アイソノミー

和名:アイソノミー

英名:Isonomy

1875年生

鹿毛

父:スターリング

母:アイソラベラ

母父:ストックウェル

史上初めて同一年に英国三大長距離カップ競走を全勝した19世紀有数の名馬で、種牡馬としても英国三冠馬を2頭輩出する

競走成績:2~5歳時に英で走り通算成績14戦10勝2着2回3着1回

誕生からデビュー前まで

英国ウェストミッドランズ州バーミンガム近郊のヤードレイスタッドにおいて、父スターリングを競走馬及び種牡馬として所有していたグラハム兄弟により生産された。誕生したのが5月という遅生まれだった事もあって幼少期から小柄な馬だったが、成長してもたいして大きくならず、体高15.2ハンドにしかならなかった。しかし後に種牡馬入りした本馬を世話する事になるジョン・グリフィス氏という人物は、「首は非常に短いが、四肢や背中のつくりが良く、優れた運動能力と心肺機能、さらに素晴らしい闘争心を持っている」と高い評価を下した。

ある日のこと、1歳馬を見るためにヤードレイスタッドを訪れたジョン・ポーター調教師は、牧場内を走る群れのなかで、最も小さい馬が一番前に行くように他馬の間を縫う様にして進んでいることに気が付いた。その馬こそが本馬であり、その素質を見抜いた彼は、懇意にしていた馬主の一人であるフレデリック・グレットン氏に薦めて、1歳時のドンカスターセールに出品されてきた本馬を360ギニー(320ギニーとする資料もある)で購入した。

母アイソラベラ(Isola Bella)と祖母アイソラインの名前がいずれも“iso”で始まることから、辞書で“iso”から始まる単語を探し、“Isonomy(法と権利は平等)”と名づけた。管理調教師はもちろんポーター師で、主戦はトム・キャノン騎手が務めた。調教においては、堅い馬場でも湿った馬場でもお構いなく走った。ポーター師は「その不屈の闘志は彼の性格を特徴付けるものでした。しかも非常に頑丈な馬でした」と評している。

競走生活(2・3歳時)

2歳8月にブライトン競馬場で行われたブライトン2歳S(T5F)でデビューして3着。9月にはニューマーケット競馬場でナーサリーH(T4F)に出走して勝利。引き続き同コースで出たナーサリーH(T4F)では、11ポンドのハンデを与えたビードマンから頭差の2着だった。

2歳時の成績は3戦1勝だったが、ポーター師はこの内容に満足しており、本馬は3歳になれば英国クラシック競走でも好勝負になると考えていた。ところが所有者のグレットン氏は、3歳10月のケンブリッジシャーHまで本馬を一切レースに出さないようにポーター師に指示した。ポーター師は仕方なくその指示に従い、本馬は英国クラシック競走を全て回避して、10月までは延々と調教で走るのみとなった。調教では、古馬と互角に渡り合い、28ポンド以上のハンデを与えた同世代馬を一蹴するなど、優れた素質を披露していたが、その事実はしばらく伏せられていた。

そして出走した約1年ぶりのレースとなるケンブリッジシャーH(T9F)。グッドウッドC・ドンカスターC・エプソム金杯(現コロネーションC)などを勝っていた当時英国最強古馬のハンプトンを筆頭とする歴戦の古馬勢を含む34頭が顔を連ねていた。2歳時にそれなりの才覚を見せたとは言え、既に1年間もレースに出ていない本馬の存在はすっかり忘れ去られており、99ポンドという軽量(斤量トップのハンプトンは129ポンド)にも関わらず、単勝オッズ41倍の低評価。本馬をケンブリッジシャーHまでレースに出さないように指示したグレットン氏の狙いはまさにこれであり、本馬の勝利に1000ポンドという大金を賭けていた。レースでは残り1ハロン地点で内側を突いて先頭に立つと、2着タチェットに2馬身差、4着ハンプトンにはさらに半馬身差をつけて勝利を収め、このレースを観戦していた人々を大いに驚いた。これによりグレットン氏は4万ポンドもの利益を得ることに成功。この金額は英国牡馬クラシック競走を全て勝利して得られる金額の2倍以上の大金だった。彼は英国クラシック競走という名を捨てて実を取ったのだった。3歳時はこの1戦のみで終えた。

競走生活(4歳前半)

4歳になった本馬に関しては、既にその競走能力の高さがばれてしまっている事もあり、グレットン氏は積極的にレースに出すように指示。まずは4月のニューマーケットH(T12F)に出走。124ポンドのトップハンデが課せられたが、単勝オッズ3倍の1番人気に支持された。レースは本馬より斤量が8ポンド軽い米国からの挑戦者パロールが積極的に先行。パロールは米国内においては優秀な成績を残していた馬だったが、当時の英国の人から見れば競馬後進国から来た見栄えのしない馬に過ぎず、単勝オッズ7.67倍の4番人気といった程度の評価だった。しかし後に米国競馬の殿堂入りを果たす名馬パロールは最後までしっかりと脚を伸ばして勝利。本馬は追い上げたものの届かずに1馬身半差の2着に敗れた。グレットン氏は即座にパロールの実質的な所有者だったピエール・ロリラードⅣ世に対して、1万ポンドを賭けたマッチレースを申し込んだ。しかしパロールがその後も間髪を入れずにシティ&サバーバンHやグレートメトロポリタンHを勝利したため、グレットン氏はマッチレースの申し出を取り下げた。ところで、パロールの資料にはこのシティ&サバーバンHに本馬も出走して着外に敗れたという記載があるが、本馬の資料にはその旨の記載はない。いずれが正しいのか分からないので、本項では不採用、パロールの項では採用という矛盾状態となっている事を了承いただきたい。

本馬はその後の6月にアスコット競馬場でゴールドヴァーズ(T16F)に出走した。このレースには、本馬より1歳年上の英ダービー・英セントレジャー・アスコットダービー・ジョッキークラブCの勝ち馬でアスコット金杯・英チャンピオンS2着のシルヴィオ、グレートメトロポリタンHでパロールの2着だったグレートヨークシャーS・グレートノーザンHの勝ち馬キャッスルリーが出走していた。シルヴィオが単勝オッズ1.44倍の1番人気で、シルヴィオから7ポンドのハンデを貰っていた本馬は単勝オッズ3.25倍の2番人気だった。しかし結果は本馬がシルヴィオを半馬身差の2着に抑えて勝利した。

その僅か2日後にはアスコット金杯(T20F)に参戦。前年の仏ダービー・アスコットダービーの勝ち馬でデューハーストプレート・英2000ギニー・英ダービー・パリ大賞2着のアンシュレール、前年の英オークス・英セントレジャー・ヨークシャーオークス・英チャンピオンS・パークヒルSを勝っていたジャネット、前年のケンブリッジシャーHで本馬の2着に敗れた後にリンカンシャーHを勝ってきたタチェットといった強豪馬勢が出走してきた。しかし単勝オッズ3倍の1番人気に支持された本馬が、馬群の中団から直線であっさりと抜け出し、ゴール前では馬なりのまま走り、追い上げてきた2着アンシュレールに2馬身差をつけて完勝した。

競走生活(4歳後半)

その後は7月のグッドウッドC(T20F)に向かった。このレースにはパロールが出走しており、実現しなかったマッチレースに代わるリターンマッチとなった。単勝オッズ2.5倍の1番人気に支持された本馬の斤量は129ポンドで、パロールは116ポンドと、斤量差はニューマーケットHよりも広がっていた。スタートが切られると伏兵のザベアーという馬が大逃げを打ち、瞬く間に後続馬達に200ヤードもの差をつけた。斤量105ポンドを活かしたザベアーの逃げは快調で、直線に入っても粘っていたが、追い上げてきた本馬が一気にかわし、2着ザベアーに3馬身差をつけて勝利。3着に終わったパロールにニューマーケットHの借りを返すことにも成功した。

それから8日後にはブライトンC(T16F)に出走。本馬には136ポンドが課せられたが、それでも単勝オッズ1.1倍という圧倒的な1番人気に支持された。レースでは4頭立ての3番手を進み、直線に入ってから抜け出して。後続に3馬身差をつけた。ゴール前では馬なりのまま走ったために後続との差は縮まったが、2着ポールズクレイに3/4馬身差で勝利した。

その後は8月末のエボアH(T16F)に向かった。このレースには、この年の英オークスで名牝ホイールオブフォーチュンの3着、プリンスオブウェールズSでホイールオブフォーチュンの2着だったアドベンチャーが出走していた。本馬の斤量は134ポンドで、アドベンチャーより30ポンド以上も重かった。しかも馬場状態はスタミナを消耗する不良馬場だったが、本馬には関係なく、単勝オッズ2.375倍(単勝オッズ1.73倍とする資料もある。前者は「11-8」で後者は「8-11」だから、どちらかが書き間違いだろう)の1番人気に応えて、2着アドベンチャーに8馬身差をつけて圧勝した。

その後は9月のドンカスターC(T18F)に向かった。有力な対戦相手はアスコット金杯で着外に終わったジャネットくらいしかおらず、本馬が単勝オッズ1.15倍の1番人気に支持された。しかしレースはかなり荒れたものとなった。先行したジャネットに本馬が並びかけようとした時に、ジャネットに騎乗していたフレッド・アーチャー騎手が装着していた拍車(靴のかかとに装着して、馬の腹を刺激する金具)が本馬の肩を抉り、本馬は負傷してしまったのである。それにも関わらず、血を流しながら走り続けた本馬は、ジャネットとの競り合いを頭差で制して勝利した。アーチャー騎手はレース後に「私は足首の力が弱かったので、上手く拍車を制御できなかったのです」と弁解したが、これはアーチャー騎手の故意によるラフプレイだったとする見解が有力であるらしい(近代競馬のルールなら故意にしろ過失にしろ、それでジャネットが先着しても降着か失格になるはずだが)。このレースを観戦していた第6代ポートランド公爵ウィリアム・キャベンディッシュ・ベンティンク卿は本馬を「過去に見た中でも最も優秀で最も勇敢な馬の1頭である」と賞賛した。

アスコット金杯・グッドウッドC・ドンカスターCの3競走を同一年に全て制覇したのは本馬が史上初であり、初代英国長距離三冠馬の名誉を獲得した。次に英国長距離三冠馬が誕生するのは、1949年のアリシドンまで70年間を要する事になった。ちなみにこのドンカスターCには当時ハンガリーで無敗を誇っていたあのキンチェムが参戦する予定があったが怪我のため回避したという話が、同年11月24日付のオークランドスター紙の記事に載っている。キンチェムは確かに前年に英国に遠征してきてグッドウッドCを勝っていたが、この年は遠征云々の話は無く、しかもドンカスターCと同月のバーデン大賞に出走して勝利しているから、多分この話はデマだろう。

一方の本馬は、10月のシザレウィッチH(T18F)に出走した。もっとも、このレースに本馬が出走したのは勝つためではなく、同競走に出走していた同じグレットン氏の所有馬ウエストボーンを勝たせるためだった。本馬が厳しい斤量を課せられる代わりに、ウエストボーンが軽量となる事を期待したのだという。しかし勝ったのはウエストボーンではなく、ハードウィックS・アスコットダービーの勝ち馬チッペンデール。ウエストボーンは2着に敗れ、グレットン氏の計画は失敗した。そして136ポンドのトップハンデを課せられていた本馬は、グレートヨークシャーHを30馬身差で勝っていた牝馬ドレスデンチャイナにも後れを取って4着に敗れ、生涯唯一の着外を喫した。パロールには先着しており、対戦成績を2勝1敗としたのが唯一の慰めだった。4歳時の成績は8戦6勝だった。

競走生活(5歳時)

5歳時も現役を続行し、5月のマンチェスターC(T14F)に出走した。本馬には138ポンドという過酷な斤量が課せられ、前月の英2000ギニーで勝ち馬ペトロネルから3/4馬身差の3着だったジアボット(斤量93ポンド)とは実に45ポンドもの差があった(何故か資料によって斤量差が異なり、42ポンドだったり、46ポンドだったりするが、いずれにしてもかなりの差である)。さすがにこれでは厳しいと思われたのか、本馬は単勝オッズ17.67倍の人気薄だったが、ジアボットを首差の2着に破って勝利。英国テムズスター紙は「記録に残る限りでは競馬史上最も素晴らしいパフォーマンスの1つ」と賞賛した。グレットン氏はこのレースで本馬に賭けており、2万5千ポンドの利益を得たという。

その後は連覇を目指してアスコット金杯(T20F)に直行した。前年の仏2000ギニー・仏ダービー・ロワイヤルオーク賞を制した仏国三冠馬ジュット、前年のシザレウィッチHで本馬を破った馬でこの年のグレートメトロポリタンHも勝っていたチッペンデールなどが出走してきたが、今回は本馬が単勝オッズ1.44倍の1番人気に支持された。レースではチッペンデールが直線で先頭に立って逃げ込みを図るところを、本馬が鮮やかに差し切り、1馬身差をつけて勝利(ジュットはさらに2馬身差の3着だった)。これが現役最後のレースとなり、5歳時2戦2勝の成績で競走馬を引退した。

競走馬としての評価

本馬は現役当時から英国競馬史上における最も偉大な馬の1頭として賞賛されていた。英国イラストレーティッドマガジン紙は「間違いなく世紀の競走馬」「19世紀後半においては疑いなく最良の馬」と評した。ザ・スポーツマン紙は「英国産馬としては史上最高の馬」と評した。本馬が競走馬を引退した6年後の1886年6月に英スポーティングタイムズ誌が競馬関係者100人に対してアンケートを行うことにより作成した19世紀の名馬ランキングにおいては62票を獲得して、65票のグラディアトゥール、63票のウエストオーストラリアンに次ぐ第3位にランクインした(第4位は53票のセントサイモン)。また、同時に行われた「自分の目で見た最も偉大な競走馬」の投票では10票を獲得して、11票のグラディアトゥールに次ぐ第2位だった。かつてドンカスターCで負傷しながらも勝った本馬を賞賛したベンティンク卿は後にセントサイモンの所有者となるのだが、彼は「セントサイモンの横に並ぶほど偉大な馬がいるとすれば、それはアイソノミーをおいて他にはいない」と変わらず高い評価を続けていた。また、アーサー・コナン・ドイル卿は、名探偵シャーロック・ホームズが活躍する1892年発表の短編小説「シルヴァーブレイズ(邦題:白銀号事件)」に登場するシルヴァーブレイズ号を本馬の直系子孫であると設定しており、シルヴァーブレイズ号は偉大な祖先の名に恥じない立派な記録を持つ馬であるとしている。ドイル卿本人はあまり競馬に詳しくなかったようで、この小説(筆者も読んだ)にもやや突っ込みどころがあるのだが、そんなドイル卿が自分の作品に名前を登場させるくらいだから、競馬にあまり詳しくない人の間でも本馬の名声は大きかったという事ではある。

血統

Sterling Oxford Birdcatcher Sir Hercules Whalebone
Peri
Guiccioli Bob Booty
Flight
Honey Dear Plenipotentiary Emilius
Harriet
My Dear Bay Middleton
Miss Letty
Whisper Flatcatcher Touchstone Camel
Banter
Decoy Filho da Puta
Finesse
Silence Melbourne Humphrey Clinker
Cervantes Mare
Secret Hornsea
Solace
Isola Bella Stockwell The Baron Birdcatcher Sir Hercules
Guiccioli
Echidna Economist
Miss Pratt
Pocahontas Glencoe Sultan
Trampoline
Marpessa Muley
Clare
Isoline Ethelbert Faugh-a-Ballagh Sir Hercules
Guiccioli
Espoir Liverpool
Esperance
Bassishaw The Prime Warden Cadland
Zarina
Miss Whinney Sir Hercules
Euphrosyne

スターリングは当馬の項を参照。

母アイソラベラの競走馬としての経歴は不明だが、少なくとも活躍馬では無かったようである。本馬の全弟にフェルナンデス【クレイヴンS】がいる。アイソラベラの半弟には、ブラコニエ(父ケイタラー)【リュパン賞・ギシュ賞・ジョッキークラブC】、サンクリストフ(父モルトメール)【パリ大賞・カドラン賞・ギシュ賞】がいる。アイソラベラの母アイソラインはグッドウッドC・マンチェスターCを勝った名牝で、本馬の長距離適性は母系に由来するようである。→牝系:F19号族②

母父ストックウェルは当馬の項を参照。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は、英国スタッフォードシャー州タムワース近郊のボーンヒルパドックで種牡馬入りした。本馬が種牡馬生活を開始した1881年の初頭に本馬を2万5千ポンドで売ってほしいという申し出があったが、グレットン氏はそれを断ったという話が伝わっている。しかし本馬が種牡馬生活を開始した時期は、ハーミットが種牡馬として猛威を振るっていた頃であり、本馬は種牡馬としての人気が上がらなかった。初年度産駒と2年目産駒は合計僅か15頭だった。

1882年の暮れにグレットン氏が死去すると、1883年1月に本馬はタタソールズ社が実施したセリにかけられた。そして英国の有力馬主ウィリアム・スターリング・クローファード氏の代理人だったアレック・テイラー調教師と、仏国政府が競り合った結果、テイラー師により9千ギニー(1万ポンドとする資料もある)で落札され、クローファード氏の妻であるモントローズ侯爵夫人ことキャロライン・アグネス・ベレスフォード女史(後に名牝カンタベリーピルグリムの生産者となる)が所有するセフトンスタッドに移動した。

モントローズ侯爵夫人は、ブランクニーホールスタッドでハーミットやガロピンの世話をしていた冒頭のグリフィス氏をスカウトし、本馬の世話に当たらせた。グリフィス氏は、本馬の産駒成績が振るわないのは競走馬引退後に余分な脂肪が付き過ぎたからではないかと考え、本馬の減量に尽力した。それが功を奏したのかどうかは良く分からないが、実際にその後の種牡馬成績は上昇に転じ、1891年にはコモンが、1893年にはアイシングラスが英国三冠馬となった。しかし本馬はコモンが英2000ギニーを勝った同月の1891年4月に、拡張型心筋症のため16歳で他界した。遺体はセフトンスタッドに埋葬されたが、頭部だけは剥製にされてモントローズ侯爵夫人からグリフィス氏に贈られたという。もっとも、グリフィス氏はこんな贈り物をされるのは嫌だったようで、後にモントローズ侯爵夫人が死去するとすぐに他者に譲ってしまったという。

本馬は英国三冠馬を2頭出したが、ちょうどこの時期にセントサイモンが種牡馬として猛威を振るい始めていたため、本馬は英首位種牡馬になる事は無かった(2位が3回)。後継種牡馬としてはアイシングラスの他に、ガリニュールが活躍している。前者はジョンオガウントからスウィンフォードブランドフォードと父系を伸ばした。後者は名牝プリティポリーを出して、セントサイモンの直系が猛威を振るう最中の1904・05年に英愛首位種牡馬を獲得した。現在でもブランドフォードから続く直系が残っている。また、牝駒に繁殖入りして成功した馬が多く、特にサイリーンの母父としても名を残している。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1885

Galaor

サラマンドル賞・ロワイヤルオーク賞・ドーヴィル大賞・ビエナル賞

1885

Seabreeze

英オークス・英セントレジャー・コロネーションS

1886

Antibes

ヨークシャーオークス

1887

Janissary

セントジェームズパレスS

1887

Riviera

英シャンペンS

1888

Common

英2000ギニー・英ダービー・英セントレジャー・セントジェームズパレスS

1890

Isinglass

英2000ギニー・英ダービー・英セントレジャー・ミドルパークS・エクリプスS・アスコット金杯・ニューS・プリンセスオブウェールズS・ジョッキークラブS

1890

Prisoner

ドンカスターC

1890

Ravensbury

ハードウィックS

1891

Contract

プリンスオブウェールズS

1892

Le Var

プリンセスオブウェールズS

1892

Oleander

ディーS

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