グローミング

和名:グローミング

英名:Gloaming

1915年生

鹿毛

父:ザウェルキン

母:ライト

母父:イーガー

67戦して57勝2着9回、落馬以外は3着以下になった事が無い20世紀初頭のニュージーランドの歴史的名馬

競走成績:3~9歳時に豪新で走り通算成績67戦57勝2着9回

19世紀豪州の伝説的名馬カーバインや謎の死を遂げた英雄ファーラップに比べると日本における知名度では劣るが、実績的には何ら遜色が無い20世紀オセアニア有数の名馬。本馬がデビューする前後に終結した第一次世界大戦でオセアニアの若者達も多く犠牲になったが、その暗い世相の中で大活躍し、地元新国のみならず豪州の競馬ファンも熱狂させた。

誕生からデビュー前まで

豪州ヴィクトリア州にあるクラークメルトンスタッドでE・E・D・クラーク氏により生産された。クラーク氏は自身が生産した1歳馬の販売を毎年のように行っており、本馬も売りに出されたが、本馬に注目する者は少なかった。本馬は成長後の体高は15.75ハンドと特に大きい馬ではなかったが、目立つ流星と長い首、強靭な脚腰を有しており、大跳びで力強く走る馬だった。しかし腺疫に感染して治癒した経歴があり、それが敬遠される理由になったようである。

それでも最終的には、ニュージーランド出身の馬主ジョージ・D・グリーンウッド氏から、予算500ギニー以内でザウェルキン産駒を購入してくるように指示を受けたグリーンウッド氏の代理人ハリー・チスホルム氏に気に入られて230ギニーで購入され、グリーンウッド氏の所有馬となった。本馬はグリーンウッド氏の地元新国に移され、リチャード・メーソン調教師の管理馬となった。当初は“Celestial(セレスティアル。意味は「天の」「天使」)”と命名されたが、馬名審査で引っ掛かった(理由は資料に記載がなく不明)ために、「たそがれ」「薄暮」を意味する“Gloaming”に変更された。2歳時に去勢され、調教が始められると非常に優秀な走りを披露した。これなら豪州の大競走でも通用すると判断されたために豪州に移動した。

競走生活(3歳時)

そして3歳9月にシドニースプリングカーニバルの一環としてランドウィック競馬場で行われたチェルムスフォードS(T9F)でデビューした。スタートで後手を踏んだがすぐに他馬に追いつくと、1分52秒0という芝9ハロンの豪州レコードを樹立して、2着レブスに8馬身差をつけて圧勝した。2着に負けたレブスという馬は既にシドニーCを勝っていた馬で、翌月のエプソムHと翌年のザメトロポリタンを勝つ強豪馬だったのだが、本馬はデビュー戦でこの強敵を一蹴してしまった。

この3週間後にはAJCダービー(T12F)に出走すると、2着フィンマークに1馬身半差、3着キルムーンにはさらに5馬身差をつけて、デビュー2戦目にして豪州屈指の大競走を優勝した。

その後は地元新国に戻り、前走から23日後のチャンピオンプレート(T10F)に出走して、2着メナラウス に2馬身半差、3着ボニーメイドにはさらに3馬身差をつけて勝利。さらに1週間後の新ダービー(T12F)も2着キルムーンに2馬身差で勝利した。しかしそれから5日後のGGステッド記念金杯(T10F)では、一昨年のメルボルンCを勝っていた古馬の強豪ササノフを捕まえるのに失敗して、2馬身半差の2着に敗れて初黒星を喫した。しかし17日後のイズリントンプレート(T8F)では、ササノフを1馬身半差の2着に下して、すぐさま雪辱した。

年が変わって1月になり、元日に出走したグレートノーザンダービー(T12F)も2着キルムーン以下に勝利を収め、史上初めてAJCダービー・新ダービー・グレートノーザンダービーの3レースを完全制覇した。

その後は3週間後のウェリントンS(T5F)に出走した。距離が前走から半分以下になった上に本馬には129ポンドが課せられたが、33ポンドのハンデを与えた2着ウォープレーンに3馬身差をつけて、58秒6のレースレコードを計時して勝利した。それから僅か3日後に出走したのはさらに距離が短くなったケルバーンプレート(T4F)だった。ここでは114ポンドとたいした斤量ではなく、2着サーベイヤーに4馬身差で楽勝した。

1週間後のタラナキS(T6F)では、スタートでバリアテープにからまって4馬身差のロスを蒙り、しかも馬群に包まれてしまい、何とか馬群の隙間を縫うように追い込んだが、新国の大レースを総なめにして、19連勝という記録をも保持していた3歳年上の歴史的名牝デザートゴールドに僅か首差及ばず2度目の敗戦。それから6日後に出走したエグモントS(T6F)でもデザートゴールドとの対戦となったが、今度はデザートゴールドがスタートでバリアテープにからまって出遅れ、しかも道中転倒した馬に進路を塞がれた。デザートゴールドはそれを飛び越えて本馬に迫ったがさすがに及ばず、本馬が2着デザートゴールドに2馬身半差で勝利した。それから2日後のハウェラS(T8F)でも本馬とデザートゴールドは対戦。ここでは2頭ともトラブルには見舞われず、2頭が実力を出し切る好勝負となった。レースは本馬が逃げて、4馬身ほど後方をデザートゴールドが追いかける展開となった。直線に入ったところでデザートゴールドが本馬に並びかけてきて叩き合いとなった。一時はデザートゴールドが前に出る場面もあったが、本馬が差し返し、最後は1馬身半差で勝利した。

その後は6日後のジャクソンS(T6F)を2着クロイソス以下に勝利。さらに2日後のワンガヌイギニー(T8F)も2着アフターグロー以下に勝利した。短い休養を経て4月に出走したCJCチャレンジS(T7F)では127ポンドが課せられたが、2着サーベイヤー以下に勝利した。そして翌5月のノースアイランドチャレンジS(T7F)に出走。しかし再度スタートでバリアテープにからまってしまい、今度は落馬したため競走中止。これが本馬にとって2着以内に入れなかった生涯唯一のレースとなった。これが1918/19シーズン最後の出走となり、このシーズンの成績は16戦13勝だった。

競走生活(4歳時)

翌19/20シーズンは、前年同様に9月のシドニースプリングカーニバルから始動するために、新国から豪州に向かうべく船に乗った。ところがタスマン海が大荒れになったために、2週間もの長い船旅の末にようやく到着する羽目になった。それでもまずは豪州ローズヒル競馬場で行われたRRCスプリングS(T8F)に出走した。臨戦過程が悪かったためか本馬は単勝オッズ4倍の2番人気で、ウィナロットという馬が単勝オッズ3倍の1番人気に支持された。しかし本馬がウィナロットを1馬身差の2着に破って勝利した。しかし2週間後にランドウィック競馬場で出走したAJCスプリングS(T12F)では、ゴール前でAJCプレートを勝っていたポイトレル(後にAJCプレートの2連覇を果たし、さらにメルボルンC・ローソンSも勝っている)に差されて、頭差2着に敗れてしまった。その4日後に出走したクレイヴンプレート(T10F)では、サイアーズプロデュースS・豪シャンペンS・ローズヒルギニー・ヴィクトリアダービー・ローソンSを勝っていたウォラロイを2馬身差の2着に破って勝利。

その後は新国に戻り、前走から19日後のチャンピオンプレート(T10F)でデザートゴールドと対戦。しかしデザートゴールドはまたもスタートでバリアテープにからまって出遅れて4着に終わり、本馬が2着アフェクションに3/4馬身差で勝利した。翌11月のGGステッド記念金杯(T10F)でも本馬とデザートゴールドは対戦したが、本馬が勝利し、デザートゴールドはロッシーニという馬にも遅れて3着だった。既に7歳だったデザートゴールドはこのレースを最後に引退して、59戦36勝という成績を残して繁殖入りした。

本馬は翌12月に出走したイズリントンプレート(T8F)でロッシーニを2着に破って勝利。年明けのロイヤルS(T6F)では133ポンドを背負いながらも、2着シルヴァーリンクや3着ロッシーニ以下に勝利した。これがこのシーズンにおける本馬の最後の出走となり、このシーズンの成績は7戦6勝だった。

競走生活(5歳時)

翌20/21シーズンも9月のシドニースプリングカーニバルから始動する予定であり、実際に豪州に到着して順調に調整されていた。ところが直前に大量の出血を起こしたためにシドニースプリングカーニバルは断念して新国に戻った。

帰国後は11月のエレクトリックプレート(T4F)に出走。本馬の斤量は127ポンドで、他馬勢より30ポンドも重かった。それでも2着ラショナルに2馬身差、3着ウェルドーンにはさらに5馬身差をつけて勝利。さらに17日後のフィールディングS(T5F)も130ポンドを背負いながら、2着ハイメストラ以下に勝利。僅か2日後のオロウアS(T5.5F)では斤量が134ポンドまで増えたが、それでも2着スタチュート以下に勝利した。斤量が128ポンドと少しましになった暮れのイズリントンプレート(T8F)も、2着ベスプッチ以下に勝利した。

続いて年明けのオークランドプレート(T12F)に出走。今回は130ポンドが課せられたが、2着ガスバグ以下を一蹴してあっさりと勝利した。この19日後にはケルバーンプレート(T4F)に出走。斤量は比較的穏当な127ポンドであり、2着ラショナルに頭差、3着スタチュートにはさらに3馬身差をつけて勝利。勝ちタイム45秒0は、現在も破られていないオセアニアレコードだった。その2日後に出走したウォータールーS(T6F)では、136ポンドを背負いながらも、41ポンドのハンデを与えた2着キックオフに1馬身半差で勝利。さらに10日後のタラナキS(T6F)も136ポンドを背負って、2着シルヴァーリンク以下に勝利。3頭立てとなった6日後のエグモントS(T6F)でも136ポンドをを背負って、2着シルヴァーリンクや3着ロッシーニを寄せ付けずに勝利した。翌日に出走したハウェラS(T8F)では132ポンドまで斤量が下がり、唯一の対戦相手となったベスプッチに2馬身差で楽勝した。それから16日後のジャクソンS(T6F)では本馬にとって裸同然の125ポンドの斤量となり、唯一の対戦相手となったシルヴァーリンクを一蹴した。3日後のCJCチャレンジS(T7F)では斤量が136ポンドとなったが、2着プルートに3馬身差で勝利を収め、このシーズンを12戦全勝の成績で終えた。

競走生活(6歳時)

翌21/22シーズンもやはり9月のシドニースプリングカーニバルから始動する予定だったが、豪州到着後に馬インフルエンザに罹患したため、1戦もせずにとんぼ返りした。そのために本馬のレースを楽しみにしていた豪州の競馬ファンはがっかりしたという。

帰国後は10月末のフィールディングS(T5F)に出走して、128ポンドを難なくこなして、2着ラショナルに2馬身差で勝利。12月に出走したオロウアS(T5F)も134ポンドを背負いながら、2着トミーロット以下に勝利を収めて19連勝を達成し、本馬の好敵手だったデザートゴールドの連勝記録と並んだ。

同月末のイズリントンプレート(T8F)では、このレース3連覇中の本馬に対抗しようとする馬は僅か3頭のみで、本馬の斤量も125ポンドとたいしたものではなく、本馬の20連勝は確実視されていた。ところがオセアニアレコードで走ったテスピアンの2着に敗れてしまい、観衆を呆然とさせた。

年明けのオークランドプレート(T12F)では128ポンドでの出走となったが、かつて本馬に初黒星を喫しさせたササノフを3馬身差の2着に破って快勝し、テスピアンを着外に破った。さらに135ポンドを背負って出走した2月のエグモントS(T6F)でもテスピアンを2着に破って勝利。132ポンドを背負って出走した翌日のハウェラS(T8F)でも唯一の対戦相手となったテスピアンを3/4馬身差で抑えて勝利を収め、3戦連続でテスピアンを撃破して完全に借りを返した。

さらに9日後のタラナキS(T6F)では135ポンドを背負って、2着シルヴァーリンク以下に勝利。125ポンドで出走できた2週間後のジャクソンS(T6F)では、1分11秒8のレースレコードを樹立して2着テマテート以下に勝利。翌3月末に出走したノースアイランドチャレンジS(T7F)では141ポンドを背負いながらも、9ポンドのハンデを与えたテスピアンを2馬身差の2着に破って勝利した。翌月のCJCチャレンジS(T7F)でも136ポンドを背負って、唯一の対戦相手ウイニングヒットに勝利。さらに8日後のホークスベイS(T6.5F)を2着ラピヌ(後のAJCプレートの勝ち馬)以下に勝つと、136ポンドを課された翌日のJDオーモンド記念金杯(T8F)も2着ガスバグ以下に勝利を収め、12戦11勝の成績でシーズンを終えた。

競走生活(7歳時)

翌22/23シーズンは3年ぶりに9月のシドニースプリングカーニバルから始動。初戦となったチェルムスフォードS(T9F)では、レイルウェイH・エプソムH・ローソンS・オールエイジドSを勝っていた1歳年下の騸馬ビューフォードとの激戦となった。結果は先行して押し切ったビューフォードが勝利を収め、本馬は1馬身差の2着に敗れた。1週間後のヒルS(T8F)でもビューフォードとの対戦となった。今度は本馬がビューフォードを差し切って、1馬身1/4差で勝利した。2週間後のAJCスプリングS(T12F)でもビューフォードと本馬は対決。レースはビューフォードがスムーズに逃げたのに対して、本馬は道中で不利を受けてしまい、ゴール前の猛追及ばずに、ビューフォードの首差2着に敗れた。4日後のクレイヴンプレート(T10F)は本馬とビューフォードの最後の対戦となった。レースではビューフォードが先頭を飛ばし、本馬が3馬身ほど後方を追走。残り1ハロン地点でビューフォードと本馬の馬体が並んで叩き合いとなった。しかしビューフォードとの対戦成績を五分にするために執念の走りを見せた本馬が突き抜けて、3馬身差で圧勝。この勝利で本馬の獲得賞金総額はカーバインを上回り、オセアニア賞金王になった。

新国に帰国後は、前走から19日後のチャンピオンプレート(T10F)に出走。130ポンドを背負いながらも、2着ウイニングヒットに1馬身差をつけて、2分06秒2のレースレコードで勝利した。しかし7歳になっていた本馬には疲労の色が隠せず、このシーズンは5戦3勝の成績で長期休養に入った。

競走生活(8歳時)

翌23/24シーズンも9月のシドニースプリングカーニバルから始動する予定だったが、脚関節に軽度の負傷を負ったため断念して帰国。既に8歳だった本馬がもう豪州で走ることは無いだろうと思った豪州の競馬ファン達は大きく失望した。

ようやく1月にレースに復帰した時には前走から1年3か月も経過していた。それでも本馬の強さは相変わらずで、ウォータールーS(T6F)では136ポンドを背負いながらも、2着グレントルアンに首差で勝利。3週間後のミドルパークプレート(T6F)も135ポンドを背負いながら、2着ムリハウポ以下に勝利した。さらに1週間後にはジャクソンS(T6F)に出走。本馬が125ポンドの斤量では他馬にはどうすることも出来ず、本馬が2着グレントルアン以下を一蹴して勝利した。翌3月のノースアイランドチャレンジS(T7F)では141ポンドを課されたにも関わらず、45ポンドものハンデを与えた唯一の対戦相手クイセントに6馬身差で圧勝した。しかし136ポンドを背負って出走した3週間後のCJCチャレンジS(T7F)では、スタート時にバリアテープにからまって、10~12馬身ものロスを蒙ってしまった。それでもゴール前では猛然と追い上げてきたが、新オークスを勝っていた3歳牝馬ラズルダズルに届かずに短頭差の2着に敗退。このシーズンは5戦4勝で終えた。

競走生活(9歳時)

翌24/25シーズンは2年ぶりに9月のシドニースプリングカーニバルから始動した。まずはチェルムスフォードS(T9F)に出走した。136ポンドを課せられながらも、本馬の走る姿をまた見られると喜んだ豪州の競馬ファンによって単勝オッズ1.9倍の1番人気に支持された本馬だったが、馬群の中に包まれてしまい、ゴール前で猛然と追い込むも、豪シャンペンS・アスコットヴェイルSを勝っていた3歳馬ヒロイック(後にAJCダービー・コーフィールドギニー・コーフィールドS・メムジーS2回・ニューマーケットH・アンダーウッドS・コックスプレート・ウィリアムレイドS・CFオーアS・セントジョージSなどを勝利しただけでなく、豪州の歴史的名馬アジャックスを出すなどして7度の豪首位種牡馬に輝き、2003年には本馬に1年先んじて豪州競馬の殿堂入りを果たす)に及ばずに、1馬身半差の2着に敗れた。

1週間後のヒルS(T8F)では134ポンドの斤量だったが、今回も同じく馬群の中に包まれてしまい、5歳年下のAJCダービー・グレートノーザンダービーの勝ち馬である騸馬バリメナに及ばずに首差の2着に敗れた。2連敗スタートとなった本馬だが、それでも斤量125ポンドで出走できた2週間後のAJCスプリングS(T12F)では、バリメナを抑えて単勝オッズ2.25倍の1番人気に支持された。そして今回は本馬が2着デヴィッド(AJCプレート3連覇の他にシドニーCを勝っていた)に1馬身差をつけて勝利を収め、バリメナは3着だった。この4日後のクレイヴンプレート(T10F)でも、本馬とバリメナの対戦となった。レースでは逃げるバリメナに本馬が並びかけて、2頭が殆ど並んでゴールインした。そして結果は本馬が頭差で勝利を収めていた。その後の2頭の対戦は、バリメナが調教中の事故で他界したため実現しなかった。

本馬はその後ヴィクトリア州に向かい、11月のメルボルンS(T10F)に出走。コーフィールドC・ヴィクトリアダービー・ローソンS・ドンカスターH・アンダーウッドSを勝っていたウィッティアー(後にアンダーウッドS・コーフィールドC・CFオーアSにも勝利)という強敵が対戦相手となったが、本馬がウィッティアーを2着に破って勝利した。また、このヴィクトリア州滞在時期には、コックスプレートやメルボルンCの当日に豪州競馬ファンの前でお披露目も行っている。しかし本馬はこの2レースには出走していない。理由は馬場が湿っていた事だとされているが、コックスプレートは創設3年目だった事、メルボルンCは距離や斤量に不安があったのではないかと筆者は推測している。

新国に戻った本馬は、翌年2月のミドルパークプレート(T6F)に出走。136ポンドを課せられながらも、2着ニンカンプープ以下に勝利した。翌月のノースアイランドチャレンジS(T7F)では141ポンドを課せられたが、2着インフェルノ以下に勝利した。136ポンドを背負って出走した翌月のCJCチャレンジS(T7F)では、唯一の対戦相手シニョンに3馬身差で勝利した。5月のホークスベイS(T6.5F)では140ポンドを課せられながらも、2着ラニミード以下に勝利した。

そして翌日に出走したJDオーモンド記念金杯(T8F)では、豪フューチュリティS・コーフィールドS・ローソンS・オールエイジドSなど7連勝中の3歳年下の新星ザホークとの、2頭立てマッチレースとなった。2頭共に136ポンドの斤量を背負っての出走となり、レース半ばではザホークが2馬身のリードを奪っていたが、そのうち本馬が少し前に出た。しかしザホークが僅かに先頭を奪い返した。しかし本馬が再度差し返すと、徐々にリードを広げて1馬身差で勝利した。2頭の大激戦は大観衆から大きな喝采を受け、勝った本馬は勿論、敗れたザホークに対しても惜しみない拍手が送られた。そしてこれが本馬の現役最後のレースとなった。9歳時の成績は10戦8勝だった。

本馬は豪州産まれで、新国を本拠地としたが、7年連続で豪州に渡っており、最終的には15回(購入直後と7往復)豪州と新国間を移動している。本馬は温和な気性で、頭が良い馬だったという。ただ、大食漢で、空腹時に目に入るものは寝具の藁まで食べようとしたという。また、リンゴが好きで、レースに勝った後は必ずリンゴを求めてきたという。しかしレースに負けた後は、リンゴを欲しがらず、レース結果が分かっていたのではと言われている。唯一、本馬が敗戦時にリンゴを欲しがったのは落馬競走中止した時のみだったらしく、陣営は競走中止という結果を気にもせず、喜んでリンゴを与えたという。

血統

The Welkin Flying Fox Orme Ormonde Bend Or
Lily Agnes
Angelica Galopin
St. Angela
Vampire Galopin Vedette
Flying Duchess
Irony Rosebery
Sarcasm
Woodbury Crowberry Rosebery Speculum
Ladylike
Lizzie Lindsay Scottish Chief
Agility
The Widgeon Uncas Stockwell
Nightingale
Nu Orpheus
Lambda
Light Eager Enthusiast Sterling Oxford
Whisper
Cherry Duchess The Duke
Mirella
Greeba Melton Master Kildare
Violet Melrose
Sunrise Springfield
Sunray
No Trumps Orvieto Bend Or Doncaster
Rouge Rose
Napoli Macaroni
Sunshine
Electric Light Sterling Oxford
Whisper
Beachy Head Knight of St. Patrick
Beechnut

父ザウェルキンはフライングフォックス産駒で、現役時代は英国で走り23戦6勝。距離10ハロンのロイヤルSも勝っているが、他の勝ち鞍はポートランドプレートやジュライHなど短距離戦が主だった。あまり優れた競走成績ではなかっただけでなく活躍馬が出ていなかった牝系の出である事も影響して、英国では種牡馬としての需要が無く、600ギニーで豪州に輸入されクラークメルトンスタッドで繋養されていた。豪州では1918/19・20/21・21/22シーズンと3度の首位種牡馬に輝くなど優秀な種牡馬成績を収めている。

母ライトは現役時代に英国で走り4戦未勝利で入着も無かった。繁殖牝馬として豪州に輸入され、クラークメルトンスタッドで繋養された。豪州では10頭の産駒を産んだが、その全てがザウェルキンとの間の子だった。本馬以外にも、129戦12勝の成績を挙げた全兄ハレハッチ、8戦2勝の成績ながらもアデレードギニーで2着・VRCオークスで3着した全妹リフラクション、フェデラルSを勝った全妹ライトサム、カークハムSを勝った全妹グローミングズシスターなどを産んでいる。

ライトサムの牝系子孫には、ロイヤルアンドリュー【ローズヒルギニー】、ストームグロウ【アデレードC】、ゲイガントレット【ドゥーンベン10000】、エピソード【オーストラレイシアンオークス(豪GⅠ)・サウスオーストラリアンオークス(豪GⅠ)】などがいる。

本馬の牝系を延々と遡ると、1821年の英オークス馬オーガスタに行きつくことが出来、大種牡馬ヘロドは同じ牝系である。→牝系:F26号族

母父イーガーはジュライC・クイーンズスタンドプレート・ダッチェスオブヨークS・ロウス記念S2回など24勝を挙げている短距離馬だった。イーガーの父エンスージアストは英2000ギニー・サセックスSの勝ち馬。我々日本人にとってエンスージアストは、シンザンなどの牝系先祖として、現在も日本競馬界に大きな影響を与える輸入繁殖牝馬ビューチフルドリーマーの父として記憶される馬である。エンスージアストの父スターリングは当馬の項を参照。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は、グリーンウッド氏所有の牧場で悠々自適の余生を送り、やはり豪州の歴史的名馬であるファーラップが謎の死を遂げた1か月後の1932年5月に16歳で他界した。遺体は本馬の墓である事がわかるように埋葬され、その場所は「グローミングヒル」と呼ばれている。なお、本馬が他界した同年には所有者のグリーンウッド氏も調教師のメーソン師も死去している。2004年に本馬は豪州競馬の殿堂入りを果たし、2006年には新国競馬の殿堂入りも初年度で果たしている。

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