ミノル

和名:ミノル

英名:Minoru

1906年生

青鹿

父:サイリーン

母:マザーシーゲル

母父:フライアーズバルサム

時の英国王の所有馬として史上唯一の英ダービー優勝を果たすも種牡馬入り後にロシア革命に巻き込まれて消息不明となる

競走成績:2~4歳時に英で走り通算成績14戦7勝2着2回3着2回

誕生からデビュー前まで

愛国において本馬を生産したのは、後にウェバートリー卿となるウィリアム・ホール・ウォーカー大佐である。英国の醸造家でリヴァプール市長も務めた初代准男爵アンドリュー・バークレー・ウォーカー卿の息子だったウォーカー大佐は、父の後を受け継いで醸造事業を拡大させる傍らで、趣味だった乗馬(正確にはポロ)が高じて、乗馬用の馬を生産するようになった。そしてそれがさらに高じて、1900年に愛国キルデア州タリーに土地を購入して本格的な馬産を開始した。本馬が誕生したのはこのタリースタッドである。ちなみに、第二次世界大戦後にアイリッシュナショナルスタッドとなったタリースタッドの設計に携わったのは、あまり知られていないが日本人建築家の飯田三郎氏と息子の飯田実氏の両名であり、現在でもアイリッシュナショナルスタッドには日本庭園、茶室、滝と小川と橋が残っており、愛国にいながらにして日本文化を味わえる環境となっている。

さて、本馬が誕生した当時の英国王はエドワードⅦ世だった。大英帝国の全盛期を築いたヴィクトリア女王と、その夫で従兄弟でもあったアルバート公子の長男として誕生したエドワードⅦ世は、母が63年間も英国王の座にあったため、実に59年間も皇太子の地位にあった。オックスフォード大学やケンブリッジ大学で学んだが勉学には向かず遊興にふけり、数々の女性と浮名を流していた。しかもそんな彼を説教するために体調不良を押してケンブリッジ大学に来訪した父アルバート公子が直後に体調が悪化して死去したため、母ヴィクトリア女王からは非常に嫌われるようになり、内政に携わることを許可されなかった。しかしその社交性を活かして皇太子時代から欧州各国、米国、中東、インドなど海外を何度も訪問していたため、外交感覚は研ぎ澄まされていた。国王即位後は、英国軍には無い他国軍の長所を導入して自国の軍事力を強化する一方で、欧州各国、米国、日本などと親密な関係を築いた(彼は即位した直後に伊藤博文元首相と会見して打ち解け、翌年早々に日英同盟が締結されている)。特に長年に渡り犬猿の仲だった仏国との関係を大きく改善させた功績は大きく、欧州各国の君主の多くと親戚であった事もあり、“Uncle of Europe(欧州のおじさん)”又は“Peacemaker(仲裁人・調停者)”と呼ばれた。外交面では卓越した能力を発揮したエドワードⅦ世だったが遊び好きなのは変わらず、皇太子時代から芸術、音楽、狩猟、ゴルフ、そして競馬などに熱中していた。

そのうち競馬に興味を抱いたのは30歳になってからで、当初は障害競走、後に平地競走に進出。1896年には自身の生産・所有馬であるパーシモンで英ダービー・英セントレジャーを、翌年にはパーシモンでアスコット金杯を、即位前年の1900年にはパーシモンの全弟ダイヤモンドジュビリーで英国クラシック三冠競走を、アンブッシュで英グランドナショナルを制して同年の英首位生産者及び首位馬主に輝くなど、歴代の英王室一家の中でも最も競馬界において成功していた。即位後は自ら馬産を行う暇は少なくなり、特に1906年から自由党と保守党の対立が激化すると、彼はあまりの激務で体調を崩しがちになった(元々1日にタバコ20巻と葉巻12束を吸うほどのヘビースモーカーだった彼は呼吸器系の状態が悪かった)が、競馬に対する情熱は失われていなかった。それを聞き知った親英王室派のウォーカー大佐は、本馬を含む6頭の生産馬をエドワードⅦ世にリースし、本馬は英国王名義の競走馬となった。

本馬を管理したのは、エドワードⅦ世の皇太子時代から専属調教師を務めていたリチャード・マーシュ師だった。マーシュ師は、ウォーカー大佐からエドワードⅦ世にリースされた6頭の馬を見て、本馬が一番優れていると述べた。本馬は脚部不安を抱えていたが、真面目な性格で一生懸命に走る馬であり、その辺がマーシュ師の気に入ったようである。主戦はハーバート・ジョーンズ騎手が務めた。ジョーンズ騎手は、マーシュ師が管理したダイヤモンドジュビリーの主戦騎手だった。ジョーンズ騎手はダイヤモンドジュビリーがデビューした時点では見習い騎手だったが、非常に気性が激しかったダイヤモンドジュビリーは誰も乗りこなす事が出来なかったため、その担当厩務員として比較的ダイヤモンドジュビリーの信頼を得ていた彼が急遽主戦に抜擢された。そして見事にダイヤモンドジュビリーを英国三冠馬に導き、その後正式にマーシュ厩舎の主戦騎手となっていたのだった。

競走生活(2歳時)

2歳6月、1歳年上のシニョリネッタが英ダービーに続いて英オークスも制覇した当日に、英オークスと同じエプソム競馬場で行われたグレートサリーフォールS(T5F)でデビューを迎えた。このレースでは2着バルナコイルに2馬身差で勝利を収め、かなりの期待馬であるとの評判を得た。

しかしその後の2歳戦では敗戦が続き、評価はどんどん下がっていった。同月にアスコット競馬場で出走したコヴェントリーS(T5F)では、勝ったルーヴィエから3/4馬身差の2着に敗退。7月にニューマーケット競馬場で出走したジュライS(T5.5F)では、バトルアックスの首差2着に敗退。一間隔空けて出走した10月にニューマーケット競馬場で出走した英ホープフルS(T6F)では、ナショナルブリーダーズプロデュースSでベイヤードの1馬身差2着だったグラスゲリオン、モールコームSの勝ち馬でニューSではベイヤードの1馬身半差2着だったペルディッカスの2頭に屈して、グラスゲリオンの3着に敗退。同じニューマーケット競馬場で出走したニューナーサリーHでも3着に敗退。チェスター競馬場で出走したナーサリーHでは着外に敗れ、2歳時の成績は6戦1勝に終わった。

2歳フリーハンデではミドルパークプレート・デューハーストプレート・ニューS・ナショナルブリーダーズプロデュースS・リッチモンドS・バッカナムS・ロウス記念Sと2歳時7戦全勝のベイヤードが126ポンドでトップにランクされたのに対して、本馬はランキングの対象外であり、これは少なくともベイヤードより22ポンド下の評価である事を示していた。しかし一般的な評価は低かったが、管理したマーシュ師は相変わらず本馬を評価しており、翌年の英国クラシック競走を目指す事にした。エドワードⅦ世の競馬マネージャーだったマーカス・ベレスフォード氏は当初こそ本馬の英国クラシック競走参戦は無謀だと思っていたらしいが、冬場の間に本馬が急激に成長したのを見て考え方を改めた。

競走生活(3歳前半)

本馬が3歳になった頃、英国は記録的な寒波に襲われており、ベイヤードを始めとする多くの有力馬がその中で無理に調教を受けて逆に調整に失敗した。しかしマーシュ師は本馬に無理な調教を施さず、急がば回れの精神で本馬をゆっくりと仕上げた。その結果、本馬は同世代の馬達に対して明確なアドバンテージを得る事が出来た。非公式のトライアル競走で優れた走りを見せた本馬は、3月末にニューベリー競馬場で行われたグリーナムS(T7F)から始動した。このレースにはヴァレンスという有力馬の姿があり、本馬は単勝オッズ5.5倍の2番人気だった。しかし136ポンドという酷量を課せられたヴァレンスを一蹴して、2着ヴァレンスに1馬身半差で勝利した(資料によっては136ポンドを課せられたのは本馬のほうであり、ヴァレンスは131ポンドだったとなっている)。

次走は4週間後の英2000ギニー(T8F)となった。ベイヤードが1番人気に支持され、本馬は単勝オッズ5倍の2番人気となった。レースでは他馬勢から少し離れた好位を進み、レース終盤になってから一気に加速。後に同年のジョッキークラブSを勝つファラオンを2馬身差の2着に抑えて完勝した。ファラオンから1馬身半差の3着には前年のコヴェントリーSで本馬を2着に破ったルーヴィエが入り、調教の失敗で調子が悪かったベイヤードは4着に敗れた。勝ちタイム1分37秒8はレースレコードだった。英国王の所有馬である本馬が勝利した事に英国民は大きく熱狂したという。

その後もマーシュ師は本馬に軽い調教のみを施し、5月下旬の英ダービー(T12F)に直行させた。対戦相手は、英2000ギニー後の調整に成功して体調が回復していたベイヤード、前年にグレートアメリカンS・サラトガスペシャルS・ナショナルスタリオンSなどを勝利してから英国に移籍してきた米最優秀2歳牡馬サーマーティン(初代米国三冠馬サーバートンの半兄)、英2000ギニー3着馬ルーヴィエなどだった。サーマーティンが1番人気に支持され、本馬が単勝オッズ4.5倍の2番人気、ベイヤードが3番人気だった。レース当日の朝から強い雨が降っていたために観衆の数は例年より少なかったが、それでも本馬の所有者であるエドワードⅦ世は体調不良を押して、アレクサンドラ王妃を同伴(もっとも夫の浮気癖が原因で夫婦仲は悪かった)してエプソム競馬場に姿を見せていた。

スタートが切られると、ルーヴィエ、ブルックランズ、サーマーティン、ウィリアムザフォースなどが先行して、スタートで後手を踏んだ本馬もすぐに位置取りを上げて先行集団に取り付いた。そのままレースが進行したが、タッテナムコーナーを目指して坂を下っていく辺りで大事故が起きた。サーマーティン鞍上の騎手が落馬して競走を中止。馬群が密集していたため、サーマーティンの後方にはウィリアムザフォースを始めとするたくさんの馬がおり、それらの馬達は巻き込まれて落馬したり致命的な不利を蒙ったりした。そしてベイヤードも落馬こそ免れたが大きな不利を受けてしまい、この時点で勝負から脱落した。一方、先頭を走っていたルーヴィエや、サーマーティンの後ろ側にいなかった本馬は落馬の影響を受けず、そのまま直線へと突入してきた。残り2ハロン地点からはルーヴィエと本馬による激しい叩き合いが繰り広げられた。さらにゴール前ではサーマーティンの落馬で大きな不利を受けたにも関わらずウィリアムザフォースが追い上げてきた。そして3頭が殆ど同時にゴールインした。ウィリアムザフォースは僅かに届かず半馬身差の3着(だからウィリアムザフォースは不運な敗者と言われた)なのはすぐ分かったが、他2頭の着順は一見して分からなかった。当時は写真判定などというものはなく、裁定は競馬場側の長い議論に委ねられた。体勢はルーヴィエ有利に見えたらしく、ルーヴィエの馬券を勝っていた人達はルーヴィエが勝ったに違いないと声高に主張したが、結果は本馬が短頭差で勝利したという裁定となった。4着にヴァレンスが入り、直線で騎手が追うのを止めたベイヤードは5着だった。

裁定結果には疑問も呈されたが、現英国王の所有馬が史上初めて英ダービーを勝ったという事で、エプソム競馬場内は英2000ギニーの時を遥かに上回る熱狂に包まれた。このときの観衆の熱狂ぶりは「英国で今まで知られていたどんな狂乱的な大騒ぎよりも今回のほうが上でした」と語られるほどだった。エドワードⅦ世は、ジョーンズ騎手が騎乗したままの本馬の手綱を取って記念撮影に臨み、その際にイングランド国歌「ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン」が盛大に流された。さらに観衆達が本馬の周囲に押し寄せてきて、本馬の鬣や尾から毛を抜いて記念に持って帰ろうとする人間が続出した。エドワードⅦ世の元には全世界から祝電が殺到したが、その中で国王が一番気に入ったのはアルゼンチンから届いた「イギリスにいるミノルへ。おめでとう。貴方の父サイリーンから」というものだったという(本馬の父サイリーンは当時亜国へ輸出されていた)。もっとも、冷静なマーシュ師は「事故がなければベイヤードが勝っていたでしょう」とレース後にコメントしている。なお、エドワードⅦ世は皇太子時代に英ダービーを勝っているが、即位後の英ダービー制覇はこれが最初で最後だった。そしてエドワードⅦ世以外に即位後に馬主として英ダービーを勝った英国王は歴史上彼以外には1人も存在していない。

競走生活(3歳後半以降)

続いてアスコット競馬場でセントジェームズパレスS(T8F)に出走。対戦相手は僅か2頭であり、単勝オッズ1.33倍という圧倒的な1番人気に応えた本馬が、2着ザストーリーに2馬身差で難なく勝利した。次走は当時3歳馬限定競走だった7月のサセックスS(T8F)となった。今回も対戦相手は僅か2頭だったが、本馬には134ポンドという厳しい斤量が課せられており、他馬よりも斤量のほうが強敵だった。しかし2着プレスタージャックに3馬身差をつけて完勝した。

そして1903年のロックサンド以来6年ぶり史上11頭目の英国三冠馬の名誉を目指して9月の英セントレジャー(T14F132Y)に参戦した。ここではベイヤードと3度目の対戦となった。1番人気に支持されたのは英ダービー敗北後にプリンスオブウェールズS・エクリプスSなど4連勝中だったベイヤードで、本馬は2番人気だった。7頭立てのレースで本馬は内側好位につけ、ベイヤードは後方から進んだ。本馬は内埒沿いから抜け出そうとしたが馬群に包まれて進路を失ってしまった。その間にベイヤードが本馬を置き去りにして進出していき、前を行くヴァレンスとミラドールの2頭を抜き去って勝利。ヴァレンスとミラドールの2頭も捕らえられなかった本馬は、ベイヤードから6馬身差の4着に敗れた。不利を受けての敗戦だったが、本馬に乗っていたジョーンズ騎手は言い訳をせずに「ミノルよりベイヤードのほうが強い馬です。英2000ギニーと英ダービーを勝てたのはミノルが“a lucky animal”だったからです」と語った。

次走は10月にニューマーケット競馬場で行われたフリーH(T10F)となった。ここでは英1000ギニーとパークヒルSを勝ってきたエレクトラとの対戦となった。主戦のジョーンズ騎手がレース前日に負傷して騎乗できなくなったため、本馬にはベイヤードの主戦だったダニエル・マハー騎手が騎乗した。そして単勝オッズ1.5倍の1番人気に支持された本馬は2着エレクトラに首差で勝利を収め、3歳時を7戦6勝の成績で終えた。本馬の活躍により父サイリーンはこの年の英愛首位種牡馬に輝き、英国の馬産家達はサイリーンを亜国に放出した事を悔しがる事になった。

4歳時もアスコット金杯制覇を目指して現役を続行。ところが本馬はこの時期から視力が低下し始めていた。4月にエプソム競馬場で行われたシティ&サバーバンH(T10F)から始動して、単勝オッズ4倍の1番人気に支持されたものの、同世代の愛ダービー馬バチェラーズダブルの7着(14頭立て)と完敗した。

そして翌5月にエドワードⅦ世が気管支炎のため68歳で崩御。これに伴ってリース契約が切れたために本馬の所有権はウォーカー大佐に戻った。そして次走として予定されていたジュビリーSなどの登録がエドワードⅦ世の崩御に伴い無効になった事もあり、ウォーカー大佐は本馬の引退を決定。4歳時は1戦未勝利で引退となった。

馬名と当時の知名度に関して

本馬の馬名に関しては、世界的に有名だった日本人陸上競技選手の藤井実氏(1902年に東京帝国大学で行われた運動会で100mを10秒24という驚異的な世界新記録を出したとされている)に由来するという説が、日本近現代史研究家の保阪正康氏の著書「100メートルに命を賭けた男たち」の中で唱えられている。確かにエドワードⅦ世は日露戦争で(弱国と思っていた)日本が強国ロシア帝国相手に勝利した事をきっかけに大の親日家になったらしいから、その可能性も全く無いわけではないが、しかし同書の中で「(日本の二冠馬)トキノミノルはミノルの子孫である」という、明らかに事実と異なる話が書かれている(トキノミノルには本馬の父サイリーンの血は入っているが本馬の血は入っていない)から、筆者が自分の事を棚に上げて言うのもなんだが、書物としての信憑性は疑問である。1968年の朝日杯三歳Sを勝利したミノルには本馬の血が入っているから保阪氏が勘違いした可能性はあるが、いずれにしても保阪氏が競馬に関して詳しくない人物である事は明らかであり、この説は信憑性が今ひとつ低い。アイリッシュナショナルスタッドのウェブサイトには、同牧場を設計した飯田実氏の名前が本馬の馬名由来になったと明記されており、他にも「日本人庭師の名前にちなんで命名された」とする資料が複数存在することから、おそらくそれが正解なのだろう。

英国王の所有馬として英ダービーを制した本馬の名前は、今日の競馬ファンが想像する以上に当時は有名だった。本馬が3歳時の1909年に当時は英国の領土だったカナダのコロンビアにあったリッチモンドのルル島にオープンした競馬場及び飛行場の名前はミノルパークと命名された。後にブリッグハウスパーク競馬場と改名されたミノルパーク競馬場は1941年に閉鎖されたが、現在もミノルパークと呼ばれている同地は加国でも有名な文化的公園として著名である。2009年には開園100年を記念して本馬の等身大の銅像が園内に建てられた。

また、本馬の名が冠された「ミノル・ラージ・ボックス」という競馬ボードゲームが1910年に発売されている。これは5頭の駒を、競馬場を模したボード上に置き、駒ごとに順番にトランプカードを引き、一番大きな数字を出した駒だけを前の桝目に進ませる事を繰り返し、最初にゴールする1頭を当てる遊びである。5頭の駒にはオッズが設定されており、そのオッズに応じて当該馬がゴールまでに進まなければならない桝目の数が異なっており、オッズが安い(=強い)馬ほど桝目の数が少なく、早くゴールする可能性が高いようになっている。そして何度かレースを繰り返し、最終的に初期金から1番儲けた人が勝ち(1度に複数の馬に分けて賭けることも可能)というわけである。なお、5頭の駒の名前は“Minoru(ミノル)”、“St. Amant(セントアマント)”、“Game Chick(ゲームチック)” 、“Miss McGiggle(ミスマックギグル)”、“Gou-Gou(ゴウゴウ)”であり、1番最初は言うまでも無く本馬、2番目は1904年の英2000ギニー・英ダービーの勝ち馬、3番目は1901年の英シャンペンS・デューハーストSを勝った牝馬と、実在馬名が使用されている(他2頭も実在馬名と思われるが、無名の馬であるらしく該当する馬名を見つけられなかった)。本馬とセントアマントが共に単勝オッズ3倍でゴールまでの桝目は3マス、ゲームチックが単勝オッズ6倍でゴールまでの桝目は4マス、ミスマックギグルが単勝オッズ8倍でゴールまでの桝目は5マス、ゴウゴウが単勝オッズ11倍でゴールまでの桝目は6マスとなっており、英2000ギニーと英ダービーの勝ち馬2頭が一番強い設定になっている。ルールはプレイヤーの好みに応じて変更できるらしく、バージョンについても駒の数が5頭ではなく8頭などのものもあったりしたらしい。筆者は実物を直接見たわけではないが、別にボードゲームでなくても紙と鉛筆と駒代わりになる物と参加者が揃えば出来そうであり、興味がある人は日本の実在馬で実際に遊んでみたらどうだろうか。もちろん現金等を賭けるのは賭博行為なので厳禁である。どの馬のオッズを何倍にするかの議論のほうでも盛り上がりそうであるし、この結果に応じて実際のレースの予想をしてみるというのも楽しそうである。話が逸れてしまったが、要するに筆者は何が言いたいのかというと、当時の本馬はゲームの名前になるほど有名だったという事実なのである。日本ではテレビゲーム内における馬名の無断使用に関して提起された損害賠償訴訟において、損害賠償権は無いという最高裁判決が出ているが、この判決に関しては色々と異論もあるから、さすがに近年の馬名をゲームタイトル名にするのは困難だろう。しかし本馬は100年も前の馬であり馬名をゲームタイトルにしても問題ないだろうから、もし上記のゲームを行う場合は是非とも「ミノル・ゲーム」とでも呼んであげてほしい。

血統

Cyllene Bona Vista Bend Or Doncaster Stockwell
Marigold
Rouge Rose Thormanby
Ellen Horne
Vista Macaroni Sweetmeat
Jocose
Verdure King Tom
May Bloom
Arcadia Isonomy Sterling Oxford
Whisper
Isola Bella Stockwell
Isoline
Distant Shore Hermit Newminster
Seclusion
Land's End Trumpeter
Faraway
Mother Siegel Friar's Balsam Hermit Newminster Touchstone
Beeswing
Seclusion Tadmor
Miss Sellon
Flower of Dorset Breadalbane Stockwell
Blink Bonny
Imperatrice Orlando
Eulogy
Galopin Mare Galopin Vedette Voltigeur
Mrs. Ridgway
Flying Duchess The Flying Dutchman
Merope
Mother Superior Sterling Oxford
Whisper
Chanoinesse Newminster
Seclusion

サイリーンは当馬の項を参照。

母マザーシーゲルの競走馬としての経歴は不明。マザーシーゲルの全妹グランマルニエの孫には1919年の英ダービー馬グランドパレードがいる。マザーシーゲルの曾祖母シャノワネスは、本馬の母父フライアーズバルサムの父ハーミットの全妹でもある。→牝系:F5号族②

母父フライアーズバルサムはハーミット直子で、2歳時にニューS・ハーストボーンS・リッチモンドS・ジュライS・モールコームS・デューハーストプレート・ミドルパークプレートと7戦全勝。しかし3歳時に口内に膿が溜まる症状に襲われ、1番人気の英2000ギニーでは惨敗。その後は英チャンピオンSを勝ったが、2歳時の圧倒的な強さが戻る事は無かった。直系は残っていないが、ブルリーの母系にその名を見つける事が出来る。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は生まれ故郷の愛国タリースタッドで種牡馬入りした。初年度の種付け料は98ギニーに設定された。ところが初年度産駒がデビューする前の1913年に、この年の英ダービー優勝馬アボワユール(大波乱が起こった英ダービーで繰り上がり1着となった馬で、競走馬としては評価されていなかった。詳細はプリンスパラタインの項を参照)や、現役時代に何度か戦ったルーヴィエと共にロシア帝国に寄贈され、翌1914年からロシアで種牡馬生活を送ることになった。

アボワユールやルーヴィエはともかく、英国王に英ダービー馬主という栄誉をプレゼントした本馬がロシア帝国に寄贈された理由には、この時期の時代背景が関係しているようである。ロシア帝国の当時の皇帝はニコライⅡ世だった。ニコライⅡ世はエドワードⅦ世のアレクサンドラ王妃の甥であり、エドワードⅦ世からは非常に可愛がられていた。日露戦争勃発前にエドワードⅦ世は戦争回避のため仲介役を買って出たが、ニコライⅡ世はそれを拒否したため、エドワードⅦ世は止むを得ず同盟国日本を支援した。しかもドッガーバンク事件(バルト海から日本海へ向かっていたロシアのバルチック艦隊が、途中の北海ドッガーバンク漁場において、英国の漁船を日本の戦艦と誤認して攻撃。多数の犠牲者を出した上に、犠牲者を救助せずにそのまま日本海へ行ってしまった事件)の勃発により英国民の反露感情が非常に高まっていた。日露戦争で敗北したロシアは英国との関係修復を希望し、英国政府もそれに前向きだった。ニコライⅡ世を可愛がっていたエドワードⅦ世の存命中に両国の関係はある程度改善されたが、そのエドワードⅦ世が崩御した上に、この当時は独国・墺国・オスマントルコを中心とする同盟国と、英国・仏国・ロシアを中心とする連合国の対立が激しくなっていた。エドワードⅦ世の後を継いで英国王となったジョージⅤ世は、英国とロシアの関係強化の一環として本馬をロシア帝国に寄贈したと考えられる。しかしこれが本馬の運命を大きく狂わせた。

本馬がロシアで種牡馬生活を始めた1914年に第一次世界大戦が勃発。ロシアもこれに参戦したのだが、戦況は芳しくなかった。ニコライⅡ世は反政府勢力を弾圧したり怪僧ラスプーチンを重用したりするなどしていたために国民からの人気は極めて低下しており、この第一次世界大戦は前からくすぶっていた反皇帝感情を爆発させる事になった。そして1917年にロシア革命が勃発し、ニコライⅡ世は家族もろとも革命勢力によって殺害された。そしてこの革命のどさくさの中で本馬もアボワユールもルーヴィエも行方不明になってしまい、以後の消息は分かっていない。ロシア革命に介入した英国の軍隊が占領したコンスタンティノープルでアボワユールやルーヴィエ共々保護されてセルビアに移されたとも、モスクワで馬車馬にさせられたとも、革命派により殺害されたとも言われている。

後世に与えた影響

本馬は種牡馬として成功する機会を殆ど与えられなかった事もあり、種牡馬としてはほぼ失敗に終わった。唯一、豪州に競走馬として輸出された牡駒ラックナウが豪フューチュリティSやコーフィールドCを勝つ活躍を見せた。豪州で種牡馬入りしたラックナウは一定の種牡馬成績を残したが後継種牡馬が出なかった。そのために本馬の直系は残っていない。

しかし本馬はセレニシマという牝駒を出した事により、その血が後世に受け継がれた。セレニシマは繁殖牝馬としてチョーサーとの間にシリーンという牝駒を産んだ。そしてこのシリーンが産んだのがシックルファラモンド、そしてハイペリオンである。この3頭の血をいずれも持たない競走馬は現在殆どいないはずであり、本馬の血は今も世界中の競走馬の中に残っている。セレニシマは、シリーンの半妹である1923年の英1000ギニー・英セントレジャーの勝ち馬トランクイルと、半弟である1930年のアスコット金杯の勝ち馬ボスワースも産んでおり、いずれの馬もシリーンほどではないが本馬の血を21世紀に伝えている。また、前述のラックナウも直系は伸ばせなかったが、母系に入ってその血を伝えており、例えばコックスプレート2連覇など数々の大競走を制した1960年代豪州の歴史的名馬トービンブロンズの曾祖母の父はラックナウである。ラックナウの血を受け継ぐ繁殖牝馬は現在もオセアニアを中心に存在している。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1914

Lucknow

MRCフューチュリティS・MRCコーフィールドC

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