ノーザンダンサー
和名:ノーザンダンサー |
英名:Northern Dancer |
1961年生 |
牡 |
鹿毛 |
父:ニアークティック |
母:ナタルマ |
母父:ネイティヴダンサー |
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20世紀世界最高の種牡馬としてサラブレッド血統界を支配したカナダ生まれのケンタッキーダービー・プリークネスSの勝ち馬 |
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競走成績:2・3歳時に加米で走り通算成績18戦14勝2着2回3着2回 |
競走成績も一流だったが、種牡馬として記録的大成功を収め、さらには一流の後継種牡馬を世界各国で登場させ、世界中の競馬界を席巻・制圧した20世紀世界最高の種牡馬。
誕生からデビュー前まで:気性が激しくて去勢されかける
本馬の生産者は、ビール醸造業で成功を収めた加国の大富豪エドワード・プランケット・テイラー氏である。テイラー氏は父ニアークティックの生産・所有者でもあり、彼の経歴に関してはニアークティックの項で既に触れたとおりである。加国における有数の馬産家として名を馳せていたテイラー氏は、米国競馬界から格下であると蔑視されていた加国競馬のレベル向上に努めており、欧州や米国から優秀な馬を続々と導入するように心がけていた。ニアークティックの母レディアンジェラも、彼が英国ニューマーケットのセリにおいて3万5千ドルという高額で購入した馬であった。
さらにテイラー氏は、1958年に米国ニューヨーク州サラトガ競馬場で行われたセリにおいて、ナタルマというネイティヴダンサー産駒の1歳牝馬を3万5千ドルで購入した。ナタルマはなかなか優秀な競走馬となったが、スピナウェイSで1位入線するも進路妨害で3着に降着、ケンタッキーオークス直前の調教で剥離骨折を発症して引退するなど、あまり運には恵まれない競走生活を送った。
1960年の繁殖シーズン途中に7戦3勝の成績で引退したナタルマを、テイラー氏はすぐに自身が所有する加国オンタリオ州ウインドフィールズファームにおいて繁殖入りさせ、その初年度交配相手として、これまた種牡馬入り1年目だったニアークティックを指名。そして翌1961年に誕生したのが本馬である。
両親が交配したのが繁殖シーズン後半だったためか、誕生日は5月27日で北半球産馬としてはかなりの遅生まれだった。テイラー氏の妻で夫の馬産に協力していたウィニフレッド夫人は、父ニアークティック(英語で「新北区」の意味)の名前と母父ネイティヴダンサーの名前にちなんで、本馬をノーザンダンサーと名付けた。
本馬は幼少期から非常に小柄な馬であった。それは遅生まれだったためというだけではなく、成長しても小柄なままであり、最終的に体高15.2ハンドにしかならなかったという。特に脚が短く、尾が地面に達するほどだったという。このずんぐりして「まるでクォーターホースのようだった」と評された馬体は、父ニアークティックの祖父ハイペリオンからの遺伝ではないかと言われているが、母ナタルマも小柄な馬だったらしいから、本当はどこから体格を受け継いだのかは分からない。
テイラー氏は1歳になった本馬を、ウインドフィールズファームにおいて行われたセリに2万5千ドルで出品したが、小柄で遅生まれの本馬を評価する人はおらず、買い手は付かなかった。結局テイラー氏自らがウインドフィールズファーム名義で本馬を所有することになった。
幼少期の本馬は同じ牧場にいた同世代の馬達のボス的存在であり、他馬をいじめて遊ぶ事もしばしばあったという。本馬の祖父ネイティヴダンサーにも全く同じ逸話があり、この性格は祖父譲りではないかと言われているようだが、ネイティヴダンサーが幼少期から非常に大柄な馬だったのに対して、本馬は非常に小柄な馬であり、それにも関わらずボスとして振舞えるだけの気性の強さを有していたようである。この気性は仲間の馬以外に対しても存分に発揮され、牧場に張られたロープを引きちぎったり、小屋の壁を蹴り壊したりもした。そして調教が開始されると、乗り手を振り落とそうとして暴れまわったという。しかもまだ2歳馬のくせに非常に女好きであり、牝馬を追いかけまわす事もしょっちゅうだったという。
人間であれば間違いなく不良少年の烙印を押されるであろうこの気性を改善するために、テイラー氏は本馬を去勢する事を検討した。もしここで本馬が去勢されていたら、後世のサラブレッド血統界は全く違う展開を見せたことになるのだが、去勢を思いとどまるようにテイラー氏に進言した人物がいた。それは、ウインドフィールズファームの専属調教師の1人として雇われていたホレイショ・A・ルロ師だった。アルゼンチンで馬主をするほど裕福な家庭に生まれたルロ師は、米国に移住した後も放蕩生活を送り、各方面の著名人と親交を結んだ。その中の1人だったテイラー氏の勧めを受けて、36歳時の1937年に調教師に転身。1943年にはプリンスキロでジョッキークラブ金杯を、1948年にはタロンでサンタアニタHを、1951年にはハウでケンタッキーオークスを勝ち取るなどの活躍を見せた。1950年代になってテイラー氏が本格的な馬産を開始すると、ウインドフィールズファームに招かれていたのだった。彼はウインドフィールズファーム以外の所属馬も預かっており、本馬より2歳年上のディサイデッドリーでケンタッキーダービーを勝ち取る名誉を手にしていた。
ルロ師の進言によって去勢を免れた本馬は、ルロ師の調教を受けて、次第にその能力を開花させていった。しかし2歳時に前脚の裂蹄を発症した(父ニアークティックも裂蹄の持病を抱えていた)ために、予定よりもデビューは少し遅れた。
競走生活(2歳時)
2歳8月に加国のフォートエリー競馬場で行われたダート5.5ハロンの未勝利戦でデビューした。鞍上は、後に米国三冠馬セクレタリアトの主戦として有名になる加国出身の見習い騎手ロン・ターコット騎手だった。このデビュー戦は2着馬に6馬身3/4差をつけて圧勝した。しかしそれから15日後に出走したヴァンダルS(D6.5F)は、米国ケンタッキー州産馬である後のグレイH・シーウェイH・ビンソンシティS・JEデヴィッドソン記念H・ミッドウエストH・ナショナルジョッキークラブH・ペレテリHなどの勝ち馬ランブリンロードの4馬身差2着に敗れた。それでも1週間後に出走したサマーS(T8F)では、重馬場をものともせずに、2着スリザリングサムに1馬身1/4差で勝利した。
続いて舞台をウッドバイン競馬場に移し、前走から5週間後のカップ&ソーサーS(T8.5F)に出走。しかしここではグランドガーコンの3/4馬身差2着に惜敗した。それから9日後に出走したウッドバイン競馬場ダート8ハロン70ヤードの一般競走では、同じニアークティック産駒のノーザンフライトを1馬身差の2着に抑えて勝利。そしてその5日後にウッドバイン競馬場で行われた加国最大の2歳戦コロネーションフューチュリティ(D9F)に参戦した。1番人気に支持された本馬は、直線で他馬をちぎり、カップ&ソーサーSで3着だったジャムドライブリーを6馬身1/4差の2着に、コリンSの勝ち馬で後にプレートトライアルS・フライヤーロックS・ケベックダービーを勝つピエーロウを3着に破って圧勝した。さらにグリーンウッド競馬場に移動して翌11月に出走したカールトンS(D7F)も、2着ノーザンフライトに2馬身半差で快勝した。
加国2歳馬の頂点に立った本馬は、引き続き米国遠征を敢行。米国初戦は11月にアケダクト競馬場で行われたダート8ハロンの一般競走となった。ここではマヌエル・イカザ騎手を鞍上に迎え、ベルモントフューチュリティSの勝ち馬でカウディンS2着・シャンペンS・ピムリコフューチュリティ3着のビュパーズを8馬身差の2着に下して大勝した。さらに9日後のレムセンS(D8F)でも2着ロードデートに2馬身差で楽勝して、この時点で本馬は加国産馬でありながらも翌年のケンタッキーダービー馬の候補として認知される事になった。
しかしレムセンSの直後に裂蹄の状態が悪化したために休養入りした。この裂蹄を治療するために、蹄を加熱して裂け目を融合させる技術を持っていたカリフォルニア州の装蹄師が雇われた。この治療は成功して、本馬の裂蹄は改善した。
2歳時は9戦7勝2着2回の好成績で、加最優秀2歳牡馬に選出された。本馬のレースぶりは基本的に「差し」であり、加国の伝説的放送作家ピーター・グゾウスキー氏は「道中は遅いペースの中に身を潜め、途中でランボルギーニ(1962年に設立されたばかりの伊国の自動車ブランド)に変身して追い上げてくる」と評した。
競走生活(3歳初期)
冬場は温暖なフロリダ州で過ごし、3歳時はそのままフロリダ州のハイアリアパーク競馬場から始動。まずは2月に行われたダート6ハロンの一般競走に出走したが、ここではカウディンS・タイロS・トレモントSの勝ち馬でアーリントンワシントンフューチュリティ・ユースフルS2着のチーフテン(ボールドルーラー産駒で、名種牡馬トムロルフの半兄)の2馬身差3着に敗れた。敗因は鞍上が過度に鞭を使用したためだとされており、ここで乗っていたR・ユーザリー騎手はこの1戦のみで本馬の鞍上を降ろされた。
翌3月に出走したフラミンゴS(D9F)では、ウィリアム・シューメーカー騎手とコンビを組んだ。そして、サプリングSの勝ち馬でグレートアメリカンS・タイロS2着のミスターブリックを2馬身差の2着に、ピムリコフューチュリティの勝ち馬クォドラングルを3着に破って勝利した。同月末にガルフストリームパーク競馬場で出走したダート7ハロンの一般競走も、2着となったハギンSの勝ち馬ザスカウンドレルに4馬身差をつけて楽勝した。さらに1週間後のフロリダダービー(D9F)に駒を進めると、ザスカウンドレルを1馬身差の2着に、ファウンテンオブユースSの勝ち馬ダンディケイを3着に、シャンペンS・エヴァーグレイズS・バハマズSの勝ち馬でガーデンステートS・ファウンテンオブユースS2着のローマンブラザーを4着(資料によっては5着)に退けて勝利を収めた。
その後はケンタッキーダービーを目指してケンタッキー州に移動。ルロ師はシューメーカー騎手にケンタッキーダービーでも本馬に乗ってもらうように依頼したが、彼にはヒルライズという有力なお手馬がいた上に、本馬のフロリダダービーにおける勝ちタイムが1分50秒8と極めて平凡だった(過去10年間では1955年にナシュアが計時した1分53秒2に次いで遅いタイム。ただしナシュアの時は不良馬場だったが、本馬の時は良馬場だった)事もあり、シューメーカー騎手はその依頼を断った。そのために本馬の主戦として、ウィリアム・ジョン・ハータック騎手が選ばれた。ハータック騎手は既にケンタッキーダービーで3勝を挙げていた名手であり、2年前にルロ師がディサイデッドリーでケンタッキーダービーを勝った時の鞍上でもあった。シューメーカー騎手とハータック騎手は北米首位騎手の座を交互に取り合うライバル関係であり、名前が同じウィリアムという事もあって周囲からはよく対比されていたが、この2人は実は非常に不仲であったという。ハータック騎手との新コンビ初戦となったブルーグラスS(D9F)では、2着アレンアデールに半馬身差で勝利を収めた。
ケンタッキーダービー:加国産馬史上初の制覇
そして迎えたケンタッキーダービー(D10F)では、カリフォルニアブリーダーズチャンピオンS・サンフェリペS・サンタアニタダービー・ダービートライアルSを勝ってきたヒルライズ、フラミンゴS3着後にウッドメモリアルSを勝っていたクォドラングル、ザスカウンドレル、フラミンゴS2着後にウッドメモリアルSで2着していたミスターブリック、ダンディケイ、フロリダダービー4着後にダービートライアルS2着・ウッドメモリアルS3着だったローマンブラザー、ブリーダーズフューチュリティ2着・ガーデンステートS3着のイシユクーダー、ゴーサムSの勝ち馬でダービートライアルS3着のミスタームーンライト、ブルーグラスSで本馬の3着だったアーカンソーダービー2着馬ロイヤルシュックなど11頭との対戦となった。1番人気はシューメーカー騎手が騎乗するヒルライズで、本馬は単勝オッズ4.4倍の2番人気だった。馬群の中団好位につけた本馬は、向こう正面で徐々に位置取りを上げると、三角で外側から先頭に並びかけ、四角を回りながら先頭に立った。直線に入ると本馬の直後からヒルライズが必死に追撃してきて、ゴール直前では馬体を併せてきたが、最後まで凌ぎ切った本馬が、2着ヒルライズに首差、3着ザスカウンドレルにはさらに3馬身1/4差をつけて勝利を収めた。
勝ちタイム2分フラットは、2年前にディサイデッドリーが計時した2分00秒4を0秒4更新する見事なレースレコードだった。このタイムはこれから50年以上経過した2015年現在でもケンタッキーダービー史上3位の素晴らしいものである。また、本馬は加国産馬としては史上初のケンタッキーダービー馬となり、これは加国産馬で米国競馬の頂点に立つというテイラー氏の念願が成就した瞬間でもあった。さらに言えば、このケンタッキーダービーは本馬が3歳の誕生日を迎える前の5月2日に行われており、本馬は3歳の誕生日前にケンタッキーダービーを勝った史上初めての馬となった。本馬がケンタッキーダービーを勝ったというニュースはすぐに加国中に知れ渡り、加国民達を熱狂の渦に巻き込んだ。本馬が誕生したオンタリオ州の州都である加国最大の都市トロントでは、至るところで本馬の勝利を記念する垂れ幕や看板が掲げられた。加国のマスコミもこの快挙を大きく取り上げ「横暴な米国に対して勇敢に戦った四本脚の戦士」と本馬を表現した。
プリークネスS・ベルモントS:惜しくも米国三冠馬にはなれず
次走はプリークネスS(D9.5F)となった。主要な対戦相手はケンタッキーダービーとほぼ同じで、ヒルライズ、ザスカウンドレル、前走4着のローマンブラザー、同5着のクォドラングルなどだった。ここでもヒルライズが1番人気に支持され、本馬は単勝オッズ3.1倍の2番人気だった。ここでは本馬は2番手を追走して直線入り口で先頭に立った。そこへ後方からヒルライズが上がってきたが、今回のヒルライズには本馬を脅かすような勢いは無かった。そのままゴールまで先頭で駆け抜けた本馬が2馬身1/4差で快勝。2着にはザスカウンドレルが入り、ヒルライズは最後に差されて首差3着に終わった。
そして1948年のサイテーション以来16年ぶり史上9頭目の米国三冠馬の名誉を懸けて、ベルモントS(D12F)に向かった。通常ベルモントSが行われるベルモントパーク競馬場がこの年は工事中で使えず、レースはアケダクト競馬場で実施された。本馬は単勝オッズ1.8倍で、米国三冠競走において初めて1番人気に支持された。レースでは3番手の好位を追走。そのままの位置取りで直線に入ってきたが、ここから伸びを欠き、先に抜け出したプリークネスS4着馬クォドラングルと、プリークネスS5着後にジャージーダービーを勝ってきたローマンブラザーの2頭に屈して、勝ったクォドラングルから6馬身差、2着ローマンブラザーから4馬身差の3着に敗退してしまった。
この敗因については色々取り沙汰されており、テレビ番組“Northern Dancer:Life And Times(ノーザンダンサー:その生涯と時代)”では、スローペースで引っ掛かったためと言われていたし、“Northern Dancer:Unforgettable Racehorse, Unrivaled Sire(ノーザンダンサー:忘れられない競走馬にして比類なき種牡馬)”には「レース中に脚の腱が吊ったため」と書かれている。
競走生活(米国三冠競走以降)
米国三冠馬の栄誉こそ逃したとは言え、ケンタッキーダービー・プリークネスSの制覇という勲章を引っ提げて地元加国に凱旋した本馬は、加国最大の競走クイーンズプレート(D10F)に出走。かつてカップ&ソーサーSで本馬を破った事があるプレートトライアルSの勝ち馬グランドガーコンなどを抑えて1番人気に支持された。例によって馬群の中団を進んだ本馬は、三角手前で早くも仕掛けて外側から先頭に踊り出た。そして四角途中から後続馬を引き離し続け、最後はハータック騎手が後方を振り返る余裕を見せながら、2着ラングクレストに7馬身半差をつけて圧勝。ウッドバイン競馬場に詰め掛けた観衆達から大きな拍手喝采を受けた。
その後はトラヴァーズSを目標として調教が続けられたが、8月朝の調教直後に左前脚の屈腱炎を発症している事が判明し、そのまま競走馬を引退した。3歳時は9戦7勝の成績で、満票で加年度代表馬に選出され、米最優秀3歳牡馬にも選ばれた。しかし米年度代表馬の座は、ジョッキークラブ金杯とワシントンDC国際Sを連勝したケルソが5年連続で受賞したため、本馬は逃す事になった。今日に至るまで、加国産馬が米年度代表馬に選出された例は無い(惜しかった例は本馬を含めて何度かある)。
なお、本馬が米国三冠競走で戦った相手はかなりの実力馬揃いだった。ヒルライズは古馬になってサンタアニタH・サンフェルナンドS・サンアントニオH・マンノウォーSを勝つと、さらに英国に遠征してクイーンエリザベスⅡ世Sを勝利した。ローマンブラザーは、アメリカンダービー・マンハッタンH・ウッドワードS・ジョッキークラブ金杯などを勝利して、4歳時にはケルソの6連覇を阻止して米年度代表馬を獲得。クォドラングルも、ドワイヤーH・トラヴァーズS・ローレンスリアライゼーションSを制してその実力を証明している。
血統
Nearctic | Nearco | Pharos | Phalaris | Polymelus |
Bromus | ||||
Scapa Flow | Chaucer | |||
Anchora | ||||
Nogara | Havresac | Rabelais | ||
Hors Concours | ||||
Catnip | Spearmint | |||
Sibola | ||||
Lady Angela | Hyperion | Gainsborough | Bayardo | |
Rosedrop | ||||
Selene | Chaucer | |||
Serenissima | ||||
Sister Sarah | Abbots Trace | Tracery | ||
Abbots Anne | ||||
Sarita | Swynford | |||
Molly Desmond | ||||
Natalma | Native Dancer | Polynesian | Unbreakable | Sickle |
Blue Glass | ||||
Black Polly | Polymelian | |||
Black Queen | ||||
Geisha | Discovery | Display | ||
Ariadne | ||||
Miyako | John P. Grier | |||
La Chica | ||||
Almahmoud | Mahmoud | Blenheim | Blandford | |
Malva | ||||
Mah Mahal | Gainsborough | |||
Mumtaz Mahal | ||||
Arbitrator | Peace Chance | Chance Shot | ||
Peace | ||||
Mother Goose | Chicle | |||
Flying Witch |
父ニアークティックは当馬の項を参照。
母父ネイティヴダンサーは当馬の項を参照。
競走馬引退後:種牡馬としての記録的大成功
競走馬を引退した本馬は、生まれ故郷のウインドフィールズファームで種牡馬となった。初年度の種付け料は1万ドルに設定され、21頭の初年度産駒が誕生した(競走馬となったのは18頭)。この初年度産駒は1968年にデビューしたが、16頭が勝ち上がり、さらにその中から2歳時8戦全勝の成績で加年度代表馬に選ばれたヴァイスリーガルなど10頭のステークスウイナーが登場。初年度産駒のステークスウイナー率は実に47.6%に達した。
初年度産駒の出来の良さは米国でも評判になり、特にメリーランド州ウッドストックファームの所有者リチャード・アルーレ・デュポン夫人(ケルソの生産・所有者として有名)は、テイラー氏に対して「私の牧場の近くに土地があります。この土地を買って、ノーザンダンサーを米国で種牡馬入りさせなさい」と助言した。テイラー氏もその気になり、1968年7月に200エーカーの土地を購入し、ウインドフィールズファームのメリーランド支場を設立した。そして本馬は翌1969年に240万ドル(7万5千ドル×32株)の種牡馬シンジケートが組まれて、メリーランド支場へと移動した。
この翌1970年、2年目産駒のニジンスキーが35年ぶりの英国三冠馬に輝き、本馬はこの年の英愛首位種牡馬を獲得した。翌1971年には、初年度産駒の1頭であるワンフォーオールを初めとして、トゥルーノース、ノースフィールズ、ロウリーズダンサー、アルマノースなどが着実に賞金を稼ぎ、北米首位種牡馬の座も獲得した。
その後も本馬は世界各国で一流馬を出し続けた。1977年には英ダービー・愛ダービー・キングジョージⅥ世&クイーンエリザベスDSを勝ったザミンストレルなどの活躍により2度目の英愛首位種牡馬を獲得した。同年にはやはり米国で走っていた産駒達が地道に成績を残し、2度目の北米首位種牡馬にも輝いた(この1977年の北米首位種牡馬はドクターファーガーとする事も多い)。
1983年には愛ダービー馬シャリーフダンサーやエルグランセニョール等の活躍で3度目の英愛首位種牡馬を獲得。そして翌1984年は、エルグランセニョール、サドラーズウェルズ、セクレト、ノーザントリックといった直子達が欧州クラシック路線を席巻し、4度目の英愛首位種牡馬を獲得した。
ゴールドラッシュ
この頃になると本馬の種付け料や産駒の取引価格は高騰の一途を辿っており、「ゴールドラッシュ」と評されるほどになっていた。種牡馬生活後半の種付け料はプライベートになっていたが、その金額が100万ドルに達していたのは公然の事実となっており、米国の娯楽雑誌ピープルは「ノーザンダンサーは朝食前に100万ドルを獲得できる唯一の有名人だ」と評した。しかし1984年における本馬産駒の平均取引価格は344万6666ドルだったから、100万ドルの種付け料でも引く手あまたであった。1983年には後にスナーフィダンサーと名付けられる牡駒(1976年のエクリプス賞最優秀短距離馬に選ばれたマイジュリエットの半弟に当たる)がキーンランドセールにおいて、世界競馬史上初の1000万ドル超えとなる1020万ドルで取引された(ただしスナーフィダンサーは不出走に終わった)。
近年の種牡馬であれば、これだけ活躍すれば年間交配数をどんどん増やすのが当たり前だろうが、本馬に関しては一番多い年でも交配数は55頭であり、年間交配数はかなり制限されていた(年間交配数は原則36頭までとされており、これでも本来より増やしている)。産駒数は一番多い年でも36頭(年平均28頭)しかおらず、それが本馬の種付け料や産駒の取引価格が高騰する一因となっていた面は否めないが、逆に本馬が26歳という高齢まで現役の種牡馬として活躍できた理由となったとも言われている。もっとも、本馬は決して受精率が良い馬ではなかった(海外の資料では“comparatively low fertility(比較的低い受精率)”と評されている)らしく、産駒数が少ないのはそれも一因であろう。
1981年には、当時20歳の本馬を4000万ドルで購入したいという申し出があったらしいが、テイラー氏は「私が生きている限り、ノーザンダンサーは売らない」と拒絶した。いったいどうやって集計したのかは不明だが、“Northern Dancer:The Patriarch Stallion(ノーザンダンサー:種牡馬の太祖)”によると、本馬の生涯種付け料を合計すると、1億1775万2千ドルになるという。ウインドフィールズファームの経営者だったジョー・ヒッキー氏の発言“His semen is literally worth its weight in gold(ノーザンダンサーの精液は文字通り同量の金と同じ価値がある)”はあまりにも有名である。
続々と登場した後継種牡馬
このように種牡馬として一大センセーションを巻き起こした本馬だが、しかし本馬が20世紀世界最大の種牡馬と言われるようになった理由は、産駒の競走成績が優秀だったからだけではない。本馬の偉大なところは、自身の産駒が後継種牡馬として世界各国で大成功を収めた事にある。ニジンスキー、リファール、サドラーズウェルズ、ダンチヒ、ヌレイエフ、ストームバード、ヴァイスリージェントなどの直子が一つの独立した系統を確立するほどの名種牡馬ぶりを発揮して、現在でも世界競馬の中心を担っている。日本でも直子のノーザンテーストが種牡馬として大成功を収めた。そのため本馬は僅か十数年で世界の競馬血統地図を塗り替え、世界最高の種牡馬として君臨し続けたのだった。
天寿を全うする
1987年4月15日、同年の繁殖シーズン途中で受精率低下を理由に26歳で種牡馬を引退した。本馬の種牡馬引退を受けて、ウインドフィールズファームのメリーランド支場はその役割を終えたとして、翌1988年8月に閉鎖されたが、その後もノーズビュースタリオンステーションと名前を変えて本馬の隠居場として残り、本馬はこの地で余生を送った。1990年11月15日に疝痛を発症して苦しんだ本馬は、翌16日早朝に安楽死の措置が執られ、29歳で他界した。本馬が他界する前日15日にはアリダーが他界しており、米国競馬界はいずれもネイティヴダンサーの孫に当たる2頭の名馬の相次ぐ死を大いに悼んだ。
本馬の遺体はすぐに母国に移され、生まれ故郷のウインドフィールズファームに埋葬された。その2年後に、ウッドバイン競馬場に本馬の銅像が建てられた。1976年に加国競馬名誉の殿堂が創設されると、初年度で殿堂入りを果たした。また、同年には米国競馬の殿堂入りも果たしている。競走馬引退直後の1965年には、加国スポーツ(競馬以外も含む)の殿堂入りを、人間以外で初めて果たした。加国スポーツの殿堂入りを果たしている馬は、1996年に殿堂入りした馬術競技の名馬ビッグベンと本馬の2頭だけである。米ブラッドホース誌が企画した20世紀米国名馬100選で第43位。
後世に与えた影響
本馬が種牡馬としてこれだけの大成功を収めることが出来た理由に関しては、世界中で様々な議論が成されているようで、それに関して出版された書籍も数多いのだが、科学的な解明は不可能であろうから、ここで詳しく触れる事はしない。産駒の特徴としては、まず最も重要なスピードがずば抜けていた事。そして芝もダートも距離の長短も関係無い万能性を示した事。そして身体面や精神面にも優れており、いかなる国の環境にも対応できる適応性を示した事などが挙げられる。あえて言うなら、こうした優れた特徴を産駒に遺伝させる能力が群を抜いていたのが、本馬が種牡馬として成功した要因だったのであろう。
本馬の産駒は635頭いるが、そのうち競走馬になったのが488頭(資料によって差があり511頭などの数値もある)、勝ち上がり馬は368頭(これまた資料によっては389頭などとなっている)、ステークスウイナーは147頭(これはどの資料でも概ね一致している)で、ステークスウイナー率は23.1%だった(米国競馬史上における最高の種牡馬とされるボールドルーラーの22.4%を上回っている)。頭数及び率のいずれも超一流の数値である。
本馬が他界した時点で、本馬の血を受け継ぐステークスウイナーは世界中で1000頭以上登場していたと、ウインドフィールズファームの副代表リック・ウォルドマン氏は述べているが、果たして現在、本馬の血を受け継ぐステークスウイナーは世界中で何頭出たのだろうか。万単位にはなっているだろうが、これはさすがに調べる気にもならない。
本馬は19世紀末の大種牡馬セントサイモンとよく比較され、「19世紀のセントサイモン、20世紀のノーザンダンサー」と呼ばれたが、セントサイモンの産駒が一国に集中して血の袋小路に陥ったのとは対照的に、本馬の産駒は世界中に広まり、現在も繁栄を続けている。本馬は世界競馬史上初めて血統面における世界統一を成し遂げた超種牡馬だった。
主な産駒一覧
生年 |
産駒名 |
勝ち鞍 |
1966 |
Cool Mood |
加オークス |
1966 |
Dance Act |
ドミニオンデイH |
1966 |
Eaglesham |
ベルモントレキシントンH |
1966 |
One for All |
加国際CSS・パンアメリカンS・サンセットH |
1966 |
True North |
セミノールH・ワイドナーH |
1967 |
Fanfreluche |
アラバマS |
1967 |
英2000ギニー・英ダービー・愛ダービー・キングジョージⅥ世&クイーンエリザベスS・英セントレジャー・デューハーストS・レイルウェイS・アングルシーS・ベレスフォードS・グラッドネスS |
|
1967 |
||
1967 |
Zingari |
ハンガーフォードS |
1968 |
Aladancer |
リンダヴィスタH・フィレンツェH |
1968 |
Alma North |
マッチメイカーS(米GⅠ)・ヴァインランドH(米GⅡ)・ポストデブS・コティリオンH・ブラックヘレンH・ヴァインランドH・マーゲイトH(米GⅢ)・ベッツィーロスH(米GⅢ) |
1968 |
Lauries Dancer |
加オークス・アラバマS・デラウェアオークス |
1968 |
Minsky |
レイルウェイS・ベレスフォードS・グラッドネスS(愛GⅢ) |
1968 |
Northfields |
ホーソーンダービー |
1969 |
ジャックルマロワ賞(仏GⅠ)・フォレ賞(仏GⅠ)・ダリュー賞(仏GⅡ) |
|
1969 |
加ブリーダーズS・ドミニオンデイH(加GⅢ) |
|
1970 |
Champagne Charlie |
スウィフトS(米GⅢ)・フリントロックS(米GⅢ) |
1970 |
North of Venus |
パジャントH(米GⅢ)・シーショアH(米GⅢ) |
1970 |
Northern Fling |
リグスH(米GⅢ)・ロングフェローH(米GⅢ) |
1971 |
Northern Gem |
プリティポリーS(愛GⅡ)・フレッドダーリンS(英GⅢ) |
1971 |
フォレ賞(仏GⅠ)・エクリプス賞(仏GⅢ)・トーマブリョン賞(仏GⅢ) |
|
1972 |
Broadway Dancer |
モルニ賞(仏GⅠ) |
1972 |
Dance d'Espoir |
ニッカボッカーH(米GⅢ) |
1972 |
Dancers Countess |
マッチメイカーS(米GⅠ)・サスケハナH(米GⅡ) |
1973 |
Dance Spell |
サラナクS(米GⅡ)・ジェロームH(米GⅡ) |
1973 |
Far North |
サンロマン賞(仏GⅢ) |
1973 |
Gay Jitterbug |
カナディアンターフH(米GⅢ) |
1974 |
クリスタルマイル(英GⅡ)・デスモンドS(愛GⅢ) |
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1974 |
Dance in Time |
加プリンスオブウェールズS・加ブリーダーズS |
1974 |
Giboulee |
ドミニオンデイH(加GⅢ) |
1974 |
Music Of Time |
ジムダンディS(米GⅢ)・スタイヴァサントH(米GⅢ) |
1974 |
Northern Sea |
テストS(米GⅢ) |
1974 |
Northernette |
加オークス・トップフライトH(米GⅠ)・アップルブロッサムH(米GⅡ)・クリサンセマムH(米GⅢ) |
1974 |
英ダービー(英GⅠ)・愛ダービー(愛GⅠ)・キングジョージⅥ世&クイーンエリザベスS(英GⅠ)・デューハーストS(英GⅠ) |
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1975 |
La Dorga |
ロワイヨモン賞(仏GⅢ) |
1975 |
Try My Best |
デューハーストS(英GⅠ) |
1975 |
White Star Line |
ケンタッキーオークス(米GⅠ)・アラバマS(米GⅠ)・デラウェアオークス(米GⅠ)・テストS(米GⅢ) |
1976 |
Countess North |
カムリーS(米GⅢ) |
1976 |
Fabulous Dancer |
フォルス賞(仏GⅢ)・リス賞(仏GⅢ) |
1976 |
Imperial Fling |
ダルマイヤー大賞(独GⅢ) |
1976 |
Northern Baby |
英チャンピオンS(英GⅠ)・ドラール賞(仏GⅡ)・コートノルマンディ賞(仏GⅢ) |
1976 |
Salpinx |
コンセイユドパリ賞(仏GⅡ) |
1977 |
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1977 |
Disconiz |
プリンセスS(米GⅢ) |
1977 |
Magesterial |
ブランドフォードS(愛GⅡ)・ホワイトホールS(愛GⅢ) |
1977 |
トーマブリョン賞(仏GⅢ) |
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1978 |
Cresta Rider |
クリテリウムドメゾンラフィット(仏GⅡ)・ジャンプラ賞(仏GⅡ)・フォンテーヌブロー賞(仏GⅢ) |
1978 |
Dance Bid |
テトラークS(愛GⅢ) |
1978 |
Discorama |
ガゼルH(米GⅡ) |
1978 |
Northern Fable |
パロマーH(米GⅢ) |
1978 |
デューハーストS(英GⅠ)・愛ナショナルS(愛GⅡ)・アングルシーS(愛GⅢ) |
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1979 |
Dance Number |
ベルデイムS(米GⅠ)・シュヴィーH(米GⅡ) |
1979 |
Larida |
ヒルプリンスS(米GⅢ)・ボイリングスプリングスH(米GⅢ)・オーキッドH(米GⅢ) |
1979 |
Woodstream |
チェヴァリーパークS(英GⅠ)・モイグレアスタッドS(愛GⅡ) |
1980 |
Danzatore |
ベレスフォードS(愛GⅡ) |
1980 |
マサチューセッツH(米GⅡ)・ペンシルヴァニアダービー(米GⅢ) |
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1980 |
Glenstal |
愛ナショナルS(愛GⅡ)・ダフニ賞(仏GⅢ) |
1980 |
Hero's Honor |
ボーリンググリーンH(米GⅠ)・ユナイテッドネーションズH(米GⅠ)・レッドスミスH(米GⅡ)・フォートマーシーH(米GⅢ) |
1980 |
Lomond |
英2000ギニー(英GⅠ)・グラッドネスS(愛GⅢ) |
1980 |
Mysterieuse Etoile |
グロット賞(仏GⅢ) |
1980 |
Salmon Leap |
ニジンスキーS(愛GⅡ)・テトラークS(愛GⅢ)・愛国際S(愛GⅢ) |
1980 |
Shareef Dancer |
愛ダービー(愛GⅠ)・キングエドワードⅦ世S(英GⅡ) |
1980 |
Spit Curl |
アラバマS(米GⅠ) |
1980 |
Sulemeif |
スワニーリヴァーH(米GⅢ) |
1981 |
Ballet de France |
ウェルドパークS(愛GⅢ) |
1981 |
英2000ギニー(英GⅠ)・愛ダービー(愛GⅠ)・デューハーストS(英GⅠ)・愛ナショナルS(愛GⅡ)・レイルウェイS(愛GⅢ)・グラッドネスS(愛GⅢ) |
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1981 |
仏オークス(仏GⅠ)・ヴェルメイユ賞(仏GⅠ)・ノネット賞(仏GⅢ) |
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1981 |
Pink |
ミュゲ賞(仏GⅢ)・シュマンドフェルデュノール賞(仏GⅢ)・ロンポワン賞(仏GⅢ) |
1981 |
愛2000ギニー(愛GⅠ)・エクリプスS(英GⅠ)・愛チャンピオンS(愛GⅠ)・ベレスフォードS(愛GⅡ)・デリンズタウンスタッドダービートライアルS(愛GⅡ) |
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1981 |
英ダービー(英GⅠ)・テトラークS(愛GⅢ) |
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1981 |
Wild Applause |
ダイアナH(米GⅡ)・カムリーS(米GⅢ) |
1982 |
Antheus |
伊ジョッキークラブ大賞(伊GⅠ)・ラクープドメゾンラフィット(仏GⅢ) |
1982 |
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1982 |
Herat |
ニューオーリンズH(米GⅡ) |
1982 |
Northern Aspen |
ゲイムリーH(米GⅠ)・アスタルテ賞(仏GⅡ) |
1982 |
Northern Plain |
テトラークS(愛GⅢ) |
1982 |
Savannah Dancer |
デルマーオークス(米GⅡ) |
1983 |
Chercheur d'Or |
リス賞(仏GⅢ) |
1983 |
Glow |
サラナクS(米GⅡ) |
1983 |
Tate Gallery |
愛ナショナルS(愛GⅠ) |
1984 |
Ajdal |
デューハーストS(英GⅠ)・ジュライC(英GⅠ)・スプリントCS(英GⅠ)・スプリントC(英GⅡ)・クレイヴンS(英GⅢ) |
1984 |
Alwasmi |
ジョンポーターS(英GⅢ) |
1984 |
Chapel of Dreams |
ウィルシャーH(米GⅡ)・パロマーH(米GⅡ)・ゴールデンポピーH(米GⅢ) |
1984 |
Rambo Dancer |
レッドスミスH(米GⅡ) |
1985 |
Fairy Gold |
デビュータントS(愛GⅢ) |
1985 |
Nabeel Dancer |
グロシェーヌ賞(仏GⅡ) |
1985 |
プリンセスオブウェールズS(英GⅡ)・ジョッキークラブS(英GⅡ)・チェスターヴァーズ(英GⅢ)・ジョンポーターS(英GⅢ) |
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1986 |
Diana Dance |
ノイス牝馬賞(独GⅢ) |
1986 |
Local Talent |
ジャンプラ賞(仏GⅠ)・ロシェット賞(仏GⅢ) |
1986 |
Shotiche |
ローリンググリーンH(米GⅢ) |
1986 |
Warrshan |
ゴードンS(英GⅢ) |
1987 |
Antisaar |
ギョームドルナノ賞(仏GⅡ) |
1987 |
Wajd |
エヴリ大賞(仏GⅡ)・ミネルヴ賞(仏GⅢ) |