ギャラントフォックス

和名:ギャラントフォックス

英名:Gallant Fox

1927年生

鹿毛

父:サーギャラハッド

母:マーガライト

母父:ケルト

米国三冠という用語が一般的に使用され始めた年に出現した史上2頭目の米国三冠馬は種牡馬としても米国三冠馬を輩出

競走成績:2・3歳時に米で走り通算成績17戦11勝2着3回3着2回

史上2頭目の米国三冠馬で、生産牧場であるメリーランド州ベルレアスタッドの名前にちなんで“The Fox of Belair(ベルレアの狐)”の愛称で親しまれた。

事実上の初代米国三冠馬

ケンタッキーダービー・プリークネスS・ベルモントSの3競走を総称して米国三冠競走と呼ぶようになった時期については諸説ある。1919年にサーバートンが初めてこの3競走を全て制した時点では、まだ米国三冠路線が確立していなかった事は確実である。何故なら、その後の1922年にケンタッキーダービーとプリークネスSが同じ5月13日に行われており、この年は1頭の馬で3競走全てを制するのは実質的に不可能だったという絶対的な証拠があるからである(翌1923年以降は、両競走の間隔は最短でも4日間は空いている)。原田俊治氏の「新・世界の名馬」のグラディアトゥールの項では、1935年にオマハがこの3競走を連覇した時に、ある新聞記者がはじめてこの言葉を使ったらしいという説が紹介されているが、出典が記載されていないので検証できない。

そこで筆者が、第2代から第4代までの米国三冠馬である、本馬、オマハ、ウォーアドミラルの3頭に関する海外の資料を調べて、三冠という用語が使われ始めた時期について触れられているかどうかを調べると、本馬の資料にのみこれに関する記事があり、オマハやウォーアドミラルの資料にはそれに類する記事は見当たらなかった事から、どうやら本馬が3競走を制覇した年が米国三冠という用語の出発点になっているようである。サーバートンが初代米国三冠馬とされているのは後付けであるから、事実上は本馬が初代米国三冠馬であると言ってしまってよいかもしれない。

誕生からデビュー前まで

この事実上の初代米国三冠馬は、ベルレアスタッドの所有者だったウィリアム・ウッドワード卿により1927年3月23日に生産された(誕生したのは、ブル・ハンコック氏が所有するケンタッキー州クレイボーンファーム)。このベルレアスタッドの歴史は古く、メリーランド州競馬クラブの創立委員でもあったメリーランド州知事サミュエル・オーグル氏により1747年に設立された。おじのジェームズ・T・ウッドワード氏から1910年にベルレアスタッドなどの財産を受け継いだウッドワード卿は、ハンコック氏と共に仏国からサーギャラハッドを種牡馬として導入。そしてシンジケートの主要メンバーとして自身が所有する繁殖牝馬に積極的にサーギャラハッドを交配させて優秀な競走馬を多く誕生させていたが、本馬はその中でも最高傑作だった。

ウッドワード卿から本馬を預かったのは。米国競馬史上に燦然と名を残す名伯楽“サニー”・ジェームズ・エドワード・フィッツシモンズ調教師だった。本馬は同厩同世代の馬の中でも最も活発で走るのが好きであり、他馬達は本馬の調教に付いていく事が困難だったため、フィッツシモンズ師は本馬の調教パートナーとなる馬を頻繁に交代させる必要があった。本馬の右目は虹彩(黒目の部分)の周囲の白目部分が通常より大きく、いわゆる三白眼だった。そのために一見すると怖そうな馬であり、他馬は本馬の姿を見ただけで恐れて逃げ出したという噂まで立ったという。実際の本馬はそんなに怖い性格ではなく、物静かで人懐っこく好奇心が強い馬だった。しかしこの好奇心の強さのせいで、ゴール前で先頭に立つと気を抜いたり、後述するようにスタートで出遅れたりすることがあったため、レースではブリンカーを装着することが多かった。

競走生活(2歳時)

2歳6月にアケダクト競馬場で行われたダート5ハロンの一般競走でデビューしたが、まだ青いところを見せて、後のケンタッキージョッキークラブSの勝ち馬デザートライトの1馬身差3着に敗退した。それから5日後に出走したトレモントS(D6F)では、スタート前に他馬12頭が動き回る様子を興味津々に本馬が眺めていたところ(眺めていたのは他馬ではなく上空を飛んでいた飛行機だったとする資料もある。どちらが真実なのかは本馬自身に聞いてみないと分からない)、いつの間にかスタートが切られて他馬が一斉に発走してしまった。それに気づいた本馬は遅れて追いかけ始めたが、5頭しか抜くことが出来ずに、サラゼン(同名の米国顕彰馬とは別馬)の6馬身3/4差8着に敗れた。

その1か月後に出走したフラッシュS(D5.5F)では、2着カルソに1馬身半差をつけて初勝利を挙げた。その5日後に出走したユナイテッドステーツホテルS(D6F)では、カルソの逆襲を受けて、1馬身半差の2着に敗退した。次走のベルモントフューチュリティトライアル(D6F)では、道中で進路が塞がる不利があったが、ゴール前で猛追して、勝ったポリガマスの首差2着まで追い上げてきた。そしてベルモントフューチュリティS(D6.75F)に駒を進めたが、ハリー・ペイン・ホイットニー氏の所有馬でサラトガスペシャルSを勝っていたウィッチワン、フラッシュSとユナイテッドステーツホテルSのいずれも3着だったハイジャックの2頭に屈して、勝ったウィッチワンから3馬身差の3着に終わった。しかし次走のジュニアチャンピオンS(D8F)では、5ポンドのハンデを与えたデザートライトを2馬身差の2着に破って勝利した。2歳時の成績は7戦2勝となった。後年に決定されたこの年の米最優秀2歳牡馬にはシャンペンSも勝ったウィッチワンが選ばれたが、本馬も翌3歳シーズンにおける有力馬として認知されていた。

競走生活(3歳前半)

もともとウッドワード卿は2歳戦を重要視しておらず、3歳戦で活躍する馬を好んでいた。そして、ウッドワード卿は3歳時における本馬の主戦騎手を、2年前にいったん騎手を引退していたアール・サンデ騎手に依頼した。本馬の能力を評価したサンデ騎手はこの依頼を快諾し、以降レースに出走する本馬の鞍上には常にサンデ騎手の姿があるようになった(騎手引退直後に妻に先立たれて生きる希望を求めていた事や、ウォール街の株価大暴落により大損害を蒙って経済的に困っていたのも彼が依頼を受けた要因らしい)。サンデ騎手は鞭をあまり使用せず、辛抱強く馬との信頼関係を構築することを重視する人であり、物静かではあるが好奇心が強すぎて集中力に欠ける傾向があった本馬との相性は抜群だったと評されている。この時期には本馬の体高は16ハンド、体重は1200ポンド(約545kg)に達しており、かなり大柄な馬体に成長していた。

3歳時は4月のウッドメモリアルS(D8F70Y)から始動した。道中で馬群に閉じ込められる不利があったにも関わらず、馬群から抜け出すと、2着クラックブリゲイドに4馬身差をつけて完勝した(3着にはデザートライトが入った)。

次走は、この年はケンタッキーダービーより先に施行されたプリークネスS(D9.5F)となった。ここでも道中で進路が塞がる不利があったが、僅かな隙間から馬群の間を鮮やかにすり抜けると四角を3番手で回り、直線で前を行くクラックブリゲイドに並びかけて、叩き合いを3/4馬身差で制した(3着にはこの年の米最優秀3歳牝馬に選ばれる後のCCAオークス勝ち馬スノーフレークが入った)。サンデ騎手が鞭を高々と掲げて勝利の喜びを表すと、(サンデ騎手が人気騎手だったこともあり)観衆からは大きな拍手が贈られた。このレースで本馬が見せた馬群突破は、ニューヨーク・タイムズ紙により「過去にメリーランド州で見られた最も電撃的な加速でした」と評された。

8日後のケンタッキーダービー(D10F)では、同競走史上初めて電動式のスターティングゲートが使用された。この日のチャーチルダウンズ競馬場には、数々の名馬を送り出した英国の名馬産家である第17代ダービー伯爵エドワード・スタンリー卿が、ベルモントパーク競馬場の代表者ジョセフ・ワイドナー氏に招かれて来場しており、チャーチルダウンズ競馬場の代表者マット・ウィン大佐を始めとする著名人達と共にレースを観戦していた。当日の天候は大雨だったが、それでも5万~6万人という観衆が詰め掛けていた。対戦相手は、プリークネスS2着のクラックブリゲイド、前年の米最優秀2歳牝馬で、スノーフレークと共にこの年の米最優秀3歳牝馬に選ばれるケンタッキーオークス・デビュータントSの勝ち馬アルキビアデス、そして「ブルーグラスの誇り」と評されていた対抗格のタネリーなどだった。

スタートが切られるとアルキビアデスが先手を取り、本馬は馬群の中団好位を追走した。しかし向こう正面で早くも位置取りを上げると先頭で直線に突入し、後続の追撃を完封。2着ギャラントナイトに2馬身差をつけて優勝した。鞍上のサンデ騎手は、1923年にゼヴで、1925年にフライングエボニーで同競走を勝っており、19世紀のアイザック・マーフィー騎手以来史上2人目のケンタッキーダービー3勝騎手となった。勝ち馬表彰式場にはスタンリー卿も招かれ、本馬やサンデ騎手、ウッドワード卿と一緒に記念写真に納まった。

ベルモントS:「史上初の」米国三冠馬の誕生

次走のベルモントS(D12F)は僅か4頭立てとなったが、膝を負傷したためにプリークネスSとケンタッキーダービーを回避したものの、ウィザーズSを勝利して復活してきた前年の米最優秀2歳牡馬ウィッチワンとの、ベルモントフューチュリティS以来2度目の対決となった。ウィッチワンは非常に素質を高く評価されており、このベルモントSで本馬を抑えて1番人気に支持されたほどだった。本馬とウィッチワンの対戦は、1867年にベルモントSが創設されて以降では最も刺激的な決闘であると評された。レース2日前にサンデ騎手は自動車事故に遭って負傷していたが、患部に包帯を巻きつけて本馬に騎乗していた(不幸中の幸いで、馬を追うために一番重要となる手には怪我は無かった)。当日は小雨が降りしきっていたが、それほど馬場状態は悪くなかった。本馬はこのレースにおいて赤いフードを被っており、これが後に本馬の愛称の1つである“The Red-headed-horse(赤い頭の馬)”の由来にもなった。

本馬は1回フライングスタートを切ってしまったが、サンデ騎手は冷静に本馬を宥めて、2回目に正式なスタートを切らせた。本馬はスタートから先頭を奪い、スウィンフィールドが2番手、クエスショネアが3番手、ウィッチワンが最後方を追走した。三角に入る頃の本馬のリードは2馬身ほどだったが、まだ本馬には余裕があった。その後ウィッチワンが仕掛けて本馬に並びかけようとしてきたが、サンデ騎手が合図を送ると本馬はウィッチワンを徐々に引き離していき、最後は2着ウィッチワンに3馬身差(4馬身差とする資料もある)をつけて完勝した。勝ちタイム2分31秒6は、距離12ハロンで行われたベルモントSにおいては当時最速のものだった。優勝賞金6万6040ドルは、単独の競走としては当時米国競馬史上最高金額だった。この前年の1929年10月に、暗黒の木曜日に始まるウォール街の株価大暴落が発生し、世界大恐慌が始まっていた。そのため米国内は全般的に活気が無かったが、そんな中で登場した英雄を米国民は熱狂的に歓迎した。

このベルモントSが行われる直前に、ニューヨーク・タイムズ紙の記者ブライアン・フィールド氏は「プリークネスS・ケンタッキーダービー・ベルモントSの3競走は、春に行われる他の3歳馬の競走を霞ませるほど顕著であり、(英国の)三冠競走に模すことが出来ます。英国と同様に米国で三冠競走を勝ち取ることは、競馬場で得ることが出来る最高の栄誉になるでしょう」という記事を書いた。これが米国三冠という用語が一般的に用いられた始まりであるとされている。この記事はベルモントSの前に掲載されたものであるから、本馬が3競走全てを勝ったから米国三冠という用語が出現したのではなく、米国三冠という用語が誕生した直後に本馬が3競走全てを制したという順番になり、本馬の快挙によって米国三冠なる概念が確立されたのだと海外の資料には記載されている。

実際には1923年に、ニューヨーク・タイムズ紙に勤務していた当時17歳の若手記者チャールズ・ハットン氏が「プリークネスSの勝ち馬ヴァジルがケンタッキーダービーで三冠競走の2戦目に挑みます」という記事を書いているが、その当時は一般的にならなかった。ハットン氏は本馬が三冠を達成したこの1930年時点ではデイリーレーシングフォーム社に勤めており、この年もやはり三冠という用語を用いていたはずであるが、彼が書いた文章は筆者には発見できなかった。

ベルモントSの翌日にはフィールド氏がニューヨーク・タイムズ紙上で「ギャラントフォックスがウィッチワンを4馬身差で破り、サーバートンと並ぶ三冠競走の英雄になりました」という記事を掲載した。また、ベルモントSの後に発行された、米ブラッドホース誌の6月14日号には「ギャラントフォックスは、プリークネスS・ケンタッキーダービー・ベルモントSの3歳馬最古のステークス3競走全てを勝った、サーバートン以来2頭目の馬になりました。この2頭は“Triple Event Winners”と呼ばれるようになるかも知れません」との記事が掲載されている。

競走生活(3歳後半)

さて、三冠という用語の誕生についての記載はこの辺りで終了とし、本馬の競走生活に話を戻す。ベルモントSから3週間後のドワイヤーS(D12F)では、好敵手ウィッチワンが負傷欠場した影響もあって単勝オッズ1.1倍という圧倒的な1番人気に支持され、2着ゼノフォルに1馬身半差で楽勝した。続いてシカゴのアーリントンパーク競馬場に向かい、創設2年目のアーリントンクラシックS(D10F)に出走。5万人以上の大観衆が見守るレースは、ギャラントナイトとの一騎打ちとなったが、首差で競り勝った。

この頃になると、本馬はマンノウォー以来最も偉大な馬という評価を得ていたが、2頭の競走馬としての個性は対照的だったようで、ニューヨーク・タイムズ紙のフィールド氏は「マンノウォーは抑える事を知らない悪魔的な振る舞いにより人々を惹き付けましたが、それとは対照的に、ギャラントフォックスは並々ならぬ優美さと優等生ぶり、均整と調和により人々を惹き付けました」と記している。

この時期、本馬との対戦成績が1勝1敗だったウィッチワンは、バロットH・サラナクH・ホイットニーSに勝利して好調を維持していた。そして本馬とウィッチワンの直接対決第3ラウンドが、トラヴァーズS(D10F)で行われた。レースは極端な不良馬場で行われたが、2頭とも回避はせずに出走してきた。レースでは単勝オッズ101倍の伏兵ジムダンディが馬場状態の最も悪い内側を走るという大胆な作戦に打って出た。ソニー・ワークマン騎手鞍上のウィッチワンは少しでも馬場状態が良いと思われた外側を回り、単勝オッズ1.5倍という断然の支持を受けていたサンデ騎手鞍上の本馬はさらに外側を回った。しかし両騎手の作戦は結果的には失敗に終わり、ロスなく立ち回ったジムダンディがそのまま独走して圧勝。8馬身も離された2着に本馬が入り、直線で故障したウィッチワンはさらに6馬身後方の3着でゴールインした。このレースは今日でも、マンノウォーが敗れた1919年のサンフォードS、ネイティヴダンサーが敗れた1953年のケンタッキーダービー、スペクタキュラービッドが敗れた1979年のベルモントSなどと並び称せられる、米国競馬史上における最大級の番狂わせであると評されている。ウィッチワンはこのレースを最後に競走馬を引退したため、この後味の悪いレースが本馬との最後の対戦となってしまった(ウィッチワンの所有者ホイットニー氏はこの2か月後に死去している)。

一方の本馬は2週間後のサラトガC(D14F)に出走。2着となった4歳馬フリシウスに1馬身半差をつけ、2年前にレイカウントが計時していたレースレコードより1秒遅いだけという2分56秒0の好タイムで快勝した。次走のローレンスリアライゼーションS(D13F)では、ベルモントSで本馬の6馬身差3着した後に無敗街道をひた走ってきたクエスショネアとの対戦となった。斤量は本馬が3ポンド重かった。直線ではこの2頭による壮絶な一騎打ちが展開されたが、最後は本馬が頭差で競り勝った。この勝利により本馬の獲得賞金総額は31万7865ドルに達し、当時の全米賞金王だったゼヴの31万3639ドルを上回ったため、新たな全米賞金王の座にも君臨した。

次走のジョッキークラブ金杯(D16F)では僅か3頭立てとなり、しかも対戦相手2頭はいずれもたいした実績の馬ではなかった。レースでは馬なりのまま2着ヤーンに3馬身差、3着フリシウスにはさらに12馬身差をつけて楽勝。このレース後に熱と咳が出たために、3歳時10戦9勝の成績を残してこのまま現役を引退した。

本馬の引退の報を聞いた米ブラッドホース誌のネイル・ニューマン氏は「1930年の米国競馬界を隕石のように駆け抜けていった馬」と本馬を評した(この文言は本馬の墓碑にも刻まれている)。後年になってこの年の米年度代表馬・最優秀3歳牡馬に選出されている。獲得賞金総額は32万8165ドルに達しており、前述の通り当時の北米賞金王になっている(ただし僅か1年後にサンボウにより破られる)。また、本馬は3歳時だけで30万8275ドルを稼いだが、1シーズンで30万ドル以上を稼いだのは本馬が史上初だった。

血統

Sir Gallahad Teddy Ajax Flying Fox Orme
Vampire
Amie Clamart
Alice
Rondeau Bay Ronald Hampton
Black Duchess
Doremi Bend Or
Lady Emily 
Plucky Liege Spearmint Carbine Musket
Mersey
Maid of the Mint Minting
Warble
Concertina St. Simon Galopin
St. Angela
Comic Song Petrarch
Frivolity
Marguerite Celt Commando Domino Himyar
Mannie Gray
Emma C. Darebin
Guenn
Maid of Erin Amphion Rosebery
Suicide
Mavourneen Barcaldine
Gaydene
Fairy Ray Radium Bend Or Doncaster
Rouge Rose
Taia Donovan
Eira
Seraph St. Frusquin St. Simon
Isabel
St. Marina Janissary
St. Marguerite

サーギャラハッドは当馬の項を参照。

母マルゲリートは、その母である英国産馬フェアリーレイのお腹にいる状態で米国に輸入されて誕生した、日本で言うところの持ち込み馬。競走馬としては1戦未勝利に終わったが、繁殖牝馬としての成績は素晴らしく、本馬の半兄ピティーラック(父ラック)【トラヴァーズS・メトロポリタンH・サバーバンH】、全弟ファイティングフォックス【ウッドメモリアルS・マサチューセッツH・カーターH・ジャマイカH】、全弟フォックスブロー【ミドルパークS】と、活躍馬を続出させた。

本馬やフォックスブローの全妹であるマルグリィの牝系子孫は非常に発展しており、マルグリィの子にはマルラー【ソロリティS】が、孫にはハンサムボーイ【ブルックリンH・ナッソーカウンティH・エイモリーLハスケルH・ワシントンパークH】、ブレッシングアンジェリカ【デラウェアH2回・ダイアナH】が、曾孫にはライフズホープ【ジャージーダービー(米GⅠ)・エイモリーLハスケルH(米GⅠ)】、トリリオン【ガネー賞(仏GⅠ)】が、玄孫にはトリプティク【マルセルブサック賞(仏GⅠ)・愛2000ギニー(愛GⅠ)・英チャンピオンS(英GⅠ)2回・ガネー賞(仏GⅠ)・コロネーションC(英GⅠ)2回・マッチメイカー国際S(英GⅠ)・愛チャンピオンS(愛GⅠ)】、ジェネラス【英ダービー(英GⅠ)・愛ダービー(愛GⅠ)・キングジョージⅥ世&クイーンエリザベスDS(英GⅠ)・デューハーストS(英GⅠ)】、イマジン【英オークス(英GⅠ)・愛1000ギニー(愛GⅠ)】などが、牝系子孫には、マンダリーノ【パリ大障害・モーリスジロワ賞】、ランドシーア【仏2000ギニー(仏GⅠ)・キーンランドターフマイルS(米GⅠ)】、ブリッシュラック【安田記念(GⅠ)・チャンピオンズマイル(香GⅠ)2回】、シェイムカ【クールモアクラシック(豪GⅠ)・TJスミスS(豪GⅠ)・オールエイジドS(豪GⅠ)】、アモラマ【デルマーオークス(米GⅠ)・ジョンCメイビーH(米GⅠ)】、エイブルワン【チャンピオンズマイル(香GⅠ)2回・香港マイル(香GⅠ)】、ムーンライトクラウド【モーリスドギース賞(仏GⅠ)3回・ムーランドロンシャン賞(仏GⅠ)・ジャックルマロワ賞(仏GⅠ)・フォレ賞(仏GⅠ)】、トレヴ【凱旋門賞(仏GⅠ)2回・仏オークス(仏GⅠ)・ヴェルメイユ賞(仏GⅠ)・サンクルー大賞(仏GⅠ)】、オデリズ【ジャンロマネ賞(仏GⅠ)・リディアテシオ賞(伊GⅠ)】、日本で走ったフリオーソ【全日本2歳優駿(GⅠ)・ジャパンダートダービー(GⅠ)・帝王賞(GⅠ)2回・川崎記念(GⅠ)・かしわ記念(GⅠ)】、ディーマジェスティ【皐月賞(GⅠ)】など、世界中で活躍馬が登場している。

本馬の祖母フェアリーレイの曾祖母セントマーガレットは英1000ギニーの勝ち馬で、その牝系子孫からは英国三冠馬ロックサンドなど多くの名馬が登場している。→牝系:F4号族④

母父ケルトはコマンドの直子で、現役成績はブルックリンH・ジュニアチャンピオンS勝ちなど4戦3勝。唯一の敗戦はフラットブッシュSで同父の名馬コリンに敗れたのみで、ブルックリンHではフェアプレイを破って2分04秒2のコースレコードで勝利している。種牡馬としても1921年の北米首位種牡馬に輝いた他、1930年には本馬の活躍で北米母父首位種牡馬に輝いた。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は生まれ故郷のクレイボーンファームで種牡馬入りした。本馬は種牡馬としても活躍し、1935年の米国三冠馬オマハ、ベルモントSなどを勝って1936年の米年度代表馬に選ばれたグランヴィル、英国の伝統競走アスコット金杯を制したフレアズ(オマハの全弟)など20頭のステークスウイナーを出した。本馬は種牡馬として米国三冠馬を出した史上唯一の米国三冠馬である(海外の資料には「三冠馬を出した初めての米国三冠馬」という表現になっており、2頭目は加国三冠馬ピートスキを出したアファームドであるとされている。競馬主要国において「三冠馬を出した三冠馬」は、筆者が知る範囲ではこの2組以外には、中央競馬牡馬三冠馬ディープインパクトと中央競馬牝馬三冠馬ジェンティルドンナの父娘くらいしか思い当たらない)。1953年11月に老衰のため26歳で他界し、遺体はクレイボーンファーム内にあった両親の墓地の隣に埋葬された。1957年に米国競馬の殿堂入りを果たした。米ブラッドホース誌が企画した20世紀米国名馬100選で第28位。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1932

Calumet Dick

ディキシーH

1932

Omaha

ケンタッキーダービー・プリークネスS・ベルモントS・ドワイヤーS・アーリントンクラシックS

1933

Flares

英チャンピオンS・アスコット金杯・プリンセスオブウェールズS

1933

Granville

ベルモントS・アーリントンクラシックS・トラヴァーズS・ローレンスリアライゼーションS・サラトガC

1934

Perifox

リッチモンドS・ゴードンS

1936

Forestation

英チャンピオンハードル

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