ホイールオブフォーチュン

和名:ホイールオブフォーチュン

英名:Wheel of Fortune

1876年生

鹿毛

父:アドベンチャラー

母:クイーンバーサ

母父:キングストン

時には牡馬より重い斤量を背負いながら英1000ギニー・英オークスなどデビュー10連勝を達成するが、陣営の愚行により英セントレジャーには不参戦となった名牝

競走成績:2・3歳時に英で走り通算成績11戦10勝2着1回

誕生からデビュー前まで

クイーンバーサの生産・所有者でもあった、第6代ファルマス子爵エブリン・ボスコーエン卿により、彼が所有する英国メレワースキャッスルスタッドにおいて生産・所有された。母クイーンバーサは英オークス馬で、本馬の半姉には英1000ギニー・英オークスを勝ったスピナウェイがいるという良血馬だった。

成長しても体高は15ハンド程度にしかならなかった小柄な馬だったが、非常に気品がある美しい馬だったと評されている。管理調教師は姉スピナウェイも手掛けたマシュー・ドーソン師、主戦はフレッド・アーチャー騎手が務めた。小柄な割には非常に食欲旺盛な馬で、好物はオレンジ、ナッツ、そしてミートパイだったという肉食系女子(?)だった。

競走生活(2歳時)

2歳7月にグッドウッド競馬場で行われたリッチモンドS(T6F)でデビューした。後のミドルパークプレート・ハードウィックS・ロイヤルハントCの勝ち馬ピーター、ウッドコートSの勝ち馬で後の英2000ギニー2着馬カドガンといった実力馬11頭が対戦相手となったが、スタートしてすぐに先頭に立つと、実に容易な勝利を収めた。8月にはヨーク競馬場でプリンスオブウェールズSに出走して、半馬身差で勝利した。9月にはドンカスター競馬場でウェントワースプロデュースSに出たが、対戦相手が現れなかったために単走で勝利した。10月にはニューマーケット競馬場でバッケンハムSに出走して勝利。立て続けに出たトリエニアルプロデュースSも勝利した。

そして迎えたデューハーストプレート(T7F)では、他の牡馬勢よりも4ポンド、牝馬勢よりも7ポンド重い125ポンドのトップハンデを課せられながらも、単勝オッズ1.5倍の1番人気に支持された。レースでは後続に大きな差をつけるような無駄な労力を費やすことは無く、2着フラヴィウスに1馬身差をつけて、“clever”な勝利を収めた。2歳時の成績は6戦全勝だった。

競走生活(3歳前半)

2歳戦の時点で既に同世代馬の中では牡馬を含めても最良の馬という評判を得ていた本馬だったが、3歳になるとその強さに磨きがかかった。3歳初戦となった英1000ギニーまで公式戦に出ることは無かったが、非公式のトライアル競走において、一昨年の英ダービー馬シルヴィオや前年の英1000ギニー・英セントレジャー馬ジャネットを破って勝利した。また、別の試走においては、英シャンペンSを勝っていた同世代同厩の牡馬カリベルトに10ポンドのハンデを与えながら勝利した。カリベルトはこの年の英2000ギニーを勝ち、翌年以降にジュライCを2連覇する快速馬だったが、本馬には歯が立たなかった。

そのカリベルトが勝った英2000ギニーの2日後に出走した英1000ギニー(T8F17Y)では、単勝オッズ1.62倍という圧倒的な1番人気に支持された。このレースではやや抑え気味に序盤を入り、中盤になってから加速を開始。残り1ハロン地点で先頭に立つとそのまま後続との差を広げ、ゴール前ではアーチャー騎手が減速させる余裕を見せて、2着アベイに4馬身差、3着リコンシリエーションにはさらに6馬身差をつけて勝利した。

次走の英オークス(T12F29Y)では、前走よりさらに支持を集め、単勝オッズ1.33倍の1番人気となった。スタートが切られるとコロマンデルという馬が先頭に立ち、本馬は8頭立ての3~4番手を進んだ。そのままの態勢で直線に入ると、残り2ハロン地点でコロマンデルを抜き去って先頭に立った。あとは全く何の危なげも無い走りで、2着に粘ったコロマンデルに3馬身差、3着アドベンチャーにはさらに4馬身差をつけて勝利した。

競走生活(3歳後半)

次走ば翌6月にアスコット競馬場で行われたプリンスオブウェールズS(T12F)となった。牡馬相手の競走だったが、本馬の斤量は同世代の牡馬より重かった。それでも本馬が単勝オッズ1.67倍の1番人気に支持された。ここでは馬群の中団を進み、直線に入ると一瞬にして先頭に躍り出た。そして英オークスで3着だったアドベンチャーを1馬身半差の2着に、セントジェームズパレスSを勝ってきた英2000ギニー3着馬レヨンドールを3着に破って勝利した。この段階で秋の英セントレジャーの前売りオッズは2.5倍となり、レースに出走するかどうかも確定されていないこの時期としては異例の支持を集めた。

次走は8月のヨークシャーオークス(T12F)となった。ここでは単勝オッズ1.33倍の1番人気に支持されると、英1000ギニー3着後のナッソーSを勝っていたリコンシリエーションを1馬身差の2着に抑えて勝利した。しかしこのレースの前後に本馬の脚に腫れが出ていたという。それにも関わらず、陣営は本馬を僅か2日後のグレートヨークシャーS(T14F)に出走させるという愚行を犯した。ドーソン師は本馬を手掛ける前に既に英国クラシック競走を全て勝利していた当時を代表する名伯楽だったのだが、なぜこのような事をしたのかは資料に記載がなく不明である。レースでは単勝オッズ15.29倍の伏兵だったジュライSの勝ち馬ルペッラが逃げを打ち、本馬はそれを追って先行した。他の出走馬達はこの2頭から大きく離され、レースはこの2頭のマッチレースの様相を呈した。アーチャー騎手は本馬をルペッラの隣につけると叩き合いに持ち込んだ。しかし本馬にはいつものような加速力が見られず、ルペッラを抜き去る事が出来なかった。結局はルペッラが逃げ切って勝利を収め、1馬身差の2着に敗れた本馬の無敗記録は10でストップした。

レース後に本馬は跛行を発症。いったんは改善の兆しが見えたために調教が再開されたが、すぐに脚の腫れが再発してしまった。結局、英セントレジャーには出ることなく、3歳時5戦4勝の成績で競走馬を引退する事になってしまった。本馬不在の英セントレジャーは、本馬が3歳時に勝ったプリンスオブウェールズSで3着後にサセックスSを勝っていたレヨンドールが、本馬の代わりに単勝オッズ4倍の1番人気に押し出された。そして本馬に唯一の黒星をつけたルペッラを5馬身差の2着に破って勝利を収めたレヨンドールは、仏国調教馬でありながら英国の歴史的名馬という評価を得る事になるのだが、果たしてこの英セントレジャーに本馬が出ていたらどのような結果になっていたであろうか。

本馬の競走馬引退から7年後の1886年6月に英スポーティングタイムズ誌が競馬関係者100人に対してアンケートを行うことにより作成した19世紀の名馬ランキングにおいては、本馬は牡馬勢に混じって第26位にランクインした。牝馬に限定すると、ヴィラーゴプレザントゥリクルシフィックスブリンクボニーに次ぐ第5位であり、フォーモサハンナアポロジーといった本馬が果たせなかった英国牝馬三冠を達成した馬より上位にランクインした。アーチャー騎手は本馬を、自身が騎乗した最高の牝馬であると賞賛している。後世においても、本馬は紛れもなく19世紀英国競馬における十指に入る名牝であると評価されている。

血統

Adventurer Newminster Touchstone Camel Whalebone
Selim Mare
Banter Master Henry
Boadicea
Beeswing Doctor Syntax Paynator
Beningbrough Mare
Ardrossan Mare Ardrossan
Lady Eliza 
Palma Emilius Orville Beningbrough
Evelina
Emily Stamford
Whiskey Mare
Francesca Partisan Walton
Parasol
Orville Mare Orville
Buzzard Mare
Queen Bertha Kingston Venison Partisan Walton
Parasol
Fawn Smolensko
Jerboa
Queen Anne Slane Royal Oak
Orville Mare
Garcia Octavian
Shuttle Mare
Flax Surplice Touchstone Camel
Banter
Crucifix Priam
Octaviana
Odessa Sultan Selim
Bacchante
Sister to Cobweb Phantom
Filagree

父アドベンチャラーはアポロジーの項を参照。

クイーンバーサと母父キングストンはクイーンバーサの項を参照。→牝系:F1号族①

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬はボスコーエン卿の所有のもとで繁殖入りした。しかし1884年に競馬に対する興味を喪失したボスコーエン卿は、所有していた全ての馬を売却した。本馬は第6代ポートランド公爵ウィリアム・キャベンディッシュ・ベンティンク卿(ちょうどこの年に3歳になっていたセントサイモンの所有者である)により5500ギニーで購入され、ベンティンク卿が所有するウェルベックアベースタッドに移り住んだ。

繁殖牝馬としての期待は大きく、ガロピンスプリングフィールド、セントサイモン、エアシャードノヴァンカーバインといった大物種牡馬達が交配相手に指名された。しかし本馬は繁殖牝馬としては競走馬時代ほどの成功を収めることは出来なかった。6歳時に産んだ初子の牡駒オベロン(父ガロピン)がリンカンシャーHを勝ったのが目立つ程度である。1903年11月に27歳で他界して、ウェルベックアベースタッドに埋葬された。

本馬の半姉ガートルード、ブランシェフルール、スピナウェイはいずれも繁殖牝馬として成功したり、その牝系子孫を発展させたりして、母クイーンバーサの繁殖牝馬としての名声を高める要因となった。本馬自身は繁殖牝馬として不成功だったが、姉たちと同様に後世に牝系を伸ばすことには成功しており、母クイーンバーサが根幹繁殖牝馬と呼ばれる理由の一端を担っている。本馬の牝系を伸ばしたのは17歳時に産んだ7番子の牝駒ドンナフォーチュナ(父ドノヴァン)で、プリテンダー【オブザーヴァー金杯・デューハーストS】、ツァウベラー【独ダービー(独GⅠ)】、ナヴァリノ【独ダービー(独GⅠ)】、ランフランコ【ウィリアムヒルフューチュリティS(英GⅠ)】、ニックネーム【アランデュブレイユ賞(仏GⅠ)・ルノーデュヴィヴィエ賞(仏GⅠ)・パディパワーダイアルAベットチェイス(愛GⅠ)】などがその子孫から出ている。活躍馬の数は少なく、たいして発展はしていないが、確かに21世紀まで本馬の牝系は伸びている。

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