ヌレイエフ

和名:ヌレイエフ

英名:Nureyev

1977年生

鹿毛

父:ノーザンダンサー

母:スペシャル

母父:フォルリ

競走馬としては英2000ギニー1位入線失格など不運が重なり大成できなかったが、致命的な故障を乗り越えて名馬を世界中に送り出した大種牡馬

競走成績:2・3歳時に仏英で走り通算成績3戦2勝

競走馬としては高い素質を秘めながら不運が重なり大成できなかったが、種牡馬として超一流の活躍を示し、父ノーザンダンサーの最良後継種牡馬の1頭として世界的にその血を広めた大種牡馬。

誕生からデビュー前まで

米国ケンタッキー州クレイボーンファームで誕生して、1歳7月のキーンランドセールに出品された。入札開始価格は2万ドルであり、目標落札価格は27万5千ドルだった。ところがギリシアの海運王スタブロス・ニアルコス氏と英国の名馬主ロバート・サングスター氏が激しく競り合ったために、価格は高騰の一途を辿り、最終的には1歳馬としては当時史上2番目の高額となる130万ドル(当時の為替レートで約2億7000万円。ちなみに当時の史上1位は1976年のキーンランド7月セールにおいて150万ドルの値が付いたカナディアンバウンドで、この馬はセクレタリアトの初年度産駒でダリアの半弟という超良血馬だった)で、ニアルコス氏に落札された。

この落札額から、仏国フランソワ・ブータン調教師に預けられた本馬に対する注目度はデビュー前から非常に大きかった。主戦はフィリップ・パケ騎手で、本馬の全競走(と言っても3戦のみだが)に騎乗した。

競走生活

2歳11月にサンクルー競馬場で行われたトーマブリョン賞(仏GⅢ・T1500m)でデビュー。調教で非凡な動きを披露していた本馬は1番人気に支持されると、馬なりのまま走り、2着ワイルドアイデアに6馬身差、3着となった後のリュパン賞の勝ち馬ベルジオにはさらに1馬身差をつける圧勝劇を演じ、実力の違いを見せ付けた。2歳時はこの1戦のみだったが、仏国の2歳フリーハンデでは、仏グランクリテリウムの勝ち馬ドラゴンに次ぐ第2位にランクされた。

3歳時は4月にメゾンラフィット競馬場で行われたリステッド競走ジェベル賞(T1400m)から始動。クリテリウムドメゾンラフィットの勝ち馬バイテリックを6馬身差の2着に下して圧勝した。

その後は渡英して英2000ギニー(英GⅠ・T8F)に出走した。ジェベル賞の勝ち方などが評価されて、ミドルパークSの勝ち馬ノウンファクト、後のセントジェームズパレスS・サセックスSの勝ち馬ポッセ(本馬の祖父フォルリの産駒で、シェリフズスターの父)、グラッドネスSの勝ち馬で後にジャンプラ賞を勝つナイトアラートなどを抑えて、単勝オッズ2.625倍の1番人気に支持された。

スタート直後は馬群の中団後方につけると、残り2ハロン地点で満を持してスパートを開始した。ところが馬群から抜け出したところで外側から内側に大きく斜行してしまった。最内を走っていたノウンファクトの隣まで来ると、ノウンファクトとの短い叩き合いを首差で制してトップゴールした。しかし斜行した際に、後方から来ていた3位入線馬ポッセの進路を塞いでしまっており、審議対象となった。そして非常に長い審議の結果、降着どころか失格という厳しい処分が下されてしまった。1位入線馬の失格は英2000ギニー史上初だった。映像を見ると、確かに本馬が内側に寄ってきたせいでポッセが進路変更する場面が見て取れるが、それが降着や失格に相当するものかどうかは人によって意見が分かれるのではないだろうか。

その後は英ダービーが目標だったが、その前にいったん仏国に帰国する事になった。ところが帰りの飛行機の中でウイルス感染症に罹って体調を崩してしまった。そのために英ダービーには出走することが出来ず、結局このまま3歳時2戦1勝の成績で競走馬を引退することになった。それでも国際クラシフィケーションでは129ポンドの評価を受け、3歳マイル部門ではノウンファクトと並んでトップの評価を得た。

馬名はソ連出身で後に国外に亡命して大活躍した世界的名舞踏家ルドルフ・ヌレエフ(ニジンスキーの項で触れた天才舞踏家ヴァツラフ・ニジンスキーの再来とも言われた)に由来する。

血統

Northern Dancer Nearctic Nearco Pharos Phalaris
Scapa Flow
Nogara Havresac
Catnip
Lady Angela Hyperion Gainsborough
Selene
Sister Sarah Abbots Trace
Sarita
Natalma Native Dancer Polynesian Unbreakable
Black Polly
Geisha Discovery
Miyako
Almahmoud Mahmoud Blenheim
Mah Mahal
Arbitrator Peace Chance
Mother Goose 
Special Forli Aristophanes Hyperion Gainsborough
Selene
Commotion Mieuxce
Riot
Trevisa Advocate Fair Trial
Guiding Star
Veneta Foxglove
Dogaresa
Thong Nantallah Nasrullah Nearco
Mumtaz Begum
Shimmer Flares
Broad Ripple
Rough Shod Gold Bridge Golden Boss
Flying Diadem
Dalmary Blandford
Simons Shoes

ノーザンダンサーは当馬の項を参照。

母スペシャルは競走馬としては1戦未勝利だったが、繁殖牝馬としては本馬の半妹ナンバー(父ニジンスキー)【フィレンツェH(米GⅡ)・ヘンプステッドH(米GⅡ)・ファーストフライトH(米GⅢ)】、半妹バウンド(父ニジンスキー)【チャーチルダウンズディスタフH】なども産んだ。さらには、本馬の半姉キラヴェア(父ハワイ)の孫にはビエナマド【ハリウッドターフCS(米GⅠ)・サンフアンカピストラーノ招待H(米GⅠ)・チャールズウィッティンガムH(米GⅠ)】、曾孫にはマダムチェン【英チャンピオンズフィリー&メアS(英GⅠ)】が、半姉フェアリーブリッジ(父ボールドリーズン)の子には欧州競馬史上最高級の大種牡馬サドラーズウェルズ【愛2000ギニー(愛GⅠ)・エクリプスS(英GⅠ)・愛チャンピオンS(愛GⅠ)・ベレスフォードS(愛GⅡ)・デリンズタウンスタッドダービートライアルS(愛GⅡ)】、1996年の仏首位種牡馬フェアリーキング、テートギャラリー【愛ナショナルS(愛GⅠ)】、フェアリーゴールド【デビュータントS(愛GⅢ)】、玄孫には日本で走ったマイネルスケルツィ【ニュージーランドトロフィー(GⅡ)・京都金杯(GⅢ)】が、ナンバーの子にはジェイドロバリー【仏グランクリテリウム(仏GⅠ)】、ヌメラス【ダービートライアルS(米GⅢ)】、チェッカー【ウイリアムPキーンH(米GⅢ)】、曾孫にはコリンシアン【メトロポリタンH(米GⅠ)・BCダートマイル】が、バウンドの子にはアーチペンコ【クイーンエリザベスⅡ世C(香GⅠ)・デリンズタウンスタッドダービートライアルS(愛GⅡ)・アルファヒディフォート(首GⅡ)・サマーマイルS(英GⅡ)・ザビールマイル(首GⅢ)】、孫には2010年のエクリプス賞最優秀古馬ブレイム【BCクラシック(米GⅠ)・スティーヴンフォスターH(米GⅠ)・ホイットニーH(米GⅠ)】、曾孫には日本で走ったエイジアンウインズ【ヴィクトリアマイル(GⅠ)・阪神牝馬S(GⅡ)】が、本馬の半妹デューラー(父ニジンスキー)の曾孫にはロウト【BCジュヴェナイルターフ(米GⅠ)】、シーズハッピー【エストレージャス大賞スプリント(亜GⅠ)】と、スペシャルの牝系は活躍馬のオンパレード状態である。

また、スペシャルの母ソングも非常に優秀な繁殖牝馬で、スペシャルの全弟サッチ【サセックスS(英GⅠ)・ジュライC(英GⅠ)・セントジェームズパレスS(英GⅡ)】、全妹リサデル【コロネーションS(英GⅡ)】、半弟キングペリノア(父ラウンドテーブル)【オークツリー招待H(米GⅠ)・ガリニュールS(愛GⅡ)・ブランドフォードS(愛GⅡ)・アメリカンH(米GⅡ)・カールトンFバークH(米GⅡ)】などの活躍馬を産んでおり、さらにリサデルの子にはファザーランド【愛ナショナルS(愛GⅠ)】、曾孫にはバチェラーデューク【愛2000ギニー(愛GⅠ)】、日本と欧州で走ったエルコンドルパサー【NHKマイルC(GⅠ)・ジャパンC(GⅠ)・サンクルー大賞(仏GⅠ)・ニュージーランドトロフィー四歳S(GⅡ)・フォワ賞(仏GⅡ)・共同通信杯四歳S】、玄孫にはエンドレスホール【ミラノ大賞(伊GⅠ)・シンガポール航空国際C(星GⅠ)】、ソルジャーホロウ【ローマ賞(伊GⅠ)2回・ダルマイヤー大賞(独GⅠ)2回】、タルコ【シューメーカーマイルS(米GⅠ)】がいるなど、世界的一大牝系を形成している。

ソングの母ラフシャッド、ラフシャッドの母ダルマリー【ヨークシャーオークス】も大きく牝系を発展させており、米国顕彰馬ゲイムリー【テストS・アラバマS・サンタマリアH・サンタマルガリータ招待H・ヴァニティH・ベルデイムS2回・サンタモニカH・ダイアナH】、日本で走ったミスオンワード【桜花賞・優駿牝馬】、テレグノシス【NHKマイルC(GⅠ)】など数々の活躍馬が出ている。→牝系:F5号族①

母父フォルリは当馬の項を参照。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は、ニアルコス氏が所有する仏国フレスネルビュファール牧場で種牡馬入りして、24頭の初年度産駒をもうけた(この中から代表産駒の1頭シアトリカルが出ている)。しかし本馬の種牡馬としての資質を感じ取った仏国の名調教師アレック・ヘッド師やコント・ローラン・ドゥ・シャンビュール氏(この両名は本馬と同世代の凱旋門賞馬デトロワの共同生産者である)は、世界最大の馬産地である米国ケンタッキー州で種牡馬生活を送らせる事が望ましいと考え、その旨を関係者達に助言した。その結果、本馬は1400万ドル(当時の為替レートで約32億円)という巨額の種牡馬シンジケートが組まれて、4歳秋にジョン・T・L・ジョーンズ・ジュニア氏が所有するケンタッキー州ウォルマックワーナートンファーム(後のウォルマック国際ファーム)に移り住む事になった。

意外と知られていない事だが、本馬の受精率は決して良くなかったという(米ブラッドホース誌の記事“An Inspiration”による)。それにも関わらず、種牡馬としての活躍ぶりは素晴らしく、世界中で産駒が大競走を勝ちまくった。産駒のステークスウイナーは135頭、ステークスウイナー率は実に18%に達したが、産駒が世界各国に散らばったため、一国で首位種牡馬になる機会は少なかった。それでも、1987・97年の2度仏首位種牡馬に輝き、仏2歳首位種牡馬にも1986・87年の2回、英愛2歳首位種牡馬にも1990年の1回なっている。繁殖牝馬の父としても優に100頭を超えるステークスウイナーを出しており、1997年には英愛母父首位種牡馬に輝いた。

致命的な故障からの回復

ところで以下はよく知られた逸話だが、本馬は10歳時に右後脚の飛節を骨折・脱臼するという致命的な怪我を負ってしまい、ほとんど死ぬ寸前となった事がある。骨折の原因はよく分かっていないが、誤って馬房内の柵を蹴ってしまったものと推察されている。この件の経緯に関しては、米ブラッドホース誌の1987年10月10日付記事“A Look Back:Saving Nureyev”に詳しい。脚を骨折した馬の治療が如何に困難なのかがよく分かる内容なので、ここでその内容を引用して書いてみる。

1987年5月5日の朝、ケンタッキー州の獣医師J・D・ハワード博士に、本馬が事故で脚を負傷した事を知らせる電話がかかってきた。15分ほどしてハワード博士がウォルマック国際ファームに駆けつけると、本馬は馬房の入り口で右後脚を持ち上げた状態で立ち尽くしていた。骨折した右後脚を診察したハワード博士は「これは手の施しようが無い」と感じたらしいが、それでも彼は全力で救命を試みることとした。

まずは包帯を巻きつけて骨折箇所の保全を行い、すぐさま救急車に乗せて、ケンタッキー州を代表する動物病院ハグヤード・デビッドソン・マックギー外科病院に搬送した。手術の成功確率は10%程度だと言われたが、それでも関係者は手術の実施を病院に依頼した。たまたま本馬が脚を骨折する3日前にケンタッキーダービーが行われており(アリシーバが勝利している)、その出走馬の故障に備えるために、カリフォルニア大学の獣医師J・D・ウィート博士がケンタッキー州に来ていた。病院側から手術を手伝ってほしいと依頼を受けたウィート博士は帰りの飛行機をキャンセルして、病院の医師ポール・ソープ博士、マイケル・S・スピリット博士、クレイグ・フランクス博士達と共に本馬の手術に当たった。彼等はまず4本のボルトを患部に埋め込むと、次に脚をギプスで固めた。全米中でも屈指の動物外科の権威達が執刀しただけあって、手術はひとまず無事に成功した。

しかし競馬ファンであれば誰もが知るように、馬の脚の骨折治療というのは、ここからが本番である。手術後もリハビリのためにしばらく病棟に留まった本馬は、直後はあまり痛みを訴えなかったが、数日すると急激に痛みを訴え始めた。その理由は麻酔が切れたためだけではなく、骨折時に損傷していた脚の神経が治り始めたため、今までは気にならなかった痛みを感じるようになったためだとされている。しかし痛むからと言って横に寝かせてしまったり、残り3本の脚だけで立たせてしまったりしては、サラブレッドの身体構造上、接地箇所や残りの脚が腐敗して致命的となってしまうため、関係者は心を鬼にして本馬を無理に四本脚で立たせ、軽い運動も行わせた。痛みを訴えて狂ったように暴れる本馬を落ち着かせるために、関係者は時には本馬に平手打ちをしたともいう。

少し回復した本馬は、病院の敷地内に急ごしらえで建設された馬屋に移された。急ごしらえではあったが、エアコンや電話、避雷針などの設備は完全に整えられていた。馬屋に移動した後も、本馬は痛みを堪えながら歩行運動を継続した。それから6~7週の間に何度かギプスを交換したのだが、やがてギプスで患部を圧迫されるのを嫌がって暴れるようになったため、ギプスから包帯に変更された。また、患部に埋め込んだボルトのうち2本が損傷しているのが見つかったため、破損箇所の修理が行われた。しかしいくら強制されても、骨折した脚を使って積極的に歩きたがる馬がいるはずもなく、本馬の脚の筋力は衰えて、歩様が非常に不安定となった。不安定な脚を支えるために再びギプスが装着されたのだが、やはり本馬はそれを非常に嫌がり、精神的に参って食欲低下・無気力などの症状も発現した。

6月末には呼吸器感染症を発症してしまった。幸いにも肺炎までには至らずに治癒したが、7月初めには今度はストレスが影響したのか、大腸の働きが急激に悪くなり、便からは本来とは異なる悪臭が漂い始めた。もし大腸炎にでもなったら一巻の終わりだと考えた関係者は、48時間連続で抗生物質の点滴を実施。幸いにも大腸炎まで悪化することは無く、3日後に回復に向かった。

脚の手術から14週間後、本馬の右後脚からがギプスが外され、代わりに添え木が装着された。この添え木は、この前年に他界したホープスプリングセターナルという牝馬(本馬と同じくウォルマック国際ファームで種牡馬入りしていた名種牡馬ミスワキの母)が使用していた特製のものであり、ギプスを嫌がって暴れる本馬のために関係者が各方面を探し回り、その代わりになりそうなものを探してきたのだった。添え木と特製蹄鉄を装着した本馬は、少し苦痛が軽減されたらしく、その後は大人しく歩行運動を続けた。

そしてそれから4週間後の9月18日、骨折から136日目にして添え木も外され、本馬の右後脚は自由となった。その後はギプスも添え木のサポートも無しで歩行運動が継続された。相変わらず痛みはあったが、とにかく脚の筋肉が非常に衰えており、運動をさせて筋力を回復させなければ、立てなくなって結局死んでしまうため、歩行運動は欠かすことが出来なかった。筋力回復のために、歩行運動に加えて、電気マッサージ、超音波照射、レーザー照射なども施された。これらの結果、ギプスを外した直後は「(茹でる前の)スパゲッティの麺のようだった」と評された本馬の脚は徐々に回復していった。

そして遂にハグヤード・デビッドソン・マックギー外科動物病院を退院してウォルマック国際ファームに戻ってきた本馬は、牧場関係者達から熱烈な歓迎を受けたという。本馬は翌年の繁殖シーズンまでにはほぼ回復し、以前どおりに種牡馬活動を続ける事が出来た。生涯右後脚を引きずって歩く事になってしまったが、本馬のためだけにウォルマック国際ファーム内に特別に設けられた馬房において、まるで王様のような生活を送ったという。

闘病中は暴れまくった本馬だが、それは激痛を堪えていたためから当然であり、平素の本馬は至って大人しい気性の持ち主だったという。特に顔馴染みとなった人間の事を溺愛しており、本馬の馬屋の隣で野球に興じていた少年達が立ち去ると、とても寂しそうな表情を浮かべていたという。牧場関係者も本馬を溺愛しており、本当の家族のような間柄だったというが、それは過去の経緯からして当然の事であろう。24歳となった2001年にも39頭と交配する現役種牡馬だったが、同年8月に右前脚の蹄に腫瘍を発症したために腫瘍切除手術が行われた。しかし術後に合併症を起こしてしまい、10月に他界した。遺体はウォルマック国際ファーム内にあったアレッジドリズンスターの墓碑の隣に埋葬された。

産駒は基本的に自身同様のマイラーが多かったが、繁殖牝馬の血統次第では長距離を克服する子もいた。ダートで走る産駒は少数派であり、明らかに芝向きの種牡馬だった。繁殖牝馬の父としても、キングマンボ、ジャングルポケット、トゥザヴィクトリー、ゴールドアリュール、イーグルカフェなど活躍馬を多数出している。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1982

Al Sylah

ダイアデムS(英GⅢ)

1982

Breath Taking

エクリプス賞(仏GⅢ)・モートリー賞(仏GⅢ)

1982

Devalois

EPテイラーS(加GⅡ)・クレオパトル賞(仏GⅢ)・ビウィッチS(米GⅢ)

1982

Lidhame

グラッドネスS(愛GⅢ)

1982

Magic Mirror

ノーフォークS(英GⅢ)

1982

Theatrical

BCターフ(米GⅠ)・ハイアリアターフCH(米GⅠ)・ボーリンググリーンH(米GⅠ)・ソードダンサーH(米GⅠ)・ターフクラシックS(米GⅠ)・マンノウォーS(米GⅠ)・デリンズタウンスタッドダービートライアルS(愛GⅡ)・レッドスミスH(米GⅡ)

1982

Vilikaia

ポルトマイヨ賞(仏GⅢ)

1983

Lead On Time

クリテリウムドメゾンラフィット(仏GⅡ)・モーリスドギース賞(仏GⅡ)

1983

Only Star

サンドランガン賞(仏GⅢ)

1983

Sonic Lady

愛1000ギニー(愛GⅠ)・サセックスS(英GⅠ)・ムーランドロンシャン賞(仏GⅠ)・コロネーションS(英GⅡ)・チャイルドS(英GⅡ)・ネルグウィンS(英GⅢ)・チャイルドS(英GⅢ)

1984

Annoconnor

ヴァニティ招待H(米GⅠ)・ラモナH(米GⅠ)・サンタアナH(米GⅠ)・ラスパルマスH(米GⅡ)・ローリンググリーンH(米GⅢ)

1984

Fotitieng

シェーヌ賞(仏GⅢ)

1984

Miesque

BCマイル(米GⅠ)2回・英1000ギニー(英GⅠ)・仏1000ギニー(仏GⅠ)・サラマンドル賞(仏GⅠ)・マルセルブサック賞(仏GⅠ)・ジャックルマロワ賞(仏GⅠ)2回・ムーランドロンシャン賞(仏GⅠ)・イスパーン賞(仏GⅠ)

1984

Mona Stella

オペラ賞(仏GⅡ)

1984

Soviet Star

仏2000ギニー(仏GⅠ)・サセックスS(英GⅠ)・フォレ賞(仏GⅠ)・ジュライC(英GⅠ)・ムーランドロンシャン賞(仏GⅠ)・トラストハウスフォルテマイル(英GⅡ)・フォンテーヌブロー賞(仏GⅢ)

1984

Stately Don

セクレタリアトS(米GⅠ)・ハリウッドダービー(米GⅠ)・コンコルドS(愛GⅢ)

1985

Action Francaise

サンドランガン賞(仏GⅢ)

1985

Alwuhush

伊共和国大統領賞(伊GⅠ)・ミラノ大賞(伊GⅠ)・カールトンFバークH(米GⅠ)

1985

Movieland

レゼルヴォワ賞(仏GⅢ)

1985

Pasakos

ロシェット賞(仏GⅢ)

1985

Pattern Step

ハリウッドオークス(米GⅠ)

1986

Dancing Dissident

テンプルS(英GⅡ)

1986

Great Commotion

コーク&オラリーS(英GⅢ)

1986

Louveterie

ヴァントー賞(仏GⅢ)

1986

Navratilovna

アスタルテ賞(仏GⅡ)

1986

Taffeta And Tulle

パース賞(仏GⅢ)・ブエナビスタH(米GⅢ)

1986

Zilzal

サセックスS(英GⅠ)・クイーンエリザベスⅡ世S(英GⅠ)・ジャージーS(英GⅢ)・クリテリオンS(英GⅢ)

1987

Polar Falcon

スプリントC(英GⅠ)・ロッキンジS(英GⅡ)・エドモンブラン賞(仏GⅢ)

1987

Rudy's Fantasy

タンフォランH(米GⅢ)

1987

Silk Slippers

フィリーズマイル(英GⅡ)

1988

Robin des Pins

ゴールデネパイチェ(独GⅡ)・パレロワイヤル賞(仏GⅢ)・サンジョルジュ賞(仏GⅢ)・ホルステントロフィー(独GⅢ)

1988

Rudimentary

トラストハウスフォルテマイル(英GⅡ)

1989

Hydro Calido

アスタルテ賞(仏GⅡ)

1989

Kings Signet

スチュワーズC

1989

Kitwood

ジャンプラ賞(仏GⅠ)

1989

Oumaldaaya

リディアテシオ賞(伊GⅡ)

1989

Red Slippers

サンチャリオットS(英GⅡ)

1989

Trishyde

マルレ賞(仏GⅡ)・フルールドリスH(米GⅢ)

1989

Wolfhound

フォレ賞(仏GⅠ)・スプリントC(英GⅠ)・ダイアデムS(英GⅢ)

1990

Baya

グロット賞(仏GⅢ)

1990

Caesour

ベイメドウズH(米GⅡ)

1990

Jeune Homme

サイテーションH(米GⅡ)・メシドール賞(仏GⅢ)

1991

Fadeyev

トーマブリョン賞(仏GⅢ)・フォンテーヌブロー賞(仏GⅢ)

1991

Flagbird

伊共和国大統領賞(伊GⅠ)・プリティポリーS(愛GⅡ)・グロット賞(仏GⅢ)

1991

Heart Lake

安田記念(日GⅠ)・京王杯スプリングC(日GⅡ)・コンコルドS(愛GⅢ)

1991

La Confederation

サンチャリオットS(英GⅡ)

1991

Mehthaaf

愛1000ギニー(愛GⅠ)・セレブレーションマイル(英GⅡ)・ネルグウィンS(英GⅢ)

1992

Atticus

オークローンH(米GⅠ)・アーケイディアH(米GⅡ)・フォンテーヌブロー賞(仏GⅢ)・ケンタッキーCクラシックH(米GⅢ)

1992

Dance Treat

ラクープ(仏GⅢ)・フロール賞(仏GⅢ)

1992

Diffident

ダイアデムS(英GⅡ)・リゾランジ賞(仏GⅢ)

1993

Joyeux Danseur

ETターフクラシックS(米GⅠ)・エクスプローシヴビッドH(米GⅢ)

1993

Russian Revival

パレロワイヤル賞(仏GⅢ)

1993

Spinning World

BCマイル(米GⅠ)・愛2000ギニー(愛GⅠ)・ジャックルマロワ賞(仏GⅠ)2回・ムーランドロンシャン賞(仏GⅠ)・ミュゲ賞(仏GⅡ)・サンロマン賞(仏GⅢ)

1994

Peintre Celebre

凱旋門賞(仏GⅠ)・仏ダービー(仏GⅠ)・パリ大賞(仏GⅠ)・グレフュール賞(仏GⅡ)

1994

Reams of Verse

英オークス(英GⅠ)・フィリーズマイル(英GⅠ)・メイヒルS(英GⅢ)・ムシドラS(英GⅢ)

1994

Romanov

ジョッキークラブS(英GⅡ)・ローズオブランカスターS(英GⅢ)

1994

ブラックホーク

スプリンターズS(GⅠ)・安田記念(GⅠ)・スワンS(GⅡ)・ダービー卿チャレンジトロフィー(GⅢ)・阪急杯(GⅢ)

1995

Isle de France

ミネルヴ賞(仏GⅢ)

1995

Social Charter

エクリプスH(加GⅢ)・フェイエットBCS(米GⅢ)

1996

Good Journey

アットマイル(加GⅠ)・サイテーションH(米GⅡ)2回・ファイアクラッカーBCH(米GⅡ)

1996

Gracioso

リュパン賞(仏GⅠ)

1996

Istintaj

ミスタープロスペクターH(米GⅢ)

1996

Senure

ユナイテッドネーションズH(米GⅠ)・クレメントLハーシュターフCSS(米GⅠ)

1996

Skimming

パシフィッククラシックS(米GⅠ)2回・カリフォルニアンS(米GⅡ)・サンディエゴH(米GⅡ)・サンディエゴH(米GⅢ)

1996

Stravinsky

ジュライC(英GⅠ)・ナンソープS(英GⅠ)

1997

Fasliyev

愛フェニックスS(愛GⅠ)・モルニ賞(仏GⅠ)・コヴェントリーS(英GⅢ)

1997

No Matter What

デルマーオークス(米GⅠ)

1997

Special Ring

エディリードH(米GⅠ)2回

1998

Binary File

マリットスヴェアースミネロップ(那GⅢ)

1998

Crystal Music

フィリーズマイル(英GⅠ)

1998

King Charlemagne

モーリスドギース賞(仏GⅠ)・タタソールS(英GⅢ)・バリーコーラスS(愛GⅢ)・ミンストレスS(愛GⅢ)

1998

Momentum

ネイティヴダイヴァーH(米GⅢ)

1998

Toroca

セルジオクマニ賞(伊GⅢ)

1999

Dance Dress

フィユドレール賞(仏GⅢ)

1999

Meshaheer

ジュライS(英GⅢ)

1999

Stonemason

キラヴーランS(愛GⅢ)

2000

Arakan

クリテリオンS(英GⅢ)・スプリームS(英GⅢ)

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