ロングフェロー

和名:ロングフェロー

英名:Longfellow

1867年生

黒鹿

父:リーミントン

母:ナンチュラ

母父:ブラウナーズエクリプス

好敵手ハリーバセットとの対決でも知られ、南北戦争後10年間の米国競馬界で最も人気を博して「競馬場の王」の異名で呼ばれた巨漢馬

競走成績:3~5歳時に米で走り通算成績16戦13勝2着2回

誕生からデビュー前まで

米国ケンタッキー州ミッドウェイのナンチュラストックファームにおいて、“アンクル”・ジョン・ハーパー氏により生産・所有され、調教もハーパー氏が自身で行った。

ハーパー氏はレキシントンの競走馬時代の所有者だったリチャード・テン・ブロック氏の知人で、レキシントンが競走馬を引退した直後に種牡馬として繋養していた人物だった。また、同時期には既に老齢だったグレンコーもナンチュラストックファームで繋養されており、ハーパー氏は米国競馬黎明期の大種牡馬2頭(合わせて北米首位種牡馬24回)を同時に所有していた事になるのだが、1857年に2頭とも隣人のロバート・A・アレクサンダー氏に売却してしまっている。グレンコーは売却後間もなく他界したが、レキシントンはハーパー氏の手を離れた後に種牡馬として記録的大成功を収める事になる。ハーパー氏がそれを悔いたのかどうかは定かではないが、彼は自身の所有する繁殖牝馬に、自分の手を離れたレキシントンだけではなく他の種牡馬も積極的に交配させていた。そして牝馬ナンチュラに当時まだそれほど著名ではなかった英国からの輸入種牡馬リーミントンを交配させた結果誕生したのが本馬である。

体高は当時としては破格とも言える17ハンドに達し、そのストライドは27フィートもあったとされている。馬名は米国で当時最も人気があった詩人ヘンリー・ワーズワース・ロングフェローにちなんでいるのかと他者がハーパー氏に尋ねると、ハーパー氏は「今まで見た馬の中で一番脚が長いから“Long Fellow(長い男)”と名付けた」と答えたという。本馬は巨漢馬だったためか仕上がりが遅かったようで、2歳時にレースに出る事は無かった。

競走生活(3・4歳時)

3歳春にキーンランド競馬場で行われたヒート競走フェニックスホテルS(D8F)で競走馬デビューした。しかしこの時期の本馬はまだ本格化前で、同じリーミントン産駒の3歳馬エンクワイアラー(この年のベルモントS・トラヴァーズSの勝ち馬キングフィッシャーをロビンズSで破った他に、ケナーS・コンティネンタルホテルS・オーシャンホテルS・シチズンSを勝ち、同年6戦無敗を誇った。ドミノの母父でもある)の着外に敗れた。本馬のあまりに不器用なレースぶりを見たハーパー氏はそれから本馬をしばらくレースに出さなかった。復帰したのは夏を越して秋になってからで、プロデュースS・オハイオS・シチズンS・ポストSと出走した4競走全てに勝利し、3歳時の成績は5戦4勝となった。

4歳時は初戦で対戦相手が現れなかったために単走で勝利。続いて出走したレキシントン産駒のピルグリムとのマッチレースでも勝利を収めた。しかしこのレースの前夜にある事件が勃発していた。本馬の小屋で寝ていたハーパー氏が物音に気付いて目を覚ますと、小屋の外に何者かがおり、本馬に会わせてくれるよう頼んできた。しかしハーパー氏はそれを拒否し、立ち去るように言ったため、その人物はそのまま去っていった。翌朝、ハーパー氏の自宅で彼の姉と兄が手斧で殺害されているのが発見された。ハーパー氏が自宅にいたら、彼もまた殺害されていたと考えられた。ハーパー氏と殺された2人には子どもが無く、近親は3人の甥がいるだけだった。そのために財産目当ての殺人と考えられ、甥の一人は別の甥の一人を殺人罪で告訴した。証拠もある程度揃っていたが、結局事件は迷宮入りとなった。この騒動のため、ハーパー氏はしばらく本馬の調教が出来ず、本馬はしばらくレースに出なかった。

4歳秋にようやく復帰すると、モンマスC(D20F)に出走した。このレースには、前年にサラトガC・ウエストチェスターC・ジョッキークラブH・ロングブランチS・モンマスCなどを勝ちまくった強豪ヘルムボルドと、ピムリコ競馬場のこけら落とし競走ディナーパーティーSを勝ったためにプリークネスSの名前の由来になったウエストチェスターC・マチュリティSの勝ち馬プリークネスが出走していたが、本馬がヘルムボルドを2着に、プリークネスを着外に破って勝利した。次走のサラトガC(D18F)では、唯一の対戦相手となった前年のベルモントS・トラヴァーズS・米チャンピオンSの勝ち馬キングフィッシャーを一蹴した。その次に出走した距離4マイルのヒート競走では大跳びの本馬にとって苦手な重馬場になり、モンマスCで相手にしなかったヘルムボルドに敗れて2着だった。ウーリーSでは勝利を収めた。4歳時の成績は6戦5勝だった。

ハリーバセットとの対決

5歳時における本馬については、モンマスCとサラトガCにおけるハリーバセットとの対決が名高い。レキシントン産駒のハリーバセットは、ハーパー氏がレキシントンを売った相手アレクサンダー氏のウッドバーンスタッドが生産した馬で、デビッド・マクダニエル大佐の所有馬となっていた。ハーパー氏が本馬をモンマスCにエントリーする際に「ロングフェローの勇気を試したければ誰でも来てごらん。」と告知したところ、マクダニエル大佐がそれを受けてハリーバセットをモンマスCにエントリーさせたという。当初モンマスCに出走予定だった他馬10頭の陣営は、本馬とハリーバセットが出走してくると知って全て回避してしまったため、結局2頭のマッチレースとなった。本馬は「ロングフェロー、友人のハリーバセットに会いにロングブランチへ行く途中」と書かれたプレートが貼られた自動車に乗って、レースが行われるニュージャージー州ロングブランチのモンマスパーク競馬場へと向かった。

そして迎えたモンマスC(D20F)では、本馬がハリーバセットに100ヤード(91.44m)以上という大差をつけて圧勝した。その後、サラトガC(D18F)で本馬とハリーバセットは2度目の対戦をした。このレースには両頭以外にも、サマーCの勝ち馬ディフェンダーが出走していたが、事実上は本馬とハリーバセットのマッチレースだった。本馬はスタート前に左前脚を打撲していたが、レースはそのまま行われた。本馬は脚を打った影響なのか、レース序盤からあまり調子が良くなく、ハリーバセットに先行を許す展開となった。そこで騎手は本馬のレーシングキャリアにおいて初めて本馬に鞭を使った。すると、本馬は力強く一気に加速して前のハリーバセットとの距離を縮めていった。ここで本馬の左前脚に異常が発生したが、本馬はなんと残る3本脚で走り続けてハリーバセットに食い下がった。しかし最後はコースレコードを2秒5更新する走りを見せたハリーバセットに1馬身差で敗れた。レース後の本馬は蹄鉄が曲がり、脚にめり込んでいる状態だった。生命に別状は無かったが、この負傷のため本馬の競走馬生活は終わりを告げた。5歳時の成績は5戦4勝だった。本馬は南北戦争後の10年間において最も人気が高い競走馬であり、“King of the Turf(競馬場の王)”の異名で呼ばれた。

血統

Leamington Faugh-a-Ballagh Sir Hercules Whalebone Waxy
Penelope
Peri Wanderer
Thalestris
Guiccioli Bob Booty Chantcleer
Ierne
Flight Escape
Young Heroine
Pantaloon Mare Pantaloon Castrel Buzzard
Alexander Mare
Idalia Peruvian
Musidora
Daphne Laurel Blacklock
Wagtail
Maid of Honor Champion 
Etiquette
Nantura Brawner's Eclipse American Eclipse Duroc Diomed
Amanda
Miller's Damsel Messenger
Sister to Timidity
Henry Mare Henry Sir Archy
Diomed Mare
Young Romp Duroc
Old Romp
Quiz Bertrand Sir Archy Diomed
Castianira
Eliza Bedford
Mambrina
Lady Fortune Fenwick's Brimmer Bess Brimmer
Lamplighter Mare
Old Buzzard Buzzard
The Faun

リーミントンは当馬の項を参照。

母ナンチュラの競走馬としての成績は不明。母としては、本馬の半弟エクセル(父エンドーサー)【2着ブルーリボンS・2着フェニックスホテルS】を産んでいる。また、本馬の半姉ファニーホルトン(父レキシントン)の子には米国顕彰馬テンブロックがいる。ナンチュラの全妹キッチュラーの牝系子孫にはシルヴァークラウド【アメリカンダービー】、レイエルサンタアニタ【アメリカンダービー】、アルタウッド【ブルーグラスS・ジョッキークラブ金杯】などが、ナンチュラの母クイズの全姉クイーンメアリーの牝系子孫にはケアンゴーム【プリークネスS・ブルックリンダービー】がいるが、いずれの牝系も現在は廃れている。→牝系:A14号族

母父ブラウナーズエクリプスはアメリカンエクリプス産駒だが、競走馬としての経歴は良く分からない。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は生まれ故郷のナンチュラストックファームで種牡馬入りした。本馬は種牡馬としても成功し、少なくとも42頭のステークスウイナーを出し、1891年の北米首位種牡馬に輝いた。1893年11月に26歳で他界し、遺体はナンチュラストックファームに埋葬された。本馬が埋葬された場所には墓碑が建立され(ケンタッキー州において競走馬のために墓碑が立てられたのは1887年に他界した本馬の甥テンブロックに次いで2頭目)、それには“King of Racers & King of Stallions(競走馬の王にして種牡馬の王)”と刻まれた。1971年に米国競馬の殿堂入りを果たした。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1875

Harper

オハイオダービー

1875

Long Taw

サラトガC

1877

Longitude

ケンタッキーオークス

1878

Thora

モンマスオークス・アラバマS

1880

Leonatus

ケンタッキーダービー

1882

Longview

ジェロームH

1883

Kaloolah

モンマスH

1883

The Bard

プリークネスS・ブルックリンH・ジェロームH・ディキシーS

1884

Florimore

ケンタッキーオークス

1886

Long Dance

トラヴァーズS

1886

Longstreet

ジェロームH

1887

Riley

ケンタッキーダービー・クラークH

1888

High Tariff

クラークH

1890

Rainbow

ブルックリンダービー

1891

Nahma

ガゼルH

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