アポロジー

和名:アポロジー

英名:Apology

1871年生

栗毛

父:アドベンチャラー

母:マンドラゴラ

母父:ラタプラン

馬好きの老牧師の手によりこの世に生を受けた史上3頭目の英国牝馬三冠馬にしてアスコット金杯も制覇した名牝

競走成績:2~5歳時に英で走り通算成績20戦8勝2着5回3着1回(異説あり)

誕生からデビュー前まで

英国リンカンシャー州にある小さな村アシュビー・デ・ラ・ラウンデにあるアシュビーホールにおいて、ジョン・ウィリアム・キング氏により生産・所有された。キング氏の職業は牧師だったが、彼の父ネヴィル・キング大佐が馬主活動をしており、父と3歳年上の兄が死去した後に牧場や馬を受け継いでいた。牧師という職業柄、本名で馬主をするのが憚られたためか、彼は自分が住む村の名前に因んだ“Mr. Launde(ミスター・ラウンデ)”という偽名で馬主活動をしていた。

体高は15.2ハンドとそれほど大きくは無かったが、英タイムズ紙が「力強くて見栄えが良い栗毛の牝馬です。背中は少し窪んでいますが、その下半身は非常に筋肉質で強靭です」と評した馬体の持ち主だった。馬名は「謝罪」の意味であるが、キング氏の職業が牧師だった事からすると、「懺悔」と解釈したほうが適切かもしれない。英国ヨークシャー州ミドルハムに厩舎を構えていたウィリアム・オズボーン師、ロバート・オズボーン師、ジョン・オズボーン師の3兄弟に預けられた。

競走生活(2歳時)

2歳7月にグッドウッド競馬場で行われたハムプロデュースS(T6F)でデビューしたが、後の英2000ギニー・アスコットダービーの勝ち馬アトランティックと、後の英グランドナショナルの勝ち馬リーガルの牡馬2頭に敗れて3着だった。それから数週間後にはストックトン競馬場でラムトンプレートに出たが、牡馬ドカンビスの2着に敗れた(着外とする資料もある)。ヨーク競馬場で出たノースオブイングランドバイエニアルSでも、牡馬サーウォルターウォレスの2着に敗退(これまた着外とする資料もある)。ドンカスター競馬場で出たミュニシパルSでは、後の英ダービー馬ジョージフレデリックの1馬身半差2着に敗れた(半馬身差2着とする資料もある)。

このように牡馬に初勝利を阻まれ続けた本馬だが、ニューマーケット競馬場で出たホームブレッドプロデュースSでは、英オークス馬クイーンバーサの娘で名牝ホイールオブフォーチュンの半姉に当たるジュライS2着馬ブランシュフルール、後にナッソーS・パークヒルS・グッドウッドC・シザレウィッチHを勝つ英シャンペンS3着馬アヴェンチュリエールといった有力牝馬勢を破って初勝利を挙げた。2歳時の成績は5戦1勝だった。

競走生活(3歳時)

3歳時はいきなり英1000ギニー(T8F17Y)から始動した。人気を集めたのは本馬、ラクルジェ、レディボズウェルの3頭であり、本馬は単勝オッズ3.5倍という評価だった。本馬の鞍上は、管理調教師の1人でもある主戦のウィリアム・オズボーン騎手だった。レースでは出走全馬が綺麗なスタートを切り、しばらくは横一線になって進んだ。200ヤードほど進んだところでラクルジェが抜け出して先頭に立ったが、レース中盤で本馬が先頭を奪った。そしてそのままゴールまで先頭を走り抜け、2着ラクルジェに半馬身差、3着ブランシュフルールにはさらに3/4馬身差をつけて勝利した。その後は6月のコロネーションS(T8F)に向かい、ブランシュフルールを2着に破って勝利。

そして7月の英オークス(T12F29Y)に駒を進めた。ここでも単勝オッズ3.5倍と人気を集めた本馬は、道中は好位を進み、タッテナムコーナーの途中で先頭に立った。そして馬なりのままエプソム競馬場の長い直線を先頭で走り抜け、2着ミストトに3馬身差、3着レディパトリシアにはさらに1馬身差をつけて完勝した。

その後はヨークシャーオークスに向かう予定だったが、跛行が出たために見送り、代わりに8月のグレートヨークシャーH(T14F)に向かった。ここではスタートからゴール直前まで先頭を走り続けたが、牡馬よりも5ポンド重い斤量が影響したようで、ゴール前でパリ大賞の勝ち馬トレントに差されて頭差の2着に敗れた。

次の目標は9月の英セントレジャーだった。最大の強敵と目されていたのは英ダービー馬ジョージフレデリックだった。ジョージフレデリックが所属していたのはイングランド南部にあるウィルトシャー州の厩舎であり、イングランド北部(というよりも中東部と言ったほうが正確だが)のリンカンシャー州の厩舎所属である本馬との対戦は、北の牝馬と南の牡馬の戦いと言われた。しかしジョージフレデリックは直前の調教で脚を痛めて回避が決定。一方の本馬も調教中に再び跛行を発症してしまい、バケツの中の冷水に脚を浸して治療するという有様となっており、これまた回避が濃厚だった。しかし本馬を管理していたジョン・オズボーン師はキング氏に「多くの人たちが彼女の勝利に賭けています。たとえ3本の脚しか動かせなくても、レースに出なければなりません」という電報を送り、本馬の参戦を決定したという。一説によると、キング氏の返答が無いうちに本馬の脚の状態が急激に改善したため、オズボーン師が参戦に踏み切ったともいう。

いずれにしても本馬は英セントレジャー(T14F132Y)に出走した。本馬は1番人気には支持されたが、脚を痛めているという噂が広まっていた事もあり、単勝オッズは少し上げられて5倍となっていた。スタートが切られると、ブレが先頭に立ち、プリンスオブウェールズS・セントジェームズパレスSの勝ち馬レオリヌスや、英2000ギニー馬で英ダービー3着のアトランティックがそれを追って先行。本馬はトレントと共に馬群の中団を進んだ。そして直線に入ると、内埒沿いに逃げるレオリヌスにトレントが並びかけていったが、外側から来た本馬がその2頭を一気に抜き去った。最後は2着に粘ったレオリヌスに1馬身半差、ゴール前で失速した3着トレントにはさらに5馬身差をつけて、1868年のフォーモサ、1871年のハンナに次ぐ3年ぶり史上3頭目の英国牝馬三冠を達成した。勝ちタイム3分16秒0はレースレコードだった。この勝利にファンは狂喜乱舞し、本馬はパドック内で鬣や尾を引き抜かれたという。

大司教からの言いがかり

しかしこの勝利の翌10月に事件が起こった。リンカンシャー州の大司教だったクリストファー・ワーズワース氏が、本馬の所有者の正体が実は牧師である事を知ってしまったのである。ワーズワース氏は、聖職者がギャンブルに深く携わっていた事をとても憤った。そしてすぐさまキング氏に手紙を送り、牧師を辞めるか馬主を辞めるかの二者択一を迫った。ワーズワース氏は、もしいずれにも従わないならば、法律の改正を呼びかけるなど自分が用いることが出来るあらゆる権限を行使して適切な措置を講ずるが、その前にキング氏自身の良心に訴えたい旨を手紙に書いた。非常に文章力があった事で有名だったワーズワース氏の書いた手紙だけに文言は丁寧だが、内容はほぼ脅迫だった(法律の改正云々と言っているところからして、聖職者が馬主活動をするのは違法ではなかったわけであり、ワーズワース氏が取った行動は越権行為である)。

当時82歳のキング氏は、体調を相当悪くしており、牧師としての仕事は既にほとんどできない状態だった。また、キング氏は馬主とはいっても父や兄から馬を受け継いだものであり、彼個人が賭け事に関わった事はほとんど無かった(彼が競馬場に姿を現したのは生涯で3度しかなかったという)が、それでも馬の事は好きだった。そこでキング氏は「私は家族と一緒に50年間に渡り馬の飼育に携わってきました。なので馬を捨てることは出来ません。私は残り少ない人生を平穏に暮らしたいので、裁判沙汰になる事も望みません」という内容の返事を出し、牧師を辞めるほうを選択したのだった。そして4歳になった本馬は引き続きキング氏の所有馬であり続けたのだが、この年の5月にキング氏が死去したため、同年における本馬の出走登録のすべてがいったん無効となった。本馬はキング氏の未亡人アニー・マリア・キング夫人に受け継がれた。彼女も夫と同じく本名ではなく、“Mr. Seabrook(ミスター・シーブルック)”という偽名で馬主活動を行った。この名前は、亡きキング氏の友人の息子で牧場の運営も任されていたC・ブルック氏の名前をもじったものだったらしい。こういったごたごたがあった影響で、英セントレジャー以降の本馬はしばらく目立つ競走成績を残せなかった。3歳時最後の出走となったニューマーケットフリーH(T10F)では着外に敗退し、3歳時の成績は6戦4勝となった。

競走生活(4・5歳時)

キング氏の死去後最初の出走となった4歳8月のグッドウッドC(T20F)では、かつて対戦経験があるアヴェンチュリエールがトレントを3着に破って勝利を収めた後方の4着に終わった。エボアH(T14F)でも5着に敗退。ドンカスターC(T18F)では、1歳年上の牝馬フロイラインの4着に敗退。シザレウィッチH(T18F)では、3歳牡馬デュークオブパーマの5着に敗れた。10月のジョッキークラブC(T18F)では、6ポンドのハンデを与えた3歳牡馬カーネリオンの首差2着に頑張ったが、結局4歳時は5戦未勝利に終わった。

5歳時も現役を続行した。前年に比べると調子はかなり上向いていた。シーズン初戦となったグレートノーザンH(T14F)こそ、26ポンドのハンデを与えたポロネーズに7馬身差をつけられた4着に敗れたが、マンチェスター競馬場で出たクイーンズプレートを首差で制して久々の勝利を挙げた。

さらにアスコット金杯(T20F)に出走すると、前年の英セントレジャーを3馬身差で快勝していたクレイグミラーや、この年のアスコットダービーの勝ち馬で英ダービー2着のフォアランナー達を、何の努力もすることなく一捻り。2着クレイグミラーに半馬身差、3着フォアランナーにはさらに3馬身差をつけて勝利した。フォーモサとハンナの2頭はアスコット金杯を勝っていないから、本馬は英国牝馬三冠競走とアスコット金杯を全て制した史上初の馬となった(本馬以外に同じ快挙を達成したのはラフレッチェのみ。セプタープリティポリーといった英国競馬史上稀有の名牝すらも失敗している)。

さらにニューカッスル競馬場で出たクイーンズプレートでは、20馬身差で圧勝した。その後はグッドウッドCを目標に調整されていたが、直前になって脚を負傷したために、5歳時4戦3勝の成績で競走馬を引退した。

血統

Adventurer Newminster Touchstone Camel Whalebone
Selim Mare
Banter Master Henry
Boadicea
Beeswing Doctor Syntax Paynator
Beningbrough Mare
Ardrossan Mare Ardrossan
Lady Eliza 
Palma Emilius Orville Beningbrough
Evelina
Emily Stamford
Whiskey Mare
Francesca Partisan Walton
Parasol
Orville Mare Orville
Buzzard Mare
Mandragora Rataplan The Baron Birdcatcher Sir Hercules
Guiccioli
Echidna Economist
Miss Pratt
Pocahontas Glencoe Sultan
Trampoline
Marpessa Muley
Clare
Manganese Birdcatcher Sir Hercules Whalebone
Peri
Guiccioli Bob Booty
Flight
Moonbeam Tomboy Jerry
Ardrossan Mare
Lunatic Prime Minister
Maniac

父アドベンチャラーはニューミンスターの直子で、競走馬としてはシティ&サバーバンH・アスコットゴールドヴァーズを勝った長距離馬だった。種牡馬としても成功しており、1874年には本馬の活躍により英首位種牡馬を獲得している。

母マンドラゴラは、名牝マンガニースの初子である。マンガニースは、本馬の生産・所有者であるキング氏と、本馬の調教と騎乗も担当したオズボーン兄弟の父ジョン・オズボーン・シニア氏の共同所有馬として走り、1856年の英1000ギニーを勝つなど16戦10勝の成績を挙げた活躍馬で、“The Flying Manganese(空を飛ぶマンガニース)”と呼ばれた快速馬だった。マンドラゴラの父は、種牡馬の皇帝ストックウェルの全弟で71戦42勝の成績を残した名馬ラタプランであるから、かなりの良血馬である。しかしマンドラゴラは成長しても体高14.3ハンドと非常に小柄な馬だった。その馬体が影響したのか、2・3歳時に走るも勝ち星を挙げられないまま繁殖入りしている。繁殖牝馬としては優れた成績を収め、本馬の半兄マンドレイク(父ウェザービット)【ドンカスターC】、53戦21勝の成績を残した全姉アジリティ【ナッソーS・パークヒルS・ヨークC2回】なども産んでいる。

本馬の全妹アナロジーの子にはエルフ【アスコット金杯・ラクープ2回・グラディアトゥール賞2回・リューテス賞】がいる。また、アジリティの牝系子孫は豪州で細々と続いており、ジャグラー【チッピングノートンS(豪GⅠ)・ドゥーンベンC(豪GⅠ)・ジョージメインS(豪GⅠ)・コーフィールドS(豪GⅠ)】などが出ている。

マンドラゴラの牝系子孫はあまり発展しなかったが、マンガニースの牝系子孫は相当発展している。マンドラゴラの3歳年下の全妹ミネラルの子にはウェンロック【英セントレジャー】、シュヴィンドラー【独ダービー】、キシュベル【英ダービー・パリ大賞・デューハーストS】の3兄弟、牝系子孫には、ユアホスト【サンタアニタダービー】、フラワーボウル【デラウェアH・レディーズH】、ボウルオブフラワーズ【フリゼットS・エイコーンS・CCAオークス・スピンスターS】、グロースタークヒズマジェスティの名種牡馬兄弟、ギャラントブルーム【メイトロンS・モンマスオークス・デラウェアオークス・ガゼルH・マッチメイカーS・スピンスターS・サンタマリアH・サンタマルガリータ招待H】、マジェスティックプリンス【ケンタッキーダービー・プリークネスS・サンタアニタダービー】、セクレト【英ダービー(英GⅠ)】、イスタブラク【愛チャンピオンハードル(愛GⅠ)4回・英チャンピオンハードル(英GⅠ)3回・エイントリーハードル(英GⅠ)・ハットンズグレイスハードル(愛GⅠ)2回・ロイヤルボンドノービスハードル(愛GⅠ)・ロイヤルサンアライアンスノービスハードル(英GⅠ)・スタンリークッカーチャンピオンノービスハードル(愛GⅠ)・パンチェスタウンチャンピオンハードル(愛GⅠ)】、アワポエティックプリンス【コックスプレート(豪GⅠ)・ライオンブラウンスプリント(新GⅠ)・タンクレッドS(豪GⅠ)・AJCクイーンエリザベスS(豪GⅠ)】、リアルクワイエット【ケンタッキーダービー(米GⅠ)・プリークネスS(米GⅠ)・ハリウッドフューチュリティ(米GⅠ)・ピムリコスペシャルH(米GⅠ)・ハリウッド金杯(米GⅠ)】、グルーピードール【BCフィリー&メアスプリント(米GⅠ)2回・ヴァイネリーマディソンS(米GⅠ)・ヒューマナディスタフH(米GⅠ)】、ソングバード【BCジュヴェナイルフィリーズ(米GⅠ)・デルマーデビュータントS(米GⅠ)・シャンデリアS(米GⅠ)・サンタアニタオークス(米GⅠ)】、日本で走ったダイワメジャー【皐月賞(GⅠ)・天皇賞秋(GⅠ)・マイルCS(GⅠ)2回・安田記念(GⅠ)】、ダイワスカーレット【桜花賞(GⅠ)・秋華賞(GⅠ)・エリザベス女王杯(GⅠ)・有馬記念(GⅠ)】、ヴァーミリアン【川崎記念(GⅠ)2回・JBCクラシック(GⅠ)3回・ジャパンCダート(GⅠ)・東京大賞典(GⅠ)・フェブラリーS(GⅠ)・帝王賞(GⅠ)】など活躍馬が多数いる。

マンドラゴラの4歳年下の半妹ソーズデイ(父ソーマンビー)の牝系子孫には、16戦無敗の仏国記録保持馬プレステージ【ロベールパパン賞・モルニ賞・仏グランクリテリウム・フォレ賞】、仏首位種牡馬3回のブリュルール【パリ大賞・ロワイヤルオーク賞】、ジョージロイヤル【サンフアンカピストラーノ招待H2回・加国際CSS2回】、アパッチキャット【オーストラリアンギニー(豪GⅠ)・ライトニングS(豪GⅠ)・オーストラリアS(豪GⅠ)2回・TJスミスS(豪GⅠ)・BTCカップ(豪GⅠ)・ドゥーンベン10000(豪GⅠ)2回】、ドゥーナデン【メルボルンC(豪GⅠ)・香港ヴァーズ(香GⅠ)・コーフィールドC(豪GⅠ)】、日本で走ったシェスキイ【安田記念】、ストロングエイト【有馬記念】、シンコウラブリイ【マイルCS(GⅠ)】、タイキシャトル【マイルCS(GⅠ)2回・スプリンターズS(GⅠ)・安田記念(GⅠ)・ジャックルマロワ賞(仏GⅠ)】、ピースオブワールド【阪神ジュベナイルフィリーズ(GⅠ)】、カゼノコ【ジャパンダートダービー(GⅠ)】などがいる。

マンドラゴラの9歳年下の全妹ミリナーの牝系子孫はほぼ日本でのみ発展し、バンナーゴール【中山四歳牝馬特別(現・桜花賞)】、ニットエイト【菊花賞・天皇賞秋】、 グランドマーチス【中山大障害春2回・中山大障害秋2回】、サクライワイ【安田記念・スプリンターズS2回】、ファインポート【東京大賞典】、ゴールドスペンサー【川崎記念2回】、 アイネスフウジン【東京優駿(GⅠ)・朝日杯三歳S(GⅠ)】、ハクタイセイ【皐月賞(GⅠ)】、レガシーワールド【ジャパンC(GⅠ)】、トーホウエンペラー【東京大賞典(GⅠ)・南部杯(GⅠ)】などが出ている。

マンドラゴラの11歳年下の半妹パーアドベンチャー(父アドベンチャラー)の牝系子孫は主にオセアニアで発展し、レッドクレイズ【コーフィールドC・コーフィールドS・ザメトロポリタン・ローソンS・コックスプレート】、タラスブルバ【ローズヒルギニー・AJCダービー・豪チャンピオンS・アンダーウッドS・チッピングノートンS・AJCクイーンエリザベスS】、サラウンド【アスコットヴェイルS・コーフィールドギニー・コックスプレート・クラウンオークス・CFオーアS・AJCオークス・クイーンズランドオークス】、ボーザム【スプリングチャンピオンS(豪GⅠ)・セジェンホーS(豪GⅠ)2回・タンクレッドS(豪GⅠ)・AJCダービー(豪GⅠ)】、スタークラフト【チッピングノートンS(豪GⅠ)・AJCダービー(豪GⅠ)・マッジウェイパーツワールドS(新GⅠ)・ムーランドロンシャン賞(仏GⅠ)・クイーンエリザベスⅡ世S(英GⅠ)】などが出た他、日本で走ったミツハタ【天皇賞春】、リワードウイング【エリザベス女王杯(GⅠ)】などが登場した。→牝系:F4号族①

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬はキング夫人の所有のもとで繁殖入りした。キング氏が所有していた馬の多くは母マンドラゴラも含めてキング氏の死後に売られていったが、本馬だけは手元に留め置かれたのだった。しかし結局本馬も売られることになり、9歳時の1880年9月に、クレア・ヴァイナー氏という人物により3200ギニーで購入され、ヴァイナー氏が所有するフェアフィールドスタッドに移り住んだ。16歳時の1887年頃に本馬は体調を崩した。翌1888年4月に最後の子を産んだ直後にいよいよ体調が悪化したため、17歳で安楽死の措置が執られた。病気はどうやら悪性腫瘍だったようで、獣医が本馬の遺体を解剖してみると、内臓全体に腫瘍が広がっていたという。本馬は母としては8頭の子を産んだ。母を彷彿とさせるほど優れた競走成績を挙げた馬は出なかったが、3番子の牡駒ユヴェントス(父ワイルドオーツ)がジムクラックSを、4番子の牡駒エスターリング(父スターリング)がクレイヴンSを勝っており、繁殖牝馬としては一定の成績を残した。

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