サープライス

和名:サープライス

英名:Surplice

1845年生

鹿毛

父:タッチストン

母:クルシフィックス

母父:プライアム

大種牡馬タッチストンと名牝クルシフィックスの間に生まれ、英ダービー・英セントレジャーを制して母子で英国クラシック競走完全制覇を達成

競走成績:2~5歳時に英で走り通算成績14戦9勝2着2回3着1回

誕生からデビュー前まで

本馬の母である名牝クルシフィックスの所有者だった英国保守党所属の政治家ウィリアム・ジョージ・フレデリック・キャヴェンディシュ・スコット・ベンティンク卿により生産された。父が名競走馬にして既に種牡馬としても大きな成功を収めつつあったタッチストンで、母が英国クラシック競走3勝を含む12戦全勝のクルシフィックスという本馬の血統は、おそらくその当時の英国で考え得る最高のものだった。

成長すると体高16.1ハンドに達した当時としては背が高い馬だった。父タッチストンは体高15.2ハンドしかなかったのに対して、母クルシフィックスは体高16ハンドだったから、本馬の身長は母譲りである可能性がかなり高い。

本馬が2歳になった1846年に、ベンティンク卿は政治活動に専念するために馬主を辞めることにして、本馬やクルシフィックスを始めとする所有馬全てを売却に出した。そして本馬は母と一緒に、第2代モスティン男爵エドワード・ロイド・モスティン卿により1万ポンドで購入された。売買契約成立時に本馬は既にジョン・ケント・ジュニア調教師の管理下で訓練が開始されていた。ベンティンク卿は本馬をモスティン卿に売却するに際して、ケント厩舎に残す事という条件を付けていたため、所有者が変わっても本馬はそのままケント厩舎に残った。

競走生活(2歳時)

2歳7月にグッドウッド競馬場で行われたハムSでデビューした。既にかなりの評判馬であり、単勝オッズ1.57倍の1番人気に支持された。レースではスタートから先頭に立つと、そのまま2着リストンに2馬身差をつけて危なげなく逃げ切った。このレース後に本馬は翌年の英ダービーの前売りオッズで11倍という、出走するかどうかも定かではないこの時期としてはかなり低いオッズが設定された。引き続きグッドウッド競馬場に留まった本馬は、プロデュースSに出走。単勝オッズ1.33倍の1番人気に応えて、3馬身差で難なく勝利を収めた。次走は9月にドンカスター競馬場で行われたミュニシパルSとなり、このレースも勝利を収めた。次走は10月にニューマーケット競馬場で行われたバッケナムSとなったが、本馬が出走してくると耳にした他馬陣営が全て回避して対戦相手がいなかったために単走で勝利した。2歳時はこれが最後のレースで、この年の成績は4戦全勝だった。

ところで、本馬はこの2歳暮れに母クルシフィックス共々所有者が変わっている。新しくこの母子の所有者となったのは、第3代クリフデン子爵ヘンリー・アガー・エリス卿だった。エリス卿の競馬マネージャーをしていたフランシス・ヴィラーズ氏は、本馬と同じくケント厩舎にいたロードストーンという有力馬の所有者でもあった。そのために本馬の所有者変更には何か裏があるのではないかと黒い噂が流れたそうだが、それでも本馬が翌年の英ダービーの大本命であることには変わりが無かった。

競走生活(3歳前半)

本馬の3歳初戦はその英ダービー(T12F)となった。ぶっつけ本番ではあったが、それでも本馬は単勝オッズ2倍の1番人気に支持された。レースが始まると、シム・テンプルマン騎手が騎乗する本馬は17頭立ての5番手という絶好の位置につけた。そしてタッテナムコーナーを回りながら加速して、3番手で直線に入ってきた。そして残り2ハロン地点で先頭に立ち、そのまま楽勝かと思われた。しかしここでシャイロック、スプリンジージャックという2頭の馬が本馬に襲い掛かってきた。まず本馬に並びかけてきたのはシャイロックだったが、これは本馬があっさりと競り落として突き放した。しかし次に来たスプリンジージャックの脚色は非常に良く、本馬との差がどんどん縮まってきた。しかしテンプルマン騎手が死に物狂いで本馬に檄を飛ばしたため、辛うじて本馬が押し切り、2着スプリンジージャックに首差、3着シャイロックにはさらに1馬身差をつけて勝利した。勝ちタイム2分48秒0はレースレコードだった。本馬の父タッチストンは英セントレジャーを、母クルシフィックスは英2000ギニー・英1000ギニー・英オークスを勝っていたから、これで親子3頭合わせて英国クラシック競走完全制覇となった。

本馬の生産者ベンティンク卿は政治活動に専念するために馬主を辞めて本馬を売りに出したわけだが、さすがに売った馬が英ダービーを勝ってしまうと、心中穏やかではいられなかったそうである(彼は馬主として他の英国クラシック4競走は全て勝っていたが、英ダービーだけは勝っていなかった)。この頃、ベンティンク卿と同じく保守党に所属していたベンジャミン・ディズレーリ氏という人物がいた。後に英国首相ともなるディズレーリ氏は自由党所属の好敵手ウィリアム・グラッドストン氏と並んで19世紀英国を代表する政治家となる人物であり、高校世界史の教科書には必ずと言ってよいほど登場する大物である。この2年前には盟友ベンティンク卿と協力して、同じ保守党所属だったが意見を対立させていた当時の英国首相ロバート・ピール卿の内閣打倒に成功していた(ベンティンク卿が政治活動に専念するようになった時期と重なる事から、ベンティンク卿が馬主を辞めたのはピール内閣打倒に尽力するためだった可能性が高い)。そんなディズレーリ氏が友人を慰めると、ベンティンク卿は「ダービーの重要性を知らない人間にあれこれ言われたくない」と八つ当たりともとれる発言をした。ディズレーリ氏は「ダービーが競馬界のブルーリボン(一等賞の意味。英国では自国のダービーの事を“Blue Ribbon of Turf”としばしば表現する)である事くらいは知っています」と応じ、ディズレーリ氏の精神状態があまり良くない事を悟ると大人しく引き下がった。ベンティンク卿とディズレーリ氏は1度も喧嘩をしたことが無いそうだが、これはディズレーリ氏が大人の対応を取ったためであると思われ、ベンティンク卿はかなり気性が荒い人物だったようである。ベンティンク卿は後に本馬が英セントレジャーを勝った直後に46歳で死去している。

競走生活(3歳後半)

話が完全に逸れたので元に戻すと、英ダービーを勝った本馬は7月にグッドウッド競馬場に赴いた。まずはグラットウィックS(T12F)に出走したが、断然の1番人気に応えられず、前月にコロネーションSを勝っていた牝馬ディスタフィーナの2着に敗れた。その2日後にはレーシングS(T8F)に出走した。ここでも断然の1番人気に支持されたのだが、セントジェームズパレスS・モールコームSの勝ち馬で英2000ギニー2着のグレンダウワの3着に敗れた。この時期のグッドウッド競馬場は馬場状態が悪く、2戦とも本馬はそれに上手く対応できなかったのが敗因だとされている。しかし調教師の責任も追及されたらしく、本馬はロバート・スティーブンソン・ジュニア厩舎に転厩する事になった。

その後は英セントレジャー(T14F132Y)に向かった。本馬は単勝オッズ3.25倍の1番人気に支持されたのだが、もう1頭本馬と並んで1番人気に支持された馬がいた。それはカンズーという牝馬で、英1000ギニー・ナッソーSの勝ち馬だった。このレースにはもう1頭、英2000ギニーの勝ち馬でロシア皇帝プレート(現アスコット金杯)2着の実績があった同じタッチストン産駒のフラットキャッチャーという実力馬(スターリングの母父)も参戦していた。レースは幾度ものフライングがあり、大半の馬が正規のスタート前に2ハロンほど余分に走っていた。ようやく正規のスタートが切られると、フラットキャッチャーが先頭に立ち、今回本馬に騎乗したナット・フラットマン騎手はやはり本馬を先行させた。そして直線に入ってから仕掛けて、フラットキャッチャーを容易にかわして先頭に立った。しかしそこへ後方からカンズーが襲い掛かってきて、本馬に並びかけてきた。しかしここから本馬が得意の闘争心を発揮して抜かさせず、最後は2着カンズーに首差、3着フラットキャッチャーにはさらに3馬身差をつけて勝利を収めた。これで本馬とクルシフィックスの母子は2頭で英国クラシック競走完全制覇を成し遂げた。英ダービー馬が英セントレジャーを勝ったのは、1800年のチャンピオン以来48年ぶり史上2頭目だった。この頃はまだ英国三冠という概念自体が無く、英ダービー馬が英セントレジャーに出走しない事も当たり前だった。ゴール前における本馬とカンズーの死闘は名勝負として後世に語り継がれた。かなり激しい戦いで、フラットマン騎手は本馬に対して徹底して鞭や拍車を使用する必要があった。

英セントレジャーの激戦を制した本馬は、その2日後のノースオブイングランドSに出走。しかし対戦相手がいなかったために単走で勝利した。その後はニューマーケット競馬場に向かい、グランドデュークマイケルS(T10F)に出走。対戦相手はフラットキャッチャーのみであり、2頭立てとなった。単勝オッズ1.36倍の1番人気に支持された本馬は、ゴール前でフラットキャッチャーに並びかけられたが、得意の闘争心を発揮して半馬身差で勝利した。その後は2週間後のシザレウィッチH(T18F)に出走した。単勝オッズ4倍の1番人気に支持された本馬だったが、このレースは生憎の不良馬場となってしまった。重馬場が不得手な本馬はこのレースで実力を出し切れずに、スチュワーズCを勝っていた6歳牡馬ザカー、斤量69ポンドの3歳牝馬ダチア、ジムクラックS・パークヒルSの勝ち馬でドンカスターC2着・英オークス3着の4歳牝馬エラーデールなどに屈して、ザカーの着外に敗れた。この秋シーズンには本馬が出走登録されていたレースがもう2戦あった。しかしその2戦の出走登録をしていたのは本馬の生産者ベンティンク卿であり、前述のとおりベンティンク卿が英セントレジャーの直後に死去していたために、当時の規定に従って2競走とも登録無効となり、本馬の3歳時の出走はシザレウィッチHで終わった。3歳時の成績は7戦4勝だった。

競走生活(4・5歳時)

4歳時も現役を続け、まずは4月にニューマーケット競馬場で行われた牝馬トファナとのマッチレースから始動する予定だった。しかし本馬の斤量はトファナより35ポンドも重く設定された。それがお気に召さなかったのか、エリス卿は罰金を支払って、本馬を回避させた。しかし本馬はその後にかなり長い期間レースに出なかった事からすると、脚部不安などの健康上の問題が発生していたのが本当の回避理由だった可能性もある。結局本馬の復帰戦は8月にグッドウッド競馬場で行われたチェスターフィールドC(T10F)となった。単勝オッズ2.5倍の1番人気に支持された本馬だったが、結果は6着に完敗。勝ったのはウールウィッチという馬で、2年後のロシア皇帝プレートを勝つことになる実力馬だった。その後の10月には、本馬より1歳年上の英セントレジャー・ロシア皇帝プレート・英シャンペンS・グッドウッドCの勝ち馬で英ダービー3着のヴァントロンプ、ジャスティスフォーアイルランドとの3頭マッチレースがニューマーケット競馬場において企画された。グレート・マッチレースとして喧伝されたのだが、ヴァントロンプとジャスティスフォーアイルランドの2頭がいずれも罰金を払って回避したため、企画倒れに終わった。一応レース自体は行われ、本馬が単走で勝利を収めて賞金1000ポンドを手にした。同月下旬には、チェスターフィールドC・ロイヤルハントS・トライアルS(現クイーンアンS)を勝っていた2歳年上のコリングウッドとのマッチレースがやはりニューマーケット競馬場で企画された。斤量は本馬のほうが16ポンドも軽い設定だったために、明らかに本馬有利だったが、今回は本馬陣営が罰金を支払って回避した。4歳時の成績は2戦1勝だった。この状況からすると、やはり4歳時の本馬には健康面で何らかの異常が発生していた可能性が高そうである。

それでも5歳時も現役を続行。4月にニューマーケット競馬場で行われたセントロザリアという牝馬とのマッチレースに出走した。今回は回避馬が出ず、マッチレースは実際に行われたのだが、斤量は本馬が19ポンド重かった事や、本馬にはあまり適していない短距離戦だった事もあり敗北。これが現役最後のレースとなった。馬名は聖職者が身に着ける白い法衣の意味で、おそらく十字架を意味する母クルシフィックスの名前から連想して命名されたと考えられる。

後の1886年6月に、英スポーティングタイムズ誌が競馬関係者100人に対してアンケートを行うことにより作成した19世紀の名馬ランキングにおいては、第34位にランクインした。母クルシフィックスは第20位、父タッチストンは第22位であり、両親より順位は下だが共にランクイン入りを果たした。

血統

Touchstone Camel Whalebone Waxy Pot-8-o's
Maria
Penelope Trumpator
Prunella
Selim Mare Selim Buzzard
Alexander Mare
Maiden Sir Peter Teazle
Phoenomenon Mare 
Banter Master Henry Orville Beningbrough
Evelina
Miss Sophia Stamford
Sophia
Boadicea Alexander Eclipse
Grecian Princess
Brunette Amaranthus
Mayfly
Crucifix Priam Emilius Orville Beningbrough
Evelina
Emily Stamford
Whiskey Mare
Cressida Whiskey Saltram
Calash
Young Giantess Diomed
Giantess
Octaviana Octavian Stripling Phoenomenon
Laura
Oberon Mare Oberon
Sister to Sharper
Shuttle Mare Shuttle Young Marske
Vauxhall Snap Mare
Zara Delpini
Flora

タッチストンは当馬の項を参照。

クルシフィックスは当馬の項を参照。→牝系:F2号族②

母父プライアムは当馬の項を参照。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬はドンカスターにあるターフタバーンスタッドで種牡馬入りした。初年度の種付け料は25ギニーに設定された。何頭かの活躍馬を出したが、その種牡馬成績は期待からすると明らかに下だった。1871年に26歳で他界した。本馬の血を引く馬としては、本馬を母父に持つ1872年の英2000ギニー馬プリンスチャーリーと、その代表産駒である米国顕彰馬サルヴェイターが挙げられるが、サルヴェイターが種牡馬として成功しなかったため、本馬の血を引く有力馬はなかなか見つからない状態である。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1854

Florin

仏2000ギニー・ダリュー賞

1855

Martel En Tete

カドラン賞

1856

Schism

ゴールドヴァーズ

1858

Lady Clifden

スチュワーズC

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