ティチノ
和名:ティチノ |
英名:Ticino |
1939年生 |
牡 |
鹿毛 |
父:アタナジウス |
母:テラ |
母父:アディティ |
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第二次世界大戦中における独国最強馬にして、通算9度の独首位種牡馬に輝いた独国の歴史的名馬 |
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競走成績:2~5歳時に独墺で走り通算成績21戦14勝2着2回3着2回 |
バーデン大賞3連覇のオレアンダー、10戦無敗の名牝ネレイーデの系譜を受け継ぐ、独国競馬史上最高の名馬の1頭であり、種牡馬としても記録的な大成功を収めた。
誕生からデビュー前まで
本馬が誕生したエルレンホフ牧場は独国の名門牧場であり、ネレイーデもここで生を受けている。ネレイーデ誕生当初の牧場主はモーリッツ・オッペンハイマー氏という人物だったが、彼はユダヤ人だったため、当時の独国を牛耳っていたナチスに睨まれて連行され、そのまま消息を絶った。オッペンハイマー氏の代わりにエルレンホフ牧場の所有者となったのは、ハインリヒ・テュッセン・ボルネミシャ氏という人物だった。彼は独国屈指の鉄鋼業者だったアウグスト・テュッセン氏の息子で、ナチスとは良好な関係を築いており、エルレンホフ牧場の専属調教師でネレイーデも手掛けたアードリアン・フォン・ボルケ師の依頼を受けて牧場を購入したという。ボルネミシャ氏によりこの世に生を受けた本馬は、幼少期からかなりのスピード能力を示しており、しかも非常に見栄えが良い美貌の馬であり、かなりの期待を受けていた。
競走生活(2・3歳時)
エルレンホフ牧場の所有馬、ボルケ師の管理馬となり、2歳6月にホッペガルテン競馬場で行われたヘンゲステフェアズーフスレネン(T1000m)でデビューしたが、オルトウィンの4馬身差4着に敗れた。続いて同じホッペガルテン競馬場で行われたドロテーアシュタット賞(T1200m)に出走。単勝オッズ2.4倍の1番人気に支持されると、2着パジオン(後の独1000ギニー2着馬)に半馬身差で勝ち上がった。しかしこの時期の本馬は前脚に関節炎を発症していたらしく、2歳戦は6月に2回走っただけで終えることになった。
3歳時は5月にホッペガルテン競馬場で行われたダールウィッツ賞(T1600m)から始動したが、エフェンディの1馬身1/4差2着に敗れた。次走は独2000ギニー(T1600m:正式名称はヘンケルレネン)となった。しかし結果は、エフェンディ、後の独オークス2着馬ウザンバラ、オルトウィンなどに屈して、勝ったエフェンディから5馬身差の5着と完敗。翌6月に出走したウニオンレネン(T2200m)でも、エフェンディの3馬身差5着に敗れ去った。この時点における成績は5戦1勝で、デビュー前の期待からすると残念な状況だった。
そんな状況が一変したのは、ハンブルグ競馬場に移動して出走したニッケルアイントラヒトレネン(T1800m)を2着コルテスに3馬身差で勝利した頃からである。このニッケルアイントラヒトレネンは独ダービーの重要な前哨戦であり、かつてはネレイーデもこのレースをステップに独ダービーを制覇していた。そして迎えた独ダービー(T2400m)では、直前まで大本命だったエフェンディが体調不良で回避してしまい、いきなり混戦模様となっていた。結果は単勝オッズ4.1倍で出走した本馬が2着グラディフォに1馬身差をつけて勝利したが、エフェンディが不在だったから勝てたという程度の評価に過ぎなかった。もっとも、本馬自身も直前に熱発しており、決して万全の体調というわけではなかった。
次走は8月にオーストリアのウィーンにあるフロイデナウ競馬場で行われる墺ダービー(T2400m:正式名称はウィーン大賞)となった。ここではエフェンディやオルトウィンといった、本馬に複数回勝利した経験がある馬達が対戦相手となり、本馬に勝ち目は薄いと思われていた。しかし単勝オッズ6.2倍で出走した本馬が2着オルトウィンに4馬身差、3着エフェンディにはさらに1馬身差をつけて勝利を収め、ここでようやく世代最強馬として認められた。
次走は9月にホッペガルテン競馬場で行われたライヒスハウプトシュタット大賞(T2400m:現GⅠ競走で、後にベルリン大賞やドイツ賞などと名称を変えている)となった。初の古馬混合戦であり、独セントレジャーを勝っていた5歳馬サムライや、独ダービーで本馬に敗れた後にバーデン大賞でサムライを2着に破って勝っていた後の独セントレジャー馬グラディフォなどが対戦相手となった。しかし単勝オッズ2.5倍の1番人気に支持された本馬が、2着サムライに2馬身差、3着グラディフォにはさらに5馬身差をつけて圧勝した。3歳時はこれが最後のレースで、この年の成績は7戦4勝だった。
競走生活(4歳時)
4歳時は7月にホッペガルテン競馬場で行われたフェスタレネン(T2400m)から始動した。本馬には63.5kgという酷量が課せられ、この年の独ダービーを勝ってきたアルゲウとは7.5kgものハンデ差があり、単勝オッズも3.8倍と断然というわけにはいかなかったが、アルゲウを1馬身差の2着に破って勝利した。
続いてミュンヘンに移動して、ダスブラウネバンドフォンドイッチェランド(T2400m)というレースに出走した。このレースはナチスが旗揚げの地ミュンヘンに創設した国際競走であり、7年前にはネレイーデが後の凱旋門賞2勝馬コリーダを撃破して伝説となったレースでもあった。本馬もネレイーデの後を受け継いでこのレースを勝ちたいところだったが、生憎と本馬に課せられた斤量はやはり63kgと過酷なものだった。レースは本馬より8kg斤量が軽いウニオンレネンの勝ち馬パンツァルツルムと、本馬より2.5kg斤量が軽いサムライの一騎打ちとなり、パンツァルツルムが頭差で勝利。本馬はこの2頭から3馬身差をつけられた3着に敗れた。
次走は前年に不出走だったバーデン大賞(T2400m)となった。ここではサムライ、エフェンディなどが対戦相手となった。結果はサムライが2着となった本馬に6馬身差をつけて圧勝してしまい、さらに3馬身差の3着にエフェンディが入った。次走は前年より距離が200m伸びたライヒスハウプトシュタット大賞(T2600m)となった。ここにもサムライの姿があったが、ここで単勝オッズ2.3倍の1番人気に支持された本馬に食い下がったのは、フェスタレネン2着後に墺ダービーを勝ってきたアルゲウだった。3着サムライを6馬身も引き離す2頭の対決は、3/4馬身差で本馬が勝利を収め、2連覇を達成した。次走のグラディアトーレンレネン(T2800m)では、9kgのハンデを与えたシュトルツェンフェルス(独ダービーではアルゲウの首差2着だった)と、サムライの2頭に屈して、勝ったシュトルツェンフェルスから7馬身差の3着と完敗。4歳時の成績は5戦2勝となった。
競走生活(5歳時)
しかし4歳時までははっきり言って序章であり、競走馬としての本馬の真骨頂は5歳時であった。まずは5月にホッペガルテン競馬場で行われたチャマントレネン(T2000m)から始動。本馬には65kgが課せられたが、単勝オッズ1.7倍の1番人気に応えて、2着シュペーアヴェルファーに2馬身差であっさり勝利した。続くケルンユビロイムス賞(T2200m)では、かつての好敵手エフェンディとの顔合わせとなった。本馬には64.5kgが課せられた(エフェンディの斤量は不明)が、単勝オッズ1.4倍の1番人気に応えて、2着エフェンディに3馬身差をつけて完勝した。次走のアドレルフェーレネン(T2200m)でも、65kgが課せられた。それでも単勝オッズ1.1倍の1番人気に支持されると、2着フィガロに4馬身差をつけて圧勝した。続くハンゼアテン賞(T2200m)でも、相変わらずの65kgが課せられた。ここではシュトルツェンフェルスが対戦相手となったが、単勝オッズ1.6倍の1番人気に支持された本馬が、2着シュトルツェンフェルスに1馬身差で勝利した。
次走はゴールデネパイチェ(T1200m)という、独国では当時も今も最重要の短距離競走となった。対戦相手はこの年の独1000ギニーを2着アンネリーゼに5馬身差で圧勝していたトロイメライであり、本馬にとっては比較的軽い59.5kgの斤量でも、スピード勝負で勝てるかがポイントだった。しかし結果は本馬が2着トロイメライに2馬身差、3着アンネリーゼにはさらに7馬身差をつけて完勝した。続いて、前年は勝てなかったバーデン大賞(T2400m)に駒を進めた。シュトルツェンフェルスや、独オークスでトロイメライを2着に破って勝っていたインゴラなどが対戦相手となったが、2着シュトルツェンフェルスに3馬身差、3着インゴラにもさらに3馬身差をつけて完勝した。
そしてライヒスハウプトシュタット大賞(T2600m)に3連覇を目指して参戦した。ところで、このレースは馬券が発売されないエキシビションとなっていた。実は前々走のゴールデネパイチェ、前走のバーデン大賞もやはりエキシビションだった。その理由として考えられるのは、第二次世界大戦が佳境を迎えて独国の敗色が濃厚になっていたために馬券発売がなされなかったか、本馬が強すぎたために賭けが成立しなかったかのいずれかであるが、資料不足により正確な理由は分からなかった。本馬はこのライヒスハウプトシュタット大賞でも、2着シュトルツェンフェルスに1馬身差、3着となったこの年の独2000ギニー・ウニオンレネン勝ち馬ポエトにはさらに5馬身差をつけて勝利を収めた。ライヒスハウプトシュタット大賞(ベルリン大賞)を3連覇したのは、本馬と1963~65年のメリクリウスのみである。
5歳時はこれが最後のレースで、この年の成績は7戦全勝となった。この年における本馬の強さは圧倒的であり、国際的にもかなり高い評価を得たという。この5歳時の強さが、第二次世界大戦の影響で競走馬の質量ともに下がっていた時期に走った馬であるにも関わらず、本馬が今日でも20世紀独国競馬史上最強馬の1頭としてみなされる理由となっている。
翌6歳時は第二次世界大戦終戦の年であり、独国は敗戦し、独ダービー・バーデン大賞・ライヒスハウプトシュタット大賞などの大競走もことごとく中止に追い込まれた。そのために6歳時はレースに出る事が出来ず、そのまま競走馬引退となった。
競走馬としての評価
ところで、独国にも“Generalausgleich-Gewicht(ゲネラルアウスグライヒ・ゲヴィヒト)”、通称「GAG」という名称のフリーハンデが存在しており、本馬に対しては112kgという評価が与えられている。これは1940年に独オークス・独ダービー・ライヒスハウプトシュタット大賞を制した牝馬シュワルツゴールド(ビワハイジの5代母で、ブエナビスタの6代母)の113.5kgに次ぐ高評価であるらしく、この2頭以外に110kg以上の評価を受けた馬は、1967年にヨークシャーC・ハードウィックS・バーデン大賞を勝ち凱旋門賞でトピオの首差2着したサルヴォ、1975年の凱旋門賞を勝ったスターアピール、1980年代独国最強馬アカテナンゴの3頭のみ(いずれも110kg)だという(ちなみにネレイーデは107kg)。
オレアンダーの時代にGAGがあったのかどうかは定かではない(どうやら無かったようである)し、その基準も当時から今日までしばしば変更されており、現在はワールド・サラブレッド・レースホース・ランキング(旧国際クラシフィケーション)との調整が行われて110kg以上の評価が出ることは無くなっている(110kgを単純計算すると約242.5ポンドだが、実際にはそんな単純計算ではなく、GAGにおける110kgは、ワールド・サラブレッド・レースホース・ランキングにおける141ポンドに相当するらしい。ワールド・サラブレッド・レースホース・ランキングの最高評価が140ポンドであるため、GAGで110kg以上が出ることもないのである)ため、これがどの程度の名誉なのかは筆者には判断できないが、少なくとも本馬が第二次世界大戦中における独国最強馬として評価されていた証明にはなるだろう。
血統
Athanasius | Ferro | Landgraf | Louviers | Isinglass |
St. Louvaine | ||||
Ladora | Ladas | |||
Dorothea | ||||
Frauenlob | Caius | Reverend | ||
Choice | ||||
Farandole | Saphir | |||
Franche Comte | ||||
Athanasie | Laland | Fels | Hannibal | |
Festa | ||||
Ladyland | Kendal | |||
Glare | ||||
Athene | Ariel | Ard Patrick | ||
Ibidem | ||||
Salamis | Hannibal | |||
Semiramis | ||||
Terra | Aditi | Dark Ronald | Bay Ronald | Hampton |
Black Duchess | ||||
Darkie | Thurio | |||
Insignia | ||||
Aversion | Nuage | Simonian | ||
Nephte | ||||
Antwort | Ard Patrick | |||
Alveole | ||||
Teufelsrose AUT | Robert le Diable | Ayrshire | Hampton | |
Atalanta | ||||
Rose Bay | Melton | |||
Rose of Lancaster | ||||
Rosanna AUT | St. Maclou | St. Simon | ||
Mimi | ||||
Rose of Jeddah | Gallinule | |||
Rose d'Amour |
父アタナジウスは現役成績25戦12勝で、独ダービー・バーデン大賞の勝ち馬。アタナジウスの父フェロは、独ダービー・ライヒスハウプトシュタット大賞の勝ち馬。フェロの父ランドグラフは、独2000ギニー・独ダービー・ライヒスハウプトシュタット大賞など5戦全勝。ランドグラフの父ルヴィエはアイシングラス産駒で、競走馬としては英国で走り、コヴェントリーS・ニューマーケットS勝ちなど13戦4勝の成績を残した。競走馬引退後に独国に種牡馬として輸入されていた。
伊国の天才馬産家フェデリコ・テシオ氏は著書“Breeding the Racehorse(サラブレッドの生産)”の中で、「ダービー馬は3代続いても、4代続く事はない」という旨を書いている。日本の競馬評論家である吉沢譲治氏は著書「競馬の血統学」の中でそれについて検証し、英ダービーとケンタッキーダービーなど国を跨いだ変則的な例を除けば、現在でもテシオ氏の主張は通用しているという意見を述べている。しかし独国の人がそれを聞いたら、自分達の国を無視していると怒り出すかもしれない。本馬は、ランドグラフ~フェロ~アタナジウスに次ぐ直系4代目の独ダービー馬だからである。さらに言えば、本馬の息子であるネカールとオルシニ(いずれも独ダービー馬)も種牡馬として独ダービー馬を出しているから、6代連続で独ダービー馬が登場している。こうした例は世界的にかなり珍しいようで、本馬に関して述べた独国の資料においても、“dies ist auch international eine einzigartige Serie(これは国際的にとても珍しい流れです)”と書かれている。つまりテシオ氏の主張が的外れというわけではなく、本馬の系統が例外的な存在であると言うべきなのだろう。独国の競馬界は土着の血統を非常に大切にする傾向があり、他国では絶滅した系統であっても、独国ではしっかり生き残っていたりする。南米の国々にも同じ傾向があるが、日本にはそうした発想は無い。どちらが勝っているとは断定できないが、日本よりも独国や南米のほうが、競馬に対する考え方の底が深いようである。
母テラは、ランドグラフェンレネンの勝ち馬。テラの全姉テウチュエの子にはタチヤナ【独1000ギニー・独オークス】が、テラの母トイフェルスローゼの半弟にはロナルド【独ダービー】がいるが、独国内においても活躍馬多数という名門牝系というわけではない。→牝系:F20号族②
母父アディティはダークロナルド産駒で、独セントレジャー馬アヴェージョンを母に、独国の名種牡馬アルヒミスト(ジャパンC馬ランドの直系先祖)を半弟に持つ良血馬。自身もバーデン大賞を勝った名馬だった。
競走馬引退後
競走馬を引退した本馬は、エルレンホフ牧場において7歳時から種牡馬入りした。競走馬としても一流の成績を残した本馬だったが、種牡馬としては超一流の成績を収めた。ネッカル、オルシニ、ルスティゲ、ニーデルランダーと4頭の独ダービー馬を含む数多くの活躍馬を送り出し、1950~58年まで9年連続で独首位種牡馬に輝き、1960~68年まで9年連続で独母父首位種牡馬に輝いたのである。本馬の独首位種牡馬9回という記録は、オレアンダーの9回(1935、37~44年まで8年連続)に並ぶ独国競馬史上最多記録である。本馬は決して独国内限定のローカル種牡馬ではなく、仏グランクリテリウム・英1000ギニー・英オークス・ヴェルメイユ賞・英チャンピオンSを制した名牝ベラパオラを送り出したという点でも国際的に高く評価された。
本馬は15歳時の1954年頃から、蹄の病気に悩まされるようになった。それが原因なのか体調を崩し、1957年に受精率低下のために種牡馬を引退。翌1958年8月に健康状態が非常に悪化したために19歳で安楽死の措置が執られた。本馬が世を去った日、エルレンホフ牧場は半旗を掲げてその死を悼んだという。遺骨はギーセン大学に寄贈されたが、心臓だけはエルレンホフ牧場に埋葬された。
本馬の後継種牡馬としては、ネカールが本馬の後を受け継いで1959・60・62~65年と6度の独首位種牡馬に輝いた他、オルシニも1966・69・71・74年と4度の独首位種牡馬に輝く成功を収めた。ネカールからは1972年の独首位種牡馬クロンツォイゲが出たが、その後は続かず、オルシニの後継種牡馬も育たなかったため、本馬の直系は現在では消滅してしまっている。
本馬が種牡馬入りしたのは第二次世界大戦終戦直後であり、独国内にいた多くの種牡馬(その中には独国が仏国などから強奪してきた馬もいたわけだが)が、戦火に巻き込まれて命を落としたり、母国に帰ったり、米国などに連行されたりして、いなくなった時期であった。そのために独国に残った本馬に繁殖牝馬が集中し、結果として種牡馬として猛威を振るう事が出来た一面は否めない。本馬の直系が繁栄しなかったのは、かつてのヘロドやセントサイモンと同じく血の袋小路に陥ってしまったからであろう(本馬は母父としても9度の首位種牡馬になっている点に注目。本馬の血を引く繁殖牝馬が溢れかえっている時期では、本馬の血を引く種牡馬の出番は限られる)。本馬は競走馬時代・種牡馬時代を通じて、良くも悪くも第二次世界大戦の影響を大きく受けた馬だったと言えるだろう。
主な産駒一覧
生年 |
産駒名 |
勝ち鞍 |
1947 |
Niederlander |
独ダービー・バーデン大賞・ベルリン大賞 |
1948 |
Grande |
ベルリン大賞 |
1948 |
Muskatblüte |
独1000ギニー |
1948 |
Neckar |
独ダービー・独2000ギニー・シャンティ賞 |
1949 |
Königstreue |
独1000ギニー |
1949 |
Prodomo |
ダルマイヤー大賞 |
1950 |
Naxos |
独オークス・独1000ギニー |
1951 |
Ataturk |
独2000ギニー |
1952 |
Lustige |
独ダービー・独オークス・ノイス牝馬賞 |
1952 |
Silver City |
独1000ギニー・ドイツ牝馬賞 |
1953 |
Liebeslied |
独オークス・独1000ギニー・ドイツ牝馬賞 |
1953 |
Nadia |
ノイス牝馬賞 |
1954 |
Andalusier |
アラルポカル |
1954 |
Mogul |
ベルリン大賞 |
1954 |
Orsini |
独ダービー・独2000ギニー・ゲルゼンキルヒェン市大賞 |
1955 |
Andrea |
ドイツ牝馬賞・ノイス牝馬賞2回 |
1955 |
英1000ギニー・英オークス・仏グランクリテリウム・クリテリウムドメゾンラフィット・ヴェルメイユ賞・英チャンピオンS |