton | Sir Peter Teazle |
Arethusa | ||||
Dick Andrews Mare | Dick Andrews | |||
Trumpator Mare | ||||
Delight | Reveller | Comus | ||
Rosette | ||||
Defiance | Rubens | |||
Little Folly | ||||
Ida | Belshazzar | Blacklock | Whitelock | |
Coriander Mare | ||||
Manuella | Dick Andrews | |||
Mandane | ||||
Madame Bosley | Sir Richard | Sir Archy | ||
Lady Jane | ||||
Nancy Nichol | Eagle | |||
Bet Bosley |
父マンデーは現役成績7戦5勝。トライアルS・ジャージーダービー・シークウェルSを勝ち、ナーサリーSで同馬主同厩馬ルースレスの3着などの成績を挙げた後に、記念すべき第1回ベルモントSに出走した。マンデーはジャージーダービーでルースレスを破っていたために、両馬の所有者フランシス・モリス氏はマンデーのほうに期待を寄せていたそうであるが、しかしマンデーはレース中に故障を起こして、ルースレスの4着最下位に敗れてしまった。不幸中の幸いで生命は助かったために、ベルモントSを最後に引退して種牡馬入りした。6歳時の1870年に本馬の生産者メイラード氏に購入されてカリフォルニア州で供用され、本馬の他にジョーフッカー(73戦44勝の成績を残したヨタンビエンの父)や、4頭のカリフォルニアダービー馬を出し、カリフォルニア州繋養種牡馬としてはトップクラスの成績を残した。なお、本馬の父に関してはマンデーではなくエクリプス(生涯無敗のあのエクリプスではなく、オーランド産駒のエクリプスのほう。そのためにエクリプスⅡともヤングエクリプスとも呼ばれる)だとする説もある。当時の英国以上に血統管理がいい加減だった当時の米国の事であるから、実際のところはどうなのかは分からないのだが、一般的には本馬の父はマンデーであるとされている。マンデーの父コルトンはレキシントン産駒だが、コルトンが4歳時に米国南北戦争が勃発しており、競走馬としてどのような成績を残したのかは定かではないが、あまり活躍はしなかったようである。
母ヘニーファローはテネシー州ナッシュビルにおいて、アブナー・ターナー氏により生産された。優れた馬体の持ち主だったらしいが、少々気性に問題があったようで、ニューオーリンズに向かう途中の船の中で暴れてミシシッピ川に飛び込むと、岸まで泳いでたどり着いて逃げ出したという逸話がある。それでも競走能力は高かったようで、5歳時にハーパーSという距離2マイルのヒート競走を勝っている。本馬の生産者メイラード氏がマンデーを購入した際に一緒に購入して繁殖入りしたようである。繁殖牝馬としても優秀で、勝ち上がり馬を何頭も産んだ。本馬の半姉メイフラワー(父エクリプスⅡ)の子には前述のジョーフッカーがいる。また、同じく本馬の半姉エレクトラ(父エクリプスⅡ)の子にはヒダルゴ【モンマスH】、フィッツジェームズ【サプリングS】がいる。また、本馬の半弟ローストン(父ノーフォーク)と半妹クララマグゲレー(父ノーフォーク)はいずれも日本に輸入されているが、サラブレッドではなくアングロアラブの生産に使われたようである。クララマグゲレーの牝系子孫からは帝室御賞典(東京)を勝ったジンソウなどが出ているが、サラブレッド系種扱いである。ローストンとクララマグゲレーの全弟フラッドは米国に留まって種牡馬入りし、名馬コマンドの祖母の父として名を残した。ヘニーファローの曾祖母ナンシーニコルの半妹ベットボズレージュニアの玄孫にはロードマーフィー【ケンタッキーダービー】、クリックモア【ウィザーズS・ディキシーS】がいる。→牝系:A10号族
母父シャムロックは英国産馬だが、競走成績は不明。種牡馬として米国に輸入されていたが、成功しなかった。シャムロックの父セントパトリックは1820年の英セントレジャー馬。セントパトリックの父はウォルトンである。
競走馬引退後
競走馬を引退した本馬はボールドウィン氏が所有するサンタアニタスタッドで繁殖入りした。繁殖入りから3年連続で子を産んだが、1883年3月、ラザフォードとの牝駒を出産直後に10歳の若さで他界した。
8歳時に産んだ初子の牝駒フォールンリーフ(父グリンステッド)はかなりの強豪馬であり、カリフォルニア州でヒート競走を勝った後に州外に遠征。ケンタッキー州ではグリデリアSを勝ち、ラトニアダービーで2着。シカゴではイリノイオークスを馬なりのまま走って勝利した。2番子の牡駒ブランディワイン(父レキシントール)は7戦1勝だったが、着外は1度も無かった。本馬が死ぬ間際に産んだ3番子の牝駒はその名もモリーマッカーティーズラスト(又はモリーズラスト)と命名されて、地元カリフォルニア州のステークス競走を勝つと、遠征先のニューヨーク州でジェロームHに出走して、当時の最強馬ザバード、エルクウッドに次ぐ3着と大健闘した。しかしモリーマッカーティーズラストには繁殖牝馬としての記録は無い。本馬の牝系はフォールンリーフから細々と伸び、1954年のデルマーダービーを勝った マッスルシェルが出たが、現在ではほぼ途絶しているようである。