ラフィアン

和名:ラフィアン

英名:Ruffian

1972年生

黒鹿

父:レヴュワー

母:シェナニガンズ

母父:ネイティヴダンサー

圧倒的な速さでニューヨーク牝馬三冠競走を含むデビュー10連勝を達成するもレース中の故障で散った米国競馬史上最大の悲劇のヒロイン

競走成績:2・3歳時に米で走り通算成績11戦10勝

米国競馬史上最高の名牝の1頭であるだけでなく、おそらく日本において最も有名な米国調教牝馬でもあり、各方面において盛んに語られている。本馬の経歴を眺めていると、筆者は日本で走ったテスコガビーの事も思い出さずにはいられない。この2頭には妙に共通点が多いからである。いずれも1972年4月産まれである事(日本の資料には本馬の誕生日はテスコガビーと同じ4月14日となっている場合が多いが誤り。本馬の誕生日は4月17日である)。牡馬と見間違うほどに雄大な馬体を誇った事。次元が違うスピード能力で先頭を飛ばし、他馬をちぎり捨てるレースぶりを得意とした事。同世代の最強牡馬と1度だけ対戦した事(結果は大きく異なるけれども)。現役中に夭折したために産駒を残す事が出来なかった事。牡馬相手の大競走を勝ったことは無いが、その圧倒的な強さから現在でも史上最強牝馬の候補として挙げられている事。死因や没年は異なるが、結果的に人間の都合により命を落としたという点においても一致しているのである。

誕生の経緯

1972年4月17日の午後9時50分頃、米国ケンタッキー州クレイボーンファームにおいて本馬は誕生した。過去に数々の名種牡馬を導入して米国屈指の名門牧場となっていたクレイボーンファームは、他の馬産家が所有する繁殖牝馬を預託されて代理馬産を実施することも多かった。本馬もそうした経緯を経て誕生した馬であり、クレイボーンファームが生産者名義となってはいるが、母シェナニガンズの所有者だったメリーランド州ローカストヒルスタッドのスチュアート・S・ジャーニー・ジュニア氏とバーバラ・ジャーニー夫人の両名が本当の生産者である。

夫のジャーニー・ジュニア氏はアマチュアの障害騎手で、世界で最も困難な障害競走の1つと言われる米国障害界の大競走メリーランドハントCを4度も勝利していた。妻のバーバラ夫人は、ボールドルーラーなどを所有した名馬産家グラディス・ミルズ・フィップス夫人の娘で、名馬産家オグデン・フィップス氏の妹であるから、ジャーニー・ジュニア氏はフィップス氏の義弟という事になる。

ジャーニー夫妻は自分達が所有していた繁殖牝馬シェナニガンズの交配相手として、ニアークティック、ボールドルーラーなどを選んでいた。バーバラ夫人は毎年の誕生日プレゼントとしてボールドルーラーの種付け権利を贈られていたらしい。しかし1970年の春にボールドルーラーが体調を崩した(その理由は癌であり、翌年に他界している)ため、同年はフィップス氏が所有していたボールドルーラー産駒の種牡馬ボールドラッドをシェナニガンズの交配相手に選択。そして翌年には、やはりフィップス氏が所有していたボールドルーラー産駒の種牡馬レヴュワーを選択。こうして本馬はこの世に生を受けた。

デビュー前まで

馬名は、英語で「悪党・ごろつき」という意味で、「悪戯・悪ふざけ」を意味する母シェナニガンズの馬名から連想して名付けられたのはほぼ間違いないだろう(母がどうしてこの名前になったのかは不明)。

なお、日本では有名な話だが、当歳時の本馬の世話をしたのは、当時クレイボーンファームで修行していた日本人の岡田繁幸氏だった。彼は本馬の素質を高く評価しており、日本に戻った後に社台グループの代表吉田善哉氏にもその旨を話した。後に実際に本馬が大活躍したことが岡田氏の相馬眼に対する周囲からの評価を高めるきっかけとなったとされている。

当歳秋に母シェナニガンズの下を離れて、クレイボーンファームの離乳施設に送られた本馬は、半兄アイスカペイドも手掛けたニック・ロッツ氏により育成された。そして1歳時の11月16日にジャーニー夫妻の所有馬として競走馬となるべく、クレイボーンファームを離れて、本馬の管理調教師となるフランク・Y・ホワイトリー・ジュニア師が管理馬の育成を行っていたサウスカロライナ州の訓練施設マリオン・デュポン・スコット・トレーニングセンターへと旅立っていった。祖父ボールドルーラーの最高傑作であるセクレタリアトが種牡馬となるべくクレイボーンファームに到着した3日後の事だった。

米国競馬の殿堂入りも果たしている名障害競走馬バトルシップの所有者としても知られたマリオン・デュポン・スコット夫人の名を冠した訓練施設に到着したクレイボーンファーム産の1歳馬達の中でも、本馬の身体は際立って大きかった。ニューヨーク競馬協会で長年に渡り獣医を務めたマヌエル・ギルマン博士の検査によると、成長すると体高は16.2ハンド、馬体重は1125ポンド(約511kg)、胴回りは75.5インチ(約192cm)にもなり、並の牡馬より遥かに大きな馬体の持ち主であった。例えば本馬と戦うことになる唯一の牡馬フーリッシュプレジャーは1061ポンド(約482kg)だった。放牧中の本馬を見かけた米国女性騎手の第一人者ロビン・スミス騎手は「彼はとても美しい馬です」と感嘆した後に、牧場で本馬の世話をしていたチャールシー・キャンティ氏に「彼は何と言う名前の馬ですか?」と尋ねた。するとキャンティ氏は「彼女の名前はラフィアンです」と、スミス騎手の勘違いを訂正したという逸話が残っている。

しかしあまりにも大きかったために、逆にクレイボーンファームの人達はそれほど期待を寄せていなかったという。この点においてはテスコガビーよりもホクトベガに似ているかもしれない。ダマスカスの項で触れたように寡黙な調教師の代名詞として知られていたホワイトリー・ジュニア師の方針により、この厩舎の職員達は自分が手掛ける馬の名前をデビュー戦まで知らされない事になっていたため、本馬を担当した厩務員のミノー・マッセイ氏や、調教騎手のイェーツ・ケネディ氏、スクイーキー・トゥルースデール氏達は、本馬を“Sofie(ソフィー)”と呼んでいた。その理由は、本馬がソファーのように大きくて座り心地が良さそうだったためだという。

さて、2歳になった本馬は4月にベルモントパーク競馬場に移動してデビュー戦に向けて本格的な調教が施された。この調教で本馬に跨ろうとしたケネディ氏に対してホワイトリー・ジュニア師は「君が今まで乗った馬の中で一番速いだろうよ」と語りかけた。本馬はダート3ハロンを馬なりで35秒8という好タイムで走り抜け、常識的には38秒くらいだろうと思っていたケネディ氏を仰天させた。次の調教で本馬に乗ったのは、ファシント・ヴァスケス騎手だった。ダート4ハロンのこの調教でも本馬は47秒という好タイムで走り抜け、ヴァスケス騎手もその速さには驚いた。しかしホワイトリー・ジュニア師の方針により、本馬の調教内容はデビュー戦まで内密にされていた。

2歳未勝利戦

そのため、2歳5月22日にベルモントパーク競馬場で行われたダート5.5ハロンの未勝利戦においてヴァスケス騎手を鞍上に本馬がデビューした際には、単勝オッズ5.5倍の2番人気だった。牝馬とは思えないほど巨大な本馬の馬体を見て、「あの太った豚のような馬は何ですか。あんな馬に賭けるなんてお金をどぶに捨てるようなものですよ」と嘲笑する人もいたという。

スタートが切られると、外枠2番目からの発走だった本馬が内側に切れ込みながら凄まじい勢いで加速して先頭に立ち、そのままどんどん後続との差を広げていった。直線入り口では後続馬に6~7馬身の差をつけると、直線でもぐんぐん差を広げていき、最後は2着スゼストに15馬身差をつけて、1分03秒0というコースレコードタイで圧勝した。

レース前に本馬を嘲笑していた人達がレース後にどういった表情を浮かべていたかについては想像にお任せする事にする。所有者ジャーニー夫妻の一族であるホイートリーステーブルは本馬の単勝にしこたま賭けており、これで大いに儲けた(ホワイトリー・ジュニア師が本馬の能力を秘密にしていたのはこのためである)。ヴァスケス騎手は後に「ラフィアンに乗るときに、スタートしてすぐに先頭に立つのは苦労を要しますか?」と尋ねられた際に「全然苦労しません。彼女は自分のペースで走るだけで先頭に立つ事が出来ますから」と応じている。

ファッションS

次走は3週間後に前走と同コースで行われたファッションS(GⅢ・D5.5F)だった。このレースでは、ニジンスキー牝駒のコペルニカという馬が強敵だった。コペルニカの母コッパーキャニオンは名馬ヒルプリンスやファーストランディングの姪で、名牝シケーダの従姉妹という良血馬だった。本馬とは対照的に小柄だったコペルニカは左目を失明しているというハンデを抱えながらも5月15日のデビュー戦を5馬身差で圧勝しており、本馬がデビュー戦を走る前は同世代の牝馬の中で最も注目されていた存在だった。

本馬もコペルニカも共にデビュー戦を逃げて圧勝しており、ここでどちらが先手を取るのか注目されていたが、スタート直後に先頭に立ったのはジャンヴァーザルという馬だった。しかしすぐに本馬が先頭を奪い、コペルニカもそれを追って先行した。本馬が2番手のコペルニカに2馬身ほどの差をつけて先頭を走り、3番手以下は大きく離された。四角でコペルニカが外側から本馬に並びかけようとしたが、直線に入ると本馬が一気にコペルニカを引き離した。コペルニカも直線で必死に走ったが、本馬の快速の前にどんどん離されていった。最後は本馬が2着コペルニカに6馬身1/4差をつけて、デビュー戦と同じ1分03秒0のコースレコードタイで完勝。コペルニカも3着ジャンヴァーザル(既にブリーズアリアSというステークス競走を勝っていた)には13馬身差をつけており、その実力は十分に示したと言えるのだが、如何せん相手が強すぎた。

コペルニカはこの後にメイトロンS・フリゼットSとGⅠ競走で2度2着したが、ステークス競走を勝つことはできないまま引退繁殖入りして、ホープフルSやサラトガスペシャルSに勝ったクルセイダーソードの母となった。

アストリアS

次走はアケダクト競馬場で行われたアストリアS(GⅢ・D5.5F)となった。騎乗停止処分を受けていたヴァスケス騎手はここで本馬に騎乗できなかったが、彼に対してホワイトリー・ジュニア師は、本馬をスターティングゲートまで誘導するポニーに乗るように指示していた。もしここでポニーに乗らなかったら本馬の主戦を降ろすと脅されたヴァスケス騎手は指示に従った。そのため、アケダクト競馬場に詰め掛けた観衆達は、米国でも屈指の名騎手がポニーに乗って他馬を誘導するという珍しい場面を目にすることが出来た。

しかしレース自体は意外性も何も無く、本馬の一方的な強さばかりが目立つ結果となった。ヴァスケス騎手の代わりに騎乗したヴィンス・ブラッキアーレ・ジュニア騎手が手綱を取った本馬は、スタート直後の先陣争いを制して先頭に立ち、2番手のラフィングブリッジに1馬身ほどの差をつけて逃げ続けた。そのまま直線に入ってくると後続との差をどんどん広げていき、最後は2着ラフィングブリッジに9馬身差をつけて、1分02秒8のコースレコードタイで圧勝した。3着アワーダンシングガール(次走の分割競走スカイラヴィルSを勝っている)に12馬身差をつけたラフィングブリッジに騎乗していたブラウリオ・バエザ騎手は「私の馬だけ(本来のコースを走らずに)近道をしたとしても、やはり負けていたでしょう」と冗談めかしたコメントを残した。

ソロリティS

その後はニュージャージー州にあるモンマスパーク競馬場に向かい、ソロリティS(GⅠ・D6F)に出走した。ここでは米国西海岸から遠征してきたホットンナスティという馬が本馬の前に立ち塞がった。デビュー戦を13馬身差で圧勝したホットンナスティは、スクーカルS・ハリウッドラッシーSと好タイムで連勝しており、本馬に匹敵する評判を得ていた。

そしてスタート直後に先頭に立ったのは、ヴァスケス騎手騎乗の本馬ではなく、ホットンナスティのほうだった。本馬もすぐにホットンナスティに内側から並びかけ、スタートして2ハロンほど走ったところで先頭に立った。三角でホットンナスティが差し返してきて、四角ではいったんホットンナスティが前に出た。そのまま2頭が並んで直線に入り、叩き合いとなった。2頭の競り合いはしばらく続いたが、じわじわと本馬が前に出て、1分09秒0のレースレコード(2015年現在も破られていない)を計時して2馬身1/4差で勝利した。

ホットンナスティも後にアーリントンワシントンラッシーSやテストSなどを勝つ快速馬ではあったが、本馬が他馬にそれほどの差を付けられなかった点に関してヴァスケス騎手は不安を感じた。彼の不安は当たっており、レース直後の検査で本馬は脚を負傷している事が判明した。もっとも、それほどの重傷ではなく、短期間の休養でひとまず回復した。

スピナウェイS

ソロリティSから4週間後にはサラトガ競馬場でスピナウェイS(GⅠ・D6F)に出走した。本馬の出走が決まった後に記者が担当厩務員のマッセイ氏に対して「何馬身差くらいで勝つと思いますか」と尋ねると、マッセイ氏は一瞬の躊躇も無く「13馬身差」と回答した。現に本馬はダート5ハロンの調教において59秒2という、古馬を含めても当日最高の時計を出しており、絶好調だった。しかし不安要素もあった。まず、ヴァスケス騎手がまたしても騎乗停止処分を受けて本馬に乗れなかった事。そして調教後に本馬が脚を痛がった事だった。また、このレースにはラフィングブリッジが出走していた。アストリアSで本馬に9馬身ちぎられたラフィングブリッジだったが、その後にスカイラヴィルS(分割競走)・アディロンダックSと連勝していた。

それでも本馬の強さは圧倒的であり、ラフィングブリッジは何の抵抗も出来ないままだった。スタートして即座に先頭に立ったブラッキアーレ・ジュニア騎手騎乗の本馬は、そのまま単騎逃げに持ち込むと、三角から後続との差を広げにかかった。直線入り口で2番手のラフィングブリッジに4馬身ほどの差をつけた本馬は、直線でもラフィングブリッジをどんどん引き離して圧勝した(あまりに差が付いたためにテレビカメラはゴールする本馬の姿を捉えていない)。2着ラフィングブリッジとの着差はマッセイ氏の宣言とほぼ同じ12馬身3/4差だった。

勝ちタイム1分08秒6は、3年前にナンバードアカウントが計時した1分09秒8を1秒2も更新するレースレコード(スピナウェイSの距離が1994年に変更されるまで破られなかった)であり、この年のサラトガ競馬場ダート6ハロンにおいても2番目(1位は本馬より2歳年上の米国顕彰馬ラプレヴォヤンテが一般競走で計時した1分08秒4)だった。かつてはマンノウォーやセクレタリアトも2歳時に同じサラトガ競馬場ダート6ハロンを走った事があったのだが、前者は1分12秒0、後者は1分10秒0が最速であり、本馬の走破タイムは2歳馬としては破格の好タイムだった。

故障のため2歳時を5戦全勝で終える

その後の目標はスピナウェイSから5週間後のフリゼットSで、さらにその後は牡馬相手のシャンペンSに向かう計画だった。しかしフリゼットSの当日朝、食欲旺盛な本馬は珍しく食事を残した。ホワイトリー・ジュニア師が調べると本馬は発熱していた上に、右後脚を痛がる素振りを見せていた。検査の結果、右後脚の繋ぎを骨折している事が判明。発熱の原因もそれだった。ホワイトリー・ジュニア師は、スピナウェイSのレース中に骨折していたと断定した。しかしスピナウェイSから骨折の判明までに時間がかかっていたため、本当にこの骨折はレース中のものだったのですかと尋ねられたホワイトリー・ジュニア師は「レース中に故障したと思います。今まで何の兆候も見られなかったのは、彼女が精神的に非常に強い馬であるため、自分の弱みを見せることを好まなかったからです」と応じたらしい。

本馬はサウスカロライナ州に戻って8週間の療養に入り、2歳シーズンはそのまま終わってしまった。本馬の右後脚はギプスで固定されたが、硬いギプスの装着を本馬が非常に嫌がったため、枕のように柔らかい素材で作られた特製のギプスが装着された。マッセイ氏は家族と一緒にいる時間を優先して本馬の担当厩務員を外れたため、代わりに新たな担当厩務員となったダン・ウィリアムズ氏が本馬の世話をした。

2歳時の成績は5戦全勝で、シーズン終盤はレースに出なかったにも関わらず、この年のエクリプス賞最優秀2歳牝馬に選ばれた。もし本馬が2歳シーズンを全うしていたら、エクリプス賞年度代表馬に選ばれていただろうという意見も多く聞かれた(年度代表馬は13戦8勝のフォアゴーが受賞している)。なお、エクリプス賞最優秀2歳牡馬は、サプリングS・ホープフルS・カウディンS・シャンペンS勝ちなど7戦全勝のフーリッシュプレジャーが受賞している。

3歳初戦の一般競走

3歳4月にベルモントパーク競馬場に戻ってきた本馬は、ケネディ氏より体重が軽かったトゥルースデール氏を鞍上に調教が再開された。本馬は怪我の治療のために長期間動けなかったためか、2歳時より気性がきつくなっており、トゥルースデール氏は本馬をリラックスして走らせる事に心を砕いた。4月13日にはケネディ氏がこの年初めて本馬の調教を行った。

鋭い動きを見せる本馬の状態に満足したホワイトリー・ジュニア師は、翌日にアケダクト競馬場で行われるダート6ハロンの一般競走に本馬を出走登録した。本馬が出てくると分かっている一般競走に所有馬を出そうとする陣営は殆どいないはずだったが、本馬の参戦があまりに急だったため、同競走に出走予定だった他馬陣営は回避する暇も無く、4頭が本馬の対戦相手を務める羽目になった。久々に本馬に騎乗したヴァスケス騎手は、本馬が2歳時以上に強くなっているのを感じ取って感銘を受けた。

スタートしてすぐに先頭に立った本馬は、後続を引きつけて逃げ続けた。後続との差は1馬身足らずで単騎逃げにはならなかったが、本馬はまったくの馬なりのまま走っていた。直線に入っても延々と馬なりで走り続けた本馬は、2着サーアイヴァーズソロウに4馬身3/4差で勝利した。勝ちタイム1分09秒4は本馬が勝ったレースの中では最初で最後の非レコードタイムだったが、終始馬なりのまま走っていた(その理由は故障休養明けだったためと思われる)から止むを得ないだろう。

カムリーS

次走は16日後のカムリーS(GⅢ・D7F)となった。このレースでは本馬にあまりにも人気が集中したために、アケダクト競馬場や民間ブックメーカーは本馬が勝つと赤字になる状況だった。ステークス競走でこのような事態になる事は当時滅多に無く、例えばセクレタリアトが出走したどのレースにおいても、競馬場が赤字になる事は無かった。

レースでは珍しく本馬はスタートに失敗してしまい、セリマS・シグネチャーS・マーメイドSの勝ち馬アントジンに先手を許した。しかしすぐに加速して先頭に立つと、2番手のアントジンに1~2馬身ほどの差をつけて逃げ続けた。三角に入ったところで後続との差を広げにかかった本馬に対抗できる馬はおらず、本馬が2着アントジンに7馬身3/4差をつけて、1分21秒2のレースレコード(カムリーSの距離が1991年に変更されるまで破られなかった)で勝利。こうしてアケダクト競馬場もブックメーカーも赤字を出してしまった。

カムリーSが終わってすぐにヴァスケス騎手はチャーチルダウンズ競馬場に向かった。カムリーSの3日後に行われるケンタッキーダービーにフーリッシュプレジャーで参戦するためだった。3歳になってもフラミンゴS・ウッドメモリアルSを勝っていたフーリッシュプレジャーは、ヴァスケス騎手の手綱捌きにより勝利を収めた。バラのレイを首に掛けて引き揚げていったフーリッシュプレジャーを見送ったヴァスケス騎手はすぐにニューヨークに戻ってきた。随分と急に戻ってきたために不審に思った記者が理由を尋ねると、ヴァスケス騎手は「今からホワイトリー厩舎に行くんですよ!私はラフィアンから離れて過ごすなど真っ平御免ですからね!」と応えた。

エイコーンS

本馬の次の目標はニューヨーク牝馬三冠競走だった。まずは前走カムリーSから10日後のエイコーンS(GⅠ・D8F)に出走。スタートからピースオブラックという馬が猛然と本馬に競り掛けてきて、本馬は最初の2ハロン通過が23秒4、半マイル通過は45秒6というハイペースで飛ばした。しかし三角まで本馬にしがみついていたピースオブラックが四角で失速すると、あとは本馬の独り旅となった。このレースは1着争いではなく2着争いのほうが白熱しており、サムシングリーガルがギャラントトライアルを鼻差で抑えた。しかしサムシングリーガルより8馬身1/4差も前方でゴールインしていた本馬が、1972年にスーザンズガールが計時した1分34秒6を0秒2更新する1分34秒4のレースレコードで勝利していた。

マザーグースS

次走のマザーグースS(GⅠ・D9F)では、本馬が不在だったケンタッキーオークスやアッシュランドSなどを勝っていたサンアンドスノーとの顔合わせとなった。スタートが切られると1頭が落馬したが、本馬は好スタートから即座に先頭に立った。このレース前にホワイトリー・ジュニア師は、距離が伸びても引っ掛からずに走る事を覚えさせたいと考えたために、本馬をスローペースで逃げさせるようにヴァスケス騎手に指示していた。そしてヴァスケス騎手はその指示を忠実に実践し、本馬は最初の2ハロン通過が24秒2、半マイル通過は47秒6という、デビュー以来最も遅いラップで、2番手に1馬身程度の差をつけて先頭を走った。頻繁に後方を振り返って差を確認していたヴァスケス騎手は、三角に入ったところで満を持して仕掛けた。逃げ馬の中には、ゴール前で鋭い脚が使えないためにスローペースで後続を引きつけて逃げると逆に結果が悪くなる馬がいるのだが、本馬はそのようなタイプでは無かったようで、ヴァスケス騎手の合図に鋭く反応して後続を引き離し、2着スウィートオールドガールに13馬身半差をつけて圧勝。

このレースはテスコガビーの桜花賞よろしく後方からは何にも来ない状態となっていた。そして勝ちタイム1分47秒8はレースレコードだった。リヴァリッジが2年前のスタイヴァサントHで計時したコースレコード1分47秒0と比べても遜色なく、前半をスローで走る事にも成功したとあって、ホワイトリー・ジュニア師とヴァスケス騎手はとても喜んだ。

CCAオークス

次走はニューヨーク牝馬三冠競走最終戦のCCAオークス(GⅠ・D12F)だったが、このレースはホワイトリー・ジュニア師にとって、本馬がさらなる高みに上るための試金石に過ぎなかったようで、他馬が本馬に並びかけてくるまでスパートしないようにヴァスケス騎手に指示を出していた。

単勝オッズ1.05倍の1番人気に支持された本馬はスタートしてすぐに先頭に立ち、今回は後続を引きつけずに最大で6~7馬身の差をつける大逃げを打った。向こう正面の後半に差し掛かったところで、2~3番手を走っていたレットミーリンガー(後のデラウェアオークス・マスケットHの勝ち馬)とイコールチェンジの2頭が本馬に接近してきた。するとそれを見計らっていたヴァスケス騎手は三角でスパートを開始。イコールチェンジが2番手、レットミーリンガーが3番手で本馬を追いかけたが、その差は縮まらなかった。直線に入るとレットミーリンガーは失速し、イコールチェンジだけが本馬を追いかけてきたが、イコールチェンジが本馬に並ぶ場面は最後まで無かった。本馬が2着イコールチェンジに2馬身3/4差、3着レットミーリンガーにはさらに9馬身差をつけて優勝。前年のクリスエヴァートに続く史上4頭目のニューヨーク牝馬三冠を達成した。

勝ちタイム2分27秒8は1973年の勝ち馬マガジンが計時したのと同じレースレコードタイ(1990年にCCAオークスの距離が変更されるまで更新されなかった)であり、この2週間前に同コースで行われたベルモントSで、フーリッシュプレジャーとの一騎打ちを制したアバターの勝ちタイム2分28秒2より速かった。ゴール前では完全に馬なりだったにも関わらず、本馬のラスト1ハロンの走破タイムは11秒6と破格のものであり、仮に本馬がスタートからゴールまで全力疾走していたならば、2年前のベルモントSでセクレタリアトが計時した伝説の2分24秒0を更新できたのではないかと人々は噂しあった。レース後の本馬は汗もかかず、遊びながら厩舎へと歩いて戻っていった。

この段階における本馬の成績は10戦全勝、2着馬につけた着差合計は83馬身差、8回出走したステークス競走は全てレースレコード又はレースレコードタイであり、もはや牝馬相手に本馬の敵はいない事は明白だった。

牡馬との対戦が熱望される

さて、この年の米国三冠競走の勝ち馬は全て異なっており、ケンタッキーダービーはフーリッシュプレジャーが、プリークネスSはマスターダービーが、ベルモントSはアバターが勝利していた。プリークネスS・ベルモントSでいずれも2着だったフーリッシュプレジャーが実績最上位だったが、多くの人々はこの3頭より本馬のほうが強いのではないかと考えていた。

実はこの2年前の1973年に、当時米国女子テニス界のトップ選手だったビリー・ジーン・キング夫人(四大大会優勝39回)が、四大大会優勝6回で元世界ランキングトップの男子選手ボビー・リグス氏と、通称“The Battle of The Sexes(性別間の戦い)”と称される男女対抗試合で勝利を収めていた。それもあって、女性と男性の性別を越えた戦いが余計に要求されていた時期だった。

ニューヨーク競馬協会は米国三冠競走勝ち馬3頭を招いて行う“Race of Champions”なるレースを6月31日に実施する計画を既に発表していたが、当初は本馬が招待馬の中に含まれていなかった。そのためニューヨーク競馬協会に対して、本馬も招待するように各方面から圧力がかかり始めた。米ブラッドホース誌は「(米国三冠競走を勝った)これらの牡馬は、ラフィアンと対戦するまで3歳チャンピオンになる資格はありません。果たして彼等は、偉大なる逃亡劇を演じる牝馬に追いつくことが出来るのでしょうか」と書きたてた。

さらに肝心の“Race of Champions”自体、スワップスSを目標としたアバター陣営がアバターを地元の米国西海岸に戻してしまったために成立しなくなった。そうこうしているうちに、ニュージャージー州モンマスパーク競馬場(かつて本馬が勝利したソロリティSを施行する競馬場)が、本馬とフーリッシュプレジャーの2頭だけを招待する賞金40万ドルのマッチレースを企画していることを発表した。

一方のニューヨーク競馬協会は、本馬、フーリッシュプレジャー、マスターダービーの3頭によるマッチレースの可能性を模索していた。しかしアバターが不在となった時点で、本馬に米国三冠競走勝ち馬全てが挑む可能性が失われており、その魅力は激減していた。むしろモンマスパーク競馬場が提案したように、本馬とフーリッシュプレジャーの2頭による「3歳最強牝馬と3歳最強牡馬の戦い」にしてしまったほうが盛り上がることが予想された。そのためニューヨーク競馬協会はマスターダービーの招待を取りやめ、本馬とフーリッシュプレジャーのマッチレースとする事を発表した。

なお、原田俊治氏の「新・世界の名馬」には、3頭マッチレースとならなかったのは、マスターダービー側が首を縦に振らなかったからだと書かれているが、この記載は事実とは明らかに異なる。ニューヨーク競馬協会は招待を取りやめたお詫びとしてマスターダービー陣営に5万ドルを支払っており、マスターダービーの不参加はマスターダービー陣営の都合ではなくニューヨーク競馬協会の都合であった事が確実だからである。出走予定馬が主催者側に罰金を払って回避する事例は特に珍しくなかったが、主催者側が出走予定馬に罰金を払って回避してもらったのは前代未聞の出来事だったという。

なお、ニューヨーク競馬協会がマスターダービーの招待を取りやめた背景には、フーリッシュプレジャーを管理していたルロイ・ジョリー調教師が難色を示したためでもあるのだという説がかなり多くの海外の資料に載っている。その理由として、本馬とフーリッシュプレジャーはいずれも前に行く馬、マスターダービーは後方からレースを進める馬であったため、3頭マッチレースでは本馬とフーリッシュプレジャーが潰し合い、マスターダービーが漁夫の利を得てしまう結果となるのをジョリー師が懸念したからだと記載されている資料もある。しかしフーリッシュプレジャーは米国三冠競走全てで後方待機策を採っており、断じて前に行く馬ではなかったから、この説には明らかな矛盾がある。ジョリー師がマスターダービーの参戦に難色を示した理由に関して、筆者を納得させる内容を提示している海外の資料は無いから、この説は事実と異なると筆者は考えている。

運命のマッチレース

さて、ニューヨーク競馬協会が発表した賞金は35万ドルで、モンマスパーク競馬場のそれより少なかった(マスターダービー陣営に支払った5万ドルが差し引かれたのかもしれない)が、本馬陣営とフーリッシュプレジャー陣営がいずれも地元ニューヨーク州における対戦を希望したため、CCAオークスから15日後の7月6日に、ベルモントパーク競馬場ダート10ハロンにおいて本馬とフーリッシュプレジャーの2頭による“The Great Match”が実施されることになった。

ここで頭を悩ませることになったのは、本馬とフーリッシュプレジャーの両方の主戦を務めていたヴァスケス騎手だった。かつて「ラフィアンから離れて過ごすなど真っ平御免」と言い放ったヴァスケス騎手だったが、フーリッシュプレジャーとジョリー師には自分をケンタッキーダービー勝利騎手にしてもらった恩義があり、おいそれと見放す事は出来なかった。蹴ったほうの調教師を敵に回す危険性も高く、彼の心中は察するに余りあるものだった。そして悩んだ末に彼は本馬に騎乗することを選択した。何が決め手となったのかは不明である。ホワイトリー・ジュニア師よりもジョリー師のほうが、話が分かる人物だったという理由はあるかもしれない。ジョリー師は後に自分が管理する牝馬ジェニュインリスクをヴァスケス騎手と組ませてケンタッキーダービーを制覇しているという事実があり、彼はいつまでも過去の事を根に持つ人物では無かったと思われるからである。また、そのジェニュインリスクをケンタッキーダービーに挑ませるようにジョリー師に進言したのは他ならぬヴァスケス騎手だった事からすると、強い牝馬であれば牡馬相手でも勝負になると思っていたヴァスケス騎手が本馬のほうが勝つ可能性が高いと判断した点も多分あっただろう。しかし最終的な決め手は本馬への愛着だったと思われる。

さて、当日のベルモントパーク競馬場には5万764人の大観衆が詰めかけ、全米に中継されたテレビ放送の視聴者は数百万人とも1800万人とも2千万人以上とも言われた。マッチレースは先手を取った方が有利とされることもあってか、過去10戦全て逃げ先行で勝ってきた本馬が単勝オッズ1.4倍、バエザ騎手に乗り代わったフーリッシュプレジャーが単勝オッズ1.9倍となった。

しかしスタートが切られると予想外の事態が起きた。先手を取ったのは本馬ではなく、フーリッシュプレジャーのほうだったのである。ジョリー師はフーリッシュプレジャーに対して密かにスタート訓練を施していたし、かつて稀代の快速馬ドクターファーガーの主戦を務めていたバエザ騎手の手腕によるところも大きかっただろうが、スタート時にゲートに肩をぶつけてしまった本馬が出遅れた一面もあった。しかしヴァスケス騎手はすぐに本馬を加速させて内側からフーリッシュプレジャーに並びかけさせ、2頭が激しく競り合いながらレースが進んでいった。基本的に本馬が半馬身ほどリードして、外側をフーリッシュプレジャーが追いかけるという展開となった。最初の2ハロン通過タイムは22秒2だった。競馬場が異なるので単純比較は出来ないが、同じ距離10ハロンで実施されるケンタッキーダービーにおける史上最速級に匹敵するかそれ以上に速い超ハイペースだった。そしてスタートして3ハロン半ほど経過した地点で異変が起きた。本馬の走り方が突然おかしくなったかと思うと、次の瞬間にはバランスを崩して、フーリッシュプレジャーにぶつかるようにして失速した。本馬がバランスを崩したその瞬間、ヴァスケス騎手とバエザ騎手の2人は揃って「板が割れるような音」を耳にしたという。それは本馬の右前脚の骨が砕け散る音だった。ヴァスケス騎手は本馬を必死に止めようとしたが、本馬は惰性なのか本能なのかそのまましばらく走り続けてしまい(これで余計に脚のダメージが悪化したと言われている)、故障発生から50ヤードほど進んだところでようやく立ち止まった。実況担当のジャック・ウィテカー氏が「ラフィアンに・・・ラフィアンに故障発生!」と悲痛な声で叫び、ベルモントパーク競馬場に詰め掛けた大観衆の間から悲鳴が上がる中、本馬に何が起こったのかを理解したバエザ騎手はフーリッシュプレジャーを歩くように走らせた。そしてフーリッシュプレジャーが1頭だけでゴールラインを通過してレースは終わった。

立ち止まった本馬の右前脚は皮膚がざっくりと割れて大量に出血しており、そして傷口からは裂けた靱帯と砕けた種子骨が覗いていた。即座にやって来た救急車に乗せられた本馬は最寄りの動物病院に担ぎ込まれた。生存確率は10%未満と診断されたが、ジャーニー夫妻はその僅かな可能性に賭けることにした。まずは麻酔が打たれ、そして4名の外科獣医による12時間に及ぶ緊急手術が行われた。手術中に本馬の心臓は2度停止したが、2度とも再び鼓動を開始した。粉砕骨折した種子骨をなんとか繋ぎ合わせ、損傷した靱帯と血管についても縫合が施された。そして患部にはギプスと特製の蹄鉄が装着された。こうして手術はひとまず終了したが、やがて麻酔が切れると目が覚めた本馬はあまりの苦痛に混乱して暴れ始めた。本馬を取り囲んでいた人々が総出になって本馬を宥めようとしたが、巨体の本馬を押さえつける事は出来なかった。本馬は両前脚を床に叩き付け、装着されていたギプスや蹄鉄ごと右前脚の骨を再び破壊してしまっただけでなく、左前脚の骨も折ってしまった。この状況を見た獣医チームはこれ以上の治療続行は一層の苦痛を本馬に与えるだけだと判断。故障発生の翌日午前2時半に安楽死の措置が執られた。遺体はベルモントパーク競馬場の内馬場にある旗竿の下に埋葬された(同競馬場内に埋葬されている競走馬は本馬のみである)。

競走馬としての評価

3歳時の成績は6戦5勝で、この年のエクリプス賞最優秀3歳牝馬に選出された。また、翌1976年にはベルモントパーク競馬場において本馬の名を冠したGⅠ競走ラフィアンHが創設された。同じ年には米国競馬の殿堂入りも果たしている。米ブラッドホース誌が企画した20世紀米国名馬100選では牝馬としては最上位の第35位にランクインしている。スポーツ・イラストレイテッド誌が選出した20世紀の女性運動選手トップ100においては第53位となり、人間以外では唯一ランクインしている。

本馬は数々の異名で呼ばれており、主だったものを挙げると、“Queen of the Fillies(牝馬の女王)”、“Queen of the Century(世紀の女王)”、“Queen of Racing(競馬の女王)”、“Queen of the Track(競馬場の女王)”、“Filly of the Century(世紀の牝馬)”、“The Super Filly(スーパー牝馬)”、“black lightning(黒い稲妻)”などがある。2007年6月には本馬の生涯を描いたテレビ映画「Ruffian」が放映されたが、皮肉なことに、前年のプリークネスSのレース中に故障したケンタッキーダービー馬バーバロがこの世を去った5か月後の放映だった。もっとも、バーバロのときにはかなり医療技術が進歩しており、あと一歩のところで救命に成功するところだったが、本馬に関しては実際の救命確率が天文学的な低数値で手術前から何の希望も無かったから、同列に論じてはいけないとされている。

後世に与えた影響

本馬の死が米国競馬界に与えた影響は大きかった。一番有名なのは、それまで米国内において頻繁に実施されていたマッチレースが行われなくなった事である。実際には出走馬が揃わずに2頭立てになってしまったレースはこの後もあるのだが、いわゆるチャンピオンクラスの馬同士によるマッチレースはこれ以降1度も行われていない。

また、故障して手術を受けた競走馬が麻酔から覚めた後の処遇についても改良が行われ、脚を床に叩きつける事が無いように、暖かい水の中に浮かべて苦痛が治まるのを待つための施設「回復用プール」が開発された。苦痛緩和用の薬剤に関しても改良が進み、副腎皮質ステロイドなどが一般的に使用されるようになった。2009年5月にはベルモントパーク競馬場のすぐ側に、本馬の名を冠した「ザ・ラフィアン・馬医療センター」が開設された。1800万ドルの資金が投じられたこの施設には、数多くの専門家が働いており、馬の歩様などを診断して、重度の故障を発生する前に治療を実施する活動を行っている。

また、幼少期の本馬を世話した岡田氏は、1986年に馬主団体を立ち上げた際に、その団体に「サラブレッドクラブ・ラフィアン」と名づけた。この「サラブレッドクラブ・ラフィアン」からは「マイネル」の名を冠した活躍馬が数多く出ている。

血統

Reviewer Bold Ruler Nasrullah Nearco Pharos
Nogara
Mumtaz Begum Blenheim
Mumtaz Mahal
Miss Disco Discovery Display
Ariadne
Outdone Pompey
Sweep Out
Broadway Hasty Road Roman Sir Gallahad
Buckup
Traffic Court Discovery
Traffic
Flitabout Challedon Challenger
Laura Gal
Bird Flower Blue Larkspur
La Mome
Shenanigans Native Dancer Polynesian Unbreakable Sickle
Blue Glass
Black Polly Polymelian
Black Queen
Geisha Discovery Display
Ariadne
Miyako John P. Grier
La Chica
Bold Irish Fighting Fox Sir Gallahad Teddy
Plucky Liege
Marguerite Celt
Fairy Ray
Erin Transmute Broomstick
Traverse
Rosie Ogrady Hamburg
Cherokee Rose

父レヴュワーはボールドルーラー直子で、名種牡馬シーキングザゴールドの伯父に当たる。競走馬としてはサラトガスペシャルS・サプリングS・ベイショアS・ナッソーカウンティH勝ちなど13戦9勝の成績を残した。ナッソーカウンティHではベルモントパーク競馬場ダート9ハロンのコースレコード1分46秒8を計時した事もあり、ボールドルーラー産駒らしい快速馬だった。しかし2歳時のホープフルS、3歳時のウッドメモリアルS、そして4歳時と競走馬時代に3度も脚を骨折しており、それが大成を妨げた理由の1つとなった。競走馬引退後はクレイボーンファームで種牡馬入りして、初年度産駒から本馬、2年目産駒からCCAオークスや創設1年目のラフィアンHなどを勝利したレヴィデールなどを誕生させて大きく期待されたが、本馬の死から1年11か月が経過した1977年6月6日、放牧中に左後脚を骨折。手術が行われていったんは成功したが、後にギプスが取り替えられる際に暴れてギプスもろとも骨折した脚を再び破壊したため、6月21日に安楽死の措置が執られた。

母シェナニガンズは現役成績22戦3勝で、メリーランドフューチュリティで2着している。母としては、本馬の半兄である名種牡馬アイスカペイド(父ニアークティック)【ケルソH・サラナクS・スタイヴァサントH・ウイリアムデュポンジュニアH(米GⅡ)・ナッソーカウンティH(米GⅢ)】、半弟バックファインダー(父バックパサー)【ウイリアムデュポンジュニアH(米GⅡ)】も産んでいる。また、本馬の半姉ラフター(父ボールドルーラー)は非常に優秀な繁殖牝馬で、その子にはブルーエンスン【ウッドローンS(米GⅢ)】、ライトスピリッツ【ランプライターH(米GⅢ)】、プライヴェートタームズ【ウッドメモリアルS(米GⅠ)・ゴーサムS(米GⅡ)・マサチューセッツH(米GⅡ)・フェデリコテシオS(米GⅢ)】、孫にはコロナドズクエスト【ハスケル招待H(米GⅠ)・トラヴァーズS(米GⅠ)】、玄孫にはオーブ【ケンタッキーダービー(米GⅠ)・フロリダダービー(米GⅠ)】、サジェスティヴボーイ【ラウル&ラウルEチェバリエル大賞(亜GⅠ)・エストレージャス大賞ジュヴェナイル(亜GⅠ)・ドスミルギネアス大賞(亜GⅠ)・亜ジョッキークラブ大賞(亜GⅠ)・フランクEキルローマイルS(米GⅠ)】がいる。

シェナニガンズの母ボールドアイリッシュはかなり牝系子孫を発展させており、シェナニガンズの半姉ブラーニーキャッスル(父ナスルーラ)の曾孫にはグリーンフォレスト【モルニ賞(仏GⅠ)・サラマンドル賞(仏GⅠ)・仏グランクリテリウム(仏GⅠ)・ムーランドロンシャン賞(仏GⅠ)】、玄孫には1987年のエクリプス賞最優秀2歳牝馬エピトム【BCジュヴェナイルフィリーズ(米GⅠ)】が、シェナニガンズの半姉ロングフォード(父メノウ)の子にはキャッスルフォーブス【ソロリティS・エイコーンS】、孫にはケンタッキーダービー馬ボールドフォーブスの父となったアイリッシュキャッスル【ホープフルS】、アルペンラス【メイトロンS(米GⅠ)】が、シェナニガンズの半姉レイクス(父ターントゥ)の子にはアイリッシュカウンティ【アスタリタS】、玄孫世代以降にはシェアードアカウント【BCフィリー&メアターフ(米GⅠ)】、ニューイヤーズデイ【BCジュヴェナイル(米GⅠ)】が、シェナニガンズの半妹キャッスルハイド(父タルヤー)の曾孫にはデーモンズビーゴーン【アーカンソーダービー(米GⅠ)】、パインブラフ【プリークネスS(米GⅠ)】、玄孫にはフサイチペガサス【ケンタッキーダービー(米GⅠ)】が、シェナニガンズの半妹アイリッシュトリップ(父グローブマスター)の孫には日本で走ったグローバルゴット【北上川大賞典2回・みちのく大賞典】がいる。

シェナニガンズもあまり脚が丈夫な馬ではなく、その生涯で脚を2回骨折している。特に1977年5月に起こした骨折は重度だった。これは疝痛の手術直後に暴れて2本の脚を折ってしまったものであり、そのまま5月21日に安楽死となった。レヴュワーが他界するちょうど1か月前の出来事であった。こうして本馬の両親は娘の死から2年も経たないうちに相次いで娘と同じ運命を辿ったのだった。こうした事から、本馬の脚が弱かったのは、両親からの遺伝であるとする説が有力である。もっとも、本馬はその巨体の割には脚が細長かったから、本馬が頻繁に脚を故障したのはそれが原因であろうと筆者は考えている。→牝系:F8号族③

母父ネイティヴダンサーは当馬の項を参照。本馬の脚部不安は両親だけでなく、祖父ネイティヴダンサーからの遺伝だとする説もよく言われる。競走馬が通常40~50戦程度する時代において、ネイティヴダンサーは僅か22戦しかしていないのがその根拠であるらしいが、さすがにこれは少し首を傾げざるを得ない。もっとも、ネイティヴダンサーやその産駒は全体的に健康面で問題があったのは事実とされている。

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