ネアルコ
和名:ネアルコ |
英名:Nearco |
1935年生 |
牡 |
黒鹿 |
父:ファロス |
母:ノガラ |
母父:アヴルサック |
||
種牡馬として大成功を収めて近代サラブレッド血統界をその血で覆い尽くした、伊国の天才馬産家フェデリコ・テシオ氏が世に送り出した生涯無敗の名馬 |
||||
競走成績:2・3歳時に伊仏で走り通算成績14戦14勝 |
競走成績もさることながら、種牡馬として大きな成功を収め、世界中のサラブレッドを自身の血脈で覆いつくしたという完璧な名馬。
伊国の天才馬産家フェデリコ・テシオ氏について
本馬の生産者であるフェデリコ・テシオ氏は、伊ダービーを通算22勝、伊オークスを通算11勝、伊セントレジャーを通算18勝、ミラノ大賞を通算22勝するなど、伊国の大競走をこれでもかというほど勝ち続け、「ドルメロの魔術師」の異名で呼ばれた伊国競馬史上最高の馬産家である。いや、伊国のみならず、過去にサラブレッドの馬産に携わった全世界の人物の中でも最も優れた馬産家であるとも言われており、“the only genius ever to operate in the breeding world(世界馬産界における史上唯一の天才)”とまで評されたほどの人物だった。しかし彼がそこまで評価されるようになった理由のうちかなりの割合を本馬、及び彼が死の間際に送り出したリボーの2頭が占めている事は間違いないだろう。
1869年に伊国のトリノで生まれたテシオ氏は、6歳で両親を失って孤児の身となったが、亡き両親から財産を受け継ぐ事ができた。優れた成績でフィレンツェ大学を卒業した彼は、その後に世界中を放浪して見聞を広めた。彼は万国共通の話題として「馬」を選び、馬と関わって生活する世界中の人々から馬に関する知識を仕入れた。
そして帰国した彼は、リディア夫人との結婚を機に、1898年に伊国北部マッジョーレ湖のほとりノヴァーラにおいてドルメロ牧場を設立して馬産を開始した。自身の生産馬は基本的に自身で所有し、調教も誰の手も借りることなく自身で行うのがモットーであり、牧場と調教施設の間を毎日のように動き回る多忙な日々を送った。生産馬を年間10頭強に抑えたのは有名な話だが、それはおそらく生産馬が多すぎると自身が管理しきれなくなるためだったのだろう。
早い段階から伊国内でも有数の名馬産家として活躍したが、1932年に同じく伊国の馬産家で義理の息子でもあったマリオ・インチーサ・デッラ・ロケッタ侯爵と提携して以降はさらなる猛威を振るうようになり、伊国内ではほぼ無敵の馬産家兼馬主として君臨していた。
彼の馬産理論は著書“Breeding the Racehorse(サラブレッドの生産)”にまとめられているのだが、その内容は筆者の理解力の範疇を超えるものであり、詳しく語る事は出来ない。しかしテシオ氏の配合理論となると、筆者が好まない机上の血統評論家達のそれとは比べ物にならないほど説得力がある事は間違いないため、本馬の紹介からは大きく脱線するが、筆者が理解できた範囲で内容のいくつかをここに列挙してみようと思う(もしかしたらテシオ氏の意思と筆者の解釈が違っている部分があるかもしれないが勘弁してほしい)。
①自家生産した馬はそのまま自分の牧場に留めない。牡馬は全て種牡馬として外部に放出するし、牝馬も積極的に外部の繁殖牝馬と入れ替える。そしてその交配相手として外部の種牡馬を活用する事により、配合の選択肢を増やさなければならない。そのために、所有馬を売ってほしいという申し出があれば積極的に応じるべきである。
②ただし、導入する繁殖牝馬や、交配相手となる種牡馬は厳選しなければならない。いずれも最上級の品質の馬を選ぶべきであり、中途半端な馬は使用しない。
③いったん流行となった種牡馬や血統であっても、いずれ必ずその種牡馬や血統は衰退するもので、長く続いても3代目には「バブルがはじける」。そのため、流行の種牡馬や系統を追いかけ続ける行為は、長い目で見ると厳禁である。むしろ高い能力を持ちながら不遇を囲っている不人気種牡馬や血統をこそ活用して様々な配合を試みるべきである。
④ニックスにはこだわらない。ニックスを完全否定するわけではないが、ニックスとは結果論から言われるようになるものであり、科学的に立証するのは無理であるから、それにこだわるよりは多様な配合を試みることを優先するべきである。そのため、1頭の繁殖牝馬に同じ種牡馬ばかり付けないようにする。既に成功した組み合わせであった場合でもこの方針は不変である。
⑤繁殖能力に悪影響を及ぼす危険性が大きいため、強い近親交配は避けなければならない。配合の選択肢さえ豊富であれば、それは容易に避けられる。ただし、強い近親交配から誕生した馬であっても、既に繁殖能力に問題がない事が確認されていれば、その馬を使った配合を積極的に試みても構わない。これにより名馬のクロスを安全に活用する事が出来る。
⑥短距離馬であっても一定のスタミナは必要であるし、長距離馬であっても十分なスピードが必要である。スピードとスタミナのバランスを取るために、血統が極端な短距離系又は長距離系に偏らないようにするべきである。
⑦しかし最終的に当該競走馬の能力を決定するのは血統ではなく、その馬が持って生まれた素質である。その素質を引き出すのは我々人間の役目である。
と、こんなところである。彼が完全オーナーブリーダー制を採用していたからこそこの全てが可能だったわけであり、生産馬を売って生計を立てるタイプの牧場には無理な部分も多々あるだろうが、それでも昨今の日本における馬産家、馬主、ファン、予想家、評論家も見習うべきところが多いのは間違いないだろう。
誕生からデビュー前まで
本馬を語る際にはテシオ氏を語る必要があるために話が長くなってしまったが、さすがに脱線しすぎたので、そろそろ話を元に戻す。さて、そんなテシオ氏が義息ロケッタ侯爵と提携する以前に生産した馬の中に、ノガラという名前の牝馬がいた。主にマイル・短距離路線で活躍し、伊1000ギニー・伊2000ギニーなどを制したノガラは「小柄だが、明るい毛色をした上品な馬。見事な飛節を有しており、その身のこなしは雄大である」と評された馬だった。
これは有名な逸話だが、テシオ氏は繁殖入りして間もないノガラの交配相手としてフェアウェイを考えていた。しかし英国期待の種牡馬であるフェアウェイの予約は既に満口となっており、テシオ氏はその種付け権利を入手する事が出来なかったため、フェアウェイの活躍により英国から仏国に都落ちしていたフェアウェイの全兄ファロスに目をつけた。そしてノガラがファロスとの間に産み落としたのが本馬だったのである。
ファロスもそれほど大きな馬ではなかった(巨漢馬だったフェアウェイとの対比もあるかもしれない)ため、テシオ氏は誕生する子が両親に似て小柄に出る事を懸念していたらしいが、実際に産まれた本馬はやはりそれほど大きい馬ではなかった。しかし完璧に均整の取れた馬体を有しており、そしてその馬力とスピード能力は幼少期からずば抜けていたという。本馬はテシオ氏とロケッタ侯爵の共同所有馬となり、テシオ氏自身が調教師として育成した。主戦はP・グベリーニ騎手が務めた。
競走生活(2歳時)
2歳6月にミラノのサンシーロ競馬場で行われたコリコ賞(T1000m)でデビューして、2着となった英国産の牝馬ムンダに3馬身差をつけて楽勝。その後はしばらくレースに出ず、9月にサンシーロ競馬場で行われたメナジオ賞(T1000m)で復帰して2馬身差で勝利。それから10日後にサンシーロ競馬場で出走したヴィメルカテ賞(T1200m)では、やはりテシオ氏の生産・所有馬だったヤコポロブスティを1馬身差の2着に抑えて勝利。さらに4日後にサンシーロ競馬場で出走したクリテリウムナチオナーレ(T1200m)では、2着フォンツァーゾに2馬身差をつけ、後の伊オークス馬シルヴァナも3着に破って勝利した。
翌10月にサンシーロ競馬場で出走した伊国2歳最強馬決定戦の伊グランクリテリウム(T1500m)でも、楽な手応えのまま、2着となった同厩馬ガッドガッディに2馬身半差をつけて勝利した。さらにローマのカパネッレ競馬場で出走したテヴェレ賞(T1400m)では、ムンダを3馬身差の2着に、ガッドガッディを3着に破って勝利。翌11月にサンシーロ競馬場で出走したチウスラ賞(T1400m)では、やはりテシオ氏の生産・所有馬で父も同じだった1歳年上のキウスーラ賞・伊セントレジャーの勝ち馬エルグレコ(リボーの母の父と言った方が分かりやすいか)を3/4馬身差の2着に抑えて勝利を収め、7戦全勝の成績で2歳シーズンを締めくくった。一度も本気で追われたことのないレースぶりは底知れない実力を感じさせ、その年の伊国2歳馬フリーハンデでは143ポンドという最高評価を獲得した。
競走生活(3歳前半)
3歳になると、その強さにますます磨きをかけていった。まずは2月にピサ競馬場で行われた農林大臣賞(T1400m)に出走して、2着ガブロに3馬身差をつけて楽勝した。4月にカパネッレ競馬場で出走した次走の伊2000ギニー(T1600m)では、2着ペリニョに6馬身差をつけて圧勝した。さらにサンシーロ競馬場で出走したプリンシペエマニュエレフィリベルト賞(T2000m)でも、他馬をまったく問題にせず、2着ガブロに3馬身差をつけて快勝。
次走は5月にカパネッレ競馬場で行われた伊ダービー(T2400m)となった。テシオ氏は本馬のスピード能力は十分に認めていたが、そのスタミナ能力には疑問を抱いていたらしく、この距離は若干不安視されていた。ファンも同感だったのか、本馬の単勝オッズは3.5倍に留まった。ところがいざレースが始まると、この距離を全く問題にせず、グベリーニ騎手が軽く手を動かしただけで後続馬をみるみるうちに引き離し、2着ペリニョに測定不能の大差をつけて圧勝してしまった。このレースには翌月のイスパーン賞を勝つビストルフィ(この馬もテシオ氏の生産・所有馬だった)も出走していたのだが、本馬にはまったく歯が立たなかった。
本馬の桁違いの強さは、同月にサンシーロ競馬場で出走したイタリア大賞(T2400m)でも変わらず、後のバーデン大賞の勝ち馬プロクレを6馬身差の2着に葬り去った。
次の目標は6月にサンシーロ競馬場で行われる伊国最大級の古馬混合戦にして距離3000mの長距離戦ミラノ大賞だった。テシオ氏は本馬が真の長距離馬ではない事を認識していたが、伊ダービーの勝ち方からしても、その絶対的能力の違いで押し切れるだろうと踏んだようである。それでも一抹の不安があったのか、レース直前の調教において、本番と同じ3000mを2頭の有力馬と一緒に走らせてみる事にした。その有力馬とは、この距離では9戦7勝2着2回の成績を誇った後の伊ジョッキークラブ大賞・伊セントレジャーの勝ち馬ウルソーネと、伊ダービー3着こそあったが主に短距離戦で活躍していたビストルフィの2頭だった。この調教で本馬に食い下がったのは、本馬より11ポンド軽い108ポンドのウルソーネではなく、本馬と同じ119ポンドだったビストルフィのほうであったが、結局は本馬の楽勝に終わった。ビストルフィが仏国に遠征してイスパーン賞を勝つのはこの直後の話である。そして迎えた本番のミラノ大賞(T3000m)では、ウルソーネを3馬身差の2着に、プロクレを3着に破って楽勝した。
パリ大賞
もはや伊国内に敵がいなくなった本馬を、テシオ氏は当時欧州最大の競走の1つだった仏国のパリ大賞(T3000m)に出走させることにした。テシオ氏はこの前年に、自身の生産・所有馬でやはり伊国内では無敗を誇っていたプリミパッシ賞・伊グランクリテリウム・テヴェレ賞・伊ダービー・メルトン賞・エミリオトゥラティ賞・イタリア大賞・ミラノ大賞の勝ち馬ドナテロをパリ大賞に出走させたが、惜しくもクレアヴォワンの首差2着に敗れており、本馬の参戦はドナテロの雪辱戦でもあった。
パリ大賞はミラノ大賞から僅か1週間後であり、しかも2競走とも3000mの長距離戦である(あと、ミラノ大賞の直前に3000mを走る調教もしているわけである)上に、さらにはミラノからパリまでは24時間以上の列車移動を必要とするなど、かなりの強行軍だった。その上にテシオ氏はパリ大賞の前日にロンシャン競馬場において本馬に3200mを走らせるという調教を行っており、客観的に見てこの使い方はどうなのかと思わせる状況だった。本馬の調教光景を見ていたアリ・カーン王子(アガ・カーンⅢ世殿下の息子で、アガ・カーンⅣ世殿下の父)達は「(テシオ氏は)気が狂っている」と口を揃えた。
しかもこの年のパリ大賞には、名手ゴードン・リチャーズ騎手が手綱を取る2戦2勝の英ダービー馬ボワルセル、テシオ氏とも並び称される仏国の天才馬産家マルセル・ブサック氏が送り込んできた仏ダービー・グレフュール賞の勝ち馬シラ、リュパン賞・コンデ賞・オマール賞の勝ち馬カステルフサノ、仏1000ギニー・仏オークス・ペネロープ賞の勝ち馬フェリー、クリテリウムドサンクルー・ジャンプラ賞の勝ち馬で仏ダービー2着のカノなど、当時の欧州最強クラスの顔ぶれが揃っていた。しかし、本馬の怪物じみた強さはパリでも評判になっており、本馬はそれらの強豪勢を抑えて単勝オッズ3.9倍の1番人気に支持された。
本馬の鞍上グベリーニ騎手は、前年にドナテロが2着に惜敗したときの鞍上でもあり、仕掛けが僅かに遅かった前年の轍を踏まないように、逃げるペースメーカーの直後を本馬に追走させた。そして残り1200m地点の下り坂では、早くも先頭に立ってしまった。そしてそのまま直線に入ってきたのだが、さすがに今回の対戦相手は今までとは一味違い、ボワルセルが本馬に並びかけてきた。しかしグベリーニ騎手が本馬の競走馬生活において最初で最後の鞭を使うと、ボワルセルを容易に競り落とした。そして最後は2着に追い込んできたカノに1馬身半差をつけて勝利した。
パリ大賞を最後に無敗のまま引退種牡馬入り
このパリ大賞の僅か4日後、英国の大富豪マーティン・ベンソン氏が、本馬を6万ポンド(今日の貨幣価値では320万ポンド相当。日本円にすると5~6億円)で購入したと発表し、人々を驚かせた。英国のブックメーカー業で財を築いたベンソン氏は過去の1934年にも英ダービー馬ウインザーラッドを5万ポンドで購入した事があったが、今回はそれを上回るサラブレッドとしては当時史上最高額の取引だった。ベンソン氏はウインザーラッドの種牡馬入りをきっかけにブックメーカー業から身を引き、その後は所有するビーチハウススタッドで馬産に勤しむようになっていた。ところが大きく期待されて種牡馬入りしたウインザーラッドは重度の蓄膿症を患ってしまったため、思うような種牡馬成績を残せていなかった。そのためにベンソン氏はウインザーラッドに代わる種牡馬として本馬に目をつけたのである。ベンソン氏は馬に関する取引を成立させることに関しては欧州随一と言われていた英ブラッドストックエージェンシー社に依頼して、テシオ氏に交渉を持ちかけた。そして英ブラッドストックエージェンシー社はテシオ氏の説得に見事に成功したのだった。
なお、それまでに最高5万ポンドなど複数のトレード話を全て断っていたテシオ氏がここで本馬の売却に同意した理由は、単に英ブラッドストックエージェンシー社の口車に乗せられただけではなく、この当時の伊国は独裁者ベニート・ムッソリーニが政権を掌握していた時期だったから、それを懸念したテシオ氏が本馬を他国に逃がした一面があったとも言われている。しかしそもそも彼は所有する牡馬を自分の牧場で種牡馬入りさせずに外部に放出するのを大原則としていたわけだから、いずれは本馬も売るつもりでいたのは間違いないところであり、パリ大賞を勝ったこの時期が売り時と判断したのであろう。
本馬の新馬主となったベンソン氏は、その後の英セントレジャーや翌年のアスコット金杯を目指すべきかどうかを熟考する必要に迫られた。しかしこれらのレースで敗れて無敗記録が途絶えてしまうと、その後の種牡馬人気に大きな影を落とす事が考えられたため、ベンソン氏は本馬の競走馬引退を決断。3歳時7戦全勝の成績で、僅か1年という短い競走生活に終止符を打つことになった。
馬名は、紀元前6世紀のアテネに存在した彫刻家兼画家の名前に由来するという。自身も絵を画いていたテシオ氏は、所有馬に画家の名前をつけることが多かった事からの推測であるが、本馬の馬名が上記の彫刻家兼画家に由来するという確たる証拠があるわけではない。
全てにおいて完璧な本馬だが、肝心のテシオ氏は本馬にはスタミナが足りないという理由で、自身が生産した最強馬とは評価していなかったようである。テシオ氏が生涯最も高く評価した生産馬は、カヴァリエレダルピーノ(体質が弱かったため満足な競走生活を送れなかったが、ミラノ大賞など5戦無敗の成績を残した)で、この馬はリボーの曽祖父である(リボーもテシオ氏の生産馬だが、そのデビュー前にテシオ氏が他界しているため彼が評価する事は出来なかった)。
血統
Pharos | Phalaris | Polymelus | Cyllene | Bona Vista |
Arcadia | ||||
Maid Marian | Hampton | |||
Quiver | ||||
Bromus | Sainfoin | Springfield | ||
Sanda | ||||
Cheery | St. Simon | |||
Sunrise | ||||
Scapa Flow | Chaucer | St. Simon | Galopin | |
St. Angela | ||||
Canterbury Pilgrim | Tristan | |||
Pilgrimage | ||||
Anchora | Love Wisely | Wisdom | ||
Lovelorn | ||||
Eryholme | Hazlehatch | |||
Ayrsmoss | ||||
Nogara | Havresac | Rabelais | St. Simon | Galopin |
St. Angela | ||||
Satirical | Satiety | |||
Chaff | ||||
Hors Concours | Ajax | Flying Fox | ||
Amie | ||||
Simona | St. Simon | |||
Flying Footstep | ||||
Catnip | Spearmint | Carbine | Musket | |
Mersey | ||||
Maid of the Mint | Minting | |||
Warble | ||||
Sibola | The Sailor Prince | Albert Victor | ||
Hermita | ||||
Saluda | Mortemer | |||
Perfection |
父ファロスは当馬の項を参照。
母ノガラは現役成績18戦14勝、伊2000ギニー・伊1000ギニー・プリミパッシ賞・テヴェレ賞・クリテリウムナチオナーレ・メルトン賞・エマヌエーレフィリベルト賞・キウスーラ賞を勝ち、伊グランクリテリウムで2着した名牝。繁殖牝馬としても優れており、8頭の子を産んだがその全てが勝ち上がっている。本馬以外にも、本馬の半弟ニコロデラルカ(父コロナック)【伊2000ギニー・伊ダービー・伊グランクリテリウム・イタリア大賞・ミラノ大賞・ベルリン大賞・伊ジョッキークラブ大賞・ローマ賞】、半妹ネルヴェサ(父オルテロ)【伊オークス】といった優秀な子を産んだ。ネルヴェサの曾孫には、カロやシービークロスの父として知られるフォルティノ【アベイドロンシャン賞】が、牝系子孫にはゴールデンルーム【コンピュータフォームスプリント(南GⅠ)2回・ゴールデンホーススプリント(南GⅠ)】などがいる。
ノガラの母キャットニプは、英ダービー・パリ大賞の勝ち馬スペアミントと、英1000ギニーの勝ち馬で英オークス2着のシボラの間に産まれた良血馬である。テシオ氏はスペアミントの事を非常に高く評価していたらしく、自身の知る最高の名馬だと語っていたとも言われる。キャットニプの競走成績は10戦1勝と冴えなかったが、1915年12月のニューマーケット繁殖牝馬セールに出品されていたところを、テシオ氏により75ギニーとも100ポンドとも言われる安値で購入されていた。安価だった理由はキャットニプの評価が低かったというよりも、その当時が第一次世界大戦の最中だったためである。しかしキャットニプの受胎率は甚だ悪かった。しかしテシオ氏はキャットニプを見放す事は無く、辛抱強く繁殖生活を送らせた。その結果、キャットニプが18歳時の1928年にノガラが誕生したのである。
ノガラ以外のキャットニプの産駒としては、1918年にトラセリーとの間に産んだ牝駒ネラディビッチが知られている。ネラディビッチの子にはネロッチャ【伊オークス】、孫にはニッコロピサーノ【伊ジョッキークラブ大賞】、ナヴァロ【イタリア大賞・ミラノ大賞】、生涯無敗の名牝ネレイーデ【独1000ギニー・独オークス・独ダービー】、曾孫にはノルトリヒト【独ダービー】、ニーデルランダー【独ダービー・ベルリン大賞・バーデン大賞】、玄孫世代以降には独国の大種牡馬ネカール【独2000ギニー・独ダービー】、ナクソス【独1000ギニー・独オークス】、ネボス【ベルリン大賞(独GⅠ)2回・オイロパ賞(独GⅠ)・バーデン大賞(独GⅠ)】、ナジャール【イスパーン賞(仏GⅠ)・ジャックルマロワ賞(仏GⅠ)】、スーパークリークの父となった本邦輸入種牡馬ノーアテンション、アイランドサンズ【英2000ギニー(英GⅠ)】、ノヴェリスト【キングジョージⅥ世&クイーンエリザベスS(英GⅠ)・伊ジョッキークラブ大賞(伊GⅠ)・サンクルー大賞(仏GⅠ)・バーデン大賞(独GⅠ)】などが登場している。
キャットニプの母シボラは前述のとおり英1000ギニー馬だが、英国産馬ではなく米国産馬である。シボラの祖母パーフェクションは米国から英国に遠征して活躍した米国顕彰馬パロールの全妹であり、パーフェクションの母メイデンは米国の誇る大種牡馬レキシントンの娘で、第2回トラヴァーズSの勝ち馬である。→牝系:F4号族⑤
母父アヴルサックはラブレーの直子。仏国生まれ(馬名は仏語でリュックサックの意)であるが、第一次世界大戦末期から大戦後にかけて伊国で走りアンブロシアーノ賞2回・ナターレディローマ賞・エマヌエーレフィリベルト賞に勝つなど14戦9勝の成績を残した。種牡馬として伊国で空前の成功を収め、伊ダービー馬を3頭、伊オークス馬は4頭輩出、10度の伊首位種牡馬を獲得した。直子で前述のカヴァリエレダルピーノの直系子孫から出現したリボーの活躍により系統を現在に残している。
競走馬引退後
競走馬を引退した本馬は、ベンソン氏が所有する英国ビーチハウススタッドで種牡馬入りした。初年度の種付け料は400ギニーという高額(ハイペリオンやフェアウェイと同じ)だったのだが、種付けの申し込みは、僅か2時間で向こう3年間の予約が埋まってしまったという(ただしこの時期は第二次世界大戦の直前だったこともあり、馬産はあまり活発ではなかった。本馬の初年度交配数は18頭、初年度産駒数は12頭である)。本馬が種牡馬入りして間もなく第二次世界大戦が勃発し、独軍が英国本土を幾度も空襲した。しかしビーチハウススタッドには本馬のために防空壕が用意されており、無事に大戦を乗り切ることが出来た。
種牡馬として本馬は数多くの活躍馬を送り出し、1947・48・49年の英愛首位種牡馬に輝いた。繁殖牝馬の父としても優れており、1952・55・56年と3度の英愛母父首位種牡馬に輝いている。
しかし本馬の真価が発揮されたのは、産駒の種牡馬としての活躍においてであった。本馬の産駒からナスルーラ(ミルリーフ、ボールドルーラー、トニービン、テスコボーイ、ブラッシンググルーム等の直系先祖)、ニアークティック(ノーザンダンサーの父)、ロイヤルチャージャー(サンデーサイレンス、ブライアンズタイム、ニホンピロウイナー、豪州の大種牡馬サートリストラム等の直系先祖)などが登場し、今や世界中のサラブレッドの半数以上は本馬の直系子孫となり、本馬の血を全く含んでいないサラブレッドは殆ど存在しない状況となっているのである。“Thoroughbred Heritage”には「20世紀における最も偉大な競走馬にして最も重要な種牡馬」であると記載されている。本馬の息子は世界各国で合計100頭以上が種牡馬入りしたとされており、これはセントサイモンと並ぶ世界記録であるらしい。日本には直子のカリム(桜花賞馬タマミの父。ハイセイコーの母父)が輸入された。こうして世界サラブレッド血統地図を塗り替える事になる偉大な本馬は、1957年6月に癌のためビーチハウススタッドにおいて22歳で他界した。
主な産駒一覧
生年 |
産駒名 |
勝ち鞍 |
1940 |
Lady Sybil |
チェヴァリーパークS |
1940 |
英チャンピオンS・コヴェントリーS |
|
1941 |
Hunsingore |
ケンブリッジシャーH |
1942 |
Admirable |
愛オークス |
1942 |
英ダービー・ミドルパークS・コヴェントリーS |
|
1942 |
チャレンジS・クイーンアンS |
|
1943 |
Neapolitan |
ディーS |
1943 |
Neolight |
チェヴァリーパークS・コロネーションS |
1943 |
Rivaz |
クイーンメアリーS・ジュライS |
1944 |
愛ダービー・英セントレジャー・リングフィールドダービートライアルS・ハードウィックS |
|
1944 |
Smoke Screen |
ランカシャーオークス |
1945 |
Masaka |
英オークス・愛オークス・クイーンメアリーS・ジュライS |
1945 |
Phaetonia |
モールコームS |
1946 |
Krakatao |
サセックスS |
1946 |
Nimbus |
英2000ギニー・英ダービー・ジュライS |
1947 |
Flying Slipper |
ナッソーS |
1947 |
Neda |
マルレ賞 |
1947 |
Serocco |
ランボーンS |
1948 |
Neasham Belle |
英オークス |
1948 |
Neron |
クイーンアンS・ジョンポーターS |
1949 |
Agitator |
サセックスS・ハンガーフォードS・チャレンジS |
1949 |
Nearque |
ニューヨークH |
1949 |
Norooz |
エボアH |
1950 |
Noory |
愛オークス・マルレ賞 |
1950 |
Tessa Gillian |
モールコームS |
1951 |
By Thunder! |
ヨークシャーC・エボアH |
1951 |
Infatuation |
デューハーストS・ロイヤルロッジS・グリーナムS |
1951 |
Narrator |
英チャンピオンS・コロネーションC |
1951 |
Sundry |
チャイルドS |
1952 |
Hafiz |
クイーンエリザベスⅡ世S・英チャンピオンS・ギシュ賞・グレフュール賞 |
1952 |
Nemora |
プリンセスロイヤルS |
1952 |
Noble Chieftain |
コヴェントリーS |
1953 |
Chief |
イスパーン賞・ガネー賞・プランスドランジュ賞 |
1953 |
Hustle |
ランカシャーオークス |
1953 |
None Fairer |
フレッドダーリンS |
1953 |
Roman Conquest |
コーンウォリスS |
1954 |
サラトガスペシャルS・ミシガンマイル&ワンエイスH |
|
1954 |
Noble Venture |
ロイヤルロッジS |
1955 |
Amerigo |
コヴェントリーS・ニューヨークH・ハイアリアターフCH・サンフアンカピストラーノ招待H |
1955 |
Nicaria |
フレッドダーリンS |
1955 |
None Nicer |
ヨークシャーオークス・リブルスデールS |
1956 |
Noble Lassie |
ランカシャーオークス |
1957 |
Ankerkette |
ダルマイヤー大賞 |
1957 |
Sunny Cove |
パークヒルS |