オレアンダー

和名:オレアンダー

英名:Oleander

1924年生

鹿毛

父:プルナス

母:オルシディ

母父:ガルティモア

骨盤骨折から奇跡的に復活しバーデン大賞3連覇を果たした独国の歴史的名馬は9度の独首位種牡馬に輝く成功も収める

競走成績:2~5歳時に独墺仏で走り通算成績23戦19勝2着1回3着2回

欧州競馬においては英国・愛国・仏国のレベルが最も高く、独国・伊国は一枚落ちのレベルであると一般的に言われている。全体的に見れば確かにそのとおりなのかも知れないが、伊国調教馬の中からネアルコリボートニービンなどが登場したように、独国調教馬の中にも欧州のトップクラスに混じっても遜色ない実力を示す馬も存在している。最近は特にその傾向が顕著で、デインドリームノヴェリストといった独国調教馬が英仏最高峰の大競走を勝っている。本馬はそんな独国調教馬の底力を欧州競馬界に見せ付けた史上最初の馬であるとされている。

誕生からデビュー前まで

独国シュレンダーハン牧場において、同牧場の所有者アルフレート・オッペンハイム男爵により生産・所有された。管理調教師はゲオルク・アルヌール師、主戦騎手はL・ヴァルガー騎手が務めた。

競走生活(2・3歳時)

2歳の初夏にデビューすると、初戦を馬なりのまま勝利。2戦目のジールシュトルプフレネン(T1000m)でも単勝オッズ1.9倍の1番人気に応えて、やはり馬なりのまま2着グラフェンクローネ(後の独オークス2着馬)に4馬身差をつけて勝利した。

しかしその後の調教中に転倒して、骨盤を骨折するという重傷を負ってしまった。この時点で本馬の競走馬としての未来は絶たれたと思われ、獣医は安楽死の措置を行うように勧めた。しかし本馬を管理していたアルヌール師は、本馬は一生に一度出会えるかどうかというくらいの名馬であると考え、懸命に本馬の看護を続けた。本馬もまたアルヌール師の期待に応えて驚異的な回復力を見せ、怪我から約1年後の3歳5月に競走馬復帰を果たした。

復帰戦のハーデンベルクレネン(T1400m)を勝つと、次走のニッケルレネン(T1800m)では単勝オッズ1.1倍の1番人気に応えて、2着ミトラに4馬身差をつけて快勝した。通常であれば次走は独ダービーになるはずだったが、本馬の故障は競走馬復帰の目処が立たないほどの重傷だったために、独国クラシック競走の登録は全て取り消されており、独ダービーには出走できない状態だった。そのため、独ダービー当日に行われた古馬相手のハンブルグ大賞に出走した。ところが3歳馬の身でありながら65kgが課せられてしまい、独ダービー3着の実績があった5歳馬マルセルスと6歳馬パトリツィアの2頭(いずれも斤量は56kg)に屈して、マルセルスの3着に敗れた(このレースの対戦相手が弱かった事から、本馬は独ダービーに出ても勝負にならなかったと主張する意見があるようだが、斤量差を考慮せずにそのような論調を張るべきではないだろう)。

その後はしばらく休養し、8月のライン賞(T1600m)に出走すると、2着ボニブルグに4馬身差をつけて楽勝。次走のフェルシュテンベルクレネン(T2200m)では、独2000ギニーやウニオンレネンを勝っていた同世代馬トレロを一蹴して、2着アウスブントに10馬身差をつけて大圧勝した。

さらにはバーデン大賞(T2400m)に出走。本馬が不在だった独ダービーの勝ち馬マージャンに加えて、モーリスドギース賞・ケルゴルレイ賞・ゴントービロン賞などを勝っていたグリルモン、後のプランスドランジュ賞勝ち馬サカパピエといった仏国調教馬も参戦してきた。しかし単勝オッズ1.6倍の1番人気に支持された本馬が、2着サカパピエに首差、3着グリルモンにはさらに6馬身差をつけて勝利した。次走のグラディアトレンレネン(T2800m)では、4kgのハンデを与えた同世代馬ゼラピスとの接戦を頭差で制して勝ち、独国最強3歳馬としての地位を確立した。

競走生活(4歳時)

4歳時は5月のシャマンレネン(T2000m)から始動したが、ここでは3kgのハンデを与えたゼラピスの1馬身1/4差2着に敗れた。しかしホッペガルテナーユービレウムス賞(T2000m)では、65kgの斤量を克服して、2着アウレリウス(斤量63kg)に1馬身1/4差、3着となった後の独オークス馬アディチャ(斤量51.5kg)にはさらに3/4馬身差をつけて勝利した。オーストリア大賞(T2400m)では、オーストリアダービーを勝ってきたリンクが挑んできた。斤量は本馬の61.5kgに対して、リンクは50.5kgしかなかった。しかし本馬が2着ダークストーリーに5馬身差をつけて圧勝し、リンクはさらに3馬身差の3着に終わった。

続いて出走したベルリン大賞(T2600m)では、単勝オッズ1.2倍という圧倒的な1番人気に支持された。そして後方で接戦を演じるマージャンとトレロを尻目に直線を独走し、2着マージャンに5馬身差をつけて圧勝した。セントサイモンレネン(T2200m)では、独オークスを勝ってきたアディチャが再び本馬に挑んできた。斤量は本馬の60.5kgに対して、アディチャはやはり51.5kgしかなかった。しかし単勝オッズ1.1倍の1番人気に支持された本馬が2着アディチャに3馬身差をつけて完勝した。

そして迎えたバーデン大賞(T2400m)では、単勝オッズ1.5倍の1番人気に支持された。そして、2着となった一昨年の独セントレジャー馬ラムポスに5馬身差、3着となった今年の独ダービー馬ルプスにはさらに首差をつけて2連覇を達成した。さらにグラディアトレンレネン(T2800m)に出走。このレースにはアディチャに加えて、1歳年上の独ダービー・ベルリン大賞・ウニオンレネンの勝ち馬フェロも出走していた。しかし単勝オッズ1.7倍の1番人気に支持された本馬が63.5kgの斤量を克服して、4kgのハンデを与えたフェロを頭差の2着に抑えて勝利した。

そしてシーズン最終戦として、隣国仏国で行われた凱旋門賞(T2400m)に参戦した。当時の凱旋門賞は成立して年月が浅かったために現在ほどの格は無かったが、それでも3歳以上の馬にとって一つの目標となる大競走としての地位は既に確立していた。この年の凱旋門賞はプランスドランジュ賞を勝ってきたフィングラスとリュパン賞の勝ち馬バブルスが並んで1番人気に支持され、パリ大賞の勝ち馬クリドゲールが3番人気、本馬が4番人気で、ユジェーヌアダム賞の勝ち馬ガイフォークス、仏グランクリテリウムの勝ち馬カンタール、イスパーン賞の勝ち馬リアルトと人気が続いた。本馬はよく走ったが、レース直前に外傷を負うアクシデントがあった影響もあって、カンタールの4馬身1/4差5着に終わった。それでも、バブルス、クリドゲール、ガイフォークスなどには先着した。

競走生活(5歳時)

5歳時は5月のシャマンレネンから始動した。61kgの斤量が課せられたが、4kgのハンデを与えた2着メルカルトに6馬身差をつけて圧勝した。オーストリア大賞(T2400m)では64.5kgを課せられたが、5.5kgのハンデを与えた2着ラムに6馬身差をつけて圧勝した。次走のベルリン大賞(T2600m)では、長らく主戦を務めてきたヴァルガー騎手に代わって、ジョー・チルズ騎手が手綱を取った。騎手の乗り代わりにも関わらず単勝オッズ1.1倍の1番人気に支持された本馬はその期待に応えて、2着インプレッショニストに8馬身差をつけて圧勝した。次走のセントサイモンレネン(T2200m)では、サブロン賞(現ガネー賞)・ヴィシー大賞を勝ってきた仏国調教馬ロヴィーゴが挑んできた。しかし単勝オッズ1.3倍の1番人気に支持された本馬が、2着アヴァンティ(前走のベルリン大賞で本馬から10馬身差の3着だった)に6馬身差をつけて圧勝した。

次走のバーデン大賞(T2400m)では、チルズ騎手ではなくH・ブルーム騎手とコンビを組んだ。このレースでは、牝馬ながらに独ダービー・ウニオンレネン・ハンザ賞を勝っていた2歳年下のグラフイソラニという強敵が出現した。斤量は本馬が64kgで、グラフイソラニは57kgに設定されたのだが、それでも本馬が単勝オッズ1倍、つまり単勝元返しという究極の1番人気に支持された(もしかしたら四捨五入の結果として1倍と表記されているのかもしれないが)。そして大方の予想どおり、本馬が2着グラフイソラニに4馬身差をつけて快勝。1877~79年に3連覇したハンガリーの名牝キンチェム以来50年ぶり史上2頭目のバーデン大賞3連覇を達成した。独国調教馬としてバーデン大賞を3連覇したのは本馬だけであり、本馬以降にバーデン大賞を3連覇した馬も存在しない(2連覇した馬は8頭いる)。グラフイソラニはこの後もケルン大賞・独セントレジャー・グラディアトレンレネン2回・ハンザ賞(2回目)などを勝ち、牡馬顔負けの女傑として活躍するのだが、ここで本馬に完敗したために時代の最強馬になる事は出来なかった。

その後の本馬は前年の雪辱を期して、凱旋門賞(T2400m)に参戦。前年の同競走勝ち馬でこの年もイスパーン賞やプランスドランジュ賞を勝っていたカンタールが単勝オッズ5.6倍の1番人気に支持され、本馬が単勝オッズ7.7倍の2番人気に推された。この2頭の他にも、ロワイヤルオーク賞・ヴェルメイユ賞の勝ち馬カランドリア、仏2000ギニー馬ヴァトー、仏オークス馬ウクラニア、ドーヴィル大賞の勝ち馬シャルルマーニュ、エドヴィル賞を勝ってきたガイフォークス、オカール賞の勝ち馬パレロワイヤル、伊ダービー・イタリア大賞・ミラノ大賞を制した伊国最強3歳馬オルテロなどが参戦する豪華メンバーとなった。チルズ騎手が騎乗する本馬は積極的に先行して直線で粘り込みを図ったが、本馬をマークするようにレースを進めていたオルテロと後方から追い込んできたカンタールの2頭に差されて、勝ったオルテロから1馬身差、2着カンタールから半馬身差の3着に惜敗した。多くの専門家達は、本馬の敗因は仕掛けが早すぎたためであり、完璧なタイミングで仕掛けていれば勝っただろうと指摘した。このレースを最後に競走馬を引退した。

獲得賞金総額58万950マルクは独国調教馬史上における当時の最高額であり、1968年に競走馬を引退したルチアノが59万5800マルクを獲得するまで39年間に渡って独国賞金王の座に君臨することになった。馬名は園芸植物であり有毒植物としても知られる「キョウチクトウ」の学名である。牝系の馬がどれもイニシャル“O”から始まることと、父の名前“Prunus”が「サクラ属(植物界バラ目バラ科の属)」を意味することから連想して命名されたと言われている。ちなみに、キョウチクトウはリンドウ目キョウチクトウ科キョウチクトウ属であり、サクラ属ではないため、植物の分類云々はあまり意識されていないようで、イニシャル“O”で始まる花の名前を付けただけのようである。

血統

Prunus Dark Ronald Bay Ronald Hampton Lord Clifden
Lady Langden
Black Duchess Galliard
Black Corrie
Darkie Thurio Cremorne
Verona
Insignia Blair Athol
Decoration
Pomegranate Persimmon St. Simon Galopin
St. Angela
Perdita Hampton
Hermione
Briar-Root Springfield St. Albans
Viridis
Eglentyne Hermit
Mabille
Orchidee Galtee More Kendal Bend Or Doncaster
Rouge Rose
Windermere Macaroni
Miss Agnes
Morganette Springfield St. Albans
Viridis
Lady Morgan Thormanby
Morgan La Faye
Orseis St. Serf St. Simon Galopin
St. Angela
Feronia Thormanby
Woodbine
Orsova Bend Or Doncaster
Rouge Rose
Fenella Cambuscan
La Favorite

父プルヌスはダークロナルドの独国における初年度産駒の1頭で、独2000ギニー・独セントレジャーの勝ち馬。種牡馬としても本馬とバーデン大賞で戦ったマージャンを含めて3頭の独ダービー馬を出し、1927・28・29・32・34年の5度(4度とする資料もある)に渡って独首位種牡馬に輝く成功を収めた。

母オルシデーは3歳時に独オークス・独セントレジャー勝ちを含む11戦9勝の成績を残した活躍馬。繁殖牝馬としてはなかなか結果を残せなかったが、13歳時に産んだ牝駒オダリスク(父アリエル)と14歳時に産んだ本馬が活躍してようやく結果を出した。オダリスクは競走馬としてよりも繁殖牝馬として活躍しており、子にオルゲルトン【独2000ギニー・独ダービー】とオクタヴィアヌス【オーストリアダービー】、孫にオスターモルゲン【独2000ギニー】を出した。オダリスクの玄孫にはオポネント【アラルポカル・オイロパ賞】がおり、牝系子孫はしばらく伸びたが、現在はかなり衰退しており、活躍馬は出ていない。

オルシデーの母オルセイスは英国産の不出走馬で、ニューマーケット12月セールにおいて僅か40ギニーで取引されて独国で繁殖入りしていた。オルセイスの母オルソヴァの半姉ドウラニーの孫にゴンドレット(本馬の誕生年である1924年の英ダービー優勝馬サンソヴァーノの母で、世界的な一大牝系の祖でもある。子孫からはシックルファラモンドハイペリオン3兄弟の母シリーンや、ビッグゲームサートリストラムリナミックスなど活躍馬多数)がいたため、血統的な期待はあったようである。オルシデーの半姉オーストリア(父エアシャー)の牝系子孫からは、独首位種牡馬ヴァレンシュタイン【ベルリン大賞】、独首位種牡馬2回のジンギスカン【独2000ギニー】など独国の名馬が多く出ており、こちらは現在も活躍馬が出ている。→牝系:F6号族②

母父ガルティモアは当馬の項を参照。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は生まれ故郷のシュレンダーハン牧場で種牡馬入りした。合計で8頭の独国クラシック競走勝ち馬を送り出すなど多くの活躍馬を輩出し、1935年、及び1937~44年の合計9度に渡って独首位種牡馬に輝く成功を収めた。しかし当時の独国はナチスが政権を握っており、本馬はヒトラーの所有馬にさせられ、軍馬生産に使役された時期もあったという。また、第二次世界大戦において独国の敗色が濃くなった頃に空襲で死亡したという噂も流れた(実際に空襲で命を落としたのは本馬の息子シュトュルムフォゲルだった)。実際には本馬は大戦を生き抜いたが、1947年に放牧中の事故で脚を骨折したために23歳で安楽死の措置が執られ、遺体はシュレンダーハン牧場に埋葬された。本馬の直系子孫は独国のみならず南米、ソ連、南アフリカ、インドなどに広がり活躍した。日本でも直系のウイルデイールが皐月賞を制している。しかし本馬の直系は独国を含めて現在は全て滅亡しており、今は母系に名を残すのみとなっている。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1931

Pelopidas

独2000ギニー

1931

Schwarzliesel

独1000ギニー

1932

Dornrose

独1000ギニー・独オークス・ドイツ牝馬賞

1932

Sturmvogel

独2000ギニー・独ダービー・ベルリン大賞2回

1934

Trollius

バーデン大賞

1938

Scilla

独オークス

1939

Aster

ドイツ牝馬賞

1940

Erno

伊ジョッキークラブ大賞

1940

Orsenigo

伊ダービー・イタリア大賞・ミラノ大賞

1940

Raufbold

ホルスト大賞

1941

Nordlicht

独ダービー

1944

Honved

ホルスト賞

1945

Espace Vital

リス賞・コンセイユミュニシパル賞・ジャンプラ賞・ケルゴルレイ賞

1947

Asterios

独2000ギニー

1947

Orleans

パリ大障害

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