カーバイン

和名:カーバイン

英名:Carbine

1885年生

鹿毛

父:マスケット

母:マーシー

母父:ノウスレイ

一流競走馬としての特徴を全て兼ね備えていると評された19世紀オセアニア最高の競走馬は英国では種牡馬として今ひとつだったものの後世に大きな影響力を残す

競走成績:2~6歳時に新豪で走り通算成績43戦33勝2着6回3着3回

世紀の競走馬を決めるというのはなかなか難しい。たとえば19世紀欧州最高の競走馬を決めろと言われても、グラディアトゥールセントサイモンオーモンドなど複数の馬が候補として考えられ、そのうちどれか1頭に決めるのははっきり言って無理である。しかし19世紀オセアニア最高の競走馬を決めろと言われたら、まず議論の余地は無く、“Old Jack(オールドジャック)”の愛称で親しまれた本馬一択であろう。

誕生からデビュー前まで

1885年9月18日に新国最大の都市オークランド近郊のシルヴィアパークスタッドにおいて生産され、1歳時のセリにおいて新国のダン・オブライエン調教師によって620ギニーで購入された。成長すると体高は16.25ハンドになり、身体の構成や気性面なども優れていたが、前脚や繋ぎが直立しすぎていた事と、骨がまだ十分に固まっていなかった事などにより、周囲の評価はいまひとつだった。

オブライエン師は最初本馬に“Mauser(マウザー)”と命名したが、競走馬デビューの前にカーバインと改名している。ちなみにカーバインは騎兵用小銃のこと(日本では「カービン」という発音のほうが一般的)、マウザーは独国の銃器製造会社の名前(日本では「モーゼル」という発音のほうが一般的)であり、いずれの名前も、先込め式歩兵銃を意味する父マスケットの馬名からの連想のようである。

オブライエン師は本馬のデビュー前調教の様子を見ても、あまり感銘を受けなかったようで、知人のジャック・ヴィンセント氏に本馬の共同所有を持ちかけ、本馬はオールドジャックステーブル名義で走ることになった(本馬の愛称“Old Jack”はこれにちなんでいるようである)。

競走生活(2歳時)

2歳12月に新国カンタベリー(新国2番目の大都市クライストチャーチがある地域)で行われたカンタベリーホープフルS(T5F)でデビュー。スタートで出遅れたがすぐに挽回し、2着レイヴンスウィングに1馬身差で勝利した。3週間後のホープフルS(T6F)では、事前の調教で負傷した前脚を専用の蹄鉄で保護しながらの出走だった上に、またしてもスタートで出遅れてしまったが、後の新ダービー馬マントンを2着に、レイヴンスウィングを3着に退けて勝利した。次走のダニーダンシャンペンS(T6F)では、初めて普通にスタートを切ってそのまま先頭を走り続け、2着マントンに3馬身差をつけて完勝した。

その後、脚の負傷箇所を痛がったために1か月半の休養が与えられたが、まだ完全に回復しきらないうちにカンタベリーシャンペンS(T6F)に出走。今度も普通にスタートを切って、道中は先頭でレースを引っ張り続けた。しかし負傷の影響があったのか直線で後続馬を突き離すことができず、ソメイユという馬に並びかけられた。それでも鞍上のB・デレッツ騎手が残り1ハロン地点で合図を送るとすぐに反応して、ソメイユを競り落として半馬身差で勝利した。この翌日にはチャレンジS(T6F)に出走した。そして道中で本馬を徹底マークし続けたソメイユに最後まで抜かさせずに首差で勝利。5戦無敗で1887/88シーズンを締めくくり、新国ではこのシーズン最高の2歳馬として評価された。

競走生活(3歳時)

翌88/89シーズンは豪州に遠征した。初戦となった11月のヴィクトリアダービー(T12F)では1番人気に支持された。本馬が先頭に立ってレースを支配するという事前予想がされていたが、実際には控える形となった。レースはスローペースで進み、直線では先頭に立って勝利目前だったが、勝利を確信したデレッツ騎手が油断して速度を落としたところに後方からエンサインという馬が襲い掛かってきた。慌てたデレッツ騎手は本馬に再加速を促したが時既に遅く、頭差かわされて2着に敗退してしまった。その後、本馬とエンサインのマッチレースが行われる事になった(デレッツ騎手が本馬の鞍上から降ろされることになったのは言うまでもない)が、ヴィクトリアダービーから3日後のメルボルンCでエンサインが故障したためにマッチレースは実現しなかった。

その後、本馬はWFAフライングH(T7F)に出走した。このレースは2歳以上の馬による世代混合戦だったが、2歳馬が斤量面で非常に恩恵を受けており、唯一の年上の馬だった本馬にとってはかなり不利な状況だった。しかし蓋を開けてみれば本馬が先行して早め先頭から押し切り、2着ピッポに1馬身差で勝利した。この2日後にはフォールS(T10F)に出走。132ポンドの斤量が課されたが、単勝オッズ3.5倍の1番人気に支持された。レースでは2番手追走から残り1ハロン地点で先頭に立って、2着ウィコム以下に勝利した。

それから間もなくして本馬は豪州の馬主ドナルド・ウォーレス氏の代理人でメルボルンを代表する名伯楽だったウォルター・ヒッケンボサム調教師により3000ギニーで購入され、ウォーレス氏の所有馬となり、ヒッケンボサム師の管理馬となった。オブライエン師が本馬を手放した理由は、現時点における本馬の唯一の敗戦だったヴィクトリアダービーで本馬に大金を賭けて外してしまい、それにより抱えた借金を返済する必要があったためだったという。

その後は4か月間の休養を経て、翌年3月のニューマーケットH(T6F)で復帰した。レースでは先頭争いを演じる本馬とロキエルの2頭にセディションが襲い掛かり3頭の勝負となったが、ロキエルが勝ち、セディションが2着、本馬は3着に終わった。2日後には前走から距離が3倍になったオーストラリアンC(T18F)に出走したが、今度も終始レースを支配したロキエルを捕らえる事ができず、半馬身差の2着に敗れた。2連敗を喫した本馬だが、元々この2競走は調教代わりの出走であり、陣営の目標はオーストラリアンCの2日後に行われたチャンピオンS(T24F)だった。レースではスローペースで逃げるアバーコーンを残り4ハロン地点で捕らえた本馬がそのまま2馬身差をつけて勝利した。このレース中に前脚に裂蹄を起こしていた本馬だったが、チャンピオンSの2日後にはフレミントンオールエイジドS(T8F)に出て、2歳馬ルドルフ以下に楽勝。しかもこの同じ日にはロックプレート(T16F)にも出走して、逃げる1番人気のロキエルに残り1ハロン地点で並びかけると、叩き合いを半頭差(短頭差の書き誤りではなく正真正銘の直訳である。当時の豪州ではこういった着差表現が使用されていたようである)で制した。しかしさすがにこの同日2競走出走は負担が大きかったようで、レース後の本馬は痛む脚を引きずって歩いていたという。

その後は1か月半の休養が与えられ、4月下旬のオータムS(T12F)で復帰した。逃げるクランブルックを早めに捕らえて先頭に立った本馬だが、そこへ後方からアバーコーンがやって来て、3着馬を8馬身も引き離す叩き合いの末に首差2着に惜敗した。2日後のシドニーC(T16F)では、早くもアバーコーンとの再戦となった。このレースでは道中でばてて失速したレディリオンという馬に進路を塞がれる不利があったが、残り4ハロン地点で何とか抜け出すと、メロス、アバーコーンとのゴール前の接戦を制し、2着メロスに頭差で勝利した。勝ちタイム3分31秒0は豪州レコードだった。シドニーCの翌日にはランドウィックオールエイジドS(T8F)に出走して、逃げるルドルフを首差かわして勝利。さらに同じ日にはカンバーランドS(T16F)に出走。僅か3頭立てとなったレースでは、逃げを打ったロキエルが残り5ハロン地点で後続を引き離して10馬身もリードした。残り4ハロン地点でスパートした本馬だったが、残り半ハロン地点ではまだロキエルとの差は3馬身あった。しかしゴールでは半頭差でかわして勝利した。ラスト4ハロンにおける本馬の走破タイムは47秒5(1ハロンを平均11秒9で走った計算になる)であり、これはカンバーランドSとほぼ同距離の天皇賞春における近年の記録と比べてもあまり遜色ない(1ハロン≒201mだからカンバーランドSのほうが僅かに長い)ものであるから、この当時の豪州においては規格外の末脚だったはずである。この2日後のAJCプレート(T24F)では、ロキエル、アバーコーン、メロスといった好敵手達を蹴散らして勝ち、88/89シーズンを13戦9勝で終えた。

競走生活(4歳時)

翌89/90シーズンも競走馬生活を続行した本馬だったが、父マスケットの産駒は4歳時以降に気性面の悪化などで調教が困難になる傾向があったらしく、本馬に関しても引き続き活躍できるかどうかについて疑問の声が出ていたようである。本馬は実際に調教でもあまり調子が良くなく、復帰初戦となったコーフィールドS(T9F)ではスタートで後手を踏んで、勝った3歳馬ドレッドノートから2馬身差の2着に敗れた。その後は調教における動きは上向いたが、次走メルボルンSの3日前に再び裂蹄を発症。再び特製蹄鉄を装着してメルボルンS(T10F)に出走した。レースでは残り1ハロン地点で好敵手アバーコーン、メロスとの三つ巴の戦いとなったが、アバーコーンが2着メロスに短頭差で勝利し、本馬はメロスから半首差の3着に終わった。次走のメルボルンC(T16F)では裂蹄を抱える本馬にとっては過酷な140ポンドという斤量が課された。20頭立てのレースで本馬は抑え気味にレースを進め、直線では先行するメロスに並びかけたが、そこへ斤量119ポンドのブラヴォーが後方からやって来た。メロスを半首差でかわした本馬だったが、ブラヴォーに差されて1馬身差の2着に終わった。2日後のフライングS(T7F)では、先行するドレッドノートを捕らえて叩き合いになったところに、後方から2歳牝馬ウィルガがやって来るという、メルボルンCと似たような展開となった。しかし今回は本馬が2着ドレッドノートに半頭差、3着ウィルガにはさらに首差をつけて勝ち、久々の勝ち星を挙げた。その2日後にはカンタベリープレート(T18F)に出走したが、逃げたサインキュアをゴール前で首差捕らえたアバーコーンが勝ち、本馬はそれから4馬身後方で、メロスとの3着争いにも敗れて生涯最低の4着に終わった。このレース中に本馬の脚の状態は非常に悪化してしまい、さすがの陣営も本馬に3か月半の休養を与えざるを得なくなった。

翌年3月に復帰すると、初戦のエッセンドンS(T10.5F)ではメロスとの叩き合いを制し、シンガポールの追い込みも封じて、2着シンガポールに半馬身差、3着メロスにはさらに首差で勝利した。5日後のチャンピオンS(T24F)ではルドルフがハイペースで逃げ、それを本馬とドレッドノートが追いかけ、メロスが後方待機策を採る展開となった。結局はスタミナを温存した馬が有利だったようで、メロスが2着ドレッドノートに1馬身半差をつけて勝利し、本馬はさらに半馬身差の3着だった。その2日後にはフレミントンオールエイジドS(T8F)に出走。対戦相手は2歳馬が中心だったが、本馬を脅かせるような馬はいなかったようで、4馬身差で完勝した。同日にはロックプレート(T16F)にも出走。本馬、シンガポール、フィッシュワイフの僅か3頭立てのレースとなり、本馬がゴール前で抜け出て短首差で勝利した。翌月のオータムS(T12F)ではメロス、ドレッドノートとの直線の追い比べを鼻差で制して勝利。

次走のシドニーC(T16F)では過去に本馬と好勝負を演じてきた馬達は不出走であり、対戦相手はマンティラ、ミュリエル、サーウィリアム、イヴリン、ボニースペック、アンテウスなどだった。レースはスローペースで進み、イヴリンやボニースペックなどが交互に先頭に立つ展開だったが、残り1ハロン地点で先頭に立った本馬が2着マンティラに1馬身差で勝利した。3日後のランドウィックオールエイジドS(T8F)では、対戦相手はプレリュード、コレーズという2頭の2歳馬のみだった。結果は本馬が2着プレリュードに半馬身差で勝ち、コレーズはさらに4馬身後方でゴールインした。同日のカンバーランドS(T16F)では、本馬、メロス、ドレッドノート、フェデレーションの4頭立てとなった。レースはフェデレーションがハイペースで逃げてメロスがそれを追う展開となったが、後方から本馬とドレッドノートが叩き合いながら前の2頭をかわして伸びていき、最後は本馬がドレッドノートに1馬身1/4差をつけて勝利した(3着メロスはさらに10馬身後方だった)。この2日後のAJCプレート(T24F)でも、本馬、ドレッドノート、メロスの3頭は顔を合わせた。ここでは残り4ハロン地点で先頭に立った本馬が2着メロスに半馬身差、3着ドレッドノートにさらに首差で勝利した。89/90シーズンを7連勝で締めくくった本馬は、4歳時の成績を14戦9勝とした。

競走生活(5歳時)

5歳時は9月のスプリングS(T12F)から始動。逃げるアルゴスのすぐ後方につけた本馬は、残り1ハロン地点で先頭を奪うと、メロス、サーウィリアム、グレスフォードの3頭による2着争い(結局3頭同着)を尻目に4馬身差で圧勝した。5日後のクレイヴンプレート(T10F)では、逃げる同厩馬メガフォンを残り3ハロン地点でかわして先頭に立ったが、本馬より22ポンドも斤量が軽かったメガフォンが粘り腰を発揮して壮絶な一騎打ちとなった。しかし最後は本馬が半馬身差で勝利した(3着キュイラッサーは20馬身も後方だった)。勝つには勝った本馬だが、このレースでまたしても裂蹄を発症してしまったため、1か月半の休養が与えられた。

復帰戦のメルボルンS(T10F)ではスタートから逃げて、グレスフォードやメロスに2馬身差をつけて楽勝した。3日後のメルボルンC(T16F)では、当時同レース史上最高の146ポンドという酷量が課せられた。しかも同レース史上最多の出走馬39頭という多頭数の中で、本馬の枠順は外から7番目という不利な状況だった。それでも本馬は1番人気に支持されていた。本馬は枠順の影響もあってか無理に先行することはせず、最初は抑え気味にレースを進めた。その後は徐々に位置取りを上げて行き、7番手で直線を向いた。そして先行するハイボーンやメロスを外側から追撃。最後は差し切って、2着ハイボーンに2馬身差をつけて快勝した(ちなみにハイボーンの斤量は92ポンドで、本馬とは54ポンドもの差があった)。コレーズが3着で、エヌクが4着、メロスはさらにその後方でゴールインした。同レース史上最高の負担重量だったにも関わらず、勝ちタイム3分28秒25はレースレコードであり、1905年にブルースペックが3分27秒5を記録するまで15年間保持されるという見事なものだった。本馬の勝利に興奮した10万人の大観衆は本馬を取り囲み、記念に鬣を抜こうとする者まで現れたが、それでも本馬は静かに佇んでいたという。もっとも、さすがにこのレースは本馬の身体にも多大な負担を与えていたらしく、再度裂蹄を発症してしまったため、レース後4日間は厩舎内に隔離されて感染症予防のための治療が行われた。

復帰戦はメルボルンCから4か月近く経過した翌年2月末のエッセンドンS(T10.5F)だった。レースでは前年のクレイヴンプレートで本馬と激闘を演じた同厩馬メガフォンが先手を取ったが、本馬もすぐにそれを追いかけて直線では再び2頭の一騎打ちとなった。そして今回も本馬が半馬身差で勝利した。5日後のチャンピオンS(T12F)では、本馬が制したメルボルンCにも参戦していた3歳馬ジアドミラルなどが対戦相手となったが、スタートからスローペースの逃げを打った本馬が道中で加速して後続を引き離し、2着ジアドミラルに8馬身差をつけて圧勝した。2日後のフレミントンオールエイジドS(T8F)では3頭の2歳馬が対戦相手となった。レースでは本馬が先手を取ろうとしたが、ヤーランが無理矢理先頭を奪って捨て身の大逃げを打った。やがてヤーランを捕らえて先頭に立った本馬に、残り1ハロン地点でペナンスが後方から襲い掛かってきたが、半馬身抑えて勝利した(ヤーランは4馬身後方の3着だった)。同日のロックプレートにも出走登録があったが回避した(同厩馬メガフォンが勝利している)。

次走のオータムS(T12F)では、メルボルンCで本馬の2着だったハイボーンが唯一の対戦相手だった。2頭立てだったので、最初はお互いに様子を見る形となり、レースはスローペースで進行した。そのうちハイボーンが先に仕掛けて1馬身ほどリードしたが、本馬がすぐに差し返して2馬身差で勝利した。3日後のランドウィックオールエイジドS(T8F)では、後述するように本馬が大嫌いだった雨天となったが、頭にカバーをかけて出走に踏み切った。スタートから先手を取った本馬だったが、本来の本馬の走りは見られず、マーベルという馬に4馬身突き放されて2着に敗れ、1年以上続いていた連勝は15で止まってしまった。敗因は天候だけではなく、マーベルが湿った馬場を走るのに適した滑り止めの蹄鉄を装着していたのに対し、本馬はそうではなかった事も挙げられている。同日午後のカンバーランドS(T16F)では早くもマーベルとの再戦となった。同日だけにコンディションはランドウィックオールエイジドSと同様だったはずだが、今回の本馬はきちんと滑り止めの蹄鉄を装着していた。レースでは本馬がマーベルの後方につけるという前走とは逆の展開となり、残り3ハロン地点でスパートした本馬が残り2ハロン地点でマーベルをかわすと、そのまま7馬身差をつけて圧勝した。この圧勝劇に観衆は大いに熱狂したが、本馬は相変わらず物静かな態度を崩さなかったという。2日後のAJCプレート(T24F)では、グレイガウンとコレーズの2頭のみが対戦相手だった。グレイガウンが先手を取り、コレーズと本馬がそれを追いかける展開となった。先にコレーズがグレイガウンをかわして先頭に立ったが、すぐに本馬が並びかけて2馬身1/4差で勝利した(グレイガウンはさらに20馬身後方だった)。

種牡馬入り後の競走馬復帰は叶わず

その後は154ポンドというとんでもない酷量が課せられるのを承知の上で、その年の秋に行われるメルボルンC2連覇を目指して調整されていた。しかし裂蹄の再発に加えて、前脚の靭帯を負傷してしまったために調教は中断となった。所有者のウォーレス氏は、本馬を秋には競走馬に復帰させるつもりで、ひとまず競走馬登録は維持したまま、本馬を種牡馬入りさせると発表した。この年の種付け料は200ギニーに設定されたが、これは豪州繋養種牡馬としては当時最高額だったセントオールバンズの60ギニーを遥かに上回る超高額だった。

本馬の競走実績の素晴らしさは誰もが認めるところではあったが、あまりの額に衝撃を受けた豪州の馬産家達が本馬との交配を敬遠してしまったため、初年度は現役時代に本馬と対戦経験があるフィッシュワイフと、セントオディール、メロディアスの3頭しか繁殖牝馬が集まらなかった。このうちフィッシュワイフが産んだ牡駒コーホートは活躍できずにタスマニアに送られ、セントオディール産駒は死産だったが、メロディアスが産んだ牡駒ウォーレスがコーフィールドギニー・ヴィクトリアダービー・シドニーCを制するなど豪州における本馬の最高傑作と言われるほどの活躍を見せることになる。

1年目の繁殖シーズン終了後に、米国から2万ドルで本馬を購入したいという申し出があったが、ウォーレス氏は本馬を競走馬に復帰させるつもりだった事に加えて、仮にそれが叶わなかった場合でも本馬を豪州に残したいという理由で、それを断った。しかし結局獣医が首を横に振ったために本馬が競走馬に復帰することはなく、AJCプレートが最後のレースとなった。

競走馬としての特徴

獲得賞金総額は豪州新記録の2万9476ポンドに達し、この記録は20年以上破られなかった。本馬は距離を問わずに活躍できる優れたスピードとスタミナを有していただけでなく、接戦を制する闘争心と、重い負担重量や脚部の痛みにも屈しない精神的な強さも有しており、チャンピオン競走馬としての特徴を全て兼ね備えていると評された。

後続を引き離して勝つ事は少なかった事から、ゴール板がどこにあるのか知っており、最大の努力をいつ発揮するべきなのかを理解している賢い馬だったとも評されている。通常は非常に物静かな馬だったが、慣れない乗り手が騎乗すると振り落としたり、厩舎の周囲に見知らぬ人間がいると噛み付いたりする癖があった。レースにおいてスタート地点に向かう際にもしばしば膠着したため、騎手や調教師は本馬をスタート地点に連れて行くのに一苦労したという。いったん納得すれば速やかにスタート地点まで移動を開始したが、途中で何か興味を引く人や物を見つけるとまた立ち止まって凝視していたという。また、レースに勝利した際に観衆が自分に向けて拍手喝采を送っているのを眺めるのが好きだったという。そのためか、自分が負けたレースでは(自分に拍手喝采が送られないため)癇癪を起こす事があったという。気性は大人しいが頑固で誇り高く好奇心が旺盛という点においては、後世のハイペリオン等と共通項があったようである。

また、自分の頭が雨で濡れるのが大嫌いで、専用の雨避け帽子が作られていたという。帽子では防げないような嵐になると急いで厩舎内に逃げ込んで隠れたという。数々のレースに勝利した本馬だが、あまりにも強いので損をすることを恐れた豪州のブックメーカーは本馬を賭けの対象から外す事も多かったという。

血統

Musket Toxophilite Longbow Ithuriel Touchstone
Verbena
Miss Bowe Catton
Orville Mare
Legerdemain Pantaloon Castrel
Idalia
Decoy Filho da Puta
Finesse
West Australian Mare West Australian Melbourne Humphrey Clinker
Cervantes Mare
Mowerina Touchstone
Emma
Brown Bess Camel Whalebone
Selim Mare
Brutandorf Mare Brutandorf
Mrs. Cruickshanks
Mersey Knowsley Stockwell The Baron Birdcatcher
Echidna
Pocahontas Glencoe
Marpessa
Orlando Mare Orlando Touchstone
Vulture
Brown Bess Camel
Brutandorf Mare
Clemence Newminster Touchstone Camel
Banter
Beeswing Doctor Syntax
Ardrossan Mare
Eulogy Euclid Emilius
Maria
Martha Lynn Mulatto
Leda

父マスケットは競走馬としては英国で走り、ザフライングダッチマンH・アスコットS・リンカーンハーマジェスティーズプレート・シュルーズベリーハーマジェスティーズプレート・セブンC・フレートミッドランドカウンティーズH・ミッドランドカウンティーズS・アレクサンドラプレート勝ちなど14戦9勝の成績を残した。最も活躍したのは3歳時で、この年は9戦7勝の成績だった。

このマスケットに関しては非常に有名な逸話がある。マスケットは元々グラスゴー卿なる人物により所有されていた。このグラスゴー卿は自身が標準以下だと感じた馬は、絶対に他者に売却する事はせず、必ず部下に命じて銃殺させていたという、馬を生き物とも思わない残忍非道な人物だった。マスケットはグラスゴー卿の標準を満たさなかったため、彼はマスケットを銃殺するように指示した。しかしマスケットを管理していた調教師が、この馬は良い馬になるので銃殺するのは待ってほしいとグラスゴー卿に懇願した。グラスゴー卿はこの懇願を聞き入れなかったが、ひとまず銃殺はしばらく保留となった。そのうちに幸いにもグラスゴー卿が死亡した(人の死を幸いと書くのは本来問題だが、筆者はこの人物の死を幸いと表現するのに何の抵抗もない)ため、マスケットはピール将軍とジョージ・ペイン氏という人物の手に渡った。そして無事に競走馬としてデビューして、前述のとおり14戦9勝の成績を挙げたのである。

競走馬を引退したマスケットはかつての馬主グラスゴー卿が遺したエンフィールドスタッドで種牡馬入りした。初年度の種付け料は30ギニーに設定された。マスケットの従兄弟には英2000ギニー・ドンカスターCを制したジェネラルピールがおり、血統的に悪くは無かったが、父方の祖父ロングボウやその父イズリエルが喘鳴症だった(マスケットの母系自体も喘鳴症の傾向があったという)上に、父タクサファライトは出血性の肺疾患を患っていたため、これらの疾病が産駒に遺伝することを恐れた英国の馬産家達は所有する繁殖牝馬にマスケットを交配させる事を敬遠する傾向が強く、英国における6年間の種牡馬生活において送り出した産駒は65頭止まりだった。結局マスケットは売却に出され、500ギニーの価格で取引されて、1878年に新国に馬車馬用種牡馬目的で輸入されてきた(皮肉にも輸出後になって英国に残してきた産駒のペトロネルが英2000ギニーやドンカスターCを、ブラウンベスがグッドウッドSを勝つ活躍を見せた)。

翌1879年から新国で種牡馬入りしたマスケットは馬車馬ではなく競走馬の父としてすぐに結果を出し、1885/86シーズン、88/89シーズン、90/91シーズンと3度の豪首位種牡馬に輝く成功を収めた。合計で28頭のステークスウイナー(産駒のステークス競走勝ちは107勝)を出し、1885年11月、本馬が誕生した2か月後に他界している。マスケットの直系を遡ると、アスコットダービー勝ち馬で英ダービー2着のタクサファライト、スチュワーズCの勝ち馬ロングボウ、リヴァプールセントレジャーの勝ち馬イズリエルを経て、タッチストンに行きつく。

母マーシーは英国ロイヤルスタッドの生産馬だったが、競走馬として活躍できそうな馬ではなかったらしく、結局不出走のまま繁殖入りして、6歳時に新国に輸入されてきた。全体的に不受胎や産駒の早世が多く、繁殖牝馬としての成績は不安定だったが、本馬の半弟カーネージ(父はマスケット産駒のノルデンフェルト)【ヴィクトリアダービー・AJCシャンペンS・VRCスプリングS・エッセンドンS】なども産んで活躍した後、1897年に他界した。

マーシーの母クレメンスは、英1000ギニー・英セントレジャーを制した名牝インペリュースの半妹で、近親にはクレメンスの母の半弟に当たるヴォルティジュール【英ダービー・英セントレジャー・ドンカスターC】や、クレメンスの従姉妹の子に当たるロードクリフデン【英セントレジャー】といった英国競馬史上に名を残す大物競走馬・種牡馬がいるから、血統的には良血であると言える。ちなみにクレメンスはベンドアと取り違えられていた疑いがあるタドカスターの母でもあり、ベンドアの取り違い疑惑が事実なら、本馬はベンドア(の名前で英ダービーを制し種牡馬として大活躍した馬)の甥という事になる。本馬の全姉レディウォームズリーや全姉レディマーシーの牝系子孫は後世に伸びており、レディウォームズリーの末裔にはスナップ【マナワツサイアーズプロデュースS(新GⅠ)・新1000ギニー(新GⅠ)・新オークス(新GⅠ)・ワイカトスプリント(新GⅠ)】がいるが、21世紀に入ってからはあまり活躍馬が出ていないようである。

マーシーの半姉グラッティテュード(父ナイトオブザガーター)の子にはフェストゥカ【伊ダービー】がいる他、牝系子孫には、バーゴマスター【ベルモントS・メイトロンS】、1918年の米年度代表馬ジョーレン【ベルモントS・サバーバンH・ローレンスリアライゼーションS】、1920年の米最優秀2歳牡馬トライスター【サラトガスペシャルS・ケンタッキージョッキークラブS・ジェロームH】、米国顕彰馬ベストパル【サンタアニタH(米GⅠ)・ハリウッド金杯(米GⅠ)・ノーフォークS(米GⅠ)・ハリウッドフューチュリティ(米GⅠ)・チャールズHストラブS(米GⅠ)・オークローンH(米GⅠ)】などがいる。また、マーシーの半妹クレメンティナ(父ドンカスター)の牝系子孫は南米で発展し、21世紀に入っても活躍馬が複数出ている。また、マーシーの半妹サンディウェイ【コロネーションS】(父ドンカスター)の牝系子孫には、ルークマクルーク【ベルモントS】、スティング【メトロポリタンH・サバーバンH】、ダークシークレット【ブルックリンH・マンハッタンH2回・ジョッキークラブ金杯2回】、デヴィルヒズデュー【ウッドメモリアルS(米GⅠ)・ガルフストリームパークH(米GⅠ)・ピムリコスペシャルH(米GⅠ)・サバーバンH(米GⅠ)2回】などが出ている。マーシーの半妹マラ(父ドンカスター)の子にはビターズ【ヨークシャーオークス】、孫にはスローアウェイ【アスコット金杯】がいる。→牝系:F2号族③

母父ノウスレイはストックウェルの直子だが競走馬としての経歴は不明。

競走馬引退後

競走馬を正式に引退した本馬は、ウォーレス氏が豪州ヴィクトリア州に所有していたレーダーバーグパークスタッドで正式に種牡馬入りした。前述のとおり初年度は繁殖牝馬が集まらなかったが、2年目からは人気種牡馬となった(種付け料を値下げしたのかどうかは不明)。しかしウォーレス氏が1890年代の世界的な不況の影響を受けて財政難に陥ったため、彼は1895年に本馬を売却する決断をした。

セリに出された本馬を1万3千ギニーという高額で購入したのは、英国の第6代ポートランド公爵ウィリアム・キャベンディッシュ・ベンティンク卿だった。彼は世紀の大種牡馬セントサイモンの所有者だったが、自身の牧場に溢れかえっていたセントサイモン牝馬に交配できる異系の種牡馬を求めていたのである。1895年4月13日、オリサバ号に乗船してメルボルン港を出航した本馬を見送るために、多くの人々が港に詰め掛けたという(資料によって人数は異なり、2千人、7千人、1万人とするものまである)。本馬が豪州において送り出した勝ち馬数は208頭(産駒が勝ったレース数は950以上)で、豪州種牡馬ランキングでは、1895/96シーズンでトレントンに次ぐ2位、97/98シーズンでロキエルに次ぐ2位、99/00シーズンでロキエルとビルオブポートランドに次ぐ3位に入るなど好成績を収めた。

さて、長年の厩務員ジャック・カニンガム氏や競走馬時代から愛用していた雨避けの帽子と共に英国に到着した本馬だったが、長い船旅で体調を崩して疝痛を発症しており、到着後すぐに外科的手術が行われた。手術が無事に成功すると、ベンティンク卿は回復した本馬を報道関係者にお披露目した。本馬は相変わらず物静かな佇まいであり、気性が激しいセントサイモンの娘と交配させるには適していると評価された。

この時期の本馬について、面白い逸話がある。英国では豪州においてまず見ることがない雪が頻繁に降っていた。産まれて初めて雪を見た本馬は、積雪の上に踏み出して試みに雪を舐めてみたところ、あまりの冷たさに驚いて一回転した。しかしその後は雪に関して何の問題も起こす事は無く、雨が大嫌いだった本馬も雪は平気だったという事である。また、定期的な運動の際に本馬が飛び跳ねる仕草を見せた時、カニンガム氏が本馬の首をぽんと叩いて「まあまあ、オールドジャックよ。もうそんな馬鹿な真似をするのは止しなさい」と言うと、けろりと大人しくなったという。

英国ウェルベックアベースタッドで種牡馬生活をスタートさせた本馬の種付け料は200ギニーに設定されたが、最初の3年間はすぐに予約が満杯になる人気を集めた。しかしやがて本馬の種牡馬人気は下がり始め、種付け料も100ギニー、50ギニーと下落していった。1906年に代表産駒スペアミントの活躍で再度200ギニーに値上がりしたが、すぐに再下落して最終的には48ギニーとなった。本馬が英国で送り出した勝ち馬数は138頭で、豪州供用時代よりも少なく、本馬の英国における総合的な種牡馬成績は期待外れであったと一般的に評されている(ベンティンク卿も、自身の牧場における本馬の種牡馬成績は大成功とは言えないと評している)。それでも英愛種牡馬ランキングで20位以内に5回入っており(最高は1902年と1906年の4位)、標準以上の成績は収めている。

1914年6月10日に本馬は厩舎内で鼻から血を流して倒れているところを発見された。脳出血と診断された本馬は、その場で安楽死の措置が執られた(英国における馬の安楽死の手段は銃殺が多いのだが、本馬の場合はクロロホルムを使用したと記載されている)。享年28歳(本馬は南半球生まれなので8月以降でないと29歳にならない)だった。その後の1920年にベンティンク卿は本馬の骨格を豪州に返した。本馬の骨格は最初メルボルン博物館に展示され、現在はコーフィールド競馬場にある豪州競馬博物館に存在している。また、本馬の体皮は破損が大きかった頭部を除いて祖国新国に送られ、オークランド競馬クラブの会長用椅子などに加工された。蹄も新国に送られ、新国の首相官邸で使用されるインクスタンドに作り変えられた。

後世に与えた影響

本馬の後継種牡馬としては、英国でスペアミントが活躍した他、ウォーレスも1915/16シーズンの豪首位種牡馬になる成功を収めたが、直系は現在既に途絶えている。しかし本馬の血はスペアミントを経由してプラッキーリエージュ(アドミラルドレイク、サーギャラハッド、ブルドッグ、ボワルセル4兄弟の母)やキャットニプ(ネアルコの祖母)などに受け継がれ、現在も世界的影響力を有している。2001年に豪州競馬の殿堂入りを初年度で果たした。初年度に豪州競馬の殿堂入りを果たした馬は本馬と、ファーラップバーンボロータラックキングストンタウンの計5頭だが、この中で本馬は唯一19世紀に誕生した馬であり、19世紀豪州競馬においては本馬が最高の名馬だったと公式に認められたとも言える。2006年には新国競馬の殿堂入りも初年度で果たした。初年度に新国競馬の殿堂入りを果たした馬は本馬と、グローミング、ファーラップ、キンダーガーテン、サンラインの計5頭だが、やはり19世紀に誕生した馬はこの中で本馬のみである。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1892

Wallace

MRCコーフィールドギニー・ヴィクトリアダービー・AJCシドニーC

1893

Charge

AJCダービー

1894

Amberite

AJCダービー・MRCコーフィールドC・ヴィクトリアダービー・AJCプレート

1894

La Carabine

VRCオーストラリアンC・AJCシドニーC・AJCプレート2回

1898

Wargrave

シザレウィッチH・エボアH

1900

Playaway

MRCフューチュリティS・VRCニューマーケットH

1901

Mousqueton

サセックスS

1903

Camp Fire

キングズスタンドプレート

1903

Spearmint

英ダービー・パリ大賞

1905

Foresight

キングズスタンドプレート2回

1906

Bomba

アスコット金杯

1910

Defence

VRCオーストラリアンC

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