ヴィラーゴ

和名:ヴィラーゴ

英名:Virago

1851年生

栗毛

父:ピュロスザファースト

母:ヴァージニア

母父:ロートン

19世紀末に実施された同世紀における英国の名馬ランキングにおいて牝馬としては最上位となった、19世紀英国最強牝馬の有力候補

競走成績:2~4歳時に英で走り通算成績16戦11勝3着1回

日本では知られていない19世紀英国最強牝馬候補

本馬の名前を既に知っている日本の競馬ファンがいたら、その人は相当なマニアだろう。筆者も別の馬の資料を探していた際に、たまたま本馬に関して触れている資料を見かけるまでは不覚にも聞いたことすらもなかった。しかしながら本馬は「19世紀英国競馬における最高の牝馬」として賞賛されているほどの馬である。

本馬が競走馬を引退してから30年以上が経過した1886年6月に、19世紀における英国の名馬ランキングを作成しようと考えた英スポーティングタイムズ誌は、競馬関係者100人に対してアンケートを行った。この中で牡馬も含めた全体の第7位、牝馬では第1位の評価を獲得したのが、誰あろう本馬なのである(本馬より上位の6頭は順に、グラディアトゥールウエストオーストラリアンアイソノミーセントサイモンブレアアソールザフライングダッチマン。当時現役ばりばりだった5歳馬セントガティエンが本馬と並ぶ7位タイで、当時英ダービーを勝つ直前の3歳馬オーモンドが9位だった)。

同時に行われた「自分の目で見た最も偉大な競走馬」の投票では、グラディアトゥール、アイソノミー、ウエストオーストラリアン、セントサイモンに次ぐ第5位だった。ウエストオーストラリアンは本馬より1歳年上であるが、グラディアトゥールは本馬より11歳年下、アイソノミーは本馬より24歳年下、セントサイモンはこのアンケートの前年に競走馬を引退したばかりであり、実際に本馬の走りを自分の目で見た人間の数はウエストオーストラリアンを除く3頭より少なかったであろう事を考慮すると、いかに本馬の走りが衝撃的なものだったのかが分かるだろう。このアンケートはラフレッチェが誕生する3年前に実施されているため、この結果をもって本馬が19世紀英国競馬における最高の牝馬と断定できるわけではないが、それでもその最有力候補の1頭である事には間違いがない。

誕生からデビュー前まで

英国ダーラム州にある町ハートルプール近郊にあるハートスタッドにおいて、ロバート・スティーブンソン氏により生産された。1歳時のドンカスターセールに出品され、ヘンリー・パドウィック氏とジョン・スコット調教師が競り合った末に、パドウィック氏により購入された。購入金額は資料によって異なり、300ポンド、350ポンド、460ポンド説がある。パドウィック氏の馬主名義“Mr. Howard(ミスター・ハワード)”の所有馬として、英国ジョン・バーラム・デイ調教師に預けられた。デイ師はかつて英2000ギニー・英1000ギニー・英オークスを制した12戦無敗のクルシフィックス(前述のアンケートでは第20位)を手掛けた人物だが、デイ師は自分の厩舎に来た本馬を「世界で最高の1歳馬」として非常に高く評価したという。

実際に本馬は成長すると当時としてはかなり大柄な体高16ハンド近くに達した雄大な馬格の馬だった。あまり毛艶が良い馬では無かったようだが、「優れた頭部、すらりと伸びた首、立派な肩、奥行きがある胴回り、優れた胸部と背部、非常に幅が広い腰部、長くて力強い脚」を有すると評された。

競走生活(3歳初期まで)

2歳10月にデイ師が本馬を試走に出してみると、非常に印象的な走りを披露した。そのために感銘を受けたデイ師は、パドウィック氏に対して本馬を3千ポンドで売ってほしいと申し出たが、あっさりと拒否された。

公式戦初出走は11月にシュルーズベリー競馬場で行われたアストリーハウスセリングSだった。このレースでは他馬がスタートして50ヤードも進んだ時点でようやくスタートを切り、その結果としてミドルズボローの着外に敗れ去った。しかしこれは、後に本馬に課せられる斤量を軽くしようと目論んだデイ師が、本馬に騎乗した厩舎の専属騎手ジョン・ウェルズ騎手に対して、わざと出遅れるように指示していたものだった。要するに敗戦行為であり、今日の基準に照らせばデイ師は処罰されて然るべき行動だった。デイ師は「正直者のジョン」という綽名を貰っていた人物だったが、どうもこれは本当に彼が正直者だったからではなく、皮肉の意味を込めてつけられたものであり、実際の彼はかなり腹黒い人物だったようである。

3歳初戦も公式戦ではなく、アスコットSを勝っていた5歳牡馬リトルハリーとの距離20ハロンの試走だった。この時期の3歳牝馬と5歳牡馬であれば39ポンドの斤量差が設定されるのが標準だったが、この試走における本馬とリトルハリーの斤量差は10ポンドに過ぎなかった。それでも結果は本馬が楽勝した。

その後は4月にエプソム競馬場で行われた古馬混合競走シティ&サバーバンH(T10F)に出走した。デイ師の目論みどおりに本馬の斤量は88ポンドという軽量に設定された。それもあって単勝オッズ2.5倍(2.75倍とする資料もある)の1番人気に支持された本馬は、全くの馬なりのまま走り、2着マークアンソニーに3馬身差をつけて勝利した。ちなみにマークアンソニーは3歳牡馬だったが、その斤量は71ポンド(約32kg)だったという。いったいどんな騎手が騎乗したのであろうか。

本馬の次走は同じエプソム競馬場で行われる古馬混合競走グレートメトロポリタンH(T18F)となった。シティ&サバーバンHとグレートメトロポリタンHの出走間隔はと言うと、ほんの数時間だった。この2競走は同じ日の午後に行われるレースだったのである。本馬の斤量は前走より軽い84ポンドだったが、さすがに1回走った直後だけに単勝オッズは4.33倍と少し上がっていた。しかしレースでは斤量105ポンドの5歳牡馬モスコヴァイト(後にこの年のシザレウィッチHを勝利)を軽くあしらい、無駄な労力を費やさずに1馬身差で勝利した。

次走は5月にヨーク競馬場で行われたグレートノーザンH(T16F)となった。このレースにおける斤量は90ポンドだった。そして単勝オッズ1.67倍の1番人気に応えて、2着となった6歳牡馬ロフボーン(斤量100ポンド)に1馬身差で勝利した。その翌日にはザフライングダッチマンH(T12F)に出走した。ここでも斤量は88ポンドとそれほど厳しくなく、単勝オッズ1.25倍の1番人気に応えて、斤量100ポンドの3歳牡馬アイヴァン(後に英セントレジャーでナイトオブセントジョージの2着している)を1馬身差の2着に破って勝利を収めた。

競走生活(3歳中期)

それから数週間後には英1000ギニー(T7F178Y)に出走。本馬が出走してくると耳にした他馬陣営の大半は逃げ出してしまい、対戦相手はメテオラとハニーサックルの2頭のみとなった。ウェルズ騎手が騎乗する本馬は単勝オッズ1.33倍の1番人気に支持されると、2着メテオラに首差で勝利を収めた。

英ダービー・英オークスには出走せず、その後は7月のグッドウッドC(T19F)に向かった。斤量は過去に出走したハンデ競走より増えて101ポンドとなっていたが、単勝オッズ1.17倍という圧倒的な1番人気に支持された。そして2着となった5歳牡馬インディアンウォリアーに15馬身差をつけて大圧勝した。

引き続きナッソーS(T8F)に出走した。ここでは斤量が125ポンドまで増え、他の3歳牝馬より6ポンド重くなった。英オークスで3着最下位だったハニーサックルなど対戦相手は存在していたのだが、本馬のあまりの強さのため賭けが成立しなかったためか、馬券は発売されなかった。レースではやはり本馬が2着ハニーサックルに1馬身半差をつけて難なく勝利を収めた。

その後は8月のヨークシャーオークス(T12F)に向かった。斤量は122ポンドで、他の3歳牝馬より4ポンド重かった。しかしこの程度のハンデ差では本馬と他馬の実力差を埋めることは不可能であり、全くの馬なりのまま、2着アデレードに2馬身差をつけて勝利した。今回も馬券は発売されなかったようである。

しかし引き続き同じヨーク競馬場で出走したカウンティプレート(T6F)では、単勝オッズ1.5倍の1番人気に応えられずに、着外に敗れてしまった。勝ったのは26ポンドのハンデを与えた2歳牝馬エラーミレー(翌年のドンカスターCでラタプランの2着している)だった。デイ師は、12ハロンのレースを走った直後に6ハロンのレースに出すのは良くないとパドウィック氏に進言したらしいが、パドウィック氏がそれを無視したためにこういう結果を招いたのだという。

競走生活(3歳後期以降)

英セントレジャーにも出走せず(英オークスや英ダービーもそうだが、登録が無かったらしい)、同月にウォーウィック競馬場で行われたウォーウィックC(T24F)に向かった。このレースには、グッドウッドC・エプソムCなどの勝ち馬でこの年のアスコット金杯で前年の英国三冠馬ウエストオーストラリアンの頭差2着に入っていたキングストン、本馬が不在の英オークスで英1000ギニー2着馬メテオラを2着に破って勝っていたミンスミートといった実力馬が出走していた。しかしいずれも本馬の敵ではなく、単勝オッズ1.2倍の1番人気に支持された本馬が、2着キングストンに6馬身差をつけて圧勝した。

次走のドンカスターC(T18F)では、キングストンが唯一の対戦相手となり、本馬が単勝オッズ1.07倍の1番人気に支持された。レースは大方の予想どおり、馬なりのまま走った本馬がキングストンに2馬身半差をつけて完勝した。3歳時の成績は11戦10勝だった。英オークスや英セントレジャーには出走しなかったが、出ていれば負ける確率は殆ど無に等しかっただろうと当時から言われている。

4歳時も現役を続けたが、3歳暮れに喘鳴症を発症したために、前年のような強さを発揮することは出来なかった。シーズン初戦はニューマーケット春季開催のポートS(T16F)となり、ここでは勝利を収めた。しかしロイヤルハントC(T8F)では、3歳牝馬チャリスの着外に敗退。アスコット金杯(T20F)では、3歳牡馬ファンダンゴの3着に敗れた。グッドウッド競馬場で出たクレイヴンSで着外に敗れたのを最後に、4歳時4戦1勝の成績で競走馬を引退した。

血統

Pyrrhus the First Epirus Langar Selim Buzzard
Alexander Mare
Walton Mare Walton
Young Giantess
Olympia Sir Oliver Sir Peter Teazle
Fanny
Scotilla Anvil
Scota
Fortress Defence Whalebone Waxy
Penelope
Defiance Rubens
Little Folly
Jewess  Moses Seymour
Gohanna Mare
Calendulae Camerton
Snowdrop
Virginia Rowton Oiseau Camillus Hambletonian
Faith
Ruler Mare Ruler
Treecreeper
Katherina Woful Waxy
Penelope
Landscape Rubens
Housemaid
Pucelle Muley Orville Beningbrough
Evelina
Eleanor Whiskey
Young Giantess
Medora Selim Buzzard
Alexander Mare
Sir Harry Mare Sir Harry
Volunteer Mare

父ピュロスザファーストは1846年の英ダービー馬で、現役成績は12戦10勝2着2回。脚部不安のため2歳戦は棒に振ったが、ニューマーケットSを勝って臨んだ英ダービーで、英2000ギニー馬で後の英セントレジャー馬サータットンサイクスを2着に破って勝利した。その後は大競走に出ることは無かったが、着実に勝ち星を積み重ね、6歳まで走って引退した。種牡馬としては本馬以外に活躍馬をあまり出せず、1859年に仏国に輸出された。ピュロスザファーストの血統を遡ると、スチュワーズCの勝ち馬で1850年の英首位種牡馬にもなったエピラス、ランガー、セリム、バザード、ウッドペッカー、ヘロドへと続く。

母ヴァージニアは5戦して4勝しているそうである。本馬以外に活躍馬を産んではいないが、本馬の半姉サクリファイス(父ヴォルテアー)の牝系子孫が絶大な繁栄を見せている。特にサクリファイスがタッチストンとの間に産んだアルケスティスの牝系子孫は、アルケスティスの孫である英1000ギニー・英オークス馬テバイスと英1000ギニー馬セントマルゲリートの全姉妹を経由して素晴らしい繁栄を見せている。ここから出た活躍馬はあまりに多すぎてここに書き出すのは嫌なので、その詳細はセントマルゲリートの項を参照してほしい。他にサクリファイスの牝系子孫から出現した大物産駒には、アルケスティスの1歳年上の半姉サッポー(その父は本馬と対戦経験があるキングストン)から9代目に当たる、凱旋門賞2連覇など16戦無敗のリボーが挙げられる。また、本馬の半妹オーバーリーチ(父バードキャッチャー)の牝系子孫もサクリファイスほど繁栄していないが後世に伸びており、ソヴリンパス【ロッキンジS・クイーンエリザベスⅡ世S】、サガロ【パリ大賞(仏GⅠ)・アスコット金杯(英GⅠ)3回・カドラン賞(仏GⅠ)などが出ている。→牝系:F4号族④

母父ロートンは英セントレジャー馬で、遡ると、オワゾー、ドンカスターCの勝ち馬カミルスを経て、ハンブルトニアンへと続く。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は、第2代ストラドブローク伯爵ジョン・エドワード・コーンウォリス・ロウス卿により500ポンドで購入されて繁殖入りした。しかし繁殖牝馬としてはあまり成功できず、現役時代に対戦経験があるキングストンとの間に産んだ牡駒タレストリスがシザレウィッチHを勝った程度であり、姉のサクリファイスや妹のオーバーリーチと異なり牝系子孫も伸ばせなかった。1869年に18歳で他界した。

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