クーガー
和名:クーガー |
英名:Cougar |
1966年生 |
牡 |
鹿毛 |
父:テイルオブトゥーシティーズ |
母:シンディルー |
母父:マデラ |
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チリからカリフォルニア州に移籍して怒涛の追い込みで数々の大競走で活躍し絶大な人気を博した「ザ・ビッグ・キャット」 |
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競走成績:2~7歳時に智米で走り通算成績50戦20勝2着7回3着17回 |
誕生からデビュー前まで
南米チリのジェネラル・クルーズ牧場で生産され、チリの調教師アルバロ・ブレッキ師の調教を受けた。
競走生活(チリ時代)
2歳シーズンの1969年5月にデビュー。初戦はチリの首都サンティアゴにあるクラブイピコ競馬場で行われた芝1100mの未勝利戦だったが、3着に敗退。翌月にクラブイピコ競馬場で出た芝1300mの未勝利戦も3着に敗れた。同月にクラブイピコ競馬場で出た芝1600mの未勝利戦で初勝利を挙げ、2歳時は3戦1勝の成績となった。
翌69/70シーズンは、11月にサンティアゴにあるヒポドロモ競馬場で行われたダート1500mのハンデ競走から始動して勝利。次走はチリの大競走ヒポドロモチリ大賞(D1870m)となったが、アゴゴの5着に敗れた。次走もチリの大競走ヒポドロモヴェネズエラ国際賞(D1850m)となったが、ルプティナヴィールの3着に敗退した。その後は翌年1月にチリのヴァルパライソ州ヴィーニャデルマールにあるヴァルパライソ競馬場で行われたフアンSジャクソン賞(T1850m)に出て3着。そして同じくヴァルパライソ競馬場で行われる翌月のチリダービー(T2400m・正式名称はエルダービー)に向かったが、エキゾチックの3着に敗れた。その後もヴァルパライソ競馬場に留まり、3月のトムソンマシューズ賞(T1850m)に出て勝利。同月末に出たヴィーニャデルマール市賞(T1850m)も勝利した。その後はヒポドロモ競馬場に戻り、5月のパラグアイ共和国賞(D2000m)に出走して勝利。そして2週間後のチリセントレジャー(D2400m)に出たが、バーナコフの4着に敗れた。
この頃、チリでは大統領選挙が行われ、チリ社会党から出馬したサルバドール・アジェンデ氏が当選した。これは民主的選挙により社会主義政権が誕生した世界史上初めての例だったが、それに対して米国が介入したり、アジェンデ氏の経済政策によりスーパーインフレが発生したりして、チリ国内は混乱に陥り始めていた。この政情不安を理由としてチリの競走馬の多くは他国に輸出された。本馬もチリセントレジャーを最後に、サンタアニタパーク競馬場のアナウンサーだったジョー・ヘルナンデス氏に購入され、米国に移籍する事になった。チリにおける成績は12戦5勝で、うちステークス競走の勝利が3つ、芝とダートいずれでも勝ち星を挙げていた。
競走生活(米国移籍後:1970年)
チリセントレジャーから2か月後の7月、ヘルナンデス氏が所有するペルラ・デ・チコ・スタッドの所有馬として、G・A・ライリー調教師の管理馬となった本馬の姿は、カリフォルニア州デルマー競馬場にあった。まずはダート6ハロンの一般競走に出たが、ここではグレコタイムの6馬身半差6着に敗れた。翌月に出た芝8.5ハロンの一般競走も、後のサンセットH勝ち馬オーバーザカウンターの4馬身差4着に敗退。しかし3戦目のエスコンディードH(T9F)では114ポンドという軽斤量にも助けられ、やはり南米からの移籍馬だった亜国産馬ノイロロゴを1馬身3/4差の2着に破って、1分49秒0のコースレコードで勝利した。次走のカブリロH(D10F)では、オーバーザカウンターに加えて、5か月前のサンタアニタHを筆頭にジョッキークラブ金杯・サンルイレイS・マンハッタンH・サンフアンカピストラーノ招待Hなどを勝っていたクイックンツリーという強豪馬が出現した。しかし本馬がクイックンツリーを1馬身3/4差の2着に破って勝利した。
この時期に本馬は12万5千ドルで取引され、メアリー・F・ジョーンズ・ブラッドリー女史の所有馬となり、チャールズ・ウィッティンガム厩舎に転厩している。次走のデルマーH(T11F)では、コックスプレート・ヴィクトリアダービーを勝って豪州から移籍してきたダリルズジョイの頭差2着に惜敗した。その後はニューヨーク州に移動して、マンハッタンH(T11F)に出走。このレースで主戦となるウィリアム・シューメーカー騎手と初コンビを組んだ。しかしシェルターベイと、トラヴァーズS勝ち馬ラウドの2頭に僅かに届かず、シェルターベイの3/4馬身差3着に敗れた。次走のマンノウォーS(T12F)では、ワシントンDC国際S・タイダルH2回・サンセットH・ハリウッドパーク招待ターフH・ディキシーH・ユナイテッドネーションズHなどを勝っていた当時の米国最強芝馬フォートマーシーとの初顔合わせとなった。しかし今回は本馬にとって苦手の重馬場になった影響もあり、勝ったフォートマーシーから25馬身差をつけられた10着最下位に敗れた。西海岸に戻って出走したオークツリーS(T12F)では、ダリルズジョイと、サンルイレイS・サンフアンカピストラーノ招待H・ハリウッドパーク招待ターフH・アメリカンH・カールトンFバークH2回の勝ち馬フィドルアイルの2頭に敗れて、ダリルズジョイの4馬身1/4差3着に終わった。1970年における移籍後の成績は8戦2勝だった。
競走生活(1971年)
1971年は、元日のサンガブリエルH(T9F)から始動した。ここでは2着スエルテアルコブレに1馬身1/4差をつけて勝利した。次走のサンマルコスH(T10F)では、2着ストーンチイーグルに6馬身差で圧勝。次走のサンルイオビスポH(T12F)では、127ポンドの斤量が堪えたのか、ダリルズジョイの半馬身差2着に敗れた。
次走は久々のダート戦となるサンタアニタH(D10F)となった。重馬場で行われたレースでは、本馬と同厩のウィザーズS・アーリントンクラシックS・ロサンゼルスH・サンカルロスH・サンパスカルH・サンアントニオH勝ち馬アクアクが先頭を飛ばし、本馬は後方を進んだ。そして直線では苦手の重馬場の中をよく追い上げてきたが、アクアクに1馬身半届かずに2着に敗れた。
次走のサンフアンカピストラーノH(T14F)では、前年のマンノウォーS勝利後にワシントンDC国際Sも勝利して米年度代表馬に選ばれていたフォートマーシーと2度目の対戦となった。斤量はフォートマーシーが126ポンド、本馬が125ポンドとほぼ互角だった。そして本馬が2位入線のフォートマーシー(進路妨害により6着に降着)に3馬身差、3位入線のサンルイレイH勝ち馬トライシープにはさらに3馬身1/4差をつけて完勝した。次走のセンチュリーH(T11F)では128ポンドが課せられた上に、直線でごちゃついた影響を受けて、ビッグショットの1馬身差3着(正確には4位入線だったが2位入線馬の降着による繰り上がり)に敗れた。しかしカリフォルニアンS(D8.5F)では2着マスターハンドに1馬身1/4差で勝利を収め、ダートでも大レース制覇を果たした。次走のハリウッド招待ターフH(T12F)では、フォートマーシーと3度目にして最後の対戦となったが、本馬がフォートマーシーを首差2着に破って勝利した。
次走は同厩馬アクアクと同様にハリウッド金杯が予定されていたが、ウィッティンガム師がブラッドリー女史を説得したため、翌週のサンセットH(T16F)に回る事になった。このレースでは130ポンドを背負わされてしまい、オーバーザカウンターの半馬身差2着に敗れた(この当時は無名だった翌年のエクリプス賞最優秀古馬牝馬タイプキャストが本馬から1馬身差の3着だった)が、ハリウッド金杯を勝った後に疝痛で引退したアクアクに代わる米国西海岸トップクラスの馬としての地位を確立した。
そして米国東海岸に向かい、ユナイテッドネーションズH(T9.5F)に出走したが、重馬場に泣いて、この年のエクリプス賞最優秀芝馬に選ばれるガーデンステートS・タイダルH勝ち馬ランザガントレットの21馬身差6着と惨敗した。次走のウッドワードS(D10F)では、モンマス招待Hの勝ち馬ウエストコーストスコットや、ジェロームHの勝ち馬ティナジェロ以下に5馬身差をつけて圧勝したと思ったのも束の間、進路妨害で3着に降着になってしまった。西海岸に戻って出走したオークツリー招待S(T12F)では、ラスパルマスH2回・サンタモニカH・サンタマルガリータ招待H・サンタバーバラHなどを勝っていた名牝マンタが挑んできたが、本馬が2着ベガスビックに5馬身差で圧勝。1971年の成績は12戦6勝となった。
競走生活(1972年)
翌年は2月のサンパスカルH(D8.5F)から始動した。ここでは128ポンドを課せられた影響もあり、ウエスタンウェルカムの1馬身半差2着に敗れた。次走のサンアントニオS(D9F)でも128ポンドが課せられ、サンフェリペS・カリフォルニアダービー・チャールズHストラブSの勝ち馬アンコンシャスと、サンフェルナンドSを勝ってきたトリプルベンドの2頭に届かず、アンコンシャスの5馬身差3着に敗れた。それでもサンタアニタH(D10F)では1番人気に支持されたが、トリプルベンドに頭差届かずに2着に惜敗した。次走のサンフアンカピストラーノH(T14F)では127ポンドを背負いながら、亜国から移籍してきたプラクティカント(亜ジョッキークラブ大賞・ナシオナル大賞・カルロスペレグリーニ大賞を勝った亜国年度代表馬で、移籍後もセネカH・サンルイオビスポHを勝っていた)を迎え撃ったが、勝ったプラクティカントから3/4馬身差の2着に敗れた。
しかしセンチュリーH(T11F)では斤量が125ポンドと少し下がった事もあり、2着アンコンシャスに4馬身3/4差をつけて、2分11秒0の世界レコードを叩き出して圧勝した。次走のカリフォルニアンS(D8.5F)では斤量が127ポンドとなったが、加国最大の競走クイーンズプレートを勝っていた同厩馬ケネディロードを2馬身3/4差の2着に破って2連覇を達成。勝ちタイム1分39秒2はレースレコードであり、1956年のイングルウッドHでスワップスが計時した全米レコード1分39秒0から0秒2遅いだけという優秀なものだった。6月のハリウッド招待ターフH(T12F)では129ポンドが課せられて、12ポンドのハンデを与えたタイプキャストの1馬身半差3着に敗れた。
その後はしばらく休養し、10月のカールトンFバークH(T10F)で復帰した。ここでは128ポンドを克服して、2着ケンタッキアンに1馬身1/4差で勝利した。次走のオークツリー招待S(T12F)では、2着クイーンズハスラーに2馬身差で勝利して2連覇を達成。1972年を9戦4勝着外無しの好成績で締めくくり、同年のエクリプス賞最優秀芝馬に選ばれた。
競走生活(1973年)
翌年は過去2年連続2着だったサンタアニタH(米GⅠ・D10F)で初戦を迎えた。レースはサンアントニオHを勝ってきた同厩馬ケネディロードが直線で先頭に立って粘るところに、後方から本馬が襲い掛かる展開となった。かつての本馬の所有者で、このレースの実況を務めたヘルナンデス氏が“And here comes Cou – gaaarrrrrrr!”と本馬の名前を絶叫する中、ゴール前でケネディロードを際どく鼻差差し切り、3度目の挑戦でようやく同レース制覇を果たした。
2週間後のサンルイレイS(米GⅠ・T12F)では、チャールズHストラブSで2着してきた上がり馬ビッグスプルースが2着キケロズコートに10馬身差で圧勝し、本馬はさらに3馬身差の3着に敗れた。さらに2週間後のサンフアンカピストラーノH(米GⅠ・T14F)では、ゴール前でビッグスプルースとクイーンズハスラーの2頭に迫ったが差し切ることはできず、クイーンズハスラーの3/4馬身差3着に敗れた。しかしさらに4週間後のセンチュリーH(米GⅠ・T11F)では、2着ウイングアウトに3馬身半差をつけて2連覇を達成した。続いてハリウッド招待H(米GⅠ・T12F)に出走したが。130ポンドが課されてしまい、前走センチュリーHで3着だったライフサイクルと、マリブSの勝ち馬ウイングアウトの2頭に届かず、ライフサイクルの1馬身半差3着に敗れた。次走のハリウッド金杯(米GⅠ・D10F)でも、ケネディロードと、ハリウッド金杯・カリフォルニアンS・カリフォルニアダービー・サンバーナーディノHの勝ち馬クワックの2頭に届かず、ケネディロードの5馬身差3着に敗れた。しかしサンセットH(米GⅠ・T12F)では、2着ライフサイクルに1馬身差で勝利した。
その後はニューヨーク州に向かい、ベルモントパーク競馬場で行われたマールボロC招待H(D9F)に出走した。このレースは元々、この年の米国三冠馬セクレタリアトと前年のケンタッキーダービー・ベルモントS勝ち馬リヴァリッジのマッチレースの場として用意されたものだったが、2頭の所有者が同一だったために公正な賭けが成立しなくなる事を懸念したニューヨーク州政府を説得するために、ベルモントパーク競馬場が他の複数の馬を招待したものだった。出走馬は本馬、セクレタリアト、リヴァリッジの他に、ケネディロード、ホイットニーSでセクレタリアトを2着に破っていたオニオン、トラヴァーズSの勝ち馬アニヒレイテーム、ウィザーズS・ブルックリンH・ホイットニーH・トラヴァーズS・ウッドワードS・サバーバンHなどを勝っていた前年のエクリプス賞最優秀3歳牡馬キートゥザミントだった。レースは逃げたリヴァリッジを直線で差し切ったセクレタリアトが勝利を収め、本馬はセクレタリアトから5馬身半差、2着リヴァリッジから2馬身差の3着だった。
次走のウッドワードS(米GⅠ・D12F)でもセクレタリアトとの対戦となったが、生憎と極悪不良馬場だった。レースは馬場状態を利したプルーヴアウトが2着セクレタリアトに4馬身半差で圧勝してしまい、本馬はセクレタリアトから10馬身半差の3着に敗退。このレースを最後に競走馬引退となった。1973年の成績は9戦3勝だった。獲得賞金総額は116万2725ドルで、米国外で産まれた米国調教馬としては史上初の100万ドルホースとなっている。
競走馬としての評価と特徴
ウィッティンガム師は本馬が勝ったサンタアニタHにおいて写真判定を待つ間に、2着ケネディロードも自分の管理馬だったにも関わらず、本馬を応援していると発言した。その理由を尋ねられた彼は「私はクーガーが大好きです。彼は他の馬と違います。非常に個性的です」と答えた。
地元カリフォルニア州における本馬の人気は絶大で、競馬に興味の無い人々にも良く知られていた。馬名の“Cougar”が猫科の肉食獣ピューマ(米国ではアメリカライオンとも言う)を意味していたためか、“The Big Cat(ザ・ビッグ・キャット)”の愛称で呼ばれた。実際に本馬はピューマのように尻尾が地面に触れるほど長かった(少し腰を下ろせば尻尾が地面に着くような長さであることが写真でも判る)。
筋骨隆々の馬体から繰り出される瞬発力は、さながら獲物を襲うピューマを彷彿とさせるものであり、後方から先行馬を一気に捕らえるというスリリングなレースぶりも本馬の人気の一因だった。
なお、過去に同名の馬が米国に存在したため、米国に移籍してきた本馬の名前には「Ⅱ」が付せられて、「CougarⅡ」と表記された。
血統
Tale of Two Cities | Tehran | Bois Roussel | Vatout | Prince Chimay |
Vashti | ||||
Plucky Liege | Spearmint | |||
Concertina | ||||
Stafaralla | Solario | Gainsborough | ||
Sun Worship | ||||
Mirawala | Phalaris | |||
Miranda | ||||
Merida | Jock | Asterus | Teddy | |
Astrella | ||||
Naic | Gainsborough | |||
Only One | ||||
Torissima | Tourbillon | Ksar | ||
Durban | ||||
Carissima | Clarissimus | |||
Casquetts | ||||
Cindy Lou | Madara | Nearco | Pharos | Phalaris |
Scapa Flow | ||||
Nogara | Havresac | |||
Catnip | ||||
Sun Princess | Solario | Gainsborough | ||
Sun Worship | ||||
Mumtaz Begum | Blenheim | |||
Mumtaz Mahal | ||||
Maria Bonita | Afghan | Mahmoud | Blenheim | |
Mah Mahal | ||||
Coronal | Coronach | |||
Selene | ||||
Las Palmas | Picacero | Bridge of Canny | ||
Picara | ||||
La tentacion | Old Man | |||
Letrangere |
父テイルオブトゥーシティーズは英国産馬で、競走馬としては愛国を中心に走った。現役成績は29戦7勝で、レイルウェイS・テトラークS・ドーンサイドS・マドリードS・ゼトランド金杯などを勝ち、愛2000ギニーで2着、愛ダービーで3着している。競走馬引退後はチリで種牡馬となり、1966/67シーズン及び1967/68シーズンの2度に渡りチリの首位種牡馬になっている。テイルオブトゥーシティーズの父テヘランはタルヤーの項を参照。
母シンディルーは現役時代チリで走ったが2戦未勝利。本馬の全妹カスティリンの子にカステラ【イエローリボンS(米GⅠ)・デルマーオークス(米GⅡ)・ラスパルマスH(米GⅡ)・ハネムーンH(米GⅢ)・サンゴルゴーニオH(米GⅢ)】がいる。母系は20世紀初頭に英国から亜国に導入されたものだが、あまり活躍馬は出ていない。シンディルーの7代母パティニュースの半姉ハーマイオニーはパーシモンやダイヤモンドジュビリーの祖母であり、世界的名牝系の祖でもあるが、そこまで遡らないと目立つ馬が出てこない牝系である。→牝系:F7号族①
母父マデラはネアルコの息子で、ロイヤルチャージャーの全弟、ナスルーラの甥という良血馬。しかし競走馬としては12戦2勝、ケンジントンパレスHで2着した程度に終わり、引退後はチリに輸出されていた。
競走馬引退後
競走馬を引退した本馬は、レスリー・コムズⅡ世氏が所有するケンタッキー州スペンドスリフトファームで種牡馬入りして、その後にアーサー・ハンコックⅢ世氏が所有するケンタッキー州ストーンファームに移動した。種牡馬としてはケンタッキーダービー馬ガトデルソルなど24頭のステークスウイナーを出しており、健闘したと言えるだろう。1989年6月にストーンファームにおいて22歳で他界した(本馬は南米産馬なので7月にならないと加齢されない)。2006年に米国競馬の殿堂入りを果たした。翌2007年には、本馬が米国で最初に勝利したレースであるエスコンディードHがクーガーHと改名され、現在はGⅢ競走として施行されている。種牡馬としては一定の成功を収めた本馬だが、後継種牡馬には全く恵まれなかったため、直系は既に途切れており、現在では母系に名を残すのみとなっている。繁殖牝馬の父としては、ビワハヤヒデの父シャルードを出している。
主な産駒一覧
生年 |
産駒名 |
勝ち鞍 |
1976 |
Angel Island |
アルキビアデスS(米GⅡ)・ゴールデンロッドS(米GⅢ) |
1976 |
Our Suiti Pie |
デルマーオークス(米GⅡ) |
1977 |
Exploded |
ハリウッドパーク招待ターフH(米GⅠ)・デルマーダービー(米GⅢ) |
1979 |
Gato Del Sol |
ケンタッキーダービー(米GⅠ)・デルマーフューチュリティ(米GⅡ) |
1979 |
Milingo |
アーリントンワシントンラッシーS(米GⅠ) |
1982 |
First Norman |
デルマーダービー(米GⅡ) |
1985 |
Cougarized |
ナシュアS(米GⅢ) |