スペクタキュラービッド
和名:スペクタキュラービッド |
英名:Spectacular Bid |
1976年生 |
牡 |
芦毛 |
父:ボールドビダー |
母:スペクタキュラー |
母父:プロミストランド |
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10ハロン以下の距離なら米国競馬史上最強と言われ、あまりの強さに他馬陣営がことごとく逃げ出してしまった事もあった、頑健かつ万能の名馬中の名馬 |
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競走成績:2~4歳時に米で走り通算成績30戦26勝2着2回3着1回 |
1970年代の米国競馬はまさしく名馬の宝庫である。セクレタリアト、シアトルスルー、アファームドの三冠馬3頭を筆頭に、米国競馬史上初の100万ドル牝馬スーザンズガール、欧州調教馬でありながら米国でも大活躍した名牝ダリア、3年連続でエクリプス賞年度代表馬に選ばれた騙馬フォアゴー、競走馬としては大成できなかったが種牡馬として記録的大成功を収めたミスタープロスペクター、悲劇の名牝ラフィアン、シアトルスルーとアファームドの2頭をまとめて破ったエクセラー、アファームドの好敵手アリダーなど、名前を挙げればきりがないほどである。
そんな米国競馬黄金の1970年代のラストを飾るのに相応しい名馬中の名馬が本馬、スペクタキュラービッドである。米国三冠馬にはなれなかったため、1970年代の米国三冠馬3頭と比べると日本における知名度はかなり劣るが、地元米国における評価は三冠馬3頭に引けをとらないもので、米ブラッドホース誌が企画した20世紀米国名馬100選においても第10位にランクインしている。
誕生からデビュー前まで
母スペクタキュラーの所有者だったウィリアム・G・ギルモア夫人と、その娘ウィリアム・M・ジェイソン夫人の両名により、米国ケンタッキー州バックポンドファームにおいて生産された。現役時代に「鋼鉄色」又は「軍艦色」と評された黒っぽい芦毛馬だった。生産者母子は1歳になった本馬をキーンランド7月セールに出品しようとしたが、2歳年上のシアトルスルーと同様に、血統の悪さから出品許可が降りなかった。止むを得ずファシグ・ティプトン社が実施した一般部門のセリに出品され、メリーランド州ホークスワースファームのハリー・マイヤーホフ氏とテレサ・マイヤーホフ夫人により落札された。落札価格はシアトルスルーの1万7500ドルよりは高かったが、それでも3万7千ドルという安値だった。それにしても、キーンランド7月セールに出品許可が出なかった馬から次々と歴史的名馬が出た事実を、セリの関係者達が後にどのように受け止めたのかは興味があるところである。
本馬は、メリーランド州ピムリコ競馬場に厩舎を有するグローバー・“バディ”・デルプ調教師に預けられた。マイヤーホフ夫妻に本馬の購入を薦めたのはデルプ師だったようである。メリーランド州の荒馬乗りだったデルプ師は、管理馬を厳しく育てる事で知られていた。デルプ師は本馬の素質を見抜き、「競馬界に身を置く人間にとっては最上級の馬」とまで評したが、それでも本馬を温室で育てるようなことはせず、調教やレースで徹底的に鍛え上げていった。
競走生活(2歳時)
2歳6月にピムリコ競馬場で行われたダート5.5ハロンの未勝利戦でデビューした。鞍上は当時18歳だった見習い騎手のロニー・フランクリン騎手だった。この未勝利戦には、愛ダービー馬ロウソサイエティの半兄で、後にブリーダーズフューチュリティSを勝ち、ベルモントフューチュリティSで2着、アーリントンワシントンフューチュリティで3着するストライクユアカラーズが出走していた。いきなり強敵とぶつかった本馬は単勝オッズ7倍のいった程度の評価だったが、ストライクユアカラーズを3馬身1/4差の2着に退けて、コースレコードに0秒4まで迫る1分04秒6の好タイムで逃げ切り快勝した。それから3週間後に同コースで出走した一般競走では、2着サイレントネイティヴに8馬身差をつけて、前走より0秒4タイムを短縮する1分04秒2のコースレコードタイの圧勝劇を演じた。
その後はモンマスパーク競馬場に向かい、8月のタイロS(D5.5F)に出走した。しかしスタートで出遅れて、勝ったグロトンハイから6馬身3/4差をつけられた4着と、生涯唯一の着外を喫してしまった。ちなみにこのタイロSは出走馬が多かったために分割競走となっており、本馬が出なかった方のタイロSは、本項で後に幾度か登場するコースタルという馬が勝っている。
次走は同月にデラウェアパーク競馬場で行われたドーバーS(D6F)となった。このレースには、本馬のデビュー戦で敗れた後にすぐに勝ち上がり、前走アーリントンワシントンフューチュリティで3着してきたストライクユアカラーズが出走していた。しかし本馬はまたしてもスタートで後手を踏んで、勝ったストライクユアカラーズから2馬身半差の2着に敗退した。
9月にアトランティックシティ競馬場で出た次走のワールズプレイグラウンドS(GⅢ・D7F)では、ドーバーS勝利後にベルモントフューチュリティSで2着してきたストライクユアカラーズ、タイロS勝利後にサプリングSで2着していたグロトンハイ、タイロSから直行してきたコースタルに加えて、ベルモントフューチュリティSを勝ってきたクレスティドウェイヴが対戦相手となった。しかし1分20秒8という、およそ2歳馬が出すようなものではない快タイムを叩き出した本馬が、2着クレスティドウェイヴに15馬身差をつけるという圧勝劇を演じた。
それから15日後のシャンペンS(GⅠ・D8F)では、クレスティドウェイヴに加えて、サラトガスペシャルS・ホープフルSの勝ち馬でカウディンS2着のジェネラルアセンブリーとの対戦となった。ジェネラルアセンブリーは本馬とは異なり当時の米国きっての名血の持ち主だった。父はセクレタリアト(その2年目産駒に当たる)で、母はこの年の米国三冠馬に輝いたアファームドの父エクスクルシヴネイティヴの半妹だったのである。そのためにジェネラルアセンブリーの評価は抜群に高く、このシャンペンSでも当然のように1番人気に支持されていた。本馬陣営はこの強敵に対抗するためにはフランクリン騎手では荷が重いと判断したらしく、ここではジョン・ヴェラスケス騎手に本馬の鞍上を委ねた。レースではスタートから本馬が先頭に立ち、ジェネラルアセンブリーが追撃する展開となった。しかしジェネラルアセンブリーは最後まで本馬に追いつけず、本馬がジェネラルアセンブリーを2馬身3/4差の2着に退けて、1分34秒8の好タイムで勝利した。
さらに11日後のヤングアメリカS(D8.5F)でも引き続きヴェラスケス騎手が本馬の手綱を取った。ここでは、前走で3着だったクレスティドウェイヴ、ワールズプレイグラウンドS6着後にブリーダーズフューチュリティSを勝ってきたストライクユアカラーズ、後のウッドメモリアルS・レムセンSの勝ち馬インストゥルメントランディングとの対戦となった。レースでは、直線に入る前に不利を受けた本馬はすんなりと後続を引き離すことが出来ず、ストライクユアカラーズとの叩き合いに持ち込まれてしまった。しかし本馬が競り勝って首差で勝利した。
さらに9日後の10月末に出たローレルフューチュリティ(GⅠ・D8.5F)からは、フランクリン騎手が鞍上に復帰した。対戦相手は、シャンペンSから直行してきたジェネラルアセンブリー、ドンレオンS・ドラゴンS・マールボロナーサリーSとノングレードのステークス競走を3連勝してきたクレヴァートリックなどだった。結果は1分41秒6という2歳馬としてはあり得ないほど素晴らしいタイムで走破した本馬が、2着ジェネラルアセンブリーに8馬身半差をつけてコースレコードで圧勝した。それから2週間後に出走したヘリテージS(GⅡ・D8.5F)では、馬なりのまま2着サンウォッチャーに6馬身差をつけて圧勝。2歳時の成績は9戦7勝で、この年のエクリプス賞最優秀2歳牡馬に選ばれた。
競走生活(3歳初期)
3歳時は2月にガルフストリームパーク競馬場で行われたハッチソンS(D7F)から始動した。ここでは、ケンタッキージョッキークラブSの勝ち馬で前年のブリーダーズフューチュリティと前走のトロピカルパークダービーで2着していたロットオゴールドが主な対戦相手となった。しかし馬なりのまま走った本馬が2着ロットオゴールドに3馬身3/4差をつけて、1分21秒4の好タイムで勝利を収めた。それから12日後のファウンテンオブユースS(GⅢ・D8.5F)では、ロットオゴールドに加えて、トロピカルパークダービーを勝ってきたビショップスチョイスも出走してきた。しかし例によって馬なりのまま走った本馬が1分41秒2の好タイムでゴールまで駆け抜け、2着ロットオゴールドに8馬身半差をつけて圧勝した。
続くフロリダダービー(GⅠ・D9F)では、フランクリン騎手が「馬に乗る方法を一時的に忘れたかのような」駄騎乗ぶりを見せた。スタートしてしばらくは後方を走っていたが、最初のコーナーを回る際に、サーアイヴァーアゲインという馬の後方に自分から突っ込んでしまい、進路を失って躓く場面があった。サーアイヴァーアゲインをかわして前に出て、向こう正面で一気に先頭馬群に詰め寄っていったが、三角を回る際に内を突こうとして失敗し、またしても進路を失って躓いてしまった。そこで仕方なく外側に持ち出して四角を回った。それでも直線入り口で先頭に立つと、そのまま2着ロットオゴールドに4馬身半差をつけて勝利した。レース後にデルプ師が「この馬鹿者!あの馬を殺すつもりか!」とフランクリン騎手を公の場で怒鳴りつけ、フランクリン騎手が「他の騎手から妨害を受けたので・・・」と弁解する一幕があった。
次走のフラミンゴS(GⅠ・D9F)では、ロングスパートから後続馬をちぎり捨て、2着ストライクザメインに12馬身差をつけて圧勝。フロリダ州の年初開催を完全制圧すると、デルプ師は「私達の米国三冠達成を阻止することができるのは神の御業のみである」と自信満々の様子で愛馬をケンタッキー州に送り込んだ。
そしてケンタッキーダービーの前哨戦ブルーグラスS(GⅠ・D9F)に出走した。出走馬は、本馬、フロリダダービー2着後にスパイラルSを勝ってきたロットオゴールド、ファウンテンオブユースSで3着だったビショップスチョイスなど僅か4頭だった。少頭数のため馬群が一団となって進んだが、その中でも一番後方を走っていた本馬が向こう正面で先頭を奪うと、そのまま後続を引き離し、2着ロットオゴールドに7馬身差をつけて楽勝した。
ケンタッキーダービー
本番のケンタッキーダービー(GⅠ・D10F)では、バルボアS・デルマーフューチュリティ・サニースロープS・ノーフォークS・カリフォルニアブリーダーズチャンピオンS・サンヴィンセントS・サンタアニタダービー・ハリウッドダービーなどを勝ちまくって2歳馬として史上初めてカリフォルニア州年度代表馬に選ばれていた米国西海岸の強豪フライングパスター、スウィフトSの勝ち馬でウッドメモリアルS2着のスクリーンキング、前年のローレルフューチュリティ2着後にゴーサムSを勝ったが前走ウッドメモリアルSでは5着に終わっていたジェネラルアセンブリー、フロリダダービー5着後にエヴァーグレーズSを勝って出走したフラミンゴSで本馬の3着に敗れていたサーアイヴァーアゲイン、ルイジアナダービー・アーカンソーダービーを連勝してきたゴールデンアクト、ロットオゴールドなど9頭が対戦相手となった。本馬の評価が群を抜いており、単勝オッズ1.6倍という断然の1番人気に支持された。12万5千人もの大観衆を前にしたためか、本馬はレース前から多少焦れ込んでいたが、デルプ師はまったく心配していなかったようで、近くにいた競馬ファンに対して「もっとたくさん賭けてください!」と叫んだ。
スタートが切られると、伏兵のシャムゴが先頭を奪い、それにジェネラルアセンブリー、フライングパスター、ロットオゴールドなどが絡んで先頭集団を形成。フランクリン騎手が騎乗する本馬は、後方4番手からレースを進めた。そして向こう正面に入ったところで外側を通って一気に上がっていった。馬群の前方では、2番手を追走していたジェネラルアセンブリーが抜け出そうとしていたが、四角途中で外側から来た本馬が瞬く間にジェネラルアセンブリーに並びかけていった。そして2頭が並んで直線を向いたが、すぐに本馬がジェネラルアセンブリーを引き離して単独先頭に立った。ジェネラルアセンブリーも必死に粘ったが、本馬に追いつく事は出来なかった。最後は2着ジェネラルアセンブリーに2馬身3/4差をつけた本馬の完勝となった。
前年のエクリプス賞最優秀2歳牡馬がケンタッキーダービーを勝つというのは、この頃には極めて当たり前の事だった(1971年の同賞創設以降、リヴァリッジ、セクレタリアト、フーリッシュプレジャー、シアトルスルー、アファームド、本馬と、8年間で6頭のエクリプス賞最優秀2歳牡馬がケンタッキーダービーを勝利)のだが、不思議なことに本馬以降には28年後のストリートセンスまで現れなかった。また、1番人気馬がケンタッキーダービーを勝つ例も、21年後のフサイチペガサスまで出現しなかった。
プリークネスS
続くプリークネスS(GⅠ・D9.5F)で本馬に挑んできたのは、ジェネラルアセンブリー、前走3着のゴールデンアクト、前走でレース中に負傷して5着に終わっていたフライングパスター、前走6着のスクリーンキングの4頭のみだった。本馬が単勝オッズ1.11倍の圧倒的1番人気に支持され、2番人気のジェネラルアセンブリーは単勝オッズ9倍だった。スタートが切られると、フライングパスターとジェネラルアセンブリーの2頭が本馬から逃げるように先頭争いを演じ、かなり離れた3番手をスクリーンキングが追走。本馬は後方2番手で、ゴールデンアクトが最後方を追走した。向こう正面に入ると、大外を通って本馬が上がっていき、三角に入る頃には既に先頭に立っていた。そのまま四角を回りながら後続を引き離し、直線入り口ではもはや勝負あり。2着ゴールデンアクトに5馬身半差をつけて圧勝した。
レース後に米国三冠達成の見込みについてコメントを求められたフランクリン騎手は「間違いなく達成できます」と応えた。本馬はケンタッキー州産馬であるが、本馬を所有していたホークスワースファームも、管理するデルプ師の厩舎も、プリークネスSが行われるメリーランド州にあったため、本馬はメリーランド州の英雄として扱われるようになった。ピムリコ競馬場があるボルチモア市のウィリアム・ドナルド・シェーファー市長は、本馬をボルチモアの名誉市民に推薦した。ピムリコ競馬場の副代表チャールズ・チック・ラング氏も「彼は地元の誇りです」と語った。
ベルモントS
次走のベルモントS(GⅠ・D12F)では、ゴールデンアクト、前走3着のスクリーンキング、同5着のジェネラルアセンブリーといった既対戦組の他に、前走ピーターパンSを13馬身差で圧勝するなど3連勝中のコースタル(父は1969年に米国三冠馬の栄誉を逃したマジェスティックプリンス)など合計7頭が対戦相手となった。しかしシアトルスルー、アファームドに続く3年連続の米国三冠馬誕生は間違いなしと思われ、本馬が単勝オッズ1.3倍という断然の1番人気に支持された。
しかしレース当日朝になってデルプ師は、本馬の左前脚の蹄から血が出ているのを発見した。厩舎内に落ちていた包帯止めの安全ピンを踏んでしまったのだった。即座に消毒が行われ、止血措置が施された上で、エプソム塩の桶に脚を浸して応急治療が行われた。デルプ師は出走回避も検討したが、怪我の程度はそれほど重くないと思われた事、そして何よりも米国三冠が懸かっているだけに回避を決断することは出来なかった。デルプ師は本馬が怪我をした事実をフランクリン騎手に伝えた上で、出走に踏み切った。しかしフランクリン騎手はその話を聞いて「まるで初めて蛙を解剖する生物研究所の新任研究員のようだった」と評されるほど混乱してしまったらしく、デルプ師は負傷の事実をフランクリン騎手に伝えてしまったことを生涯後悔することになった。
実はこのレースの3日前に、フランクリン騎手は騎手控室でアンヘル・コルデロ・ジュニア騎手と、別の競走における騎乗を巡って乱闘騒ぎを起こし、両者ともに250ドルずつの罰金を課せられていた。フロリダダービーにおいて本馬の進路を塞いだサーアイヴァーアゲインに騎乗していたのは他ならぬコルデロ・ジュニア騎手であったから、2人の間には色々と因縁があったようではある。それにしても大事なベルモントSの直前に乱闘騒ぎを起こした事から察するに、プリークネスS直後の自信満々のコメントとは裏腹に、フランクリン騎手が感じていた緊張感は壮絶なものであり、非常に神経質になっていたようである(彼はまだ20歳にもなっていない若者だったのだから無理からぬ話である)。そんな精神状況下で、本馬は負傷したがレースには出るなどという話を聞かされたのだから、彼の心中は容易に想像できるであろう。
スタートが切られると、単勝オッズ86倍の6番人気馬ギャラントベストが手綱をしごいて先頭に立った。本馬は、ケンタッキーダービーやプリークネスSとは異なり、ギャラントベストを追いかけるように積極的に先行した。そして一時期は後続を大きく引き離したギャラントベストに、向こう正面に入る前から並びかけていった。最初の2ハロン通過が23秒2、半マイル通過が47秒3と、ギャラントベストが作り出すペースはかなり速かった。それにも関わらず、本馬は向こう正面でギャラントベストをかわして先頭に立ち、そのままギャラントベストを引き離していった。6ハロン通過は1分11秒1。12ハロンを走るペースとは思えないほど速かったが、本馬をすんなり行かせるわけにはいかないジェネラルアセンブリーが早めに仕掛けて本馬に迫ってきた。さらに後方からはコースタルやゴールデンアクトも差を縮めてきた。1マイル通過1分36秒0のハイペースで走りながらも、先頭を維持して三角を回って四角に入ってきた本馬だったが、四角を回る頃には少し脚色が衰えていた。先頭で直線を向いたものの、内側を突いたコースタルにすぐにかわされて2番手に後退。必死に食らい付こうとしたが、直線半ばで突き放されてしまった。さらにゴール前でゴールデンアクトにも首差かわされてしまい、勝ったコースタルから3馬身半差の3着に敗退した。
3年連続の米国三冠馬誕生は成らず、連勝記録も12で止まってしまった。本馬が3着でゴールした瞬間に、ベルモントパーク競馬場は異様な沈黙に包まれた。ここで負けた本馬の呪いでもあるまいが、翌年以降にケンタッキーダービー・プリークネスSの両競走を勝った馬は2014年までの35年間で12頭も出たにも関わらず、その全てがベルモントSを勝って米国三冠馬になる事が出来なかった。このジンクスは2015年になってようやくアメリカンファラオにより打ち破られた。
このベルモントSにおける本馬の敗戦は、1919年のサンフォードSにおけるマンノウォーの敗戦や、1953年のケンタッキーダービーにおけるネイティヴダンサーの敗戦と並んで、米国競馬史上最も不可解な敗戦と言われており、その敗因については色々と取り沙汰されている。
安全ピンを踏んで脚を負傷していたのは、レース翌日の新聞でもはっきりと報道されている事や、後にこの怪我が悪化して休養を余儀なくされた事から間違いないことであり、これが敗因の一つであるというのは衆目の一致するところである。
他には、フランクリン騎手が序盤から飛ばし過ぎた事も要因であるとされている。フランクリン騎手が暴走した理由は、前述したように過度のプレッシャーを受けて冷静さを失った事が考えられるが、セクレタリアトのベルモントSにおける圧倒的な逃げ切り劇を模倣しようとしたデルプ師の指示によるものだったという説もある。レース前週にデルプ師がコースタルの競走能力を小馬鹿にするような発言をしていたのがその根拠であるらしい。コースタルは2歳時のワールズプレイグラウンドSにおいて勝った本馬から17馬身差の5着に終わっていたため、デルプ師は「なぜ彼(コースタル)はここ(ベルモントS)に来るのですか」と言ったそうである。確かに、ギャラントベストを積極的に追撃していったレースぶりは、逃げるシャムを積極的に追いかけたセクレタリアトのベルモントSにおけるレースぶりと酷似しているのは否めない。ただし、当日朝に本馬が負傷していたのは紛れも無い事実なのだから、デルプ師がコースタルを過小評価していたのが事実だとしても、万全とは言えない状態で無理に強い勝ち方に拘るはずはなく、この説は違うと筆者は考える。なお、デルプ師は後に「12ハロンという距離は彼にとって長いでしょうが、競走能力の違いで押し切れると思っていました」と述懐しており、本馬のスタミナ能力に疑問を抱いていたデルプ師が序盤から飛ばすよう指示した可能性はますます低くなるだろう。
フランクリン騎手自身はレース後に、長距離競走の経験が殆ど無かったために適切に騎乗できなかった事を認めている。騎手デビューして間もない彼が、既に米国では少なくなっていた長距離競走に乗る機会をほとんど得られていなかったのは事実だろうから、過度の緊張と本馬の負傷によって冷静さを欠いた彼に対して、慣れない長距離競走で上手く乗れというほうが酷かもしれない。
本馬の敗因についてもう一つよく言われるのはスタミナ能力不足である。これについては前述したデルプ師の発言のほかに、後に同距離のジョッキークラブ金杯でもアファームドに敗れているという事実が後押ししているようである。もっとも、ジョッキークラブ金杯で負けたと言っても相手が相手であるし、同競走ではコースタルに先着しているのだから、ややスタミナに疑問があったとしてもそれが決定的な敗因になったとは筆者には考えづらい。やはり脚の負傷と序盤からのハイペースが最も大きな敗因であると考えるのが妥当だと思われる。
なお、フランクリン騎手はこのベルモントSを最後に本馬に乗る機会を失ったことから、ベルモントSにおける騎乗ミスが原因で主戦を降ろされたのだと思っている人も多いようだが、彼が主戦を降ろされたのはベルモントSの敗戦が直接の理由ではない。その理由はベルモントSの9日後に、カリフォルニア州のディズニーランドの駐車場において、フランクリン騎手がコカイン所持で逮捕されたためである。彼がいつ頃からコカインに溺れていたのかは定かではない(この事件は初犯であった)が、たまたま未勝利戦で乗った平凡な馬だったはずの本馬が実はとんでもない怪物であり、米国三冠馬の最有力候補になってしまった緊張から逃れるために麻薬に手を出してしまったのかもしれない。フランクリン騎手は本馬の主戦を降ろされた後も騎手を続けたが、やはりコカインの魔力から逃れる事は出来ずに、1982年にはデルプ師の息子で友人だったジェラルド共々コカイン所持で逮捕されるなど、何度も摘発された挙句に、1992年に騎手免許を剥奪されて競馬界を去ることになった(2006年に騎手復帰の話が出ていたが、続報を筆者は目にしていない)。
競走生活(3歳後半)
一方の本馬は、レース後に脚の怪我から細菌が感染している事が判明し、蹄に穴を開けて膿を出す手術が行われたため、しばらく休養することになった。本馬が休んでいる間に、ジェネラルアセンブリーはトラヴァーズSを、コースタルはドワイヤーS・モンマス招待Hを勝っていた。また、本馬とは二度と顔を合わせる機会が無かったゴールデンアクトは芝路線に転向してセクレタリアトS・ローレンスリアライゼーションS・加国際CSSを制する活躍を見せることになる。
その後、名手ウィリアム・シューメーカー騎手を新たな主戦に迎えた本馬は、ベルモントSから2か月半後にデラウェアパーク競馬場で行われたダート8.5ハロンの一般競走で復帰。そして1分41秒6というコースレコードを樹立して、17馬身差の大圧勝劇を演じて復帰戦を飾った。
その13日後に出走したマールボロCH(GⅠ・D9F)では、コースタル、ジェネラルアセンブリー、メトロポリタンH・オークローンH・エクセルシオールH・ディスカヴァリーH・スタイヴァサントH・クイーンズカウンティH・レイザーバックHなどの勝ち馬コックスリッジ、この年のエクリプス賞最優秀短距離馬に選ばれるカーターH・ホイットニーHの勝ち馬スタードナスクラなどとの対戦となった(当初は出走予定だったアファームドは本馬より7ポンド重い斤量を嫌って回避していた)。レースはジェネラルアセンブリーを先頭に出走馬が一団となって進んだ。本馬は3番手の好位を追走、コースタルは後方で様子を伺った。三角手前で本馬が外側から先頭に並びかけ、ジェネラルアセンブリーがそれに食らいついた。コースタルは勝負どころにおける反応が悪く、前との差を縮められなかった。そして先頭で直線に入った本馬が後続馬を着実に引き離していき、2着ジェネラルアセンブリーに5馬身差をつけて圧勝。ジェネラルアセンブリーから1馬身1/4差の3着に終わったコースタルにベルモントSの借りを返した。
次走のジョッキークラブ金杯(GⅠ・D12F)は僅か4頭立てのレースとなった。しかし対戦相手のレベルは高かった。コースタル、ベルモントSで6着後にジェロームHで3着してきたギャラントベストの同世代馬2頭に加えて、かつてない強敵アファームドが今度こそ本馬の前に立ち塞がったのである。エクセラーがシアトルスルーとアファームドを破った前年の同競走も大変な盛り上がりを見せたが、この年も“Race of the Century”と言われたほどの盛り上がりを見せた。スタートが切られるとギャラントベストが先頭に立ったり下がったりを繰り返したが、概ねアファームドが先頭に立ち、本馬がアファームドをマークするように2~3番手、コースタルが本馬をマークするように3~4番手を追走した。三角入り口でギャラントベストが圏外に去り、勝負は有力馬3頭に絞られた。四角でアファームドが外に膨らんだ隙を突いてコースタルが最内から上がってアファームドに並びかけ、さらに本馬が前2頭の間を突いて、この3頭がほぼ並ぶ形で直線を向いた。まずコースタルが遅れて、アファームドが単独で先頭に立った。そこへコースタルをかわした本馬がアファームドに襲い掛かった。脚色はアファームドより本馬の方が良く見えたが、他馬に決して抜かさせないと評されたアファームドの抜群の粘りがここで存分に発揮された。本馬は結局最後までアファームドを捕らえることが出来ず、3/4馬身差の2着に敗れた(コースタルは本馬から3馬身差の3着だった)。
その12日後に出走したメドウランズCH(GⅡ・D10F)では、イリノイダービー・ペンシルヴァニアダービー・オハイオダービー・アメリカンダービーの勝ち馬でトラヴァーズS2着のスマーテン、スワップスS・シルヴァースクリーンH・パターソンH・ラトガーズHの勝ち馬ヴァルデスという、本馬とは過去に1度も対戦機会が無かった同世代の実力馬2頭との対戦となった。しかし2分01秒2のコースレコードを計時した本馬が2着スマーテンに3馬身差で勝利を収め、3歳時を12戦10勝の成績で終えた。エクリプス賞の選考において、年度代表馬ではアファームドの次点に終わったが、最優秀3歳牡馬のタイトルを満票で獲得した。
競走生活(4歳前半)
4歳時はそれまで主戦場としていた米国東海岸から米国西海岸に移り、1月にハリウッドパーク競馬場で行われたマリブS(GⅡ・D7F)から始動した。このレースでは、かつてケンタッキーダービーで本馬の対抗格筆頭と目されたフライングパスターと久々の顔合わせとなった。ケンタッキーダービー5着、プリークネスS4着といずれも本馬の前に敗れたフライングパスターは半年以上の休養に入っており、これが休養明け初戦だった。レースはフライングパスターが先行して本馬が後方を追走するという、ケンタッキーダービーと似たような展開となった。そして向こう正面で抑えきれないほどの勢いで上がってきた本馬が、三角途中で前の馬達を外側からかわして先頭に立ち、直線に入ると悠々と後続を引き離していった。最後は馬なりのまま走り、2着フライングパスターに5馬身差をつけて勝利した。この時に本馬が樹立したコースレコード1分20秒0は、後の2007年にサンタアニタパーク競馬場がオールウェザーを導入してダート競馬がいったん無くなるまでの27年間破られることはなかった。
続くサンフェルナンドS(GⅡ・D9F)では、フライングパスターに加えて、デルマーダービー・ラホヤマイルSを勝ち前走サンカルロスHで2着していた後の名種牡馬リローンチが対戦相手となった。スタートからリローンチが猛然と先頭を飛ばし、本馬は大胆にもフライングパスターと共に最後方を追走した。しかし向こう正面でシューメーカー騎手が仕掛けると、瞬く間にリローンチとの差を縮めていった。差を縮められたリローンチも粘りを見せ、三角途中までは先頭を維持したが、四角途中で力尽きて後退。そこへ遅ればせながらフライングパスターが後方から上がってきて直線入り口では本馬に迫ってきたが、二の脚を使った本馬がフライングパスターに並ばせず、1馬身半差をつけて勝利した。4着馬に33馬身先着したリローンチはフライングパスターから15馬身後方の3着に終わった。
しかしフライングパスターとリローンチの両陣営は屈することなく、翌2月のチャールズHストラブS(GⅠ・D10F)でも本馬に挑んできた。これは、レースが単走になる事を恐れたサンタアニタパーク競馬場側が両陣営に頭を下げて出走してもらったものらしい。他の出走馬は、前年のメドウランズCHで本馬の3着に敗れた後にサンパスカルHを勝っていたヴァルデスのみだった。スタートが切られると、リローンチが後続を大きく引き離して先頭を飛ばしまくった。本馬はスタート直後こそ最後方を追走したが、向こう正面に入る手前で内側を突いて2番手に上がっていった。そして向こう正面ではヴァルデスと一緒にリローンチに並びかけていった。この3頭が一団となって三角に入り、四角で一気に上がってきたフライングパスターも迫ってきた。しかし直線に入るとヴァルデスとリローンチの2頭は早々に失速。フライングパスターが唯一本馬に食らい付いてきたが、最後まで寄せ付けることは無く、2着フライングパスターに3馬身1/4差、3着ヴァルデスにはさらに9馬身差、4着リローンチにはさらに半馬身差をつけて圧勝。
勝ちタイム1分57秒8は、1950年のゴールデンゲートHにおいてヌーアが計時したダート10ハロンの世界レコード1分58秒2を30年ぶりに更新するものであり、そしてさらに30年以上経った2015年現在も破られていないという驚異的な世界レコードとなった。
これで本馬は、マリブS・サンフェルナンドS・チャールズHストラブSの、サンタアニタパーク競馬場で行われる所謂ストラブシリーズ3競走を完全制覇した。これは1958年のラウンドテーブル、1959年のヒルズデール、1974年のエインシャントタイトルに次いで6年ぶり史上4頭目の快挙だった(本馬以降に達成したのは1985年のプレシジョニストのみ)。
次走は3月のサンタアニタH(GⅠ・D10F)となった。ここでは130ポンドの斤量が課され、しかも生涯2度目の不良馬場(最初の不良馬場だった2歳時のタイロSでは生涯唯一の着外に終わっている)と、厳しい条件が重なった。しかしそんな悪条件など、本格化した本馬には無関係だったようである。後方追走から四角で先頭に並びかけて直線で他馬を引き離すという毎度おなじみのレースぶりで、2着フライングパスターに5馬身差をつけて楽勝した。
その後は5月にハリウッドパーク競馬場において新設されたマーヴィンルロイH(GⅡ・D8.5F)に向かった。ここでは132ポンドを課せられたが、結果はたいして変わらなかった。1分40秒4という快タイムで走破した本馬が、2着ペリグリネイターに7馬身差をつけて圧勝してしまったのである。130ポンドを背負ったカリフォルニアンS(GⅠ・D9F)も2着ペイントキングに4馬身1/4差をつけて、1分45秒8のコースレコードタイムで圧勝。
ここで本馬は西海岸を後にして東海岸に戻っていった。その途中のアーリントンパーク競馬場で出走したワシントンパークS(GⅢ・D9F)では、やはり130ポンドが課せられたが、19ポンドのハンデを与えた2着ホールドユアトリックスを10馬身ちぎって1分46秒2のコースレコード勝ちを収めた。
8月にモンマスパーク競馬場で出走したエイモリーLハスケルH(GⅠ・D9F)では、ラカナダS・サンタマルガリータS・トップフライトH・ミシガンマイル&ワンエイスHなどを勝ってこの年のエクリプス賞最優秀古馬牝馬に選ばれる名牝グローリアスソングとの対戦となった。斤量は本馬が132ポンド、グローリアスソングが117ポンド、他の出走馬達は110ポンドだった。今回も本馬は後方2番手を追走し、三角に入る手前で前との差を一気に詰めにかかった。本馬に迫られた馬群の中からグローリアスソングが抜け出して先頭に立ち、本馬はそれに次ぐ2番手で直線を向いた。直線では2頭の叩き合いになったが、本馬がじりじりと前に出て、最後はグローリアスソングを1馬身3/4差の2着に抑えて勝利した。
ウッドワードS
次走はマールボロCHの予定だったが、136ポンドという酷量(前年に回避したアファームドの斤量は133ポンド)を嫌ったデルプ師の判断で回避した。そのため、次走はウッドワードS(GⅠ・D9F)となった。この年に本馬が走ってきた競走の多くはハンデ戦であり、他馬にも軽量を活かしてつけこむ余地が若干なりともあったのだが、定量戦であるウッドワードS(このレースはハンデ競走として施行された時期が後にも先にも何度かあるのだが、この年は定量戦だった)ではそのような余地は無かった。そのため、このウッドワードSで本馬に挑もうとする馬は皆無であり、1954年に同競走が創設されて以降では最初で最後の単走となった。これは、米国の主要競走史上においても、1949年のエドワードバークHでコールタウンが走って以来31年ぶりの単走となった(主要競走以外も含めると、1913年から1962年までの間に全米で合計31回の単走が行われたと記録にある。逆に言えば、1963年以降は格下競走においても単走は殆ど無かったということになるのだろう)。
大観衆が詰めかけたベルモントパーク競馬場の馬場内に、普通のレースと同じように、誘導馬に案内されながら入ってくる本馬。周囲の人間の表情からは緊張感が感じられなかったが、鞍上のシューメーカー騎手だけは大真面目な表情をしていた。誘導馬と一緒にスターティングゲートに向かい、1頭だけでゲートインした。そして発走のベルが鳴るのと同時にゲートを飛び出していった。米国の競馬場としては最も規模が大きいベルモントパーク競馬場の馬場を、シューメーカー騎手と本馬だけが駆け抜けていき、他に馬場にいるのは鳥だけという、何ともシュールな光景が全米に生中継された。御丁寧にも通過ラップも表示された(2ハロン通過が26秒1、半マイル通過は50秒2、6ハロン通過が1分14秒1、1マイル通過は1分38秒1)。さらには、きちんと実況や解説も行われた。実況はラフィアンとフーリッシュプレジャーのマッチレースの実況なども務めたジャック・ウィテカー氏であり、このマッチレースでラフィアンの悲劇的な運命を実況する羽目になったウィテカー氏も、今回はデルプ師と談笑しながら終始和やかに実況を行っていた。四角を回って直線を向くと、申し訳程度に加速して、2分02秒2のタイムで勝利(?)した。過去に本馬がダート9ハロンで計時した最速タイム1分45秒8とは(当たり前だが)比較にならない遅さだったが、競馬場に詰めかけたファンは満足したらしく、引き揚げて来る本馬には大きな拍手喝采が送られた。かつてベルモントS・ジョッキークラブ金杯と2度の敗北を喫した因縁のベルモントパーク競馬場における名誉の単走であり、これで前年の敗戦2度の汚名はほぼ完全に払拭されたと言えるだろう。
その後は前年の雪辱を果たすべくジョッキークラブ金杯に向かう予定だったが、かつてベルモントSの当日朝に負傷した左前脚の古傷が再び悪化したために回避し、そのまま現役引退となった。4歳時は9戦全勝の成績で、200票中181票を獲得してエクリプス賞年度代表馬に選ばれた(次点は牝馬として65年ぶりにケンタッキーダービーを制したジェニュインリスクの14票)。また、当然のようにエクリプス賞最優秀古馬牡馬にも選出された。獲得賞金総額は278万1608ドルに達し、アファームドが前年に樹立した獲得賞金世界記録を更新して世界賞金王の座に君臨した。
競走馬としての特徴と評価
本馬は5.5ハロン、7ハロン、8.5ハロン、9ハロン、10ハロンと5つの異なる距離において、コースレコードを合計7回も記録した無類の快速馬だった。9つの州の15の異なる競馬場で走り、連戦を繰り返しても常に人気に応える強靭さと安定感も合わせ持っていた。斤量にも異常に強く、130ポンドを背負って出たレースが5回あったが、その全てに勝利。その5戦中2戦がコースレコード勝ちであり、4戦が2着馬に4馬身以上の差をつける圧勝だった。また、逃げてもよし、追い込んでもよしという自在脚質の持ち主でもあった。そのため、対戦馬の陣営は、ラビットを用意して本馬のペースを乱す事も出来ず、スローペースに落として逃げ込みを図る事も出来ず、まぐれで本馬を負かす事はほとんど無理だった。そうかと言って正攻法で本馬を打ち負かす事はもっと困難を極めていたから、ウッドワードSが単走となったのは当然の結末と言えるかもしれない。抜群の単勝支持率を誇り、単勝オッズ1.05倍を8回、単勝オッズ1.1倍は6回経験している。距離12ハロンのレースでは2戦2敗だったが、10ハロン以下の距離ではセクレタリアトより強いのではないかと言われており、現在においても本馬とセクレタリアトを比較する論争が米国ではしばしば行われているようである。名手シューメーカー騎手も、ロサンゼルスタイムズ紙のインタビューにおいて、自身が乗った馬の中では本馬が一番強かったと語っている。
血統
Bold Bidder | Bold Ruler | Nasrullah | Nearco | Pharos |
Nogara | ||||
Mumtaz Begum | Blenheim | |||
Mumtaz Mahal | ||||
Miss Disco | Discovery | Display | ||
Ariadne | ||||
Outdone | Pompey | |||
Sweep Out | ||||
High Bid | To Market | Market Wise | Brokers Tip | |
On Hand | ||||
Pretty Does | Johnstown | |||
Creese | ||||
Stepping Stone | Princequillo | Prince Rose | ||
Cosquilla | ||||
Step Across | Balladier | |||
Drawbridge | ||||
Spectacular | Promised Land | Palestinian | Sun Again | Sun Teddy |
Hug Again | ||||
Dolly Whisk | Whiskaway | |||
Dolly Seth | ||||
Mahmoudess | Mahmoud | Blenheim | ||
Mah Mahal | ||||
Forever Yours | Toro | |||
Winsome Way | ||||
Stop on Red | To Market | Market Wise | Brokers Tip | |
On Hand | ||||
Pretty Does | Johnstown | |||
Creese | ||||
Danger Ahead | Head Play | My Play | ||
Red Head | ||||
Lady Beware | Bull Dog | |||
Runaway Lass |
父ボールドビダーはボールドルーラーの直子で、現役成績は33戦13勝。ベンジャミンフランクリンH・ホーソーンダイアモンドジュビリーS(ホーソーンダービー)・ジェロームH・チャールズHストラブS・モンマスH・ワシントンパークH・ホーソーン金杯Hなどの勝ち馬。チャールズHストラブSは1分59秒6のコースレコードで制している。1966年にはバックパサーと並んで米最優秀ハンデ牡馬に選ばれているほどの実力馬だった。種牡馬としては本馬の他に1974年のケンタッキーダービー馬キャノネイドなど、欧米で複数の活躍馬を出して、ボールドルーラーの後継種牡馬の1頭として成功を収めた。
母スペクタキュラーは米国で走り10戦4勝。ステークス競走の勝ちは無いが、マイフェアレディSで2着している。本馬より2歳年下の半弟ドラマティックビッド(父クリムゾンサタン)は現役成績1戦1勝ながら、兄の威光で種牡馬入りした。そして後に日本に輸入されたが成功はしなかった。
近親の活躍馬としては、スペクタキュラーの祖母デンジャーアヘッドがモリーピッチャーH・リグレットHを勝っている他に、スペクタキュラーの半妹アリストクラシー(父コーニッシュプリンス)の曾孫にセントクレメンスベル【フルーツアンドヴェジS(豪GⅠ)】がいる。また、スペクタキュラーの母ストップオンレッドの半妹ワンレーンは優れた繁殖牝馬であり、子にプロヴァンテ【ブリーダーズフューチュリティS(米GⅢ)】とロードプリンセス【マザーグースS(米GⅠ)】の兄妹、孫にダウンジアイル【ユナイテッドネーションズH(米GⅠ)】、曾孫には2013年の北米首位種牡馬キトゥンズジョイ【セクレタリアトS(米GⅠ)・ジョーハーシュターフクラシック招待S(米GⅠ)】、プレシャスキトゥン【ジョンCメイビーH(米GⅠ)・メイトリアークS(米GⅠ)・ゲイムリーS(米GⅠ)】、玄孫には2006年のエクリプス賞最優秀2歳牝馬ドリーミングオブアンナ【BCジュヴェナイルフィリーズ(米GⅠ)】がいる。デンジャーアヘッドの曾祖母エロープの半姉フライングウィッチの子には、マザーグース【ベルモントフューチュリティS】、米国三冠馬ギャラントフォックスの好敵手だったウィッチワン【サラトガスペシャルS・ベルモントフューチュリティS・ウィザーズS・ホイットニーS】という2頭の米国2歳王者がいる。マザーグースはノーザンダンサーの4代母であるから、本馬とノーザンダンサーは一応同じ牝系に属することになる。→牝系:F2号族①
なお、ボールドビダーの母父とスペクタキュラーの母父は共にトゥマーケットという馬であるから、本馬はトゥマーケットの3×3のインブリードを持つことになるが、これは過去50年のケンタッキーダービー馬としては、ノーザンダンサーの3×3を持つ2008年の優勝馬ビッグブラウンと並んで最も強いクロスである。本馬の強いクロスは近親交配による競走能力向上の成功例(及びそれに伴う繁殖成績への悪影響の代表例)として挙げられる事が多いと主張する血統研究家もいるのだが、50年間でケンタッキーダービーを勝った馬が僅かこれだけというのは、むしろ近親交配は競走能力にたいして影響しない(又は悪影響を及ぼす)ことを示しているような気が筆者にはする。
母父プロミストランドは現役成績77戦21勝。ローレンスリアライゼーションS・ピムリコスペシャル・ローマーH・ジョンBキャンベルH・サンフアンカピストラーノ招待H・マサチューセッツH・ベイメドウズHなどを勝っている。種牡馬としての成績は並と言ったところで、フラミンゴS・ファウンテンオブユースSを制したワイズエクスチェンジのほかに、サンデーサイレンスの母父として知られるアンダースタンディングなどを出している。プロミストランドから直系を遡ると、エンデュランスH・ジャージーS・エンパイアシティH・ウエストチェスターH・ブルックリンH・ゴールデンゲートHなどの勝ち馬パレスティニアン、そしてサンアゲイン(ソードダンサーの父サングロウの父)と辿れるテディ系である。
競走馬引退後
競走馬を引退した本馬は2200万ドルという当時史上最高額のシンジケートが組まれて、米国ケンタッキー州クレイボーンファームで種牡馬入りした。初年度の種付け料も15万ドルという破格の値段に設定された。種牡馬入り2年目の1982年には米国競馬の殿堂入りを果たした(この20年後の2002年には管理したデルプ師も殿堂入りしている)。1984年にデビューした初年度産駒の1頭であるスペクタキュラーラヴがベルモントフューチュリティSを制して産駒のGⅠ競走初勝利を飾ると、種牡馬としての評価はさらに上昇し、1985年の種付け料は22万5千ドルまで跳ね上がった。ところがスペクタキュラーラヴに続く活躍馬が登場せず、種牡馬としての評価は急落していった。1986年の種付け料は8万ドルまで下がり、その後も下落を続けて、1991年には1万5千ドルとなった。この1991年にジョナサン・H・F・デイビス博士に購入されて、ニューヨーク州ユナディーラにあるミルファーファームに移動して、種牡馬生活を続行。晩年の種付け料は3500ドルまで下落しており、交配される牝馬の質も良くなかった(競走馬ではなく競技用の馬の繁殖用として主に供用されたらしい)ため、ケンタッキー州供用時代以上に活躍馬は出せなかった。
結局、本馬の種牡馬成績は期待に応えられるものではなかった。種牡馬として成功したかどうかに関してやや甘い評価をする傾向がある海外の資料においても、「彼の種牡馬としての活躍は“Spectacular(華々しい)”とは言えなかった(“Thoroughbred Horse Pedigree Query”より引用)」、「かなりの期待はずれと考えられる(“Unofficial Thoroughbred Hall of Fame Roster”より引用)」などと辛口の評価がされている。
本馬の種牡馬成績を詳細に見てみると、最初の4世代からは28頭のステークスウイナーが出ている。この4世代に限定すればステークスウイナー率は16%に達している。通算で出したステークスウイナー数は47頭となっている。勝ち上がり率も6割弱と悪くなく、産駒の獲得賞金総額はシンジケート額とそれほど差が無い2000万ドル前後となっている。この事からすれば、一般的に言われるほど大失敗とは思えないのだが、自身を髣髴とさせるような大物を出すことが出来ず、産駒のGⅠ競走勝ち馬は、結局スペクタキュラーラヴの1頭のみだった。最初の4世代から多くのステークスウイナーを出したと言っても、米国中から優秀な繁殖牝馬が集まった時期の産駒である事を考えると、大物が出ないというのはやはり種牡馬評価に関して致命的な悪影響を与えてしまったようである。
もっとも、繁殖牝馬の父としては、ソードダンサーHの勝ち馬スペクタキュラータイド、イエローリボンSの勝ち馬オーブアンディアンヌ、マルセルブサック賞の勝ち馬アモニタ、ハリウッドスターレットSの勝ち馬カララファエラ、ラモナH・イエローリボンSの勝ち馬ジャネット、ジュライC・ナンソープSの勝ち馬モーツァルトなど69頭のステークスウイナーを出して成功している。また、2006年のエクリプス賞最優秀3歳牡馬で種牡馬としても活躍中であるバーナーディニの祖母の父も本馬である。
失敗種牡馬の烙印を押されてニューヨーク州に流れてきた本馬だったが、馬産家達からの人気は下がっても、競馬ファンからの人気は下がらなかった。繋養地が人口規模が大きいニューヨーク州だったことも手伝って、多くの競馬ファンが本馬の元を訪れていた。また、米国のみならず世界中からファンレターが届いていたという。好物はハムだったらしい(馬なのに肉食か!?)。カメラを向けられると、シャッターが切られるまでポーズを取ってじっとしていたという、シアトルスルーやシンボリルドルフと似たような逸話も残っている。27歳になった2003年になっても10頭の繁殖牝馬と交配する現役種牡馬だったが、同年6月9日にミルファーファームにおいて心臓麻痺により他界した。それは、本馬と同じくケンタッキーダービー・プリークネスSを勝ったファニーサイドが同じようにベルモントSで3着に敗れた2日後の事であった。遺体はミルファーファームに埋葬された。同年10月には本馬の主戦を務めたシューメーカー騎手も死去している。
主な産駒一覧
生年 |
産駒名 |
勝ち鞍 |
1982 |
Spectacular Joke |
モーリスドギース賞(仏GⅡ)・パレロワイヤル賞(仏GⅢ) |
1982 |
Spectacular Love |
ベルモントフューチュリティS(米GⅠ) |
1983 |
Double Feint |
ヒルプリンスS(米GⅢ) |
1983 |
Festivity |
パロマーH(米GⅡ) |
1984 |
Lay Down |
エクセルシオールH(米GⅡ)・フォアゴーH(米GⅡ)・ワシントンパークH(米GⅡ)・クイーンズカウンティH(米GⅢ)・グレイラグH(米GⅢ) |
1984 |
Legal Bid |
リングフィールドダービートライアルS(英GⅢ) |
1984 |
Sum |
パッカーアップS(米GⅢ) |
1984 |
Sweettuc |
ホイストザフラッグS(米GⅢ) |
1985 |
Esprit d'Etoile |
コンコルドS(愛GⅢ) |
1987 |
Bite the Bullet |
サンフォードS(米GⅡ) |
1987 |
Lotus Pool |
シーオーエリンH(米GⅢ)・キーンランドBCS(米GⅢ) |
1989 |
Spectacular Sue |
ボニーミスS(米GⅡ) |
1991 |
Shepherd's Field |
ノーフォークS(米GⅡ) |
1994 |
Princess Pietrina |
プリンセスルーニーH(米GⅢ) |
1996 |
Marquette |
米国競馬名誉の殿堂博物館S(米GⅡ) |