マジェスティックプリンス
和名:マジェスティックプリンス |
英名:Majestic Prince |
1966年生 |
牡 |
栗毛 |
父:レイズアネイティヴ |
母:ゲイホステス |
母父:ロイヤルチャージャー |
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史上初めてケンタッキーダービー・プリークネスSの2競走を無敗のまま制したが、脚の負傷をおして出走したベルモントSで2着に敗れてそのまま引退する |
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競走成績:2・3歳時に米で走り通算成績10戦9勝2着1回 |
誕生からデビュー前まで
米国ケンタッキー州スペンドスリフトファームにおいて、同牧場の創設者レスリー・コムズⅡ世氏により生産された。1歳時のキーンランド9月セールに出品され、フランク・マッキャノン氏により、1歳馬としては当時史上最高取引額となる25万ドルで購買された評判馬だった。このセリで本馬が落札された瞬間の模様が映像として残っており、筆者はそれを視聴する機会があったのだが、確かにその映像に写っていた本馬は非常に筋肉質で堂々とした馬体をしており、「これが本当に1歳馬なの!?」と筆者は感じた。
本馬を落札したマッキャノン氏は加国アルバータ州カルガリー在住の事業家だった。兄弟達と一緒に石油や天然ガスの採掘業を開始して、47歳時の1949年に設立したウエストコーストトランスミッション株式会社は当時米国最大級の石油・天然ガス会社に成長するなど、事業家として大きな成功を収めていた。競馬にも興味を抱いており、1950年から共同馬主、そして本馬が誕生した1966年から単独馬主となっていた。
マッキャノン氏は本馬をジョニー・ロングデン調教師に預けた。ロングデン師は1907年に英国ヨークシャー州に産まれた。1909年から加国アルバータ州テーバーに出稼ぎに出ていた彼の父親は、1912年になって自身の家族を加国に呼び寄せられるだけの資金が溜まったため、当時幼かったロングデン師は母親と一緒にタイタニック号に乗船して加国に向かうはずだった。しかし英国内で電車が遅れたために乗船に間に合わなかったのが幸いして、氷山に衝突したタイタニック号もろとも大西洋の藻屑となる運命を免れたという(この逸話は本人談であり、公式には証明されていない)。いずれにしてもタイタニック号以外の船で加国に渡ったロングデン師は若い頃に鉱夫として働いたが、やがて騎手に憧れて加国からカリフォルニア州に移住。あまりの気性難のために馬主から見放されかけていたカウントフリートの素質を見抜いて、その主戦として米国三冠を達成するなど活躍し、かつて英国のゴードン・リチャーズ騎手が樹立した世界最多勝利記録4870勝を更新する6032勝をマークして、本馬が誕生した1966年に騎手を引退して調教師に転身していた。マッキャノン氏とロングデン師はいずれもアルバータ州に縁があった事から長年に渡り懇意にしていた。
成長すると体重1120ポンド(約510kg)に達した巨漢馬だった本馬だが、その体格が影響したのか右前脚に脚部不安を抱えており、ロングデン師は調教にかなりの苦労を費やしたという。しかしその卓越したスピード能力はデビュー前から存分に発揮されており、期待度は高まる一方だった。
競走生活(3歳初期まで)
2歳11月にロングデン師の本拠地カリフォルニア州にあるベイメドウズ競馬場で行われた未勝利戦でデビューして、2馬身3/4差で勝利した。続いてサンタアニタパーク競馬場で行われた一般競走に出走して鼻差で勝利を収め、2歳時は2戦2勝の成績を残した。
3歳時はビル・ハータック騎手を主戦に迎え、1月のロスフェリスS(D6.5F)から始動して、2着ライトクロス(本馬の従兄弟に当たる)に4馬身差をつけて完勝した。翌2月にはサンヴィンセントS(D7F)に出走して、デルマーフューチュリティの勝ち馬でカリフォルニアブリーダーズチャンピオンS2着・ハリウッドジュヴェナイルCSS3着のフリートアライド、デルマーグラデュエーションSの勝ち馬でサンミゲルS2着のインヴァネスドライブ達と対戦。レースは泥だらけの不良馬場で行われたが本馬には関係なく、2位入線のフリートアライドに5馬身差をつけて圧勝した。なお、フリートアライドは進路妨害で4着に降着となり、3位入線のエレクトザルーラーが2着に、4位入線のインヴァネスドライブが3着に、それぞれ繰り上がっている。続いて2月末のサンハシントS(D8F)に出走。エレクトザルーラーに加えて、ウエストチェスターS・ハワードS・エルカミノS・カリフォルニアブリーダーズチャンピオンS・サンミゲルSなどを勝っていたミスタージョーエフが対戦相手となった。しかし本馬が2着ミスタージョーエフに4馬身差をつけて勝利した。
その後はさらに1か月後のサンタアニタダービー(D9F)に向かった。ここではミスタージョーエフなど9頭が対戦相手となったが、本馬はスポーツ・イラストレイテッド誌をして「他の9頭には何の希望もありませんでした」と言わしめたほど圧倒的な走りを披露した。道中は3番手を先行し、三角で外側から先頭に立つと、四角途中では後続を引き離して既に勝負を決めてしまった。直線に入った直後に後方を振り向いたハータック騎手(直線半ばでもう1回振り向いている)は本馬を馬なりのまま走らせ続けたが、それでも2着ミスタージョーエフに8馬身差をつけて圧勝。
デビューからの連勝を6に伸ばして米国西海岸最強3歳馬としての地位を確立した本馬は、ケンタッキーダービーに参戦するべく東上した。まずは本番1週間前にダート7ハロンの一般競走に出走して勝利。本番前の軽い足慣らしではあったが、2着馬との着差は6馬身差であり、勝ちタイム1分21秒6も非常に優秀なものだった。
ケンタッキーダービー
そしてケンタッキーダービー(D10F)に参戦したのだが、この年の同競走には本馬だけでなく、ホープフルS・ベルモントフューチュリティS・シャンペンS・フラミンゴS・フロリダダービーの勝ち馬でトレモントS・エヴァーグレーズS2着の前年の米最優秀2歳牡馬トップナイト、ブリーダーズフューチュリティS・ゴーサムS・ウッドメモリアルSの勝ち馬でピムリコローレルフューチュリティ2着のダイク、前走ブルーグラスSを15馬身差で大圧勝してきたエヴァーグレーズSの勝ち馬でフラミンゴS・ファウンテンオブユースS・フロリダダービー2着のアーツアンドレターズといった有力馬の姿があった。これでは勝ち目が無いと思った他馬陣営の回避が相次いで、僅か8頭立てとなった(同競走がこれより少頭数となったのはサイテーションが勝った1948年の6頭立てまで遡らなければ見つからない。また、この年以降にケンタッキーダービーが8頭立て以下になった事は1回も無い)。
本馬が単勝オッズ2.4倍の1番人気に支持され、トップナイトが単勝オッズ3倍の2番人気、ダイクとアーツアンドレターズが並んで単勝オッズ4倍の3番人気で、カーディナルS・デカトロンHの勝ち馬オーシャンロア、ラファイエットS・ケンタッキージョッキークラブS・アーカンソーダービーの勝ち馬でバッシュフォードマナーS・ブルーグラスS2着のトラフィックマーク、サンヴィンセントS4着降着後にゴールドラッシュS・カリフォルニアダービー2着・ダービートライアルS3着だったフリートアライドなど他の4頭はいずれも超人気薄だった(資料によってはトップナイトが1番人気で本馬が2番人気となっている)。
スタートが切られると人気薄の1頭オーシャンロアが単騎で先頭に立ち、トップナイト、アーツアンドレターズ、ダイク、本馬といった有力馬勢は揃って4馬身ほど離れた先行集団につけた。やがて向こう正面でオーシャンロアが失速するとトップナイトがいったんは先頭に代わったが、三角から四角にかけて手応えが無くなり失速。代わりに先頭に立ったのは内側を掬ったアーツアンドレターズと、外側から来た本馬の2頭だった。少し遅れてダイクも追い上げてきて、直線に入ると先頭争いを演じる本馬とアーツアンドレターズの2頭に、外側から徐々にダイクが迫ってくる展開となった。特にアーツアンドレターズと本馬の叩き合いは非常に熾烈であり、外側から迫ってきたダイクの存在もあって、筆者の中ではテンポイントが勝った1977年の有馬記念を思い起こさせるような直線の攻防となった。そして最後に本馬がアーツアンドレターズを首差の2着に、ダイクをさらに半馬身差の3着に抑えて勝利。無敗でケンタッキーダービーを制したのは、1922年のモーヴィッチ以来47年ぶりであった。また、騎手時代にカウントフリートでケンタッキーダービーを勝っていたロングデン師は、これで騎手と調教師の両方でケンタッキーダービーを制した史上初の人物となった(現在でも彼以外に達成者はいない)。
プリークネスS
続くプリークネスS(D9.5F)でも前走同様に8頭立てとなった。対戦相手は、アーツアンドレターズ、前走で本馬から12馬身半差の5着に終わっていたトップナイト、トゥマーケットS・ホーソーンジュヴェナイルS・ハッチソンS・ファウンテンオブユースSの勝ち馬でバハマズS・ウッドメモリアルS2着・サプリングS・エヴァーグレーズS・フロリダダービー3着のアルハタブ、カリフォルニアダービーの勝ち馬でルイジアナダービー2着のジェイレイ、サバイバーSの勝ち馬キャプテンアクション、ウッドローンSを勝ってきたグリーングラスグリーンなどだった。
レース展開は途中まで前走ケンタッキーダービーとそれほど変わらなかったが、直線の攻防はやや異なっていた。今回も単勝オッズ1.6倍の1番人気に支持された本馬が四角途中で先頭に立って押し切りを図り、それを離れた外側から上がってきたアーツアンドレターズが追いかける展開となった。前走とやや異なっていたのは直線に入った時点では本馬とアーツアンドレターズの馬体は大きく離れていた事だったが、直線途中で2頭がそれぞれ相手のほうに馬体を寄せて、最後は馬体を併せて叩き合いとなった。しかし本馬がアーツアンドレターズの猛追を頭差抑えて勝利を収めた。これで本馬はケンタッキーダービー・プリークネスSの2競走を無敗で制した事になったが、これは史上初の快挙だった。
ベルモントS前の騒動
ところがプリークネスSの翌日に、マッキャノン氏とロングデン師は共同で記者会見を開いた。そしてロングデン師が、距離1マイル半のベルモントSに出るのは本馬にとって厳しいので、同競走は回避して地元カリフォルニア州に戻って秋まで休養する旨を発表した。しかし隣の席のマッキャノン氏は、記者からの質問に対して、ロングデン師の意見に同意すると応えながらも、「私達が欲しいのは“a Crippled Crown(不十分な冠)ではなく“a Triple Crown”なのです」と付け加え、米国三冠に未練がある素振りを見せた。
そして、この記者会見は米国の競馬ファンの間に大きな波紋を広げた。“The Prince”、又は同じ栗毛の巨漢馬だったマンノウォーの愛称にちなんで“New Big Red”のニックネームで呼ばれるようになっていた本馬の人気は既に絶大なものとなっており、本馬がベルモントSに出走しない旨を残念がる声が日増しに高まった。米国のマスコミも本馬陣営に強烈な圧力を加えてきて、スポーツ・イラストレイテッド誌のホイットニー・タワー記者(米国の名馬産家コーネリアス・ヴァンダービルト・ホイットニー氏の実の甥。後に米国競馬名誉の殿堂博物館の代表者も務める)は“The Prince Ducks the Big One(マジェスティックプリンスは世紀の大一番から逃げ出しました)”という見出しで「マジェスティックプリンスは距離1マイル半のベルモントSではアーツアンドレターズやダイクには敵いそうにないから逃げ出したのでしょうが、それはスポーツマンシップに悖るものです」という記事を書いた。米国三冠馬は1948年のサイテーション以来21年間出ておらず、本馬の三冠達成、ましてや史上初の無敗での達成を見たいというファンやマスコミの願いも無理からぬところではあった。
しかしロングデン師が本馬のベルモントS回避を表明した本当の理由は距離不安ではなく脚部不安だった。元々本馬は右前脚が弱かった旨は前に書いたが、ケンタッキーダービー・プリークネスSと続いた激戦で疲労が溜まっていたのか、プリークネスS勝利直後に右前脚の靱帯が炎症を起こして腫れていたのである。ロングデン師がマッキャノン氏にベルモントSの回避を進言したのはそのためだった。なぜ回避理由を正直に脚部不安とするのではなく距離不安として発表したのかは定かではない(記者会見においてロングデン師は回避理由を「ベストの状態では出られないから」とも表現したが、右前脚の状態に関しては詳しく述べなかった)が、本馬の右前脚の状態が悪かったのであれば、ロングデン師は正直にその旨を記者会見で述べるべきだった(後の2003年になってロングデン師はロサンゼルス・タイムズ紙のインタビューに応じて「1マイル半の距離は問題ないと思っていました。私が気になっていたのは脚の状態でした」と語っている)。
世論の圧力を受け続けたマッキャノン氏は、米国三冠に未練があった事もあり、ベルモントSの出走登録締め切り間際になって本馬の出走登録を行い、ロングデン師の意に反して本馬はベルモントSに出走する事になってしまったのである。ロングデン師が薬や氷を使用して症状の沈静化に努めたために本馬の脚の腫れはいったん引いていたが、それでもロングデン師は最後まで本馬の出走には反対しており、レース当日までマッキャノン氏に出走取消を進言し続けたが、マッキャノン氏は聞き入れなかった。
ベルモントS
このベルモントS(D12F)は、ケンタッキーダービー・プリークネスSよりさらに出走頭数が減って僅か6頭立てとなった。しかし対戦相手の中には、古馬相手にメトロポリタンHを圧勝してきたアーツアンドレターズや、ケンタッキーダービーで本馬から3/4馬身差の3着だったダイクが含まれており、ベストな状態ではない本馬にとって厳しい戦いとなった。本馬が単勝オッズ2.3倍の1番人気に支持され、アーツアンドレターズが単勝オッズ2.7倍の2番人気となった、本馬とアーツアンドレターズの評価がそれほど開かなかったのは、距離や健康面の不安が影響したからであるらしい。
スタートが切られるとアーツアンドレターズが2番手を先行して、本馬は後方2番手からレースを進めた。そのままの態勢で直線に入ったが、快調に先頭を飛ばすアーツアンドレターズとは対照的に、本馬は前の2競走で見せたレース終盤の加速力が見られなかった。レースはアーツアンドレターズがそのまま勝利を収め、5馬身半差の2着に敗れた本馬は初黒星を喫してしまった(米国競馬名誉の殿堂博物館のウェブサイトには1馬身半差と書かれているが、他の全資料に5馬身半差と書かれているから、おそらく記載誤りである)。
レース後に鞍上のハータック騎手は記者団に対して「馬は傷ついていました。私達は決してベルモントSには出るべきではありませんでした」と語った。レース後に本馬の右前脚靱帯が損傷していた旨をようやく明かしたロングデン師もやはり「私達は決してベルモントSには出るべきではありませんでした」とハータック騎手と全く同じコメントを残した。
競走馬として復帰できず引退
その後はカリフォルニア州に戻って長期休養に入った。ロングデン師は秋シーズンには復帰させたいと語ったが、この年はその後レースに出る事が無かった。3歳時に8戦7勝の好成績を残した本馬だが、この年の米年度代表馬・米最優秀3歳牡馬の座は、秋シーズンも活躍したアーツアンドレターズに奪われてしまい、本馬は年度表彰では無冠に終わった。4歳になってもしばらく競走馬登録はされていたが、結局二度とレースに復帰できないまま現役引退となった。それでも獲得賞金総額は41万4200ドルであり、購入金額25万ドルを上回ることが出来た。
気性面では落ち着いていたらしく、カメラマンがカメラを向けるとポーズを取ってくれた事から、“The Ham(大根役者)”のニックネームでも呼ばれていた。
なお、これは全くの余談だが、本馬がケンタッキーダービーを勝ったときにマッキャノン氏が獲得した優勝トロフィーは、マッキャノン氏が1986年に死去した後にいずこかに流出してしまい、2006年7月にニューヨーク州で実施されたオークションに出品された。ケンタッキーダービーの優勝トロフィーがオークションに出たのは史上初だった。栄光に包まれたケンタッキーダービーの優勝トロフィーが再び消息不明になってしまうのを懸念したヘレン・“ペニー”・チェネリー女史(本馬が達成できなかった史上9頭目の米国三冠馬となったセクレタリアトの所有者)によって6万ドルで競り落とされたこのトロフィーは、ケンタッキーダービー博物館に寄贈された。
血統
Raise a Native | Native Dancer | Polynesian | Unbreakable | Sickle |
Blue Glass | ||||
Black Polly | Polymelian | |||
Black Queen | ||||
Geisha | Discovery | Display | ||
Ariadne | ||||
Miyako | John P. Grier | |||
La Chica | ||||
Raise You | Case Ace | Teddy | Ajax | |
Rondeau | ||||
Sweetheart | Ultimus | |||
Humanity | ||||
Lady Glory | American Flag | Man o'War | ||
Lady Comfey | ||||
Beloved | Whisk Broom | |||
Bill and Coo | ||||
Gay Hostess | Royal Charger | Nearco | Pharos | Phalaris |
Scapa Flow | ||||
Nogara | Havresac | |||
Catnip | ||||
Sun Princess | Solario | Gainsborough | ||
Sun Worship | ||||
Mumtaz Begum | Blenheim | |||
Mumtaz Mahal | ||||
Your Hostess | Alibhai | Hyperion | Gainsborough | |
Selene | ||||
Teresina | Tracery | |||
Blue Tit | ||||
Boudoir | Mahmoud | Blenheim | ||
Mah Mahal | ||||
Kampala | Clarissimus | |||
La Soupe |
父レイズアネイティヴは当馬の項を参照。
母ゲイホステスは、ハリウッドの帝王と言われた映画会社社長ルイス・バート・メイヤー氏(その経歴はユアホストの項に掲載)の生産馬だが、競走馬としては脚部不安が影響して不出走に終わり(本馬の脚部不安はゲイホステスからの遺伝だとする意見もある)、本馬の生産者コムズⅡ世氏の元で繁殖入りしていた。ゲイホステスの産駒には、本馬の全弟クラウンドプリンスがいる。クラウンドプリンスは本馬が大活躍する最中の1969年に誕生した馬で、1歳時のキーンランドセールでは兄の記録を更新する51万ドルという史上最高値で取引され、やはりマッキャノン氏の所有馬となった。兄とは異なり英国で走り、2歳時にデューハーストS(英GⅠ)・英シャンペンS(英GⅡ)勝ちなど3戦2勝の成績を残して英最優秀2歳牡馬にも選ばれたが、3歳時は口蓋の疾病のため1戦未勝利で引退している。引退後は愛国や豪州で種牡馬供用され、1978年に日本に輸入された。日本では地方競馬の重賞勝ち馬を何頭か出したが、中央競馬ではオープン勝ち馬を出すに留まった。
ゲイホステスの牝系子孫はなかなかの繁栄を見せており、本馬の半姉ベティロレイン(父プリンスジョン)の子にはカラコレロ【仏ダービー(仏GⅠ)】、孫にはセクレト【英ダービー(英GⅠ)】と歴史的名障害競走馬イスタブラク【愛チャンピオンハードル(愛GⅠ)4回・英チャンピオンハードル(英GⅠ)3回・エイントリーハードル(英GⅠ)・ハットンズグレイスハードル(愛GⅠ)2回・ロイヤルボンドノービスハードル(愛GⅠ)・ロイヤルサンアライアンスノービスハードル(英GⅠ)・スタンリークッカーチャンピオンノービスハードル(愛GⅠ)・パンチェスタウンチャンピオンハードル(愛GⅠ)】の兄弟、曾孫にはクローズコンフリクト【イタリア大賞(伊GⅠ)】、日本で走ったロードプリヴェイル【京都ハイジャンプ(JGⅡ)・小倉サマージャンプ(JGⅢ)・阪神ジャンプS(JGⅢ)】などがいる。本馬の全妹メドウブルーの孫には、本馬と同じくベルモントSで2着に敗れて米国三冠馬の栄冠を逃したリアルクワイエット【ケンタッキーダービー(米GⅠ)・プリークネスS(米GⅠ)・ハリウッドフューチュリティ(米GⅠ)・ピムリコスペシャルH(米GⅠ)・ハリウッド金杯(米GⅠ)】がいる。
ゲイホステスの母ユアホステスも優秀な繁殖牝馬であり、本馬と現役時代に対戦した事もあるライトクロスの母でもあるゲイホステスの半妹ガラティア(父ギャラントマン)【スカイラヴィルS】、半弟ティーヴィーコマーシャル(父ティーヴィーラーク)【アーリントンワシントンフューチュリティ・ブリーダーズフューチュリティS・サンディエゴH】、半妹コラジオソ(父ギャラントマン)【レディーズH(米GⅠ)・ポストデブS(米GⅢ)・ヴェイグランシーH(米GⅢ)・アルキビアデスS】と活躍馬を続出させている。ユアホステスの全兄にはユアホスト【サンタアニタダービー・デルマーフューチュリティ・サンフェリペS】がおり、近親には多くの活躍馬がいるが、その辺りの詳細はユアホストの項に譲ることとする。→牝系:F4号族①
母父ロイヤルチャージャーは当馬の項を参照。
競走馬引退後
競走馬を引退した本馬は、180万ドル(当時の為替レートで約6億4800万円)のシンジケートが組まれ、生まれ故郷のスペンドスリフトファームで種牡馬入りした。種牡馬成績はまずまずで、362頭の産駒のうち33頭(32頭とする資料もある)がステークスウイナーとなっている(ステークスウイナー率は9.1%)。代表産駒の1頭コースタルは1979年のベルモントSでスペクタキュラービッドの米国三冠達成を阻止したが、その後は2015年にアメリカンファラオが登場するまで36年もの長期に渡って米国三冠馬が登場しなかったのは歴史の皮肉というべきだろうか。本馬は1981年4月に心臓麻痺のためスペンドスリフトファームにおいて15歳で他界した。1988年に米国競馬の殿堂入りを果たした。米ブラッドホース誌が企画した20世紀米国名馬100選ではアーツアンドレターズ(67位)を上回る第46位にランクインしている。
本馬の直系は、後継種牡馬として成功したマジェスティックライト(ニシノフラワーの父として有名)から、ハスケル招待H・サンフェルナンドSを制したウェイヴァリングモナーク、エクリプス賞最優秀2歳牡馬マライアズモンを経由して現在も残っており、21世紀に入ってもモナーコス、スーパーセイヴァーという2頭のケンタッキーダービー馬が出ている。また、繁殖牝馬の父としては77頭のステークスウイナーを出した。
主な産駒一覧
生年 |
産駒名 |
勝ち鞍 |
1972 |
Brian Boru |
レキシントンH(米GⅡ) |
1973 |
Majestic Light |
スワップスS(米GⅠ)・モンマス招待H(米GⅠ)・エイモリーLハスケルH(米GⅠ)・マンノウォーS(米GⅠ)・シネマH(米GⅡ)・ワシントンパークH(米GⅢ)・バーナードバルークH(米GⅢ) |
1974 |
Majestic Kahala |
ネッティーS(加GⅢ) |
1974 |
Prince Majestic |
ベンアリH(米GⅢ) |
1975 |
Mashteen |
カムリーS(米GⅢ) |
1975 |
Sensitive Prince |
ガルフストリームパークH(米GⅠ)・ジェロームH(米GⅡ)・セミノールH(米GⅡ)・ミシガンマイル&ワンエイスH(米GⅡ)・ファウンテンオブユースS(米GⅢ)・ホーソーンダービー(米GⅢ) |
1976 |
Coastal |
ベルモントS(米GⅠ)・モンマス招待H(米GⅠ)・ドワイヤーS(米GⅡ)・ピーターパンS(米GⅢ) |
1977 |
Royal Suite |
アスタリタS(米GⅢ) |
1979 |
Oui Mon Capitaine |
イタリア大賞(伊GⅠ) |
1982 |
Eternal Prince |
ウッドメモリアル招待S(米GⅠ)・ゴーサムS(米GⅡ) |