ロードクリフデン
和名:ロードクリフデン |
英名:Lord Clifden |
1860年生 |
牡 |
鹿毛 |
父:ニューミンスター |
母:ザスレイヴ |
母父:メルボルン |
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英セントレジャーで50馬身差を逆転して勝利した典型的追い込み馬は種牡馬としても晩年に活躍馬を出す追い込みで名馬ハンプトンを通じて後世にその血を伝える |
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競走成績:2~4歳時に英仏で走り通算成績12戦7勝2着3回(異説あり) |
誕生からデビュー前まで
母ザスレイヴの所有者だったJ・A・ハインド氏の生産・所有馬で、エドウィン・パー調教師により管理された。デビュー前調教から優秀なスピード能力を示しており、陣営は期待を持っていたようである。
競走生活(2歳時)
2歳6月にエプソム競馬場で行われたウッドコートS(T6F)で、主戦となるジョージ・フォーダム騎手を鞍上にデビューした。単勝オッズ2.5倍の1番人気に支持されたのだが、スタートで後手を踏んでしまった。一時期は先頭から10馬身差をつけられており、短距離戦である事も相まって勝利は絶望的な状況だった。ところがゴール前で怒涛の追い込みを決めて、2着オーファンに2馬身差(1馬身差とする資料もある)で勝利した。
このレースの後、本馬の半姉レディクリフデンの所有者だったクリスティー大佐や、このレースで2着だったオーファン(後に破傷風で他界している)の所有者だった第3代セントヴィンセント子爵カーネギー・ロバート・ジョン・ジャービス卿が、本馬を購入したいと名乗りを挙げた。いったんはクリスティー大佐が4千ポンドで購入したが、ジャービス卿がクリスティー大佐に交渉を持ち掛けて、5千ギニーに加えて、本馬が英ダービーを勝った暁には追加で2千ギニーを支払うオプション付きの契約で購入した。なお、管理調教師はパー師のままで変更されなかった。
その後は9月にドンカスター競馬場で行われた英シャンペンS(T8F)に出走して、単勝オッズ2倍を切る圧倒的な1番人気に支持された。ここでは特に出遅れたわけではないようだが、鞍上のフォーダム騎手が意図的に抑えたために今回も馬群の後方を進むことになった。そして直線入り口で仕掛けると、残り1ハロン地点で先頭のアルマニャックとアーリーパールの2頭を捕らえた。ここからアルマニャックが粘りを見せたために差は広がらなかったが、最後は本馬が2着アルマニャックに半馬身差、3着アーリーパールにはさらに3馬身差をつけて勝利した。それから2日後には100ポンドスウィープSに出走した。本馬はまたしてもスタートで大きく出遅れてしまい、数馬身のロスを蒙った。それでも徐々に前との差を詰めていくと、残り1ハロン地点でフォーダム騎手が合図を送ると末脚を炸裂させた。そしてゴール直前で先頭のボヘミアを捕らえて頭差で勝利した。このレースには後の英オークス馬クイーンバーサも出走していたのだが、前2頭から3馬身差の3着に終わっている。2歳時はこれが最後のレースで、この年の成績は3戦全勝だった。
競走生活(3歳前半)
休養明けの3歳時は調教で有力他馬を一蹴するなど順調な調整ぶりを見せていたが、調教中に少し脚を痛めたようで、以降の本馬はしばしば脚を引きずる場面が見られたという。3歳初戦は陣営の最大目標だった英ダービー(T12F)となった。本馬が単勝オッズ5倍の1番人気に支持され、ホスペンダーとゲーリという2頭の馬が並んで単勝オッズ10倍の2番人気、英2000ギニー馬マカロニと英2000ギニー2着馬サッカロメーターが並んで単勝オッズ11倍の4番人気となった。レース当日は大雨であり、馬場状態は不良となっていた。31頭が出走していたこのレースでは、複数の馬が予定時刻より15分遅れでスタート地点まで来た上に、各馬の呼吸がなかなか合わず、なんと32回ものフライングがあり、発走は予定より1時間も遅れた。
ようやく正規のスタートが切られると、ブライトクラウドという馬が先頭に立ち、フォーダム騎手騎乗の本馬は10番手辺りにつけた。4ハロンほど走ったところで早くも本馬が位置取りを上げてドニーブルックと共に先頭に立ち、ブライトクラウドは3番手に下がった。さらに2ハロンほど走ったところで、キングオブザヴェールという馬の騎手が落馬してサッカロメーターを含む2頭が巻き込まれて競走を中止する事故が起きたが、前にいた本馬には影響がなく、そのままタッテナムコーナーを回って先頭で直線に入ってきた。そしてそのまま押し切ろうとしたところに、残り1ハロン地点で内側を突いたマカロニが強襲してきた。そして本馬とマカロニが殆ど同時にゴールインした。このレースを見ていた人の大半は、本馬が勝ったか、同着かのいずれかだと思ったそうだが、結果はマカロニの短頭差勝利だった。当時は写真判定も無く、本馬の敗戦は「エプソムにおける不運」と評され、逆に本馬の人気が上がる結果になった。
翌日にはグレートサリーフォールSに出走した。対戦相手はジャルニコトンという仏国産馬のみだった。レースは本馬がスタートから先行してそのまま逃げ切ろうとしたが、残り1ハロン地点でジャルニコトンが差してきて、2頭が殆ど同時にゴールインした。2頭の馬体は離れていたためにどちらが勝ったのかは即断できなかったが、今回は本馬が頭差で勝利という結果だった。しかしジャルニコトンに乗っていた騎手の鐙がレース中に破損しており、それが無ければ勝敗はどちらに転んでもおかしくなかった状況であり、英ダービーに続いて消化不良の内容だった。
その2週間後には仏国に遠征して、記念すべき第1回のパリ大賞(T3000m)に出走した。英国と仏国は100年戦争勃発前から皇帝ナポレオン1世の登場まで仇敵だったが、この7年前に終結したクリミア戦争で英国と仏国が共同でロシアと戦った事もあり、この時期の英仏関係は表向き良化に向かっていたのである(ただし、両国民の感情はそう簡単には収まらなかったのは、翌年の第2回パリ大賞に出走した英ダービー馬ブレアアソールに対して散々に罵声が浴びせられたのを見れば一目瞭然である)。当日のロンシャン競馬場には、当時の仏国皇帝ナポレオン3世夫妻や、ポルトガル国王フェルナンド2世(当時の英国ヴィクトリア女王の従兄弟)、オランダのウィリアム皇太子を含む大観衆が詰めかけていた。仏ダービーと仏オークスを連覇していた地元の名牝ラトゥーケが単勝オッズ3倍の1番人気に支持され、本馬が単勝オッズ4.5倍の2番人気となった。
英ダービーと異なりフライングスタートも無く、各馬が綺麗にスタートを切った。その中でトム・チャロナー騎手に乗り代わっていた本馬は馬群の後方につけていた。そして直線に入る前で、やはり後方にいたラトゥーケと一緒に上がっていこうとしたのだが、2頭ともに前が塞がって進出できなかった。この段階で先頭にいたのは英ダービーでいずれも着外に終わっていたザレンジャーとサッカロメーターの2頭だった。そこへいずれも馬群を突破してきた本馬とラトゥーケの2頭が追い上げていった。しかし本馬の脚色よりラトゥーケの脚色のほうが遥かに上だった上に、先頭の2頭もよく粘ったために、本馬は結局優勝争いに加わることは出来なかった。ザレンジャーが記念すべき第1回パリ大賞の覇者として名を刻み、1馬身差の2着がラトゥーケ、さらに2馬身差の3着がサッカロメーターで、本馬はさらに4馬身差の5着に終わった。なお、このレースの結果に関しては異説があり、ザレンジャーが勝ったのは同じだが、2着は本馬だったとする資料もある。
競走生活(3歳後半)
その後は秋の英セントレジャー(T14F132Y)に直行した。本馬の主戦だったフォーダム騎手は、パリ大賞で自分が本馬に騎乗するように依頼されなかった不満に加えて、パリ大賞で完敗を喫した本馬に騎乗する意思を喪失していたらしく、このレースで本馬に騎乗する事を拒否した。そのために本馬はジョニー・オズボーン騎手と急造コンビを組むことになった。それでも本馬は、パリ大賞を勝ったザレンジャー、英オークスを勝ちアスコットダービーで2着していたクイーンバーサ、アスコットダービー3着馬ブルーマントル、エボアHを勝っていたゴールデンプレッジ、プリンスオブウェールズSで2着していた牝馬ボレアリスなどを抑えて単勝オッズ4.33倍の1番人気に支持された(マカロニは不参戦だった)。
この日にドンカスター競馬場に集まった群集の熱狂ぶりは異常であり、その影響なのか、元々スタートが苦手だった本馬はいつも以上に出遅れてしまった。しかも他馬により進路を塞がれてしまい、本馬は一時期先頭のドクターシンタックスから100ヤードとも50馬身差とも言われる後方を走る羽目になってしまった。あまりにも差がついたために、レースがまさに行われている最中に発売された馬券では、本馬の単勝オッズは1201倍(単勝12万馬券)に設定されたほどだった。しかし本馬鞍上のオズボーン騎手は焦らずに、レース前半は本馬をゆっくり走り続けた。そして残り1マイル地点に差し掛かった辺りでスパートを掛けると、一気に前方馬群との差を縮めていった。そして最後はきっちりと全馬を差し切って、2着クイーンバーサに半馬身差で勝利した。英セントレジャー史上最もセンセーショナルなレースとも言われた本馬の勝利に、熱狂した群集は本馬を取り囲み、パー師は本馬やオズボーン騎手の元へ行くのに人波をかき分ける必要があった。勝ち馬表彰式においてジャービス卿は「ロードクリフデンこそが世界で最高の馬です!」と高らかに宣言した。
それから僅か2日後にはドンカスターS(T12F)に出走した。前走でクイーンバーサからさらに4馬身差の3着だったボレアリスなど4頭が対戦相手となった。今回も馬群の後方を進んだ本馬は、直線に入ってから他馬をごぼう抜きにして、14ポンドのハンデを与えた2着ボレアリスに半馬身差で勝利した。3歳時の成績は5戦3勝だった。
競走生活(4歳時)
4歳時は4月にニューマーケット競馬場で行われたクラレットS(T16F)から始動した。対戦相手は、英ダービーで本馬から半馬身差の3着に入っていたラピッドローヌなど2頭のみだった。絶大な人気を誇っていた本馬の周囲には群衆が詰めかけていたため、パー師は本馬をスタート地点に連れていくことが出来ず、いったん戻って群衆が散らばってから改めてスタート地点に連れていく必要があった。スタートが切られるとラピッドローヌが猛然と加速して大逃げを打ち、本馬は例によって抑え気味に進んだ。ところが本馬が終盤になって加速を開始しても、ラピッドローヌとの差は縮まらなかった。結局はラピッドローヌが逃げ切ってしまい、本馬は10馬身もの差をつけられて2着に敗れた。
なお、この時期にヴィンセント卿は本馬の管理調教師をパー師から、元々アマチュアの障害騎手だったウィリアム・ベヴィル師に交代させているようである。調教師が交代となった理由は不明である上に、交代時期も3歳シーズンの暮れであるという説と4歳シーズンの途中からという2説があり、その辺の経緯はさっぱり分からない。
次走のアスコット金杯(T20F)では、本馬見たさにアスコット競馬場史上最大の観衆が詰めかけた。しかし結果は、英ダービーでブレアアソールの3着してきた3歳馬スコティシュチーフが勝利を収め、本馬は2着、3着は前年のパリ大賞の勝ち馬ザレンジャーだった。なお、このレース結果に関しては、前年のパリ大賞同様に異説がある。スコティシュチーフが勝ったのは同じだが、エプソムC・スチュワーズCの勝ち馬リトルスタッグが2着、ロードゼトランド又はヴォルティジュール(本馬の母の叔父である名馬ヴォルティジュールとは当然同名異馬)という馬が3着で、本馬はスコティシュチーフから20馬身後方の5着に敗れたというものである。前年のパリ大賞もそうだが、筆者なりに複数の資料を比較したり、基礎資料を照合したりした結果、パリ大賞では本馬は5着、アスコット金杯では2着という可能性のほうが高いという結論に至ったために、そうでないほうの説は異説として扱っている。
その後は翌7月にグッドウッド競馬場で行われたチェスターフィールドC(T10F)に向かった。しかし結果はキングオブユートピアという馬が勝ち、本馬は着外に敗れた。本馬の敗因は124ポンドのトップハンデが課せられたためではなかった。このレースには本馬の半姉レディクリフデンも出走しており、姉弟対決となっていたのだが、残り4ハロン地点で本馬とレディクリフデンが衝突した拍子に本馬鞍上のオズボーン騎手が落馬してしまったのである。オズボーン騎手は軽傷で済んだのが不幸中の幸いだったが、ただでさえ珍しい姉弟対決で姉と弟が本当に衝突するなどというのは前代未聞の事態だった。本馬はこの同日に同じグッドウッド競馬場で行われた100ポンドスウィープSに出走したが、対戦相手がいなかったために単走で勝利した。そしてこのレースを最後に4歳時4戦1勝の成績で競走馬を引退した。
本馬は競走馬としての人気は同世代のマカロニより上だったが、大半の専門家は本馬よりマカロニのほうが実力上位と判断していたようである。もっとも、本馬は今ひとつ競走馬としての全能力を発揮しきれていなかったと判断する専門家もおり、筆者もそのとおりだろうと考えている。
本馬は父ニューミンスターよりも母父メルボルンによく似た顔立ちや大柄な馬体を有していた。また、大跳びで走る馬だったが、下半身の力が弱かったようである。そのため、アスコット競馬場やニューマーケット競馬場のような急勾配があるコースでの成績は結果的に良くなかったようである。また、性格は非常に温和で従順な馬で、短気という言葉とは無縁の馬だった。猫に顔を寄せている本馬の様子を描いた絵画が残されており、猫好きだったようである。スタートダッシュが悪かったのは、馬力に欠けていたからだけでなく、こののんびりした性格とも無縁ではないのかもしれない。
血統
Newminster | Touchstone | Camel | Whalebone | Waxy |
Penelope | ||||
Selim Mare | Selim | |||
Maiden | ||||
Banter | Master Henry | Orville | ||
Miss Sophia | ||||
Boadicea | Alexander | |||
Brunette | ||||
Beeswing | Doctor Syntax | Paynator | Trumpator | |
Mark Anthony Mare | ||||
Beningbrough Mare | Beningbrough | |||
Jenny Mole | ||||
Ardrossan Mare | Ardrossan | John Bull | ||
Miss Whip | ||||
Lady Eliza | Whitworth | |||
Spadille Mare | ||||
The Slave | Melbourne | Humphrey Clinker | Comus | Sorcerer |
Houghton Lass | ||||
Clinkerina | Clinker | |||
Pewett | ||||
Cervantes Mare | Cervantes | Don Quixote | ||
Evelina | ||||
Golumpus Mare | Golumpus | |||
Paynator Mare | ||||
Volley | Voltaire | Blacklock | Whitelock | |
Coriander Mare | ||||
Phantom Mare | Phantom | |||
Overton Mare | ||||
Martha Lynn | Mulatto | Catton | ||
Desdemona | ||||
Leda | Filho da Puta | |||
Treasure |
父ニューミンスターは当馬の項を参照。
母ザスレイヴは英国王室のハンプトンコートで生産された馬で、名馬ヴォルティジュールの全姉ヴォリーの2番子である。その血統背景から繁殖牝馬として期待されていたようで、競走馬としては2歳時に3戦未勝利の成績で3歳時に早々に繁殖入りしている。しかし繁殖牝馬としては死産や不受胎が多かったようで、特筆できる競走成績を挙げた産駒は本馬とレディクリフデン(父サープライス)程度しかいない。
本馬の2歳上の半姉レディクリフデンは現役時代短距離戦で活躍し、2歳時にタイロS、3歳時にポートランドH、4歳時にスチュワーズC、5歳時にカウンティCを勝ち、“The Flying Lady Clifden”と呼ばれた快速馬だった。6歳時にはチェスターフィールドCで本馬と直接対決したが、本馬を落馬競走中止させてしまったのは先述したとおりである。
ザスレイヴは先述のとおりにヴォルティジュールの姪に当たり、同じ牝系からはここに書ききれないほど数々の活躍馬が出ているのだが、ザスレイヴ自身の牝系子孫はそれほど発展しなかった。レディクリフデンは母として何頭かの勝ち上がり馬を出したが、全く牝系を伸ばせなかった。それでもザスレイヴの牝系子孫が途絶えたわけではない。本馬の半妹オーランドメア(父オーランド)の牝系子孫はそれほど発展しなかったが、キャプテンクック【新国際S(新GⅠ)】、キープザピース【新オークス(新GⅠ)・マッジウェイパーツワールドS(新GⅠ)・WFAクラシック(新GⅠ)】が出るなど、今世紀も残っている。
本馬の半妹リトルレディ(父オーランド)の子にはカンバロ【英2000ギニー・ジュライS・英シャンペンS】がいる。リトルレディの牝系子孫も今世紀まで残っているのだが、それが生き残っているのは世界的に見て実は日本のみのようである。リトルレディの玄孫には日本競馬史上最初の最強馬にして名種牡馬ともなったコイワヰが出た。近年は大物競走馬こそ出ていないが、マイネルダビテ【共同通信杯四歳S(GⅢ)】、ジョージレックス【東京ダービー】、チェックメイト【東京新聞杯(GⅢ)・ダービー卿チャレンジトロフィー(GⅢ)】などが出ている。→牝系:F2号族③
母父メルボルンはウエストオーストラリアンの項を参照。
競走馬引退後
競走馬を引退した本馬は、ジャービス卿所有のまま、6歳時からヨークにあったジョージ・トンプソン氏所有のムーアランドスタッドで種牡馬入りした。競走馬としてもそうだったが、本馬は種牡馬としてもスタートが悪い馬で、最初の大物産駒ホーソーンデンが英セントレジャーを勝った1870年に英種牡馬ランキングで6位に入った以外には、1871年までに英種牡馬ランキング20位以内に入った事は無かった。そのためジャービス卿は本馬を売却するように周囲から勧められ、本馬は1870年に4千ギニーでトマス・ジー氏により購入された。
ジー氏所有となった本馬はサセックス州にあったジー氏所有のデューハーストロッジスタッドに移動して種牡馬生活を続けた。ジー氏が本馬に対して抱いた愛情は並々ならぬものだったようで、本馬が移動のために列車に乗る際にはジー氏がいつも同乗したと資料にある。1872年にウェンロックが産駒2頭目の英セントレジャー勝ち馬となり、同年には独ダービーなどを勝ったヒュメナイオスの活躍により独首位種牡馬になるなど、ジー氏の所有となった後に本馬の産駒は活躍を開始し、当初の失敗種牡馬という烙印を見事に打ち消した。1878年まで英種牡馬ランキングで8位より下になる事はなく、1876年には英2000ギニー・英セントレジャーを勝ったペトラークや、グッドウッドSを勝ったハンプトンの活躍等により、英首位種牡馬に輝いている。その後も英オークスや英セントレジャーなどを勝った名牝ジャネットを出し、本馬は祖父タッチストン、父ニューミンスターに次ぐ3代目の英セントレジャー勝ち馬らしく、英セントレジャー優勝馬を4頭も送り出した。本馬は英首位種牡馬になる前年の1875年2月に心臓発作を起こし15歳の若さで他界したが、代表産駒の1頭ハンプトンが種牡馬として成功し、直系を現在まで伸ばしている。
主な産駒一覧
生年 |
産駒名 |
勝ち鞍 |
1867 |
Hawthornden |
英セントレジャー |
1867 |
Moorlands |
クイーンアンS |
1868 |
Rebecca |
ヨークシャーオークス |
1869 |
Hymenaeus |
独ダービー |
1869 |
Wenlock |
英セントレジャー |
1869 |
Winslow |
ロイヤルハントC |
1872 |
Gilbert |
アスコットダービー |
1872 |
グッドウッドC・ドンカスターC |
|
1873 |
英2000ギニー・英セントレジャー・ミドルパークS・アスコット金杯・プリンスオブウェールズS |
|
1875 |
El Rey |
ドーヴィル大賞 |
1875 |
英オークス・英セントレジャー・ヨークシャーオークス・英チャンピオンS・リッチモンドS・パークヒルS・ジョッキークラブC |