レスカルゴ

和名:レスカルゴ

英名:L'Escargot

1963年生

栗毛

父:エスカート

母:ワットアデイジー

母父:グランドインクイジター

チェルトナム金杯を2連覇した後に英グランドナショナルに4年連続で挑戦し、4度目の出走で3連覇を狙ったレッドラムを2着に破って優勝を飾る

競走成績:5~12歳時に愛英米で走り通算成績53戦12勝2着13回3着7回

誕生からデビュー前まで

B・オニール夫人により生産された愛国産馬である。しかし幼少期の評価は低く、3歳になっても未だに買い手が付かずにいた。しかし3歳4月に愛国パンチェスタウン競馬場で行われたセリに出品された際に、愛国の障害調教師ダン・ムーア師の目に留まった。米国の事業家で愛国駐在の米国大使でもあったレイモンド・リチャード・ゲスト氏の代理人としてこのセリに参加していたムーア師は、本馬を同セリでは最高価格となる3500ギニーで購入。本馬はゲスト氏の所有馬、ムーア師の管理馬となった。ゲスト氏は本馬を、父の名前エスカート(Escart)と「努力する(Give It A Go)」という言葉に由来する“レッツゴー(Lets go)”と命名しようとした。しかし既に同じ馬名の馬が走っており審査を通らなかったため、仏語でレッツゴーを発音しようとするとレスカルゴと聞こえる事から、この名前にしたそうである。

競走生活(5~8歳時)

ゲスト氏は本馬より2歳年下の名馬サーアイヴァーの所有馬ともなるが、本馬がデビューしたのは5歳時で、サーアイヴァーが英2000ギニー・英ダービー・英チャンピオンS・ワシントンDC国際Sを勝ったのと同年だった。5歳時の成績は5戦2勝2着1回だった。

6歳時には米国でも2回だけ走っている。ベルモントパーク競馬場で出走したメドウブルックスティープルチェイスS(20F)では、コースレコードで勝利を収めた。同じくベルモントパーク競馬場で出走したテンプルグワスメイスティープルチェイスS(24F)では、ソマテンの3着だった。6歳時の成績は10戦5勝2着2回3着2回で、この年に本馬が米国で挙げた勝利は1勝だけだったのだが、それでもこの年の米最優秀障害競走馬に選出された。

7歳時には英国の障害定量戦の頂上決戦チェルトナム金杯(26.4F)に出走。単勝オッズ34倍という人気薄だったが、主戦のトミー・カーベリー騎手を鞍上に、2着フレンチタンに1馬身半差をつけて勝利を収めた。この年には米国でも1回だけ走っている。その1回とは、現在GⅠ競走に位置付けられているサウスカロライナ州カムデン競馬場で行われた第1回コロニアルC(22.5F)だったが、この年のテンプルグワスメイスティープルチェイスSなども勝って米最優秀障害競走馬に選ばれるトップビッド、翌年に米グランドナショナル・テンプルグワスメイスティープルチェイスSなどを勝って米最優秀障害競走馬に選ばれるシャドウブルックなど3頭に後れを取り、トップビッドの4着に敗れた。本馬が米国で出走したのはこのレースが最後で、本馬の米国における出走は結局3回だけだった。7歳時の成績は5戦2勝3着1回だった。

8歳時はチェルトナム金杯(26.4F)で、後にこの年のキングジョージⅥ世チェイスと2年後のチェルトナム金杯を勝つザディクラーを3着に撃破して、2連覇を達成した。しかし8歳時の勝ち星はこれだけで、この年の成績は7戦1勝3着2回と振るわなかった。

競走生活(9~11歳時)

9歳時には初めて英グランドナショナル(36F)に挑戦。他馬勢より5~28ポンド重い168ポンドのトップハンデを課されたが、単勝オッズ9.5倍で42頭立ての1番人気に支持された。一昨年の同競走の勝ち馬ゲイトリップが斤量2位の163ポンドで単勝オッズ13倍の2番人気だった。英グランドナショナルには、踏み切り地点より着地点のほうが低いために体勢を崩しやすく最難関とされる第6・22障害ビーチャーズブルック、カーブの途中にあるために馬群が密集しやすく難関とされる第7・23障害フォイネイボン、飛越直後に急なカーブがあるために馬群が密集しやすく難関とされる第8・24障害キャナルターンといった悪名高き難関障害が数多く設置されているのだが、この年の本馬はそこまで行きつくことなく、第3障害で飛越に失敗して転倒して競走を中止。レースは斤量141ポンドだった単勝オッズ15倍の4番人気馬ウェルトゥドゥが2着ゲイトリップに2馬身差、前年の同競走2着馬ブラックシークレットとジェネラルサイモンズ(3着同着)の2頭にさらに3馬身差をつけて勝利した。9歳時の成績は9戦1勝2着5回だった。

10歳時には再び英グランドナショナル(36F)に挑戦。今回も本馬は168ポンドのトップハンデを課され、単勝オッズ12倍で38頭立ての3番人気での出走となった。単勝オッズ10倍の1番人気で並んだのは、現在でも豪州競馬史上最高の障害競走馬と言われている168ポンドのクリスプ、そして斤量145ポンドのレッドラムだった。今回の本馬は完走する事が出来た。しかし逃げたクリスプと、それを最終障害飛越後から猛然と追いかけたレッドラムの一騎打ちには全く加わることが出来ず、勝ったレッドラムから25馬身3/4差、2着クリスプからも25馬身差の3着に敗れた。10歳時の成績は6戦未勝利3着2回に終わってしまった。

11歳時にも、三度目の正直を目指して英グランドナショナル(36F)に参戦。斤量140ポンドのスカウトという馬が単勝オッズ8倍で42頭立ての1番人気、167ポンドの本馬が単勝オッズ9.5倍の2番人気、168ポンドのレッドラムが単勝オッズ12倍の3番人気となった。レースは本馬とレッドラムがいずれも的確に障害を飛越しながら先行。しかし第20障害の辺りで先頭に立ったレッドラムが、徐々に本馬を含む後続馬勢を引き離し始めた。本馬も諦めずに追撃し、第29障害の手前からレッドラムに迫っていったが、最終第30障害を無事に飛越したレッドラムに差を広げられた。3着チャールズディケンズを短頭差で抑え込むのが精一杯だった本馬は、2連覇を飾ったレッドラムに7馬身差をつけられて2着に敗れた。11歳時の成績は7戦未勝利2着3回3着1回で、2年連続で未勝利に終わってしまった。

競走生活(12歳時)

12歳時も現役を続け、三度目の正直ならぬ四度目の正直を目指して英グランドナショナル(36F)に出走した。対戦相手の筆頭格は同競走史上初の3連覇を目指すレッドラムで、168ポンドのトップハンデながらも単勝オッズ4.5倍で31頭立ての1番人気。斤量3位の157ポンドの本馬が単勝オッズ7.5倍の2番人気となった。他にも、4年前のチェルトナム金杯で本馬の3着に敗れた一昨年のチェルトナム金杯の勝ち馬ザディクラーも出走していたが、本馬より重い167ポンドの斤量が嫌われたのか単勝オッズ21倍の9番人気だった。

レースは本馬やレッドラムを含む複数の馬がレース中盤で抜け出して先行集団を形成した。第27障害を飛越した辺りで本馬が前を行くレッドラムに並びかけて、しばらくは2頭が先頭争いを展開した。そして2頭がほぼ同時に最終障害を飛越すると、本馬がレッドラムをどんどん引き離し始めた。そして最後は2着レッドラムに15馬身差、3着となった単勝オッズ21倍の9番人気馬スパニッシュステップス(本馬が最初に勝ったチェルトナム金杯で3着に入っていた馬で、このレースにおける斤量は143ポンドだった)にはさらに8馬身差をつけて圧勝した。

チェルトナム金杯と英グランドナショナルを両方勝った馬は2015年現在でも、20世紀上半期における欧州最高の障害競走馬ゴールデンミラーと本馬の2頭しかおらず、これは相当な名誉であるとされている。また、4年連続で本馬と共に英グランドナショナルに挑戦したカーベリー騎手は、愛障害首位騎手に5回輝いただけでなく、平地も含めた愛首位騎手に2回輝いた名手だったが、英グランドナショナルを騎手として勝った事は後にも先にも無く、これが唯一の勝利となった(ただし後に調教師に転身して、管理馬ボビージョーと自分の息子ポール・カーベリー騎手のコンビで1999年の同競走を勝っている)。また、英ダービーをラークスパーとサーアイヴァーの2頭で既に勝っていたゲスト氏は馬主として英グランドナショナルと英ダービーという英国の障害と平地の2大競走をいずれも制覇したことになったが、これは英国王エドワードⅦ世(英グランドナショナルは皇太子時代の1900年にアンブッシュで、英ダービーはパーシモンダイヤモンドジュビリーミノルの3頭で勝利)、ドロシー・ウィンダム・パジェット女史(英グランドナショナルは1934年にゴールデンミラーで、英ダービーは1943年にストレートディールで勝利)に次いで3人目の快挙で、彼以降にはジェームズ・ジョエル氏(英ダービーは1967年にロイヤルパレスで既に勝っていたが、英グランドナショナルを勝ったのはこの後の1987年のマオリヴェンチャーによるもの)しかおらず、歴史上4人しかいない。

同競走史上初の3連覇の夢を本馬に絶たれたレッドラムはこの2年後の同競走において歴史上最初で最後の英グランドナショナル3勝目を挙げることになるのだが、後に英タイムフォーム社の障害競走担当者フィル・ターナー氏は後に「レスカルゴの実力を考慮するとレッドラムは英グランドナショナルで4勝を挙げたに等しいです」と評した。

念願だった英グランドナショナル制覇を果たしたゲスト氏は本馬の競走馬引退を決定。そしてゲスト氏は世話になったムーア師の妻ジョーン夫人の乗馬として使ってもらうつもりで本馬をムーア師に贈った。しかしムーア師は乗馬では無く競走馬として本馬を贈られたと誤解したようである。本馬をケリーナショナルスティープルチェイスというレースに出し、本馬は敗れた。それを聞いたゲスト氏は怒って本馬をムーア師から取り戻し、米国にある自分の自宅に送って完全に競走馬生活から退かせた。12歳時の成績は4戦1勝2着1回だった。10歳から12歳までの3年間で本馬は17戦したが勝ち星は英グランドナショナルのみであり、まさしく英グランドナショナル制覇に執念を燃やした競走生活後半だった。

血統

Escart Turmoil Tourbillon Ksar Bruleur
Kizil Kourgan
Durban Durbar
Banshee
Blue Iras Blue Skies Blandford
Blue Pill
Iras Ramus
Experience
Escalade Escamillo Firdaussi Pharos
Brownhylda
Estoril Solario
Appleby
Cle de Mi Dark Legend Dark Ronald
Golden Legend
Clemi Son-In-Law
Clarilaw
What A Daisy Grand Inquisitor His Reverence Duncan Grey Pommern
Sibyl Grey
Reverentia Grand Parade
Reverence
High Prestige Prince Galahad Prince Palatine
Decagone
Prestige Pommern
Enbarr
Lady Sunderlin J'Accours Rustom Pasha Son-In-Law
Cos
More Haste Hurry On
Lady Maureen
Duchess Of Pedulas Duke Of Buckingham Buchan
Silver Bullet
Pedulas Junior
Miss Flapperton

父エスカートは仏国産馬で、競走馬としてはラクープドメゾンラフィットで2着、マルセイユ大賞・ヴィシー大賞で3着した程度だった。競走馬引退後は英国で種牡馬入りしていた。エスカートの父テュルモワールはトウルビヨン産駒の仏国産馬。カドラン賞・ドーヴィル大賞・カブール賞・フォンテーヌブロー賞を勝ちロワイヤルオーク賞で3着している。

母ワットアデイジーは不出走馬。本馬の半姉ワットアハニー(父ヴァルガン)の孫にファイブフォースリー【ワールドシリーズハードル(愛GⅠ)】が、ワットアデイジーの母レディサンダーリンの半弟にミスターワット【英グランドナショナル】がいる。レディサンダーリンの4代母ブレスレットはチェヴァリーパークSの勝ち馬で、ブレスレットの5代母ヴェックスはガロピンの全姉であるが、それほど発展している牝系では無い。→牝系:F3号族④

母父グランドインクイジターは愛ダービー3着馬。グランドインクイジターの父ヒズレヴェレンスは愛フェニックスS・リヴァプールシルヴァージュビリーC・シティ&サバーバンHの勝ち馬。ヒズレヴェレンスの父ダンカングレイは英国三冠馬ポマーン産駒で、ウッドコートSを勝ちエクリプスSで3着している。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は前述のとおりゲスト氏により米国に送られ、ゲスト氏の自宅で飼われることになった。本馬は米国では3戦しかしていないのだが、1977年には米国競馬の殿堂入りを果たした。1984年6月に21歳で他界した。

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