ザフライングダッチマン
和名:ザフライングダッチマン |
英名:The Flying Dutchman |
1846年生 |
牡 |
黒鹿 |
父:ベイミドルトン |
母:バーベル |
母父:サンドベック |
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英ダービー・英セントレジャーなど無敗街道を邁進するもヴォルティジュールに生涯唯一の不覚を取るが後にマッチレースで借りを返した19世紀英国屈指の名馬 |
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競走成績:2~5歳時に英で走り通算成績16戦15勝2着1回 |
ヴォルティジュールとの世紀のマッチレースで知られる、19世紀半ばにおける英国の歴史的名馬であり、種牡馬としても活躍して後世に多大なる影響を与えた。
誕生からデビュー前まで
英国ヨークシャー州カークリーサムにおいて、ヘンリー・カーネル・バンシッタート氏により生産された。バンシッタート氏は東インド会社の総督でベンガル州知事でもあったヘンリー・バンシッタート氏の孫に当たる人物であり、ヨークシャー州知事を務めたこともあった。祖父や早世した父親の遺産を相続して馬産を開始しており、英国ジョッキークラブにも加盟していた。また、彼はヴォルティジュールの直系先祖であるハンブルトニアンやベニングブローの両英セントレジャー馬の所有者だった第2代准男爵チャールズ・ターナー卿のテレサ未亡人の再婚相手でもあった。
本馬は1歳時に、第13代エリントン伯爵アーチボルド・モントゴメリー卿により1000ポンドで購入された。モントゴメリー卿は当時まだ英国の植民地だったアイルランドの総監を務めた事もある人物で、その寛大さ、公平さ、気前の良さから3王国一の人気者とまで言われた人物である。英国ジョッキークラブの会員でもあり、1842年の英セントレジャー馬ブルーボンネットなどを所有していた。やはりモントゴメリー卿の所有馬だった本馬の2歳年上の半兄ヴァントロンプが、英セントレジャーを勝ち、英ダービーで2着する活躍を見せたため、モントゴメリー卿は、ヴァントロンプの下に産まれた子を全て1000ポンドずつで購入する契約をかわしていたという。
本馬は成長しても体高は15.3ハンドだったというから、あまり背が高い馬ではなかったようだが、背中と肩は強靭であり、胴回りは深く、骨格は頑丈だった。脚は短かった(特に膝上が短かったようで、これは本馬の血を引く馬にしばしば遺伝した特徴らしい)が、抜群の脚力により父譲りの大きなストライドで走る事が出来た。噛み付き癖があったために口輪を掛けられていた兄ヴァントロンプと異なり、物静かな気性の持ち主だった。鼻は高く、耳は大きく、知的ながら炎のように意志が強そうな目をしていたという。これらの特徴から、「素晴らしい競走馬の見本」と呼ばれたほどだった。管理調教師はモントゴメリー卿の専属調教師だったジョン・フォバート師が務めた。主戦はヴァントロンプの英ダービー2着時に八百長の嫌疑を掛けられたジョブ・マーソン騎手に代わってモントゴメリー卿の専属騎手になっていたチャールズ・マーロウ騎手で、本馬の全競走に騎乗した。調教で本馬に初めて跨ったマーロウ騎手は大いに喜んで、前を走るヴァントロンプを追いかけるように延々と走らせたという。フォバート師に叱られたマーロウ騎手は「こんなすごい馬にはいまだかつて乗ったことがありません」と語った。
競走生活(2歳時)
本馬は調教では自由気儘に走り、しかも大跳びで走るために2歳戦向きではないと言われていたが、実際には2歳時から抜群の能力を発揮した。2歳7月にニューマーケット競馬場で行われたジュライS(T5F140Y)でデビューして、2着キニーネに1馬身差で勝利した。翌日に出走した同コースの400ポンドスウィープSも、馬なりのまま1馬身差で勝利した。さらにリヴァプール競馬場に移動して出走した1400ポンドスウィープSも馬なりのまま2着エスカレード(独国の歴史的名馬ティチノ、日本で種牡馬として成功したブレイヴェストローマン、GⅠ競走8勝の名牝ヘヴンリープライズ、ケンタッキーダービー・プリークネスSを勝った本邦輸入種牡馬ウォーエンブレムなどの牝系先祖)に1馬身半差で勝利した。
9月にはドンカスター競馬場で英シャンペンS(T6F)に出走すると、2着となった後の第1回ヨークシャーオークスの勝ち馬エレンミドルトン(種牡馬としても成功した英ダービー・英セントレジャー馬パーシモン、英国三冠馬ダイヤモンドジュビリー、米国顕彰馬クーガー、米国顕彰馬スーザンズガール、日本で種牡馬として成功したスティールハート、仏ダービー馬ベーリング、2歳にしてカルティエ賞年度代表馬に選ばれたアラジ、GⅠ競走11勝の名牝セレナズソング、それに日本で八大競走やGⅠ競走を勝ったコレヒデ、ヒシアマゾン、アドマイヤムーン、スリープレスナイト、ダンスパートナー、ダンスインザダーク、ダンスインザムード、イーグルカフェ、スズカマンボ達の牝系先祖)との着差は1馬身差ながら「非常に容易に」勝利を収めた。さらに560ポンドスウィープSも、後のケンブリッジシャーHの勝ち馬ラビーなどを相手に4馬身差で勝利して、2歳時の成績を5戦全勝とした。
競走生活(3歳時)
3歳時は、約8か月ぶりの実戦となった英ダービー(T12F)から始動した。3歳時には英ダービーまで1戦もしていなかったため、本調子ではないのではと噂されていたが、それでも英2000ギニー馬ナニーカーク(ニューミンスターの全兄)、シティ&サバーバンHの勝ち馬エルシロンなどを含む出走26頭中、タドモル(大種牡馬ハーミットの母父)と並んで単勝オッズ3倍の1番人気に支持された。レースは3日間降り続いていた雨の影響により不良馬場で行われた。本馬はスタートから半マイルほど走ったところで先頭に立ち、そのまま直線に突入して押し切りを図った。しかしそこに人気薄のホットスパーという馬が得意の不良馬場を利して追い上げてくると、本馬に並びかけてきた(大跳びで走る本馬は、あまり重馬場は得意でなかったようである)。しかしマーロウ騎手が本馬の競走馬生活において最初で最後となる鞭を2~3発使うと、再度リードを奪い、最後は2着ホットスパーに半馬身差で勝利した(タドモルはさらに半馬身差の3着だった)。このレースでモントゴメリー卿は陸軍や海軍仲間との賭けに勝ち、3万ポンドもの利益を得たと伝えられている。また、フォバート師は厩舎があるミドルハムで100組の貧しい家族を招いて祝賀会を開き、そこに来場した本馬のファンであるオランダ国王ウィリアムⅢ世から、蹄鉄の形をした豪華なネクタイピンを贈られたという。
7月にはリヴァプール競馬場でプロデュースS・ビッカースタッフSと2戦したが、いずれも対戦相手が現れなかったため、単走で勝利した。秋の英セントレジャー(T14F132Y)では、ナニーカーク、ニューマーケットSの勝ち馬バチカン、同じベイミドルトン産駒であるハニカムなどが対戦相手となったが、本馬が単勝オッズ1.44倍の1番人気に支持された。この日は天気が悪かったが、ドンカスター競馬場まで鉄道が開通した後に初めて行われた英セントレジャーという事で、多くの群衆が詰め掛けていた。レースで本馬は先行策を採り、バチカンに次ぐ2番手で直線を向くと、残り1ハロン地点で先頭に立ち、追い上げてきた2着ナニーカークと3着バチカンに2馬身差をつけて優勝した。次走のフォールSでは対戦相手がいなかったために単走で勝利。続いて英セントレジャー4着馬ハニカムとのマッチレースが予定されていたが、ハニカム陣営が500ポンドの罰金を払って回避したために、本馬が単走で勝利した(これを本馬の公式成績に含めず、通算成績を15戦とする場合もある)。さらにビルヴォアSも2着バチカンに8馬身差で圧勝し、3歳時の成績は7戦全勝となった。
競走生活(4歳時);ドンカスターCでヴォルティジュールに敗北
4歳初戦の大ロシア皇帝陛下プレート(T20F・後のアスコット金杯)では、英1000ギニー・ナッソーS・パークヒルS・グッドウッドC・ドンカスターCを勝ち英セントレジャーで2着していた1歳年上の名牝カンズーが対戦相手となったが、後方一気の末脚を繰り出した本馬が直線で突き抜けて、2着ジェリコに8馬身差をつけて圧勝した。続くグッドウッドS(T29F)も2着バチカンに10馬身差で圧勝と、向かうところ敵無し状態だった。
そして迎えた2頭立てのドンカスターC(T20F)では、1歳年下のヴォルティジュールとの無敗の英ダービー・英セントレジャー優勝馬同士の対戦となった。ヴォルティジュールはこの2日前の英セントレジャーで本番の1着同着と決勝戦勝利の2戦を走り、前日にはスカーバラSを勝っており、この3日間で実に4戦目という状況だった。そのため、ヴォルティジュールより19ポンドも斤量が重かったにも関わらず本馬に分があるとされており、単勝オッズ1.18倍という断然の1番人気に支持されていた。
しかしそこに大きな落とし穴が待っていた。フォバート師は、過密日程だったヴォルティジュールは回避するのではないかと考えており、あまり本馬を適切に仕上げていなかったという。
そしてそれ以上に油断していたのが本馬鞍上のマーロウ騎手だった。彼は事もあろうに泥酔状態で本馬に騎乗したのである。そして「俺の馬の実力を見せてやるぜ!」と叫びながらスタートから本馬を猛烈なペースで飛ばした。このペースの速さは尋常ではなく、このレースを見ていたある人物は後年、「50年間も競馬を見続けてきたけれども、この時のザフライングダッチマンのペースを忘れる事はいまだにできない」と語ったほどだった。
道中で大きなリードを取ったため、本馬の単勝オッズがレース途中で1.18倍から1.1倍まで下がったほどだった。しかし明らかな乱ペースにより、さすがの本馬もスタミナ切れを起こして終盤に失速。そこへ本馬の数馬身後方で機会を伺っていたヴォルティジュールが追い上げてきた。そしてゴール寸前で差されて半馬身差の2着に終わり、生涯初の敗戦を喫してしまった。
このレースの敗因は、斤量差、調教の不手際や騎手の油断だけでなく、レース数日前から本馬は食欲不振に陥っており非常に苛立っていた事も挙げられている。また、マーロウ騎手が本馬を暴走させた理由は、レース直前にモントゴメリー卿から「ザフライングダッチマンが競走馬の模範である事を証明するのは今この時です」と言われていたのを拡大解釈したためともされている。
このドンカスターCの前にモントゴメリー卿は、ヘンリー・スタフォード・トンプソン氏によって新規設立された馬産団体ロークリフスタッド社に本馬を売却又は賃貸する事に同意しており、本馬はこのドンカスターCを最後に競走馬生活から退くはずだった。しかし敗戦してしまったため、モントゴメリー卿は汚名を払拭するために、ヴォルティジュールの馬主である第2代ゼトランド伯爵トマス・ダンダス卿に対して即座に2頭の再戦を申し込んだ。一説によると、この敗戦で種牡馬としての評価が落ちることを懸念したトンプソン氏がモントゴメリー卿を説き伏せて、再戦を申し込んでもらったともいう。英国ジョッキークラブの古参メンバーでもあったダンダス卿はこの申し出を承諾し、翌春にヨーク競馬場において、2頭による再戦として、2000ギニーマッチレースが行われることが決定した。
ヴォルティジュールとのマッチレース
そして迎えた翌1851年5月13日、もはや伝説となった“The Flyer”と“Volti”による世紀のマッチレースが行われた。このレースはヨーク競馬場の2マイルで行われ、公式ハンデキャッパー担当で馬齢重量戦を考案した事で知られる英国ジョッキークラブ事務長ヘンリー・ジョン・ロウズ氏により、斤量は本馬が120.5ポンド、ヴォルティジュールは112ポンドと定められ、オッズは互角であった。このレースは通常競馬に興味を持たない人々の間でも話題となり、友人を殺した罪で14年間の逃亡生活の末に捕まって死刑判決を受けた言語学者ユージーン・アラムの処刑実施(1759年)以降では同地域最多となる約10万人という大群衆がヨーク競馬場に集まった。2頭の調教においても、両馬の状態を知ろうとする大群衆が集まった。レース当日の大群衆は2頭の応援団に分割され、凄まじい熱気に包まれた。
レースではヴォルティジュールが先手を取り、その後方をマーロウ騎手鞍上の本馬が追いかける展開となった。直線に入ると2頭が並んで激しい叩き合いになったが、残り1ハロン地点で本馬が徐々に前に出て、最後は1馬身差で勝利して見事に雪辱を果たした。このレースは英国競馬史上に残るマッチレースとして現代でも語り継がれている。本馬はこのレースを最後に競走馬を引退した。
なお、汚名返上を果たしたはずのマーロウ騎手だったが、歴史的名馬に自身の大失態で黒星をつけた件が響いて、以降は騎手としての信用を失い、競馬界から消えていき、1882年に貧困の中でこの世を去ったという。
本馬とヴォルティジュールの対戦成績は1勝1敗の五分ではあるが、背負っていた斤量の差などからすると、本馬の方がヴォルティジュールより実力上位だったのはほぼ間違いないだろう。ヴォルティジュール自身も「英国競馬界において最も優れており、かつ、最も人気があった馬の1頭だった」と評されたほどの馬であり、それを超える本馬の実力は推して知るべしである。1886年6月に英スポーティングタイムズ誌が競馬関係者100人に対してアンケートを行うことにより作成した19世紀の名馬ランキングにおいて本馬は第6位だったが、1850年代以前に走った馬の中では最上位だった。
血統
Bay Middleton | Sultan | Selim | Buzzard | Woodpecker |
Misfortune | ||||
Alexander Mare | Alexander | |||
Highflyer Mare | ||||
Bacchante | Williamson's Ditto | Sir Peter Teazle | ||
Arethusa | ||||
Mercury Mare | Mercury | |||
Herod Mare | ||||
Cobweb | Phantom | Walton | Sir Peter Teazle | |
Arethusa | ||||
Julia | Whiskey | |||
Young Giantess | ||||
Filagree | Soothsayer | Sorcerer | ||
Golden Locks | ||||
Web | Waxy | |||
Penelope | ||||
Barbelle | Sandbeck | Catton | Golumpus | Gohanna |
Catherine | ||||
Lucy Gray | Timothy | |||
Lucy | ||||
Orvillina | Beningbrough | King Fergus | ||
Fenwick's Herod Mare | ||||
Evelina | Highflyer | |||
Termagant | ||||
Darioletta | Amadis | Don Quixote | Eclipse | |
Grecian Princess | ||||
Fanny | Sir Peter Teazle | |||
Diomed Mare | ||||
Selima | Selim | Buzzard | ||
Alexander Mare | ||||
Pot-8-o's Mare | Pot-8-o's | |||
Editha |
父ベイミドルトンは当馬の項を参照。
母バーベルは競走馬としての経歴は短く、3歳時に早々に繁殖入りしている。繁殖牝馬としては非常に優秀で、競走馬だけでなく種牡馬としても成功した本馬の半兄ヴァントロンプ(父レイナーコスト)【英セントレジャー・アスコット金杯・グッドウッドC・英シャンペンS】、半弟ズイダージー(父オーランド)【クレイヴンS】も産んでいる。バーベルは、体高15ハンドで胴長短足の馬だったらしく、本馬の体格は母譲りである可能性が高い。
バーベルの母ダリオレッタの産駒には、バーベルの半兄である英ダービー2着馬ペリオン(父ウィスカー)がいる。ダリオレッタの母セリマの半姉ヴァージンは、まさしく世界的名牝系の始祖となっており古今東西万遍なく活躍馬が出ているが、その詳細はヴェロシペードの項や別ページの牝系図を参照してほしい。
セリマの全妹スライトの牝系子孫はヴァージンほど凄まじい発展はしていないが、それでも、フィフィネラ【英ダービー・英オークス・チェヴァリーパークS】、パスク【英2000ギニー・エクリプスS】、ピンザ【英ダービー・キングジョージⅥ世&クイーンエリザベスS・デューハーストS】、ワラビー【ロワイヤルオーク賞・アスコット金杯】、日本で走ったアサカオー【菊花賞】といった活躍馬が出ている。→牝系:F3号族④
母父サンドベックはドンカスタークラブS・ヨークフィッツウィリアムSの勝ち馬。サンドベックから系統を遡ると、ドンカスターCの勝ち馬キャトン、ゴランパス、ゴハンナ、マーキュリーを経て、エクリプスに行きつく。
競走馬引退後
競走馬を引退した本馬はトンプソン氏が開設したばかりの英国ロークリフスタッドで種牡馬入りした。本馬と一緒にロークリフスタッドの開設初年度から繋養された種牡馬には、既に英国クラシック競走の勝ち馬4頭を含む多くの活躍馬を出して1845年の英首位種牡馬になっていたスレイン、大種牡馬バードキャッチャー産駒のドンカスターC勝ち馬チャンティクリアがいたが、本馬の種付け料は他2頭を大きく上回る30ギニーに設定された(既に老年に差し掛かっていたスレインは7ギニー、チャンティクリアは20ギニー)。高額の種付け料にも関わらず初年度は50頭の繁殖牝馬を集めた。
しかし英国における本馬の種牡馬成績は現役時代の華々しい活躍に比べると、見劣りがするものだった。そのため、12歳時の1858年に仏国皇帝ナポレオン3世に15万フランで売却され、翌年に仏国立牧場に移り住んだ。その後、ロークリフスタッド社はニューミンスターやリーミントンといった名種牡馬を繋養したが、ニューミンスターの死後に倒産。しかしトンプソン氏はめげずに新たにムーアランドスタッドを開設し、ロードクリフデン、トーマンバイ、スペキュラムといった有力種牡馬を繋養することになる。
本馬が仏国に移動した後になって英国に残してきた本馬産駒が活躍し、1860・61年には英種牡馬ランキングで2位に入っている。英国では失敗種牡馬だったと評価されがちな本馬だが、1855年から1862年まで8年連続で英種牡馬ランキング10位以内に入っており、トンプソン氏が本馬を仏国に売却した判断はやや早計だったかも知れない。仏国では最初から多くの活躍馬を出して成功した。また、勇敢で頑丈な産駒が多かったため、障害競走馬として活躍する馬も多かった。1870年に仏国立牧場において24歳で他界した。
後世に与えた影響
本馬の直系は、ドラールの子アンドロクレスから細々と後世に伝わり、20世紀初頭に登場した名種牡馬トウルビヨンを経由して現代に伝わっている。特に日本では本馬の直系子孫にシンボリルドルフ、トウカイテイオー、メジロマックイーン、ダイタクヘリオスなどが登場している。そして、牝駒フライングダッチェスの息子であるガロピン(ちなみにガロピンの父である英2000ギニー馬ヴェデットは本馬の好敵手ヴォルティジュールの直子)からは、かのセントサイモンが出現しており、本馬が競馬史に与えた影響は計り知れないものがある。
主な産駒一覧
生年 |
産駒名 |
勝ち鞍 |
1853 |
Ellington |
英ダービー・英シャンペンS |
1853 |
Mirage |
ジムクラックS |
1855 |
Gildermire |
英シャンペンS |
1857 |
Tom Bowline |
セントジェームズパレスS |
1858 |
Brown Duchess |
英オークス・ニューS・パークヒルS・ヨークシャーオークス |
1858 |
Walloon |
英シャンペンS・セントジェームズパレスS |
1860 |
Dollar |
グッドウッドC・アンペルール大賞 |
1860 |
Guillaume le Taciturne |
カドラン賞・ビエナル賞 |
1862 |
Deliane |
仏オークス |
1862 |
Tourmalet |
フォレ賞・ダリュー賞・リューテス賞 |
1864 |
Regalia |
SAJCサウスオーストラリアンダービー |
1866 |
Dutch Skater |
ドンカスターC・ドーヴィル大賞・グラディアトゥール賞 |
1866 |
Massinissa |
コンデ賞 |