レッドラム
和名:レッドラム |
英名:Red Rum |
1965年生 |
騙 |
鹿毛 |
父:クオラム |
母:マレッド |
母父:マジックレッド |
||
英グランドナショナルに5回参戦して3勝2着2回の成績を残し、競馬に興味が無い人も含めた英国民の間で最高の認知度を得た英国競馬界最高のスーパーアイドル |
||||
競走成績:2~13歳時に英で走り通算成績110戦27勝2着15回3着22回(うち障害100戦24勝2着14回3着20回) |
英国マージーサイド州リヴァプール市にあるエイントリー競馬場で行われる“Grand National(英グランドナショナル)”は世界で最も過酷な障害競走として日本でもよく知られている。距離36ハロン(4マイル半)で実施され、合計16個の障害を延べ30回飛越する。レースの人気は英国競馬界最高で、英ダービーより売上は多い。賞金は障害競走としては世界最高額(2015年現在は賞金総額100万ポンドで、優勝賞金は56万1300ポンド。1ポンドを180円として計算すると賞金総額1億8000万円、優勝賞金1億103万4千円で、中山大障害や中山グランドジャンプより多い)で、世界中から名障害競走馬達が毎年集い、大抵はフルゲート40頭となる。勝てば世界一の障害競走馬という名誉が得られるのである。
しかし、障害は最高2メートル以上と高く、しかも落馬しやすい形態の障害が多く、完走馬が一桁になる事も珍しくないという超難関コースである。「馬の勇気の究極の試験」とも評され、命を落とす馬も多いことから動物愛護団体から頻繁に非難される悪名高いレースでもある。また、このレースはハンデ戦で、一度勝った馬には次回から過酷な斤量が課せられるため、2度目の優勝は極めて困難である。そんな英グランドナショナルを唯一3度優勝したのが本馬である。
誕生からデビュー前まで
1965年5月3日午後6時頃、愛国キルケニー州ロッセナラスタッドにおいてマーティン・マッケネリー氏により生産された。平均的な馬体の持ち主であり、マッケネリー氏は期待以上の出来であると喜んだという。しかし1歳6月にダブリンで実施されたセリに出品された際には、非常に歩様が硬くて評価が上がらなかった。結局はモーリス・キングスレイ氏の代理人ティム・モロニー調教師によって400ギニーという安値で購入され、マッケネリー氏はがっかりしたという。
本馬の所有者となったキングスレイ氏は、1952~54年の英チャンピオンハードルを所有馬サーケンで3連覇した人物で、本馬の管理調教師となったモロニー師はかつて騎手としてそのサーケンによる3勝を含めて英チャンピオンハードルを1951年~54年に4連覇した人物だった。しかし本馬は当初から障害競走に向かったわけではなく、最初は平地競走に向かった。なお、キングスレイ氏の名前が本馬の資料に出てくるのはここまでで、以降はモロニー師の名前しか出てこないから、事実上はモロニー師が本馬の所有者だったと考えて良さそうである。
競走生活(平地競走時代)
2歳4月にエイントリー競馬場で行われた芝5ハロンの未勝利プレートでデビューして、牝馬カーリキューと同着ながら勝利。本馬が英グランドナショナルを実施するエイントリー競馬場でデビュー戦を飾ったというのは「偉大な偶然」であると評されている。ちなみにこのデビュー戦は売却競走だったが、モロニー師が本馬を売却競走に出した理由は別に本馬を軽んじていたからではなく、モロニー師は他の馬主との賭けを楽しむタイプの人物だったからである。そのためこの売却競走で本馬に買い手がついてしまうと、慌てたモロニー師は300ギニーを支払って、本馬を買い戻す羽目になった。
同月にはジュヴェナイルS(T5F)に出たが、キャプティヴェイテッドの7着に敗退。3戦目となった6月のティーズサイドパーク競馬場芝6ハロンの一般競走は、レッドピクシーの9着だった。続くアンガートンS(T6F)では、マウントアトスの3着。8月にはウォーウィック競馬場芝7ハロンのハンデ競走を勝利した。しかし次走のヨーク競馬場芝7ハロンのハンデ競走では、アニシードの8着と大敗。ポンターフラクト競馬場芝8ハロンのハンデ競走では、レスター・ピゴット騎手を鞍上に迎えたが、スターダオの3着に敗退。レスター競馬場芝8ハロンのハンデ競走でもクーンビームの4着に敗れ、9月を最後に休養入り。2歳時は8戦2勝の成績だった。
3歳時は3月にドンカスター競馬場で行われた芝7ハロンのハンデ競走から始動して勝利。このレースも売却競走であり、買い手がついた本馬をモロニー師は買い戻すことになったが、金額が予想以上に高かったために知人のルーライン・ブラザートン夫人の援助を受けて買い戻した。こうして本馬はモロニー氏とブラザートン夫人の共同所有馬となり、本馬をブラザートン夫人に薦めたボビー・レントン調教師の管理馬となった。
続いてエイントリー競馬場で行われたアールオブセフトンS(T8F)に、2度目の騎乗となるピゴット騎手と共に出走してアランズペットの2着となったが、このレースを最後に平地競走に別れを告げて障害競走に転向した。新たに共同所有者となったブラザートン夫人が、馬主として1950年の英グランドナショナルをフリーブーターで勝利した人物だったため、おそらく彼女の口添えによる転向だったと思われる。
競走生活(68/69シーズン):ハードル分野を走る
もっとも、最初に向かったのは英グランドナショナルが属するスティープルチェイス分野ではなく、障害競走の中でもスピードを活かせるハードル分野のほうだった。
ハードルデビュー戦は9月にチェルトナム競馬場で行われた距離16ハロン200ヤードの障害未勝利戦で、ここではアカストゥスの2着だった。10月にはマーケットラセン競馬場でハイントンハードル(16F)に出たが、フランコファイルの4着。11月にはノッティンガム競馬場でメリットハードル(16F)に出たが、ソロニングの3着。さらに4日後にドンカスター競馬場で出たプラネットノービスハードル(16F150Y)では、コーラルダイヴァーの3着に敗れた。この年の出走はこれが最後で、3歳時の成績は平地で2戦1勝、障害で4戦未勝利だった。なお、英国の障害競走は平地競走とは異なり、秋から翌春にかけてが1つのシーズンとなっているので、本馬に関しても今後「〇歳時の成績は~」ではなく「〇/△シーズンの成績は~」という表現を用いることにする。
年が変わって4歳になった1969年は、まず3月にウェザービー競馬場で行われたヘアウッドハードル(16F)に出走したが、レアコメディの6着に敗退。しかし同月にエイントリー競馬場で出たランカシャーハードル(16F100Y)では、クレバースコットの2着に食い込んだ。そして4月にウェザービー競馬場で出たビルトンハードル(16F)で、記念すべき障害初勝利を挙げた。さらに8日後にはノッティンガム競馬場でブラッドモアHハードル(16F)も勝利。さらに10日後にはティーズサイドパーク競馬場でティーズサイドセレブレーションハードル(16F176Y)も勝利して、4月だけで3戦3勝となった。5月にはエアー競馬場でオーチャードトンHハードル(16F)に出たが、ここではペイドフォーの8着と敗退し、1968/69シーズンの成績は10戦3勝2着2回3着2回(3歳時の障害競走4戦未勝利を含む)となった。この時期にレントン師が高齢を理由に調教師を引退したため、本馬はアンソニー・ギラム調教師の管理馬となった。
競走生活(69/70シーズン)
1969/70シーズンは、9月にチェルトナム競馬場で行われたアンドーバーズフォードHハードル(16F200Y)から始動した。鞍上はギラム師の友人トミー・スタック騎手だった。しかし結果はドゥネラの8着に敗退。後に本馬が3度目の英グランドナショナル制覇を果たした際に鞍上にいたスタック騎手とのコンビ初戦を飾ることは出来なかったが、それでもスタック騎手はしばらく本馬の主戦を務める事になった。
しかし10月にドンカスター競馬場で出たタウンフィールドHハードル(16F150Y)も、ドゥネラの7着に敗れた。11月にウェザービー競馬場で出たタドカスターHハードル(16F)もジャモエの8着に敗退。同月にドンカスター競馬場で出たドーマードリルHハードル(16F150Y)では、レアコメディの6着に敗退。12月にカテリック競馬場で出たディックウィッティントンHハードル(16F)では、アットイーズの2着と何とか格好をつけた。
年明け1月にウェザービー競馬場で出たトックウィズHハードル(20F)では、ヴルメガンの3着。しかし僅か3日後にドンカスター競馬場で出たジャニュアリーHハードル(20F)では、落馬競走中止(勝ち馬パームビーチ)。2月にウェザービー競馬場で出たビショップソープHハードル(20F)では、スーパーマスターの6着に敗退。3月にティーズサイドパーク競馬場で出たロングドッグHハードル(21F104Y)ではティーリングの5着。それから5日後にチェルトナム競馬場で出たジョージデューラーHハードル(24F)では、2度目の落馬競走中止(勝ち馬ヴルメガン)。4月にチェルトナム競馬場で出たロナルドロイズHハードル(20F)では、アイリッシュスペシャルの6着に敗れた。同月にパース競馬場で出たパースシャードラッグハントHハードル(24F)では、タビックスの2着だった。5月にウェザービー競馬場で出たチャーチフェントンHハードル(16F)では道中でスタック騎手が落馬してしまい、再騎乗して完走したが敗れた(勝ち馬プラウドストーン)。なお、本馬の基礎資料でこのレースにおける本馬の着順には“Fell 2nd last”と記載されている。“2nd last”は英語で「下から2番目」、和製英語では「ブービー」の意味であるから、このレースで本馬が何番目にゴールしたのかは不明である。
それはさておき、同月にはエアー競馬場でミルシントンHハードル(24F)に出たが、インディアンスタイルの5着に敗退。69/70シーズンは14戦未勝利2着2回3着1回という冴えない結果に終わってしまった。
競走生活(70/71シーズン):チェイス分野へ転向
1970/71シーズンからは24戦3勝の成績を残してハードル分野に別れを告げ、スピードよりも飛越力とスタミナを活かせるスティープルチェイス分野に転向した。チェイス初戦は10月にニューカッスル競馬場で行われたヴィットリアノービスチェイス(16F120Y)だったが、ここではロイヤルエデンの3着に敗れた。しかし11月にドンカスター競馬場で出たタウンムーアノービスハードル(16F150Y)でチェイス初勝利を挙げた。続いてチェルトナム競馬場でボローチェイス(16F)に出て、ジャベグの3着。それから1週間後にウェザービー競馬場で出たWD&HOウィルズプレミアチェイス(20F)では、フーパーレイドの3着。12月にセッジフィールド競馬場で出たホープインチェイス(16F250Y)でチェイス2勝目。同月にウェザービー競馬場で出たローランドメイリックHチェイス(24F100Y)では、エクセスの3着。年明け2月にエアー競馬場で出たガーヴァンHチェイス(20F)でチェイス3勝目を挙げた。
しかしさすがにそろそろ疲れが出たのか、8日後にニューベリー競馬場で出たコンプトンチェイス(24F)では、ラッキーエッジャーの4着とチェイス転向後初の着外。8日後にティーズサイドパーク競馬場で出たファセイロムフォードHチェイス(24F31Y)は、スーパーマスターの3着に敗れた。その後は3月にチェルトナム競馬場でマイルドメイオブフリートチャレンジカップHチェイス(20F)に出たが、ハウンドトールの4着に敗退。4月にウェザービー競馬場で出たクロスレイHチェイス(20F)では、クリアーカットの3着。5月にウェザービー競馬場で出たライトンHチェイス(24F100Y)は、アヴォンデュエットの5着。同月にパース競馬場で出たスピタルフィールドHチェイス(20F)はミスターオーウェンの3着に敗れ、70/71シーズンの成績は13戦3勝3着7回となった。勝ち星は今ひとつ伸びなかったが、ハードル分野よりは着外が少なく、確かに本馬にはスティープルチェイス分野のほうが向いていそうだった。
競走生活(71/72シーズン)
1971/72シーズンは10月にサウスウェル競馬場で行われたカーネルRトンプソン記念Hチェイス(24F110Y)から始動したが、ノムドゲールの4着に敗れた。同月にケルソ競馬場で出たアンソニーマーシャルトロフィーHチェイス(24F)では、レッドスウィーニーの5着に敗退。11月にニューカッスル競馬場で出たジョンユースタススミストロフィーHチェイス(24F)では、スレイヴズドリームの2着と好走。12月にヘイドックパーク競馬場で出たサンデューHチェイス(24F)ではレッドスウィーニーの5着だったが、その10日後にカテリック競馬場で出たチャールズヴィッカリー記念カップHチェイス(24F300Y)では勝利を収め、10戦ぶりの勝ち星を挙げた。
これに味を占めたのかしばらくカテリック競馬場に留まり、年末のデンビーHチェイス(24F300Y)に出てフォーチュンベイの3着。年明け元日に出たゼトランドチェイス(24F300Y)は勝利した。しかし脚を痛がったために一間隔を空けて3月に出走したバスビーHチェイス(24F300Y)では、落馬競走中止(勝ち馬ベストビュー)。ここで本馬はカテリック競馬場を去り、ノッティンガム競馬場でトレントHチェイス(22F)に出て、ノムドゲールの3着。4月にウェザービー競馬場で出たウェザービーHチェイス(24F100Y)は、バリーセージャートの3着。同月にエアー競馬場でスコティッシュグランドナショナルHチェイス(32F120Y)に出たが、クイックリプライの5着。さらに同月にはマーケットラセン競馬場でシャンペンHチェイス(24F)に出たが、レインボーパッチの4着。71/72シーズンは12戦2勝2着1回3着3回の成績に終わった。
所有者と調教師が変わる:海水調教
この時期の本馬は、デビュー当初から患っていた持病の骨膜炎がかなり悪化していた。骨膜炎は日本競馬界で言うところの「ソエ」であり、若馬が罹りやすいが年を取って骨が固まってくると自然に解消されるものである。しかし本馬の症状は慢性化していたようである。先に出たスコティッシュグランドナショナルHチェイスでもレース中に脚に痛みが走り、ゴール前では何度も手前を変えるという走り方だった。モロニー氏とブラザートン夫人は本馬の障害適性は認めており、英グランドナショナル出走も視野に入れていたのだが、度重なる理学療法が効果を示さなかったために、引退も考慮するようになった。そして普通に引退させるよりはと、2人は本馬をドンカスター8月セールで売ることを試みた(ギラム師はこの売却に反対していた)。
さてこの頃、英国のタクシー業者でジンジャー・マケイン氏という人物がいた。1930年産まれのマケイン氏は8歳で英グランドナショナルを観戦して夢中となり、23歳で開業してタクシー業者と調教師を兼任するようになったが、経営不振に陥ったタクシー業に専念するため一時的に調教師を辞めていた。しかし本業の経営が改善すると再度英グランドナショナル制覇への情熱が出てきた。
ある日、彼が運転するタクシーに、ランカシャー州の建設技術者で当時84歳のノエル・ル・マーレ氏という人物が乗った。マーレ氏には3つの夢があり、その1つは億万長者になる事、1つは美しい女性と結婚する事、1つは馬主として英グランドナショナルに勝つ事だった。前の2つはとうの昔に叶っていたが、この年になって最後の1つが叶うと本気で思っていたかどうかは定かではない。いずれも競馬好きだったマケイン氏とマーレ氏は運転中の会話が弾んで意気投合したらしく、マーレ氏はマケイン氏のために馬を買う約束をした。
その後にドンカスター8月セールに出向いたマケイン氏は、このセリに出品されていた本馬に目をつけた。本馬の売却に反対していたギラム師は3~5千ギニーの金額であれば自分が買い戻すつもりで資金を用意していた。しかし過去に1千ギニー以上の馬を勝った経験が無かったマケイン氏はマーレ氏の援助を受けて資金が潤沢であり、本馬に6千ギニーの金額を提示。ギラム師は本馬を買い戻す事が出来ず、本馬はマーレ氏の所有馬、マケイン師の管理馬となった。
マケイン師は地元であるマージーサイド州の港町サウスポートの砂浜に本馬を連れ出し、海水に本馬の脚を浸しながら訓練することで弱っていた脚を鍛えた。この海水訓練法は本馬を語る海外の資料ではほぼ間違いなく紹介されている有名なものであり、証拠写真もたくさん残っているが、果たして本当に効果があったのだろうか。本馬以外の馬が海水で骨膜炎を治したという話はまったく聞かない(そもそも他に試した人はいるのだろうか。海岸で調教を受けたのは本馬くらいだと英国の資料に書かれている)し、効き目についてはおそらく科学的に立証されていないはずである。本馬が患っていたのは骨膜炎というよりも、脚を衰弱させる何らかの別の病気であり、海水に含まれる成分がその病気に有効だったのだとも言われているが、実際のところはよく分からない。いずれにしてもこの海水訓練法が功を奏して脚部不安が劇的に改善し、本馬の成績は安定するようになったのだと一般的には言われている。
競走生活(72/73シーズン):英グランドナショナル1勝目
さて、1972/73シーズンは9月にカーライル競馬場で行われたウィンダーメアHチェイス(24F)から始動して勝利。ここから本馬は快進撃を始める。10月にはウェザービー競馬場でゴールデンフォスターHチェイス(24F100Y)に出て勝利。同月にはニューカッスル競馬場でサラマンカHチェイス(24F)に出てまたまた勝利。11月にはヘイドックパーク競馬場でサウスポートHチェイス(24F)に出てこれまた勝利。同月にはエアー競馬場でモシュリンヌHチェイス(27F40Y)に出走。このレースから、スタック騎手からブライアン・フレッチャー騎手に主戦が交代となった。そして新コンビ初戦も勝利を収め、破竹の5連勝とした。
年明け1月にカーライル競馬場で出たカンバーランドグランドナショナルHチェイス(24F)では、バウンティフルチャールズの3着。2月にヘイドックパーク競馬場で出たヘイドックパークグランドナショナルトライアルHチェイス(28F)は、ハイランドシールの2着。3月3日にヘイドックパーク競馬場で出たグリーンオールホイートリーHチェイス(24F)はトレガロンの4着と、年明けは3連敗スタートだったが、この3戦は来るべき本番に向けての試金石に過ぎなかった。
次走はいよいよ3月31日の英グランドナショナル(36F)となったのである。168ポンドのトップハンデを背負った豪州出身馬クリスプ(母国では“The Black Kangaroo”の愛称で親しまれた障害競走の名馬で、英国移籍後も圧勝の連続だった。後に豪州競馬の殿堂入りも果たしている)が単勝オッズ10倍の1番人気となっていたが、145ポンドの本馬も、1968年の同競走でレッドアリゲーターに騎乗して優勝した経験があるフレッチャー騎手を鞍上に、同じく単勝オッズ10倍の1番人気に支持されていた。そしてチェルトナム金杯を2連覇していた愛国調教馬レスカルゴ(基本的には欧州で走っていたが稀に米国でも走っており、1969年には米最優秀障害競走馬にも選出されていた)がやはり168ポンドのトップハンデで単勝オッズ12倍の3番人気だった。
レースではクリスプが快調に先頭を走り続け、大きく離された2番手集団にいた本馬はクリスプから最大で30馬身差をつけられた。しかし最後から2番目の障害の前あたりから一気に本馬はクリスプとの差を縮め始めた。それでもクリスプが最終障害を無事に飛越した時点でまだ本馬との差は15馬身差ほどあり、誰の目にもクリスプの勝利は確実であるように映った。しかしやはり最終障害を無事に飛越した本馬は豊富なスタミナに物を言わせて、既にスタミナが切れてふらふらになりながら走るクリスプをどんとん追い詰めていった。そしてゴール直前でかわして3/4馬身差で優勝(3着レスカルゴはクリスプからさらに25馬身後方だった)。
勝ちタイム9分01秒9は、1934年にゴールデンミラーが計時した9分20秒4を39年ぶりに一挙18秒5も更新するレースレコードだった(このレコードは1990年にミスターフリスクが8分47秒8を樹立して更新され、その後も3頭が本馬より速いタイムで勝利したが、2015年現在でも歴代5位の好タイムである)。30馬身差を引っくり返したこのレースは英グランドナショナル史上最高の競走であると頻繁に言われる。
もっとも、この段階では勝った本馬を評価する声よりも23ポンド重い斤量を背負って負けたクリスプに対する同情のほうが大きく、「クリスプは英グランドナショナル史上最も不運な敗者である」と言われ、本馬はまるで悪役扱いだった。それでも72/73シーズンの成績は9戦6勝2着1回3着1回で、本馬にとって紛れも無く飛躍のシーズンとなった。
競走生活(73/74シーズン):英グランドナショナル2勝目
1973/74シーズンは9月にパース競馬場で行われたパースシャーチャレンジカップHチェイス(24F)から始動して、プラウドストーンの2着と無難にまとめた。僅か3日後には前シーズンの初戦だったウィンダーメアHチェイス(24F)に出走して勝利。次走は10月にエアー競馬場で行われたジョアンマッカイHチェイス(24F110Y)となり、これも勝利した。同月にはニューカッスル競馬場でジョンユースタススミストロフィーHチェイス(24F)に出走して勝利。11月にはドンカスター競馬場でドンカスターパターンチェイス(26F)に出たが、かつて英グランドナショナルで破ったクリスプに借りを返されて8馬身差の2着。ただしクリスプはこのレースで負傷したためにそのまま引退して、狩猟馬に転向した。
2週間後にはニューベリー競馬場でヘネシーコニャック金杯Hチェイス(26F82Y)に出て、レッドキャンドルの短頭差2着と堅実に走った。年明け2月にはカテリック競馬場でブレッタンビーチェイス(25F80Y)に出て勝利。3月2日にヘイドックパーク競馬場で出たグリーンオールホイートリーHチェイス(24F)は騎手が落馬して競走中止だった。
それでも予定どおり3月30日の英グランドナショナル(36F)に挑戦した。今回は本馬が168ポンドのトップハンデを背負う番だった。本馬の脚部不安を知っているファンは、トップハンデを背負わされた本馬の連覇に疑問を抱いた。そのため、かつての相棒スタック騎手騎乗のスカウトが140ポンドの斤量を評価されて単勝オッズ8倍の1番人気、前年は168ポンドを課せられて3着だったレスカルゴが今回は167ポンドの斤量で単勝オッズ9.5倍の2番人気、本馬が単勝オッズ12倍の3番人気だった。
しかしフレッチャー騎手が手綱を取る本馬はそんな不安を余所に、次々現れる障害を軽快に飛び越えながら先行した。本馬の前には複数の馬が走っており、飛越に失敗して落馬する馬もいたが、本馬はそれに巻き込まれないように上手な位置をキープし続けていた。障害が残すところあと10箇所となった辺りで本馬が先頭に立ち、そして障害が残り5つの辺りでレスカルゴを始めとする2番手集団との差を徐々に広げ始めた。それでもレスカルゴは諦めずに最後から2番目の障害の手前で本馬に迫ってきたが、この障害を飛越した辺りから本馬が再び差を広げにかかった。そして最後は2着レスカルゴに7馬身差をつけて優勝した。英グランドナショナルを連覇したのは、1851年のアブデルカデル、1870年のザカーネル、1919年のポエスリン、1936年のレイノルズタウン以来38年ぶり史上5頭目だった(ただしポエスリンの時は第一次世界大戦の影響でコースとレース名が変更されていた)。
前年はこれを最後に休養入りしたが、今年は翌4月にエアー競馬場でスコティッシュグランドナショナルHチェイス(32F120Y)に出走。167ポンドの斤量ながらも単勝オッズ2.375倍の1番人気に応えて勝利を収め、73/74シーズンの成績を10戦6勝2着3回とした。
競走生活(74/75シーズン)
1974/75シーズンは9月のパースシャーチャレンジカップ(24F)から始動して、サザンラッドの2着。10月にエアー競馬場で出たジョアンマッカイHチェイス(24F110Y)を勝利した。しかし1週間後にケンプトンパーク競馬場で出たカリスマレコーズHチェイス(28F)では、ラフハウスの8着と惨敗してしまった。11月にヘイドックパーク競馬場で出たサンデューチェイス(24F)では3着に敗れ、その後は調整のためしばらくレースには出なかった。
復帰したのは翌年2月のヘイドックパークナショナルトライアルHチェイス(28F)で、このレースを勝利した。3月1日のグリーンオールホイートリーHチェイス(24F)では、ザベニンビショップの4着。
そして4月5日の英グランドナショナル(36F)に史上初の3連覇をかけてフレッチャー騎手と共に出走した。本馬にはやはり168ポンドのトップハンデが課せられたがそれでも単勝オッズ4.5倍の1番人気に支持され、157ポンドのレスカルゴが単勝オッズ7.5倍の2番人気と続いた。今回はレース中盤で本馬やレスカルゴを含む複数の馬が抜け出して先頭集団を形成。基本的に本馬がレスカルゴの前を走っていたのだが、最後から4番目の障害を飛越した辺りでレスカルゴが本馬に並びかけて先頭を2頭が併走する形となった。そして2頭揃って最終障害を飛越して、直線の末脚勝負となった。しかしこうなると11ポンドの斤量差が確実に効いてしまい、レスカルゴが抜け出して本馬との差を広げていった。そしてレスカルゴが馬なりのまま直線独走して圧勝し、本馬は15馬身差をつけられて2着に終わった。
このレースは重馬場で行われており、堅い馬場と比べて斤量の影響が余計に大きくなったようである。ちなみにこの勝利が評価されたレスカルゴはこの2年後の1977年に米国競馬の殿堂入りを果たすことになる(レスカルゴが米国でも時々走っていたのは前述の通り)。そのため英タイムフォーム社の障害競走担当者フィル・ターナー氏は後に「レスカルゴの実力を考慮するとレッドラムは英グランドナショナルで4勝を挙げたに等しいです」と評した。
次走のスコティッシュグランドナショナルHチェイス(32F120Y)では、バロナの7着に大敗してしまい休養入り。74/75シーズンの成績は8戦2勝2着2回3着1回と今ひとつ振るわなかった。
競走生活(75/76シーズン)
1975/76シーズンは9月のウィンダーメアHチェイス(24F)から始動した。過去2回の出走ではいずれも勝利した験の良いレースだったが、メリディアンの3着に敗退。翌10月に出たジョアンマッカイHチェイス(24F110Y)も前年に勝利したレースだったが、今回はダッフルコートの4着に敗れた。その4日後にはヘイドックパーク競馬場でピーコックHチェイス(24F)に出たが、道中で脚を滑らせてフレッチャー騎手を落馬させてしまい競走中止(勝ち馬ロイヤルフリーリック)。
10月末に出たジョンユースタススミストロフィーHチェイス(24F)も、エヴァースウェルの3着に敗れた。このレース後にフレッチャー騎手は、もう以前のような良い馬ではなく英グランドナショナル3勝目は無理ですと記者に語ったが、それを耳にしたマケイン師は激怒してフレッチャー騎手を本馬から降ろしてしまった。そしてかつての主戦だったスタック騎手が鞍上に返り咲くことになった。ちなみに降ろされたフレッチャー騎手はそれで運から見放されたらしく、しばらくして事故で頭蓋骨骨折の重傷を負い、復帰は果たしたものの活躍できずに騎手引退に追い込まれてしまった。
さて一方の本馬は11月のヘネシーコニャック金杯(26F82Y)に出たが、アリルセヴンスの6着と完敗。4日後にヘイドックパーク競馬場で出たサンデューチェイス(24F)も、ブラの3着に終わった。絶不調の本馬だったが、それでも目指すは英グランドナショナル3度目の制覇のみ。翌年2月には御馴染みのヘイドックパークナショナルトライルHチェイス(28F)に出走して、フォレストキングの6着。3月6日に出た、これまた御馴染みのグリーンオールホイートリーHチェイスから少し名前が変わったグリーンオールホイートリーブルワリーズHチェイス(24F)は、ロイヤルフリーリックの5着。
調子は上がらなかったが、それでも4月3日の英グランドナショナル(36F)にスタック騎手と共に参戦した。斤量は前年より少しだけ下がって164ポンドだったがやはりトップハンデであり、単勝オッズ11倍の2番人気だった。前年のスコティッシュグランドナショナルHチェイスで本馬を破って勝ったバロナが146ポンドの軽量を評価されて単勝オッズ8倍の1番人気だった。レースでは常に先頭集団の前目につけ、最終障害を飛越した時点では先頭に立っていたが、本馬より12ポンド斤量が軽い152ポンドだった単勝オッズ15倍の7番人気馬ラグトレードに外側から一気にかわされてしまい、最後まで必死に追いかけるも2馬身届かず2着に敗れ、この年も3勝目は成らなかった。
その後はサンダウンパーク競馬場に向かい、ホイットブレッド金杯Hチェイス(29F118Y)に出たが、オッターウェイの5着に敗退。75/76シーズンは10戦未勝利2着1回3着3回と、チェイス転向後最悪のシーズンとなった。
競走生活(76/77シーズン):英グランドナショナル3勝目
競走馬としてのピークが既に過ぎているのは大半の人が認めるところであり、引退説も囁かれるようになった。本馬をひたすらレースに出し続けるマケイン師を非難する声も日増しに高まっていった。しかし陣営はそれでも英グランドナショナル3勝目への情熱を捨てずに現役続行を決定。
76/77シーズンは9月のウィンダーメアHチェイス(24F)から始動した。前年は負けてしまっていたが、この年は勝利を収め、前年のヘイドックパークナショナルトライアルHチェイス以来1年半ぶりの勝ち星を挙げ、連敗を13で止めた。
10月にはカリスマレコーズHチェイス(28F)に出たが、2年前に惨敗したこのレースは本馬にとって験が悪く、この年もアンディパンディの5着に敗れた。11月にはチェルトナムHチェイス(24F)に出走。このレースは本来チェルトナム競馬場で行われるのだが、この年はヘイドックパーク競馬場開催となっていた。結果はイーブンスウェルの3着だった。同月にはサラマンカHチェイス(24F)に出走して、ヤンワースの3着。12月にはサンデューチェイス(24F)に出て、ブラの3着。年明け2月にはヘイドックパーク競馬場で、ヘイドックパークナショナルトライルHチェイスから名前が変わったマルコムファッジナショナルトライルHチェイス(28F)に出走して、アンディパンディの6着。3月5日にはグリーンオールホイートリーブルワリーズHチェイス(24F)に出て、ジェネラルモーゼルの6着。
前年と同じく調子が上がってこないまま、4月3日に5度目の英グランドナショナル(36F)に出走する事になった。本馬の斤量は前年よりさらに少し下がっていたが、それでも162ポンドのトップハンデだった。147ポンドのアンディパンディが単勝オッズ8.5倍の1番人気に支持され、事前調教の動きがとても良かった本馬が単勝オッズ10倍の2番人気となっていた。レース前日の雨天から打って変わって快晴となった当日のエイントリー競馬場には過去最高の観衆が詰め掛けていた。
レースでは悪名高き最難関の第6障害ビーチャーズブルックなど早い段階の障害で落馬する馬が相次いだが、スタック騎手の手綱捌きにより本馬は上手くそれらを避けながら先行した。単独で先頭を走っていた1番人気のアンディパンディも2度目のビーチャーズブルックで飛越に失敗して落馬競走中止となってしまい、その直後から来た本馬が空馬のまま動き出したアンディパンディをひらりとかわして先頭に立った。そして軽快に残りの障害を飛越していき、後続との差を徐々に広げていった。本馬より22ポンドも軽い140ポンドの最軽量を活かして唯一本馬を追いかけてきたチャーチタウンボーイという馬も最後から2番目の障害で飛越に失敗し、落馬こそ免れたものの大きく失速してこの時点で本馬に追いつくことはほぼ不可能になった。そして本馬が最終障害を無事に飛越した瞬間に、エイントリー競馬場に詰め掛けた観衆達は大きく沸き立った。チャーチタウンボーイは2着を守るべく必死に走っていたが、馬なりのまま走る本馬との差はどんどん開いていった。そして本馬が2着チャーチタウンボーイに25馬身差という記録的大差をつけて完勝。
英グランドナショナル3度制覇という史上不滅の伝説的大記録が誕生したこの瞬間、スタック騎手は左手を大きく掲げ、満場の観衆は大声援で本馬とスタック騎手を迎えた。この勝利は競馬界における最も偉大な瞬間として一般的に認知されているほか、後の2002年に英国で実施された公共世論調査において、全時代・全スポーツを通じた最も素晴らしい瞬間100選のうち第24位にランクインしている。
次走のスコティッシュグランドナショナルHチェイス(32F120Y)では、セバスチャンの11着に惨敗。76/77シーズンの成績は9戦2勝3着2回だった。
競走生活(77/78シーズン):競走生活の終焉
1977/78シーズンも6度目の英グランドナショナル出走を目指して現役を続行。まずはすっかり御馴染みのウィンダーメアHチェイス(24F)から始動して2着。次走のゴードンフォスターHチェイスでも2着に入った。しかしWL&ヘクタークリスティ記念トロフィーでは4着に敗退して、その後はしばらく休養入り。年明け2月にマルコムファッジナショナルトライルHチェイス(28F)に出走して4着。そしてグリーンオールホイートリーブルワリーズHチェイス(24F)に出走したが惨敗。
それでも英グランドナショナルを目標とする事には変更が無かったが、レース前夜になって跛行を起こし、検査の結、脚の疲労骨折が判明したために英グランドナショナル出走を断念して、77/78シーズン5戦未勝利2着2回の成績で遂に競走馬引退となった。6度目の英グランドナショナル出走は叶わなかったが、その代わりにレース前パレードに参加して観衆を喜ばせたという(そのために翌年以降も本馬のパレード参加が定例化した)。
血統
Quorum | Vilmorin | Gold Bridge | Golden Boss | The Boss |
Golden Hen | ||||
Flying Diadem | Diadumenos | |||
Flying Bridge | ||||
Queen Of The Meadows | Fairway | Phalaris | ||
Scapa Flow | ||||
Queen Of The Blues | Bachelor's Double | |||
Blue Fairy | ||||
Akimbo | Bois Roussel | Vatout | Prince Chimay | |
Vashti | ||||
Plucky Liege | Spearmint | |||
Concertina | ||||
Bulolo | Noble Star | Hapsburg | ||
Hesper | ||||
Pussy Willow | Polymelus | |||
Willesha | ||||
Mared | Magic Red | Link Boy | Pharos | Phalaris |
Scapa Flow | ||||
Market Girl | Martagon | |||
Koster Girl | ||||
Infra Red | Ethnarch | The Tetrarch | ||
Karenza | ||||
Black Ray | Black Jester | |||
Lady Brilliant | ||||
Quinta | Anwar | Umidwar | Blandford | |
Uganda | ||||
Stafaralla | Solario | |||
Mirawala | ||||
Batika | Blenheim | Blandford | ||
Malva | ||||
Brise Bise | Buchan | |||
Panne |
父クオラムは現役成績18戦6勝、サセックスS・ジャージーSなどに勝ち、英2000ギニーでクレペロの2着に入った。遡ると、キングズスタンドSの勝ち馬ビルモラン、キングズスタンドS2回・ナンソープSの勝ち馬ゴールドブリッジ、同じくキングズスタンドS2回・ナンソープSの勝ち馬ゴールデンボス、ザボス、オービーへと行きつく典型的な短距離血統である。
母マレッドは現役成績5戦1勝。レース前に常に大量の発汗が見られるなどかなり神経質な馬だったらしい。繁殖入り後も交配相手の種牡馬に怪我をさせる危険性があったため、マッケネリー氏は相手探しに苦労したという。クオラムはマッケネリー氏の知人が所有していた種牡馬だったため、マレッドの相手として選抜されたらしい。本馬の両親はいずれも現役時代に短距離戦を中心に走っていたため、本馬自身も現役当初は短距離馬だと思われていたと言われており、最初にマイル以下の平地競走を走っていたり、最初はスタミナを要するスティープルチェイス分野ではなくスピードを要するハードル分野に向かったりしたのもそれ故であるらしい。
マレッドの母クインタの半姉スプリングオフェンシヴの子にターボジェット【マンノウォーS】と本邦輸入種牡馬ファバージが、牝系子孫に、タートルアイランド【愛フェニックスS(愛GⅠ)・愛2000ギニー(愛GⅠ)】がいる。→牝系:F25号族
母父マジックレッドは現役成績19戦3勝、バークシャーH・コンバーメアH・ニュータウンHを勝っている。マジックレッドの父リンクボーイはファロス産駒で、グリーンハムプレート・セレクトS・ドンカスターハイウェイトHなど7勝を挙げている。
本馬の馬名“Red Rum(赤いラム酒)”は生産者マッケネリー氏が本馬をセリに出す前に既に名付けていた(最初の所有者キングスレイ氏の命名によるとする資料もあるが少数派である)もので、母マレッド(Mared)の馬名の後半3文字と、父クオラム(Quorum)の馬名の後半3文字を組み合わせただけという単純なものである。ちなみにこの“Red Rum”という言葉は“Murder(殺人)”のスペルを逆にしたものでもあり、映画化もされたスティーヴン・キングのホラー小説「シャイニング」にこの言葉が出てくる。そのため実はそれが語源なのでは思う人もいるかもしれないが、小説「シャイニング」が発表された1977年は本馬が3度目の英グランドナショナル制覇を成し遂げた年であるから、本馬の名前が小説「シャイニング」に出てくる“Red Rum”に由来する事は時系列的に100%無い。
競走馬引退後
競走馬を引退した本馬は、マケイン師の元で繋養され、毎年のように英国各地をパレードして回った。特に英グランドナショナルが実施される際には本馬がエイントリー競馬場までやってきてパレードを先導するのが通例となっていた。実は1960年代後半から1970年代初頭まで、動物愛護団体からの非難を受け続けた英グランドナショナルは存続が危ぶまれていた。1964年にエイントリー競馬場の所有者が同場を売却すると発表し、1973年に所有者が変わるまで、毎年のように「これが最後の英グランドナショナルになるかもしれません」と言われていたのだった。所有者が変わった後も経営は安定せず、レスカルゴが本馬を破った1975年は史上最少の31頭立てとなるなど、レースの価値は揺らぎ始めていた。しかし本馬が同競走史上初の3勝目を挙げて国民的英雄となった事により、英グランドナショナルは動物愛護団体の意見をかき消すほど英国民の支持を集めるようになり、後に英国ジョッキークラブがエイントリー競馬場を購入して同競走の永続的施行を確定させる契機となったと言われている。英グランドナショナルという競走にとって本馬は恩人ならぬ恩馬なのである。
競走馬としての知名度と評価
本馬が3度目の英グランドナショナルを勝った1977年におけるスポーツ大賞を英国放送協会(BBC)が発表した際に、本馬は授賞式のゲストとして招待された。そして別の場所にいたスタック騎手もビデオ映像で出演したのだが、画面に映ったスタック騎手の声を聴いた瞬間に本馬が耳を立てて反応を示したため、視聴者達は「レッドラムとスタック騎手の間には強い信頼関係がある」と思って非常に喜んだという。
本馬は、“Rummie”という愛称で親しまれ、競馬に興味が無くてもその名を知らない英国人はいないというほどの有名馬であった。本馬の肖像が描かれたビールジョッキ、トランプやジグゾーパズルなどの各種遊具、本馬の模型、絵画、ポスター、本馬に関して書かれた書籍(大人用から児童用まで幅広く)が次々に登場したり、ジェットコースター、列車、新曲、バーの名前、消防車などにも本馬の名が付けられたりと、とにかく本馬の名前は英国中で見かけるようになった。本馬は非常に人懐っこい優しい馬で、そんな性格も本馬が人々から愛される要因になったと言われている。
世界中から集まったファンに囲まれながら悠々自適の余生を送った本馬は、1995年5月3日の30歳の誕生日にはエイントリー競馬場に姿を現し、誕生祝いが行われた。それからしばらく経った同年10月18日、本馬はマケイン師所有の馬屋において脳卒中のため他界した。その訃報は英国中の全国紙(一般紙を含む)の一面トップで取り上げられた。本馬の遺体は、エイントリー競馬場のゴールラインのすぐ近くに埋葬され、墓碑と本馬の等身大の彫像が建立された。現在でも本馬の墓を訪れる人は絶えず、1年中美しい花束で埋め尽くされている。
本馬を管理したマケイン師はその後も障害競走の調教師として働き続け、2004年にアンビリーハウスで27年ぶり4度目の英グランドナショナル制覇を達成し、2011年に癌のため80歳で死去している。
本馬の死後11年が経過した2006年に、真っ先に思い浮かぶ馬の名を挙げてもらうアンケート(競馬に興味が無い人も対象)が英国で行われた際には、45%の人が本馬の名前を挙げた。ちなみに2位は有名小説「黒馬物語」の主人公ブラックビューティーの33%、3位は誘拐されて消息不明となった英ダービー馬シャーガーの23%で、以下、名障害競走馬デザートオーキッドが16%、英国の子ども向け番組に出てくる馬のぬいぐるみマフィンザミュールが13%、映画「シュレック」に出てくるロバのドンキーが9%、「くまのプーさん」に出てくるロバのイーヨーが8%と続いていた。
後の2003年に英レーシングポスト紙が行った企画“Favourite 100 Horses”では本馬は第3位であり、アークルやデザートオーキッドのほうが上位だったが、この企画は競馬ファン限定であり、英国民全体から見れば最も有名な馬は本馬なのである。そして競馬に興味が無い英国民全てが初めてその名を認知した競走馬もまた本馬なのである(シャーガーもデザートオーキッドも本馬より後に登場している)。
また、1999年に英レーシングポスト紙上で「20世紀の名馬」が選出された。これは平地競走馬のみが対象で、障害競走馬は対象外だった(最終的な1位はシーバード)のだが、選出委員会において本馬を第1位に推す委員が大量に出て、大激論になったという。なお、記録は破られるためにあると言うが、本馬の英グランドナショナル3度制覇の記録は不滅であると言われている。
本馬は稀に見る飛越の名手であり、障害競走において落馬したケースはごく稀(100戦の障害レース中僅か5度)だった。落馬したケースでも足を滑らせた事などが原因の事があり、飛越の失敗による落馬はさらに少なかったという。美しい茶色の馬体にシャドーロールをつけた目立つ馬で、豪快かつ完璧な飛越の見事さは、ジャンプ競技のお手本とされるほどであった。