シックル

和名:シックル

英名:Sickle

1924年生

黒鹿

父:ファラリス

母:シリーン

母父:チョーサー

直系子孫からネイティヴダンサーやミスタープロスペクターを登場させて現在の競馬界に大きな影響を与えたファラリスの後継種牡馬の一頭

競走成績:2・3歳時に英で走り通算成績10戦3勝2着4回3着2回

誕生からデビュー前まで

第17代ダービー伯爵エドワード・スタンリー卿により英国スタンリーハウススタッドにおいて生産・所有された。父ファラリス、母シリーンという今から考えると大変な良血馬であるが、本馬が産まれた年には既に父ファラリスは種牡馬として成功を収めつつあったものの大ブレイク直前であり、母シリーンにとって本馬が初子だったためシリーンの繁殖牝馬としての能力は未知数であった。

本馬は脚がやや短く、体高は成長しても15.3ハンドと平均以下の小柄な馬だったが、本馬の半弟ハイペリオンも非常に小さかった事を考えると、体格が小柄なのはシリーン産駒の特徴だったと思われる。

競走生活(2歳時)

ジョージ・ラムトン調教師に訓練された本馬は、2歳6月にアスコット競馬場で行われたニューS(T5F)でデビュー。結果はデイモンの1馬身半差2着だった。3着はアダムスアップルで、5着は後に日本の大種牡馬となるシアンモアだった。次走は翌7月にニューマーケット競馬場で行われたジュライS(T5.5F)となった。ここでは、名馬テトラテーマの全弟でもあるチェシャムSの勝ち馬で後のリッチモンドSの勝ち馬ザサトラップの3/4馬身差2着だった(3着はコールボーイだった)。3戦目はリヴァプール競馬場で行われたマーシーS(T5F)となった。このレースは僅か2頭立てとなり、本馬が6馬身差で圧勝した。

続いてグッドウッド競馬場に移動してプリンスオブウェールズS(T6F)に出走。ここでは2着カジノに5馬身差をつけて圧勝した。さらにドンカスター競馬場に場所を移して英シャンペンS(T6F)に出走した。ここでは、ニューSで本馬を破ったデイモン、ジュライSで本馬が3着に抑えたコールボーイとの激戦となった。結果はデイモンが勝ち、コールボーイが首差2着で、本馬はコールボーイからさらに半馬身差の3着に敗れた。次走のボスコーエンポストS(T5F134Y)では3馬身差で完勝。さらにミドルパークS(T6F)に出走した。今度は、コールボーイ、ウッドコートSの勝ち馬バースライトとの激戦となった。結果はコールボーイが勝ち、本馬は頭差2着、バースライトがさらに短頭差の3着だった。

2歳時の成績は7戦3勝で、2歳馬フリーハンデではザサトラップがトップの126ポンド、デイモンが124ポンド、コールボーイとバースライトが123ポンドで、本馬はニューS3着後にクリテリオンSでも3着していたアダムスアップルと共に122ポンドの評価だった。

競走生活(3歳時)

3歳時は3月にリヴァプール競馬場で行われたユニオンジャックS(T8F)から始動した。本馬の斤量は130ポンドで、他の対戦相手はいずれも111ポンドと、その差は19ポンドもあった。結果は勝ったバックファストから2馬身差2着に敗れたが、斤量差を考慮するとシーズン初戦としては上々の結果だった。

続いて英2000ギニー(T8F)に参戦した。ここでは、アダムスアップル、コールボーイとの激戦となった。結果は単勝オッズ21倍のアダムスアップルが人気薄を覆して勝ち、コールボーイが短頭差の2着で、本馬はさらに半馬身差の3着に終わった。その後は英ダービー(T12F)に直行した。しかしレースは単勝オッズ5倍の1番人気に支持されたコールボーイが、後の英セントレジャー2着馬ホットナイトを2馬身差の2着に、英2000ギニーで6着に終わっていたシアンモアをさらに8馬身差の3着に破って優勝し、本馬は5着に敗退。23頭立ての5着だから、距離不適と思われた中で善戦したとは言えるが、生涯初の着外に敗れてしまった。そしてこのレース中に脚の繋を痛めたために、以降はレースに出る事なく、3歳時3戦1勝の成績で競走馬を引退した。

同世代の競走馬の中では確かにトップクラスではあったが、結局大レースを勝ち切る事は出来ず、競走馬として歴史に名を刻むほどの競走実績を挙げているとは言い難い。なお、本馬の種牡馬入りは5歳時からと資料にある(確かに初年度産駒の誕生は本馬が6歳時の1930年である)ため、4歳時は不出走ながら競走馬として再起を目指していた可能性がある。

血統

Phalaris Polymelus Cyllene Bona Vista Bend Or
Vista
Arcadia Isonomy
Distant Shore
Maid Marian Hampton Lord Clifden
Lady Langden
Quiver Toxophilite
Young Melbourne Mare
Bromus Sainfoin Springfield St. Albans
Viridis
Sanda Wenlock
Sandal
Cheery St. Simon Galopin
St. Angela
Sunrise Springfield
Sunray
Selene Chaucer St. Simon Galopin Vedette
Flying Duchess
St. Angela King Tom
Adeline
Canterbury Pilgrim Tristan Hermit
Thrift
Pilgrimage The Palmer
Lady Audley
Serenissima Minoru Cyllene Bona Vista
Arcadia
Mother Siegel Friar's Balsam
Galopin Mare
Gondolette Loved One See Saw
Pilgrimage
Dongola Doncaster
Douranee

ファラリスは当馬の項を参照。

シリーンは当馬の項を参照。→牝系:F6号族②

母父チョーサーは当馬の項を参照。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬はスタンリー卿の元、英国で種牡馬入りしたが、5歳時の繁殖シーズン終了後に、米国の事業家兼馬主だったジョセフ・アーリー・ワイドナー氏に3年間リースされる事が決定した。リース契約と言っても、リース期間が満了した1932年には正式に10万ドルで購入するオプションが付いていたから、事実上は購入と言ってよかった。ワイドナー氏が所有する米国ケンタッキー州エルメンドルフスタッドには、オーガスト・ベルモント・ジュニア氏の生産・所有馬で彼の死後にワイドナー氏が購入した名種牡馬フェアプレイがいたのだが、フェアプレイは当時既に24歳の高齢であり(この1929年の暮れに他界)、ワイドナー氏はフェアプレイの代わりになる種牡馬を求めていたようである。

そして翌6歳時から本馬はエルメンドルフスタッドで種牡馬生活を開始した。この前年には既に本馬の全弟ファラモンドも米国ケンタッキー州ボーモントファームで種牡馬生活を開始していた。本馬は英国に残してきた1世代の産駒からも3頭のステークスウイナーを出して活躍したが、米国における活躍はより顕著で、45頭のステークスウイナーを出して1936・38年の北米首位種牡馬に輝く大きな成功を収めた(1938年はファラモンドと兄弟ワンツーを決めている)。

本馬の産駒は基本的に仕上がり早い快速馬が多く、この特性は後に子孫のネイティヴダンサーを経てミスタープロスペクターへと受け継がれた。本馬は1943年12月末に脾臓の腫瘍のために19歳で急死し、遺体はエルメンドルフスタッドにあったフェアプレイの墓地の隣に埋葬された。死後の1945年には北米2歳首位種牡馬になっている。後継種牡馬として大成功を収めたと言える産駒はいないのだが、直子アンブレーカブレの息子ポリネシアンがネイティヴダンサーの父となり、現在でも本馬の直系は世界的に大きく繁栄している。特に米国競馬界においては本馬の直系が現在でも猛威を振るいまくっている。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1930

Versicle

リブルスデールS

1931

Hindu Queen

アラバマS

1931

Jabot

セリマS・サンカルロスH

1933

Brevity

フロリダダービー

1934

Advocator

スターズ&ストライプスH

1934

Reaping Reward

ケンタッキージョッキークラブS

1935

Cravat

ジェロームH・サンフアンカピストラーノ招待H・ブルックリンH・サバーバンH・ジョッキークラブ金杯

1935

Gossip

ロベールパパン賞・仏グランクリテリウム

1935

Grim Reaper

カリフォルニアダービー

1935

Stagehand

サンタアニタH・サンタアニタダービー

1935

Theen

アーリントンラッシーS

1935

Unbreakable

リッチモンドS

1936

Caxton

ケンブリッジシャーH

1938

Misty Isle

メイトロンS・フォールズシティH

1939

Bless Me

サラナクH

1942

Chief Barker

ローマーH

1943

Star Pilot

ベルモントフューチュリティS・ホープフルS・ピムリコフューチュリティ

1944

Brownian

フォールズシティH

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