フライングフォックス

和名:フライングフォックス

英名:Flying Fox

1896年生

鹿毛

父:オーム

母:ヴァンパイア

母父:ガロピン

3歳時無敗で第8代英国三冠馬に輝いた名馬は仏国で種牡馬として成功して直系孫に名馬テディを登場させる

競走成績:2・3歳時に英で走り通算成績11戦9勝2着2回

誕生からデビュー前まで

史上8頭目の英国三冠馬。本馬の父オームや祖父オーモンドなども生産した名馬産家である初代ウェストミンスター公爵ヒュー・グローヴナー卿が、自身が所有するイートンスタッドにおいて生産・所有した馬で、グローヴナー卿の最後の傑作と言われる。

オームやオーモンドも手掛けたジョン・ポーター調教師に預けられたが、数々の名馬を育てたポーター師が入厩前の本馬を見た時に「ここにダービー馬がいる!」と言ったという見栄えの良さと素質の持ち主で、グローヴナー卿も本馬の事を大変気に入っていた。陣営は、本馬の1歳上の半兄バットが英ダービーで惜しくもジェダーの3/4馬身差2着に敗れていたため、本馬に兄の雪辱を託した。主戦は兄バットと同じくM・キャノン騎手が務めた。

競走生活(2歳時)

2歳6月にアスコット競馬場で行われたニューS(T5F)でデビュー。単勝オッズ2.25倍の1番人気に応えて、後に英オークスを勝ち英1000ギニーで3着するムーサを3/4馬身差の2着に抑えて勝利した。次走のストックブリッジフォールSも勝利した。10月にケンプトンパーク競馬場で出走したインペリアルプロデュースS(T6F)では、136ポンドの斤量を課された。レースでは、名馬セントフラスキンの半弟で父はガロピンという良血馬だったリッチモンドSの勝ち馬セントグリスとの接戦となったが、本馬より斤量が5ポンド軽かったセントグリスが勝利を収め、本馬は頭差の2着に敗れた(後にコロネーションSを勝ち英1000ギニーで2着するファッシネイションが3着だった)。

次走のミドルパークプレート(T6F)では、米国産馬カイマンと並んで単勝オッズ2.75倍の1番人気に支持されたが、3ポンドのハンデを与えたカイマンの1馬身半差2着に敗れた。引き続きニューマーケット競馬場で出走したクリテリオンS(T6F)では、ミドルパークプレートより1ポンド重い130ポンドを課されたが、単勝オッズ3倍の1番人気に支持された。レースでは、12ポンドのハンデを与えた後のアスコットSの勝ち馬シノピを1馬身半差の2着に抑えて勝利。2歳時を5戦3勝2着2回の好成績で終えた。

競走生活(3歳前半)

3歳時は、英2000ギニー(T8F11Y)から始動して、単勝オッズ1.83倍の1番人気に支持された。そしてミドルパークプレートで後れを取ったカイマンを2馬身差の2着に破って完勝した。

次走の英ダービー(T12F29Y)では、単勝オッズ1.4倍という圧倒的な1番人気に支持された。このレースには、仏国からホロコーストという馬も参戦しており、本馬に続く人気を集めていた。ホロコーストは、仏グランクリテリウム・クリテリウムドメゾンラフィット・ロシェット賞・リュパン賞を勝っていた仏国最強3歳馬だったが、最大目標の仏ダービーで致命的な不利を受けてパースの3着に敗れてしまったため、仏ダービーから僅か3日後の英ダービーに急遽参戦してきたのである。そしてレースでは本馬とホロコーストが直線で一騎打ちを展開した。しかしホロコーストは過密日程が災いしたのかゴール前で前脚を粉砕骨折して転倒。そのまま先頭でゴールインした本馬が2着ダモクレスに2馬身差で勝利を収め、兄バットの雪辱も果たしたが、ホロコーストが故障しなければ本馬が勝てたかどうか分からなかったような状況だったため、本馬の勝利は色褪せるものとなってしまった。

グローヴナー卿は、1880年のベンドア、1882年のショットオーヴァー、1886年のオーモンド以来13年ぶり4度目の英ダービー制覇を果たしたが、ホロコーストの故障という事故が発生したにも関わらず喜びを顕わにし過ぎたために、他の英国ジョッキークラブの会員達から白い目で見られたという。予後不良と診断されたホロコーストは安楽死(その後の診断によると仏ダービーの時点で既に骨に亀裂が入っていたらしい)となり、この年の英ダービーは史上最も悲劇的な英ダービーとして後世に語り継がれる事になった。

競走生活(3歳後半以降)

その後、本馬はプリンセスオブウェールズS(T12F)に出走して、ロウザーS・ハードウィックSの勝ち馬でデューハーストプレート2着・英2000ギニー3着の4歳馬ニヌスと対戦した。131ポンドの斤量だった本馬が、137ポンドのニヌスを抑えて、単勝オッズ1.67倍の1番人気に支持された。レースでは大方の予想どおりに本馬が勝利を収め、本馬より17ポンド軽い114ポンドの斤量だった3歳牡馬ロイヤルエンブレムが3馬身差の2着で、ニヌスはさらに2馬身差の3着だった。

次走のエクリプスS(T10F)では130ポンドの斤量で、単勝オッズ1.14倍の1番人気に支持された。そして、デューハーストプレート・アスコットダービーを勝っていた同世代馬フロンティアを2着に、ニヌスを3着に破って楽勝した。以前からグローヴナー卿は慈善事業として、所有馬が勝つたびに獲得した賞金を病院に寄付していた。そしてこのエクリプスS勝利で得た賞金により、英国に今も残る小児病院ロイヤルアレクサンドラ病院に対して約束していた寄付金額に到達したために、本馬の姿が刻まれた風向計が記念として病院に作られたという。

秋には英セントレジャー(T14F132Y)に出走して、単勝オッズ1.29倍の1番人気に支持された。そしてサセックスSを勝ってきたカイマンを3馬身差の2着に、後にこの年のシザレウィッチHを勝ち翌年のアスコット金杯で2着するシャンティラントをさらに1馬身差の3着に破って楽勝し、1897年のガルティモア以来2年ぶり史上8頭目の英国三冠馬となった。また、グローヴナー卿は13年前のオーモンドに続いて、2頭目の英国三冠馬オーナーになるという史上唯一の名誉を手にした。

その後さらに本馬はジョッキークラブS(T10F)に出走して、単勝オッズ1.125倍の1番人気に支持された。ここでは135ポンドが課せられたが、14ポンドのハンデを与えたシャンティラントを4馬身差の2着に破って完勝。3歳時を6戦全勝の成績で終えた。

しかしグローヴナー卿はジョッキークラブSから間もなくして病気にかかり12月に75歳で死去した。グローヴナー卿が所有していた競走馬の多くは翌年7月にニューマーケットにおいてタタソールズ社が実施したセリに出された(この中には後の英国クラシック競走4勝馬セプターもいた)。本馬も仏国の馬産家エドモン・ブラン氏により、セリに出された馬としては当時史上最高価格となる3万7500ギニーで購買された。ただし、ベンドア、セプターの母オナーメント、本馬の両親オームとヴァンパイアなどは年齢が考慮されて売却されず、グローヴナー卿の孫で後継者となった孫の第2代ウェストミンスター公爵の所有馬のまま留め置かれ、いずれもイートンスタッドにおいてその生涯を閉じることになる。

さて、ブラン氏は本馬に4歳時も現役を続けさせる予定だったが、本馬を管理していたポーター師は本馬の調教を続ける事を拒否した。その正確な理由は不明だが、本馬が徐々に母譲りの気性難を見せ始め、調教が難しくなったからだという説が一般的である。しかし、ポーター師が本馬の素質を非常に高く買っていた事や、セントサイモンが種牡馬として猛威を振るっていた当時の英国にはセントサイモン譲りの気性難の競走馬は数多くおり、英国内でも優秀な調教師だったポーター師が気性難を理由に調教ができないと言った等とは考えにくく、筆者はこの説の信憑性は低いと思う(仮に言ったのが事実だとしても口実であろう)。仏国人の所有馬となった本馬を管理するという事に、生粋の英国人だったポーター師が抵抗感を抱いたからだと考える方が自然ではないだろうか。いずれにしてもブラン氏は代わりの調教師を見つける事が出来ず、本馬を競走生活から引退させざるを得なくなった。

血統

Orme Ormonde Bend Or Doncaster Stockwell
Marigold
Rouge Rose Thormanby
Ellen Horne
Lily Agnes Macaroni Sweetmeat
Jocose
Polly Agnes The Cure
Miss Agnes
Angelica Galopin Vedette Voltigeur
Mrs. Ridgway
Flying Duchess The Flying Dutchman
Merope
St. Angela King Tom Harkaway
Pocahontas
Adeline Ion
Little Fairy
Vampire Galopin Vedette Voltigeur Voltaire
Martha Lynn
Mrs. Ridgway Birdcatcher
Nan Darrell
Flying Duchess The Flying Dutchman Bay Middleton
Barbelle
Merope Voltaire
Juniper Mare
Irony Rosebery Speculum Vedette
Doralice
Ladylike Newminster
Zuleika
Sarcasm Breadalbane Stockwell
Blink Bonny
Jeu d'Esprit Flatcatcher
Extempore

オームは当馬の項を参照。

母ヴァンパイアは、J・G・ホジソン氏の生産馬で、ノエル・フェンウィック氏の所有馬として競走生活を送った。競走馬としてはプライオリーS勝ちなど12戦2勝の成績に留まったが、血統的にはかなり優れていた。ヴァンパイアの曾祖母ジュドエスプリは名牝系の祖であり、その娘である英オークス馬フードジョワや、フードジョワの孫である仏オークス馬ソランジュ、ジュドエスプリの曾孫である愛ダービーを勝った牝馬トラジディーと、その息子である英セントレジャー馬ワイルドフォウラーなどを出している。さらに書けば、シカンブルサンドピット、シンコウウインディ、それにヤマピット、イットー、ニッポーキング、ハギノトップレディ、ハギノカムイオー、ダイイチルビー、マイネルセレクトなどの華麗なる一族はトラジディーの牝系出身であるし、コールタウンスタネーラベタールースンアップ、クインナルビー、リンデンリリー、オグリキャップ、オグリローマン、キョウエイマーチもジュドエスプリの牝系出身である。

ヴァンパイアは吸血鬼の意味を持つ名前に相応しく非常に気性が激しい馬だったが、グローヴナー卿はその血統の良さを評価し、フェンウィック氏から1000ギニーで購入した。しかしヴァンパイアの気性の激しさは凄まじく、グローヴナー卿を始めとして近寄ろうとする人間を片端から蹴ろうとした。それでも何とか種牡馬と交配させられて子どもを産んだが、誕生した自分の子に対して癇癪を起こして、自分が産んだその子を殺してしまい、周囲の人間にも怪我を負わせた。グローヴナー卿はヴァンパイアを購入した事を後悔したというが、そのまま繁殖牝馬として繋養を続けた。その後ヴァンパイアはシーンという種牡馬との間にバットという牡駒を産んだが、この時の状況から種付け相手の種牡馬に危険を及ぼす恐れが危惧された。また、ヴァンパイアを他牧場に輸送すること自体もはや困難と判断されたため、ガロピンの2×3の強いインブリードになることを覚悟の上で、同じ牧場に繋養していたオームと交配した結果、本馬が誕生したという非常に有名な逸話がある。なお、前述のとおりバットは英ダービーで2着と好走している。

ヴァンパイアは本馬の後にもオームとの間に、牡駒フライングリマー【アスコットダービーS】、牡駒ヴァモス【インペリアルプロデュースS・プリンスオブウェールズS】などを産んでいる。また、ヴァンパイアは晩年になると少し気性が落ち着いたのか、ウィリアムザサードなど他の種牡馬との間にも子を残している。本馬の全妹ヴェインの子にはウェザーヴェイン【ロイヤルハントC・エボアH】が、本馬の全妹ウェタリアの子にはヴェスパーチリオン【フォンテーヌブロー賞】がいる。

ヴェインの牝系子孫はその後に主にオセアニアを中心に伸びており、プリンスコートールド【豪シャンペンS・オールエイジドS・カンタラS・豪フューチュリティS・AJCクイーンエリザベスS・コーフィールドS】、リンドバーグ【豪シャンペンS・AJCサイアーズプロデュースS・ジョージメインS】、ソヴリンレッド【コーフィールドギニー(豪GⅠ)・ヴィクトリアダービー(豪GⅠ)・ウエスタンメイルクラシック(豪GⅠ)・ロスマンズ10000(豪GⅠ)・アンダーウッドS(豪GⅠ)】、ヴェアンダークロス【新2000ギニー(新GⅠ)・ベイヤークラシック(新GⅠ)・カンタベリーギニー(豪GⅠ)・ライオンブラウンスプリント(新GⅠ)・オーストラリアンC(豪GⅠ)・ランヴェットS(豪GⅠ)・AJCクイーンエリザベスS(豪GⅠ)】、エクセレント【新ダービー(新GⅠ)・ニュージーランドS(新GⅠ)・マッジウェイパーツワールドS(新GⅠ)・ケルトキャピトルS(新GⅠ)】など多くの活躍馬が出ている。

また、本馬の半妹グレイレディ(父グレイレグ)の牝系子孫には、ポールモール【英2000ギニー・ロッキンジS2回】、ファーウェル【イピランガ大賞・ジュリアーノマルティンス大賞・ダービーパウリスタ大賞・リネアヂパウラマシャド大賞・コンサグラサン大賞・サンパウロ大賞・ブラジル大賞】、カーグワール【英1000ギニー】、ラムサン【カドラン賞(仏GⅠ)・サンクルー大賞(仏GⅠ)】、プレスヴィス【クイーンエリザベスⅡ世C(香GⅠ)・ドバイデューティーフリー(首GⅠ)】、日本で走ったカツトップエース【皐月賞・東京優駿】、コガネタイフウ【阪神三歳S(GⅠ)】、スリーロールス【菊花賞(GⅠ)】などがいる。

ウェタリアの牝系子孫にはジミーレッピン【サセックスS・クイーンエリザベスⅡ世S】が、本馬の半妹ミステリー(父トラウトベック)の牝系子孫にはレナズレディ【AJCオークス(豪GⅠ)】などがいる。→牝系:F7号族②

母父ガロピンは当馬の項を参照。言わずと知れたセントサイモンの父であり、セントサイモン共々気性難の代名詞呼ばわりされていたが、それは血統表内に気性難で知られたブラックロックの血が複数入っていたためであり、ガロピン自身が気性難だったという話は明確には伝わっていない。前述のとおりガロピンの2×3の強いインブリードを有していた本馬についても、「極めて扱い辛い馬」という評価と、「少し神経質な面がある程度で、母親と異なり、特に激しい気性の持ち主ではなかった」というまるで違う評価が存在しており、いずれが正しいのかはっきりしない。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は、仏国に移動し、ブラン氏が所有するジャルディ牧場で種牡馬入りした。初年度産駒から、リュパン賞・仏ダービー・パリ大賞など5戦全勝の成績を誇った名馬アジャックス、仏2000ギニーや第1回の仏共和国大統領賞(現サンクルー大賞)を勝ったグヴェルナンを出して、1904年の仏首位種牡馬に輝いた。翌1905年にも、仏2000ギニー・エクリプスSを制したヴァルドール、カドラン賞を制したグヴェルナンなどの活躍で、2度目の仏首位種牡馬を獲得するなど、仏国で大きな成功を収めた。1911年3月に15歳で他界したが、死後の1913年には仏2000ギニー・仏ダービーを制したダゴールの活躍により3度目の仏首位種牡馬になっている。なお、“Thoroughbred Heritage”には、本馬は仏国における成功にも関わらず、死後の1914年にしか仏首位種牡馬になれなかったと記載されているが、他の多くの資料と矛盾する上に、1914年に本馬の産駒が大競走を勝った実績も無いため、多分これは“Thoroughbred Heritage”の勘違いであろう。アジャックスが名競走馬にして名種牡馬テディの父となったことで、本馬は後世のサラブレッド血統界に大きな影響力を保ち続けている。本馬の名はイギリス国鉄のディーゼル機関車A1-4475号の名称として、1925年から1964年まで使用された。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1901

Ajax

仏ダービー・パリ大賞・リュパン賞・ノアイユ賞

1901

French Fox

クリテリウムドメゾンラフィット

1901

Gouvernant

仏2000ギニー・仏共和国大統領賞・カドラン賞・バーデン大賞・ヴィシー大賞・ユジェーヌアダム賞・ビエナル賞・ドラール賞

1902

Adam

エクリプス賞

1902

Jardy

ミドルパークS・ダリュー賞・ノアイユ賞

1902

Muskerry

ペネロープ賞

1902

Val d'Or

仏2000ギニー・エクリプスS・仏グランクリテリウム・クリテリウムドメゾンラフィット・ドゥザン賞・ユジェーヌアダム賞

1903

Arabie

フロール賞

1903

Belle Fleur

クリテリウムドサンクルー・エクリプス賞

1903

Blue Fly

ロワイヨモン賞

1903

Flying Star

仏オークス

1903

Sais

仏1000ギニー・ペネロープ賞・フロール賞

1904

Arga

ドラール賞

1904

Madree

仏1000ギニー・伊1000ギニー

1905

Gourbi

モートリー賞

1906

Blankney

ジムクラックS

1906

Fils du Vent

ロベールパパン賞・セーネワーズ賞2回・プティクヴェール賞・グロシェーヌ賞

1906

Messaouda

フィユドレール賞・マルレ賞

1910

Dagor

仏2000ギニー・仏ダービー・ジョンシェール賞・プランスドランジュ賞

1911

Roselys

アランベール賞・ペネロープ賞

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