オマハ

和名:オマハ

英名:Omaha

1932年生

栗毛

父:ギャラントフォックス

母:フランビーノ

母父:ラック

英国遠征にも果敢に挑戦して結果を残した強烈な追い込みを武器とした米国競馬史上3頭目の三冠馬

競走成績:2~4歳時に米英で走り通算成績22戦9勝2着7回3着2回

史上3頭目の米国三冠馬で、強烈な追い込みを武器としており、生産牧場であるベルレアスタッドの名前にちなんで“Belair Bullet(ベルエアの弾丸)”というニックネームで親しまれた。

誕生からデビュー前まで

ギャラントフォックスの生産・所有者でもあった米国の名馬産家ウィリアム・ウッドワード卿により、彼がメリーランド州に所有するベルレアスタッドにおいて生産・所有された(実際に誕生したのは預託先のケンタッキー州クレイボーンファーム)。幼少期の本馬は脚がひょろ長く、あまり見栄えが良い馬ではなかったという。しかしウッドワード卿は本馬を評価しており、英国に送って英ダービーに参戦させる事まで検討していたという。しかし英国に向かわせる計画はひとまず延期され、本馬は父ギャラントフォックスを米国三冠馬に育て上げた名伯楽ジェームズ・エドワード・フィッツシモンズ調教師に預けられた。成長すると体高は16.3ハンドに達したとされている。体高17ハンドだったとする資料もあり、どちらが正しいのかは分からないが、いずれにしても当時としてはかなり背が高い馬だったのは間違いないようである。

競走生活(2歳時)

2歳6月にアケダクト競馬場で行われたダート5ハロンの未勝利戦でデビューして鼻差2着。5日後に同コースで行われた一般競走を2着アレンズィーに頭差で制して勝ち上がった。次走は8月のユナイテッドステーツホテルS(D5F)となったが、この年の米最優秀2歳牡馬に選ばれるバラディア、トゥデイなどに屈して、バラディアの5馬身3/4差4着と完敗した。1週間後のサラトガスペシャルS(D5F)でも、ボクソーン、トゥデイなどに屈して、ボクソーンの2馬身差4着に終わった。次走のサンフォードS(D6F)では直線鋭く追い込み、前走で屈したボクソーン(3着)に1馬身半差で先着するも、勝ったサイキックビッドに及ばず2馬身差の2着だった。ホープフルS(D6.5F)では追い込みが不発に終わり、勝ったサイキックビッドから7馬身差の4着に敗れた(2着が後のサンタアニタHでシービスケットを2着に破って勝つローズモント、3着が後に2年連続で米最優秀ハンデ牝馬に選ばれるエスポサだった)。

それから5日後のシャンペンS(D6.5F)では直線で鋭く伸びたが、勝ったバラディアに僅かに届かずに鼻差2着に惜敗した。しかしバラディアの勝ちタイム1分16秒6はコースレコードであり、本馬の走破タイムも同じだったため、これが本馬の2歳時における最高のレースだったとされている。しかしベルモントフューチュリティS(D6.5F)では、グランドユニオンSの勝ち馬チャンスサンの前にバラディア共々屈して、バラディアは2着、本馬はチャンスサンから5馬身差の4着に敗北した。次走のジュニアチャンピオンS(D8F)では直線で素晴らしい末脚を繰り出すも、セーラービウェアに頭差届かず2着までだった(ただし、セーラービウェアの勝ちタイム1分36秒6はコースレコードだった)。結局2歳時は9戦して1勝しか出来なかった本馬だが、冬場の間に急激に筋肉がつき始め、本格化を思わせた。

競走生活(3歳時)

3歳時は4月にジャマイカ競馬場で行われたダート8ハロン70ヤードの一般競走から始動して2着ブラックギフトに2馬身差で勝利し、ようやく2勝目を挙げた。なお、このレースからしばらく本馬の主戦は加国出身のスモーキー・サウンダーズ騎手が務める事になる。5日後のウッドメモリアルS(D8F70Y)では「暴走機関車のように」追い込んだが、トゥデイとプラットアイの2頭に届かず、勝ったトゥデイから2馬身差の3着に敗退。

しかし次走のケンタッキーダービー(D10F)では前走の末脚が印象的だったのか、プリークネスSを制した名牝ネリーモスの娘で、メイトロンS・セリマS・ケンタッキージョッキークラブSを勝って前年の米最優秀2歳牝馬に選ばれたネリーフラッグ(日本の名牝ベガの6代母でもある)に次ぐ2番人気での出走となった。他の出走馬は、サラトガスペシャルSで本馬を破ったボクソーン、フロリダダービー3着馬ローマンソルジャー、サンフォードSとホープフルSで本馬を破っていたサイキックビッド、それにトゥデイ、プラットアイなどだった。レースは冷たい雨が降りしきる中で行われたが、それでも5万人の観衆がチャーチルダウンズ競馬場に詰め掛けていた。本馬はやはり後方からレースを進めたが、向こう正面で外側から進出して早々に先頭に立つと、鞍上のサウンダーズ騎手が鞭を使う必要も無く、2着ローマンソルジャーに1馬身半差で優勝した。ネリーフラッグは道中で進路を失い4着に敗れた。

1週間後のプリークネスS(D9.5F)では圧倒的1番人気に支持された。ピムリコ競馬場には当時史上最多となる4万人の観衆が詰め掛けた。やはり後方からレースを進めた本馬は、三角に入る頃に逃げるブラノンをかわして先頭に立つと、ゴール前では流す余裕を見せて、2着ファイアソーンに6馬身差、3着サイキックビッドにはさらに6馬身差をつけて圧勝した。レース後のセレモニーで本馬はじっとしておらず、薔薇の花輪を周囲に撒き散らしたため、サウンダーズ騎手が慌てて花輪を拾い集める羽目になったという。

2週間後のウィザーズS(D8F)では単勝オッズ1.5倍という断然の1番人気となったが、ローズモントを捕まえられずに1馬身半差の2着に敗れた。それでも次走のベルモントS(D12F)では単勝オッズ1.7倍の1番人気に支持された。不良馬場で行われたレースでは、逃げるコールドショルダーを直線でファイアソーンがかわして先頭に立ったのも束の間、スタート直後は最後方にいた本馬がファイアソーンに並びかけて叩き合いに持ち込んだ。そして本馬が競り合いを制し、2着ファイアソーンに1馬身半差、3着ローズモントにはさらに8馬身差をつけて優勝。1919年のサーバートン、1930年の父ギャラントフォックスに続く3年ぶり史上3頭目の米国三冠馬の名誉を手にした。

ベルモントSの2週間後には初の古馬相手のレースとなるブルックリンH(D9F)に出走。しかしこのレースから鞍上がサウンダーズ騎手からウェイン・ライト騎手に代わった事が影響したのか、2着キングサクソン(メトロポリタンH・カーターH・エクセルシオールH・クイーンズカウンティHなどの勝ち馬)に8馬身差をつけるレコード勝ちを収めた、前年のブルックリンH・ホイットニーSの勝ち馬である4歳馬ディスカヴァリーから10馬身差の3着に敗れた。

しかし1週間後のドワイヤーS(D9F)では、エイコーンS勝ち馬でCCAオークス3着のグッドギャンブルを1馬身半差の2着に抑えて勝利を収めた。勝ちタイム1分49秒2は、15年前の同競走でマンノウォーがジョンピーグリアとの激戦を制して樹立したコースレコードと同タイムだった。

次走のアーリントンクラシックS(D10F)では、ネリーフラッグなどを破って牝馬として51年ぶりにアメリカンダービーを制したフロリダダービー・CCAオークス勝ち馬ブラックヘレンとの同世代牡牝最強馬対決となったが、本馬が単勝オッズ1.4倍の1番人気に支持された。レースでは4万人の観衆の眼前で、サンボウが保持していたコースレコードを更新する2分01秒4で駆け抜けた本馬が、2着となったバッシュフォードマナーS勝ち馬セントバーナードに1馬身半差で勝利した。ブラックヘレンが4着に終わったため、これで名実ともに本馬が世代最強馬としての地位を確立した。

その後はサラトガ競馬場における調教中に原因不明の跛行を発症したために休養入りし、この年の出走はアーリントンクラシックSが最後となった。3歳時は米国三冠制覇を含む9戦6勝の成績を残したが、米年度代表馬の座は19戦11勝の成績を残したディスカヴァリーに奪われてしまい、米最優秀3歳牡馬のタイトルを得るに留まった。米国三冠を達成した馬が同年の米年度代表馬になれなかったのは後にも先にも本馬の例があるのみである。

競走生活(4歳時)

4歳になった本馬は1月に英国セシル・ボイド・ロックフォート厩舎に転厩して渡英した。その主な目的は1882年のフォックスホール以来となる米国産馬によるアスコット金杯制覇であった。本馬が渡英する際に、かつてプリークネスSとベルモントSで本馬に敗れたファイアソーンの陣営は「偉大なるオマハよ、必ず英国馬に勝ってください。そうすれば私は貴方の不在を埋める活躍を見せましょう」という手紙を本馬陣営に送ったという(後にファイアソーンはサバーバンHやジョッキークラブ金杯などを勝ち、言葉通りの活躍を見せた)。英国に到着した本馬の優れた馬体と整った顔立ちは英国の競馬関係者からも賞賛されたという。

英国初戦は5月にケンプトンパーク競走場で行われたヴィクターワイルドS(T12F)となった。初の芝競走、初の右回り、鞍上は初コンビのパット・ビーズリー騎手、斤量も129ポンドと不利な条件が重なっていたが、残り4ハロン地点を過ぎた辺りからスパートして、2着モントローズに1馬身半差で快勝した。

4週間後のクイーンズプレート(T16F)では130ポンドが課せられたが、それでも直線で先頭に立ち、後方から来たボブスレー(英国三冠馬ゲインズボローと英オークス馬トボガンの間に産まれた良血馬)の追撃を首差抑えて勝利した。

次走は最大の目標だったアスコット金杯(T20F)となり、単勝オッズ2.375倍の1番人気に支持された。単勝オッズ4倍の2番人気が前年の英オークス・ジョッキークラブCを制したクワッシュドで、この年もオーモンドSを勝っており、本馬にとって最大の強敵と目されていた。アスコット競馬場には15万人という大観衆が詰め掛けた。さすがの本馬も過去に経験した事が無い観衆の多さに動揺が隠せず、焦れ込んで多量に発汗しており、レース前から騎乗したビーズリー騎手はしばしば本馬から下馬せざるを得ない状態に陥っていた。スタートが切られるとビーズリー騎手は本馬を抑え気味に進め、少しずつ位置取りを上げて残り2ハロン地点でクワッシュドに並びかけた。ここからこの2頭のマッチレースとなり、他馬は全て圏外に去った。残り1ハロン地点で本馬がいったん前に出たが、ゴール前でクワッシュドが猛然と差し返し、最後は本馬が短頭差屈して2着に敗れた(3着に入った前年のロワイヤルオーク賞勝ち馬ボクブルはさらに5馬身後方だった)。

しかしこのレースにおける本馬とクワッシュドの大激闘は世界競馬史上(「英国競馬史上」ではなく「世界競馬史上」である)においても屈指の名勝負であるとされており、大多数の人は勝利した米国三冠競走を差し置いて、負けてしまったこのアスコット金杯が本馬のベストレースであると考えているそうである。どちらかと言えば他国を見下すところがある英国の競馬ファンも、本馬の走りには賞賛の嵐を送ったという。繰り返しになるがこのレースは史上最も優れた名勝負の一つであると評されており、英オブザーヴァー紙の競馬作家になったジャック・リーチ元騎手は「あのアスコット金杯におけるクワッシュドとオマハの激戦を見るためであれば、人生のうち数年間と引き換えにしても構わなかった」と記しているし、2002年に英オブザーヴァー紙のショーン・マギー氏が選出した「競馬史上最も素晴らしかった競走ベスト10」においては、グランディバスティノが激闘を演じた1975年のキングジョージⅥ世&クイーンエリザベスDSを抑えて堂々の第1位に選出されている(ちなみに3位以下は順に、アークルミルハウスを初めて破った1964年のチェルトナム金杯、セクレタリアトが31馬身差で圧勝した1973年のベルモントS、マンダリンが前脚を故障しながら三本脚で勝利した1962年のパリ大障害、アードパトリックセプターロックサンドを破った1903年のエクリプスS、アファームドアリダーが激闘を演じた1978年のベルモントS、モンクスフィールドとシーピジョンが激闘を演じた1979年の英チャンピオンハードル、バヤコアゴーフォーワンドのマッチレースの様相を呈した1990年のBCディスタフ、レッドラムがクリスプとの30馬身差を覆して勝利した1973年の英グランドナショナル)。

続くプリンセスオブウェールズS(T12F)では138ポンドが課せられながらも、18ポンドのハンデを与えたタジアクバー(この年の英ダービーでマームードの2着していた)の首差2着と好走した。4歳時の成績は4戦2勝2着2回だった。

翌年もアスコット金杯制覇を目指して競走馬生活を続行したが、本番直前に左前脚の腱を故障したために5歳時はレースに出る事なく競走馬引退となった。本馬は血統表の一部に英国血統以外の血筋が入っており、当時のジャージー規則に従って半血系とみなされたため、英国で種牡馬入りすることはできずに競走馬引退後は米国に戻っていった。ちなみに本馬が競走馬を引退した翌1938年に、本馬の全弟フレアズが、兄が果たせなかったアスコット金杯制覇を見事に成し遂げている。

馬名は米国ネブラスカ州最大の都市オマハ市に由来するが、本馬の直系先祖であるベンドアオーモンド親子の名前からの連想も入っているという。本馬は12頭いる米国三冠馬の中で唯一欧州でも出走した馬であり、米国三冠馬の実力は欧州のトップクラスに混じっても遜色ない事を証明した馬であると言える。

血統

Gallant Fox Sir Gallahad Teddy Ajax Flying Fox
Amie
Rondeau Bay Ronald
Doremi
Plucky Liege Spearmint Carbine
Maid of the Mint
Concertina St. Simon
Comic Song
Marguerite Celt Commando Domino
Emma C.
Maid of Erin Amphion
Mavourneen
Fairy Ray Radium Bend Or
Taia
Seraph St. Frusquin
St. Marina
Flambino Wrack Robert le Diable Ayrshire Hampton
Atalanta
Rose Bay Melton
Rose of Lancaster
Samphire Isinglass Isonomy
Dead Lock
Chelandry Goldfinch
Illuminata
Flambette Durbar Rabelais St. Simon
Satirical
Armenia Meddler
Urania
La Flambee Ajax Flying Fox
Amie
Medeah Masque
Lygie

ギャラントフォックスは1930年の米国三冠馬で、詳細は当馬の項を参照。本馬は米国三冠馬から誕生した史上唯一の米国三冠馬である。これは世界的にも極めて稀なケースで、筆者の知る限りでは(国が異なるけれども)米国三冠馬アファームドが加国三冠馬ピートスキを出したのと、日本の中央競馬牡馬三冠馬ディープインパクトが中央競馬牝馬三冠馬ジェンティルドンナを出したくらいしか例がない。

母フランビーノは現役成績9戦4勝、ガゼルHの勝ち馬で、ベルモントSやCCAオークスでも3着に入った実力馬だった。繁殖牝馬としても非常に優秀で、本馬の半姉フリーム(父ジェネラルリー)【エイコーンS】、全弟フレアズ【アスコット金杯・英チャンピオンS・プリンセスオブウェールズS】を産んでいる。フリームの牝系子孫は現在も残っており、デヴィルズオーキッド【サンタモニカH(米GⅠ)】、ファイヴァラブルタームズ【ナッソーS(英GⅠ)】、トゥラルア【ウッドバインマイル(加GⅠ)】が出るなど近年も活躍馬が登場している。

フランビーノの母フランベッティもCCAオークスを勝った名牝。フランビーノの半妹ラフランス(父サーギャラハッド)の子には1937年の米最優秀2歳牝馬ジャコラ【セリマS】と米国顕彰馬ジョンズタウン【ケンタッキーダービー・ベルモントS・ブリーダーズフューチュリティS・ウッドメモリアルS・ウィザーズS・ドワイヤーS】、孫には1947年の米最優秀3歳牡馬ファランクス【ベルモントS・ウッドメモリアルS・ドワイヤーS・ジョッキークラブ金杯】が、ラフランスの全妹ギャレットの子には米国競馬史上に名を残す名牝ギャロレット【ピムリコオークス・エイコーンS・メトロポリタンH・ブルックリンH・ベルデイムH・クイーンズカウンティH・カーターH・ホイットニーS】がいる。→牝系:F17号族

母父ラックはニューベリースプリングCを2度勝った程度の競走馬だったが、種牡馬としては1920年の米最優秀2歳牝馬ケアフル、サバーバンH・メトロポリタンHの勝ち馬ペティーラック、ブルックリンH・トラヴァースSの勝ち馬リトルチーフ、ブルックリンHの勝ち馬シングルフット、ピムリコフューチュリティの勝ち馬フェアスターなどを出して成功を収め、供用先であるクレイボーンファームの屋台骨を支えた。繁殖牝馬の父としても本馬の活躍により1935年の北米母父首位種牡馬に輝いた。ラックの父ロベールルディアブルはエアシャー産駒で、ドンカスターC・シティ&サバーバンH・デュークオブヨークSなどの勝ち馬。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は、生まれ故郷でもあるクレイボーンファームで種牡馬入りした。しかしあまり活躍馬を出せなかったため、11歳時に米国ジョッキークラブがニューヨーク州に所有する種牡馬飼育場にリースされた。18歳時にはネブラスカ州に移り、本馬の馬名の由来となったオマハ市から72km南にあるネブラスカシティ近郊の牧場に移動した。その後はオマハ市にあるアクサーベン競馬場の勝ち馬表彰式に参列するなどして余生を過ごした。1959年4月に27歳で他界し、遺体はアクサーベン競馬場に埋葬された。「サルヴェイター」の筆名で知られたデイリーレーシングフォーム社の名物競馬作家ジョン・ハーヴェイ氏は「あれほど力強く正確なストライドで走る馬は滅多にいるものではなく、それは荘厳な光景でした。彼は間違いなく米国競馬史上の巨人の1頭でした」と追悼の記事を書いている。1965年に米国競馬の殿堂入りを果たした。米ブラッドホース誌が企画した20世紀米国名馬100選で第61位。

ステークスウイナーは僅か7頭しか出せず、種牡馬としては不成功だった本馬だが、娘のフレーミングトップがニジンスキーの曾祖母となったことにより、後世に影響力を保っている。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1943

Prevaricator

ビングクロスビーH・サンディエゴH2回

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