リーミントン

和名:リーミントン

英名:Leamington

1853年生

青鹿

父:フォーアバラー

母:パンタルーンメア

母父:パンタルーン

レキシントンの後を継いで米国種牡馬界の頂点に君臨し19世紀後半において英国から米国に輸入された種牡馬の中で最大の大物と評される

競走成績:2~7歳時に英で走り通算成績25戦8勝2着及び3着8回

誕生からデビュー前まで

英国でハルフォード氏という人物により生産・所有された。馬格は優れており、特に後脚の力強さには見るべきものがあったという。

競走生活(2~4歳時)

2歳時にウォーリック競馬場で行われたウッドコートS(T6F)で初戦を迎えて、デビュー勝ちを果たした。その後にヒギンズ氏という宿屋の亭主に購買されて、トム・パー師とエドワード・パー師の両調教師に預けられた。しかしその後は、ノッティンガム競馬場で出走したロビンフッドSとバニーパークS、ヨーク競馬場で出走したコンビビアルプロデュースSと3連敗。ダービー競馬場で出走したチェスターフィールドS(T5F)で連敗を脱出したところで2歳戦を終え、この年の成績は5戦2勝となった。

3歳時は英ダービーが目標とされたが、腺疫(下顎リンパ節が腫れたり、膿のような鼻水が出たりする、馬の菌感染症。致命的ではなく自然治癒する)を発症したため断念。その後、ヒギンズ氏は本馬をハンデキャップ路線に進ませた。軽斤量の下級競走に4戦続けて敗れた後、ウルヴァーハンプトン競馬場で出走した芝4ハロンの下級競走に勝利。その後はウォーウィック競馬場で出走したタウンプレート、レスター競馬場で出走した芝4ハロンのハンデ競走に出ていずれも敗北。その後に出走したスチュワーズC(T8F)では、98ポンドという軽斤量となり、このレースを勝利した。

4歳時はチェスター競馬場で行われたチェスターC(T18F)から始動した。本馬に課せられた斤量は93ポンドという軽いものとなり、単勝オッズ7倍という一定の評価を受け、このレースに勝利した。次走のアスコット金杯(T20F)ではスカーミッシャーの4着だった。次走のグッドウッドS(T20F)では118ポンドという、出走馬中ではゴールドヴァーズの勝ち馬フィッシャーマンの124ポンドに次いで2番目に重い斤量が課せられた。そのため、単勝オッズ34.3倍の人気薄だったが、27ポンドのハンデを与えた2着ガンボートに1馬身差で勝利した。しかし続いて出走したチェスターフィールドC(T10F)では、131ポンドのトップハンデが課されて敗れた。次走のクイーンズプレートでもフィッシャーマンに敗れて4歳シーズンを終えた。

競走生活(5~7歳時)

5歳時はシーズン終盤のシザレウィッチH(T18F)のみの出走だった。しかしここでは130ポンドの斤量を課せられてしまい、斤量88ポンドの3歳牡馬ロケット、斤量126ポンドの5歳牝馬プライオレス(前年のシザレウィッチHと前月のグレートヨークシャーHを勝っていた)といった面々に屈して、ロケットの着外に敗れた。実は、本馬の所有者ヒギンズ氏は、騎手に指示をして本馬をわざと凡走させる事により、次走の斤量をコントロールして、本馬が人気薄になった時に自分が大金を賭けて大儲けしていた。それがこの時期にハンデキャッパーに発覚してしまい、重斤量を課せられるようになったようである。

6歳時はチェスターC(T18F)から始動した。本馬の斤量は114ポンドで、前年のアスコット金杯を勝っていたフィッシャーマン(この年も勝って2連覇を果たす事になる)は126ポンドだった。このレースには他にも前年のシザレウィッチHで2着だったプライオレス、マンチェスターC・ノーザンバーランドプレート2回を勝っていたアンダーハンドといった実力馬も出走していた。結果は本馬が馬なりのまま、26ポンドのハンデを与えた2着ハーンに2馬身差で勝利した。アスコット競馬場で出走した次走のゴールドヴァーズ(T16F)では131ポンドが課せられたが、34ポンドのハンデを与えたスキズムの2着と好走した。続いてグッドウッドC(T21F)に出走したが、レース中に右前脚を故障して、同年の英2000ギニー馬ザプロミスドランド、後にこの年のドンカスターCを勝つニューカッスル、プライオレスといった馬達に屈して、ザプロミスドランドの着外に敗れた。

7歳時も現役を続け、8月のザホイップS(T32F)に出走したが、140ポンドが課せられてしまい、レース中に故障を再発して敗れ、そのまま競走馬を引退した。

血統

Faugh-a-Ballagh Sir Hercules Whalebone Waxy Pot-8-o's
Maria
Penelope Trumpator
Prunella
Peri Wanderer Gohanna
Catherine
Thalestris Alexander
Rival
Guiccioli Bob Booty Chantcleer Woodpecker
Eclipse Mare
Ierne Bagot
Gamahoe Mare
Flight Escape Commodore
Moll in the Wad
Young Heroine Bagot
Old Heroine 
Pantaloon Mare Pantaloon Castrel Buzzard Woodpecker
Misfortune
Alexander Mare Alexander
Highflyer Mare
Idalia Peruvian Sir Peter Teazle
Boudrow Mare 
Musidora Meteor
Maid of All Work
Daphne Laurel Blacklock Whitelock
Coriander Mare
Wagtail Prime Minister
Orville Mare
Maid of Honor Champion  Pot-8-o's
Huncamunca
Etiquette Orville
Boadicea

父フォーアバラーはサーヘラクレス産駒で、バードキャッチャーの全弟に当たる。現役時代は、英セントレジャー・グランドデュークマイケルS・シザレウィッチHを勝ち、ロシア皇帝プレート(現アスコット金杯)で2着した名長距離馬だった。種牡馬としては最初英国で供用されて本馬を出した。後に仏国に輸出され、仏国でも英オークス・仏オークス・ロワイヤルオーク賞を制した名牝フィーユドレールを出している。

母パンタルーンメアは「パンタルーンの牝駒」という意味で、本当は無名馬である。競走馬としての経歴は不明である。母としては本馬の半弟ランボーン(父ルーガルー)【モールコームS】も産んでいる。また、本馬の半妹チャペロン(父フラットキャッチャー)の玄孫アドミレイションは、世界競馬史上最高の名牝の1頭プリティポリーの母であり、その牝系子孫からは多数の活躍馬が登場しているが、その詳細はプリティポリーの項を参照してほしい。→牝系:F14号族①

母父パンタルーンは現役成績7戦6勝で、遡ると、キャストレル、バザード、ウッドペッカー、ヘロドへと行きつく。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は、1860年から当時名種牡馬ニューミンスターも繋養されていた英国ロークリフスタッドで種牡馬生活を開始した。その後の1865年に、豪州の汽船会社の経営者で米国ジョッキークラブの創設メンバーの1人でもあったカナダ人のロデリック・W・キャメロン氏により1575ポンドで購入されて米国に移動した。

米国に到着して間もなく、エイブラハム・ビュフォード氏(大種牡馬レキシントンの現役時代の所有者として知られる。南北戦争では南軍の将軍として活躍したが、この年南軍が降伏すると趣味の馬産に戻ろうとしていた)に気に入られ、翌1866年はビュフォード氏が米国ケンタッキー州に所有していたボスクボニータスタッドでリース供用された。しかしこの牧場では交配数13頭と繁殖牝馬に恵まれなかった(ただし、その中から後継種牡馬ロングフェローなどを出している)ため、1年でキャメロン氏はリースを打ち切り、本馬はキャメロン氏がニューヨーク州スタテン島に所有していたクリフトンスタッドに移された。

その後の1868年にはニュージャージー州に移動。1871年にはジョン・ハンター氏という人物がニューヨーク州ウエストチェスターに所有していたアニースウッドファームに移動した。さらにはかつてキャメロン氏が本馬を米国に輸入した際に協力した人物の1人でもあった馬産家アリスティデス・ウェルチ氏に購入され、1872年にウェルチ氏がペンシルヴァニア州フィラデルフィアの近郊に所有していたエーデンハイムスタッドに移動した。これまで散々各地を引っ張り回された本馬だが、エーデンハイムスタッドに来て以降は、もう他の場所へ連れて行かれる事はなくなり、この地が終の棲家となった。

1875年には、産駒のアリスティデスが記念すべき第1回ケンタッキーダービーを優勝するなど活躍。同年に本馬は当時無敵を誇っていた大種牡馬レキシントンの15年連続を阻止して北米首位種牡馬を獲得するという快挙を達成した。翌1876年にはレキシントンにタイトルを奪取されたが、翌1877年には、アラバマSを勝ったサスケハナなどの活躍により再度北米首位種牡馬になった。翌1878年5月、本馬はエーデンハイムスタッドにおいて25歳で他界した。しかし翌1879年にはプリークネスSを勝ったハロルドなどの活躍により、1881年にはプリークネスS・ベルモントSを勝ったソーンタラーなどの活躍により北米首位種牡馬となり、合計で4度のタイトル獲得を果たした。また、この1881年には産駒のイロコイが北米産馬として史上初めて英ダービー・英セントレジャーを優勝しており、本馬の血の優秀さを母国でも示してみせた。

本馬は気性が激しい馬だと言われており、“Man Eater(人食い)”という、あまり聞こえが良くない異名で呼ばれていたらしい。そのため、牧場にいる本馬を訪問した者は、怖くて本馬に近寄れなかった。しかし本馬の担当厩務員ジョン・マックロスキー氏は、本馬にも好き嫌いはあるとしながらも、特に気性が悪い馬ではなく、自分が近寄って鼻を撫でると、舌で自分の手を舐めてくる愛嬌がある馬だったと証言している。また、本馬は体高16.25ハンドの立派な体格の持ち主で、上品かつ力強いと評価されていた。

本馬の後継種牡馬としては、ロングフェローが多くの活躍馬を出して成功したが、現在本馬の直系は途絶えている。しかし本馬の娘パーフェクションからは牝系が伸び、パーフェクションから5代目には大種牡馬ネアルコが出現している。そのため、現存するサラブレッドの大半には本馬の血が入っている事になる。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1867

Longfellow

サラトガC

1872

Aristides

ケンタッキーダービー・ウィザーズS・ジェロームH

1872

Olitipa

アラバマS

1873

Parole

サラトガC2回

1874

Susquehanna

アラバマS

1876

Harold

プリークネスS

1877

Ferncliffe

ウィザーズS

1878

Iroquois

英ダービー・英セントレジャー・プリンスオブウェールズS・セントジェームズパレスS

1878

Paw-Paw

モールコームS

1878

Saunterer

プリークネスS・ベルモントS

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