フォックスホール
和名:フォックスホール |
英名:Foxhall |
1878年生 |
牡 |
鹿毛 |
父:キングアルフォンソ |
母:ジャマイカ |
母父:レキシントン |
||
米国産馬ながら欧州で走り、“Autumn Double”達成に加えてパリ大賞・アスコット金杯も制覇して、イロコイと共に米国血統の底力を欧州競馬関係者に見せつける |
||||
競走成績:2~4歳時に英仏で走り通算成績12戦8勝2着3回 |
誕生からデビュー前まで
かつて米国の大種牡馬レキシントン(本馬の母父でもある)が暮らしていたケンタッキー州ウッドバーンスタッドにおいて、レキシントンを種牡馬として所有していた故ロバート・エイチェソン・アレクサンダー氏の弟で兄の死後もウッドバーンスタッドを守っていたアレクサンダー・ジョン・アレクサンダー氏により生産された。
1歳時にウォール街の著名な投資家ジェームズ・R・キーン氏により購入された。キーン氏は19世紀後半から20世紀初頭にかけて米国競馬界をリードする大馬主になる人物だが、この当時は本馬が産まれる2年前に馬主業を開始したばかりの新米馬主だった。しかし本馬より2歳年上のスペンドスリフトでベルモントSを勝つなど、既に馬主としての活躍を開始していた。スペンドスリフトもまたウッドバーンスタッドの生産馬であったが、いったん他者の手を経てキーン氏の所有馬となっていた。本馬の場合はキーン氏が直接ウッドバーンスタッドから購入した。
キーン氏は本馬に相当な期待を掛けていたようで、自分の息子フォックスホール・P・キーン氏(後にドミノの素質を見出すなど、父よりも相馬眼があったようである)の名前をそのまま本馬に名付けた。
本馬が2歳時の1880年にキーン氏は、米国で生まれ育った米国血統の馬が欧州でも通用するのかを確かめたくなり、本馬を含む11頭の2歳馬と、スペンドスリフト、ケンタッキーダービー馬ロードマーフィーの合計13頭を英国に派遣して、英国ウィルトシャー州ドーセットに厩舎を構えていたウィリアム・デイ調教師に委ねた。
競走生活(3歳前半まで)
2歳時にニューマーケット競馬場で行われたベッドフォードS(T5F)でデビューして勝利を収めた。しかし次走のアシュリーSでは、サヴォヤードの2着に敗れた。10月にニューマーケット競馬場で出走したブレットビーナーサリーHでは124ポンドのトップハンデを課されたが、96ポンドの軽量を評価されて1番人気に支持されていたヘイデイとの接戦を頭差で制して勝利。2歳時の成績は3戦2勝となった。
本馬と同世代でやはり米国産馬ながら英国で競走生活を送ったイロコイは幼少期から英国クラシック競走を目標としていたためにクラシック登録があったが、本馬の場合はそうではなかったようで、英国クラシック競走は全て未登録だった。そのために3歳時は英国クラシック競走とは別路線を進むことになり、まずは古馬相手のシティ&サバーバンH(T10F)に出走した。このレースには、英ダービー・リッチモンドS・ロウス記念S・セントジェームズパレスSを勝っていた1歳年上のベンドアという強敵も出走してきた。普通に戦えば現役英国最強クラスの古馬であるベンドアにこの時期の3歳馬が敵うわけはなかったが、斤量面ではベンドアの126ポンドに対して本馬は91ポンドしか無く、そこに付け込む余地があった。しかしさすがにベンドアは手強く、この斤量差をもってしても本馬は勝利を得られなかった。勝ったベンドアから1馬身半差の2着に敗退。しかし24頭立ての2着だった事もあり、デイリーテレグラフ紙は「フォックスホールはこの年の3歳世代の中で最も優れた馬になるかもしれません」という見解を示した。
デイリーテレグラフ紙の見解はそれから間もなくして裏付けられた。渡仏してパリ大賞(T3000m)に出走した本馬は、単勝オッズ3倍の1番人気に支持された。本馬は英国調教馬ではあったが出自は米国だったため、英国嫌いの仏国の競馬ファンからは好意的に迎えられた。主な対戦相手は、仏ダービー・ダリュー賞の勝ち馬アルビオン、ニューS2着馬トリスタンなどだった。レースが始まると、本馬鞍上のジョージ・フォーダム騎手はすぐに本馬を先頭に立たせた。そして3000mの長距離を見事に逃げ切り、2着トリスタンに頭差、3着アルビオンにはさらに4馬身差をつけて勝利した。トリスタンの鞍上フレッド・アーチャー騎手は前走でベンドアに騎乗して本馬を負かした相手であり、ここで本馬はシティ&サバーバンHの借りを半分返した(残り半分の借りは後に返すことになる)。
仏国の競馬ファンは、地元仏国の有力馬アルビオンが負けたにも関わらず、英国産馬であるトリスタン(その所有者は仏国の人だったのだが)を米国から来た本馬が負かしたことをとても喜び、星条旗を振りかざして本馬の勝利を祝福した。「過去にロンシャン競馬場で見られた最大の騒動」とまで言われたほど観衆は熱狂したそうである。それが事実だとすると、1865年に英国で競走生活を送っていた仏国産馬グラディアトゥールがパリ大賞に凱旋して勝利を収めた時以上の騒ぎだったことになる。あまりの大騒ぎのために遂に警察が介入して騒動はようやく沈静化。フォーダム騎手とアーチャー騎手はその後になってようやく検量室に向かうことが出来た。本馬がパリ大賞を勝った一報を耳にしたキーン氏は、自分の読み通りに米国産馬が欧州でも活躍できる事が証明できたとして、とても喜んだという。
パリ大賞の僅か3日後には英国アスコット競馬場に姿を現し、アスコット金杯(T20F)に出走。対戦相手は、前年のパリ大賞・英セントレジャー・グレートフォールS・シザレウィッチH・英チャンピオンSの勝ち馬ロバートザデヴィル、前年の英2000ギニー馬ペトロネル、一昨年の英セントレジャー3着馬エクセターなどだった。しかしさすがにこのメンバー相手にこの強行軍で好走するのは困難だったようで、2着ペトロネルに5馬身差をつけて圧勝したロバートザデヴィルの4着に敗れ去った。
競走生活(3歳後半)
夏場は休養に充て、秋は9月にニューマーケット競馬場で行われたグランドデュークマイケルS(T10F67Y)から始動した。単勝オッズ3倍の1番人気に支持された本馬は、全くの馬なりのまま、この年の英2000ギニー3着馬ドンフラノを4馬身差の2着に、この年のクイーンズスタンドS・グレートヨークシャーSの勝ち馬イシュマエルを3着に破って勝利した。
次走はシザレウィッチH(T18F)となった。斤量110ポンドでの出走となった本馬は単勝オッズ5.5倍の評価を受けた。霧雨で視界があまり良くない状況下でレースが始まると、本馬鞍上のP・マクドナルド騎手はすぐに本馬を抑えて後方から走らせた。そして残り4ハロン地点からのロングスパートを仕掛けた。前にいた馬達を全て抜き去った後も、どんどん後続との差を広げていった。最後は、一昨年の同競走の勝ち馬で、ハードウィックS2回・アスコットダービー・グレートメトロポリタンH・アスコットゴールドヴァーズも勝ち、アスコット金杯でアイソノミーの1馬身差2着していたチッペンデールを10馬身差の2着にちぎり捨てて圧勝。チッペンデールの斤量は124ポンドで本馬より14ポンド重かったが、さすがにこの着差なら、斤量差が無くても本馬の勝利は揺るぎそうにはなかった。
その僅か3日後には同じニューマーケット競馬場でセレクトS(T8F)に出走。パリ大賞で本馬の2着に敗れた後にドンカスターCでペトロネルの2着・グレートヨークシャーSでイシュマエルの3着などの成績を挙げていたトリスタン、アスコットダービーの勝ち馬マスケリンの2頭だけが対戦相手となった。斤量は本馬が137ポンド、トリスタンが123ポンド、マスケリンが122ポンドに設定され、同じ3歳馬なのにかなりの斤量差が設定された。しかし結果は本馬が2着トリスタンに3/4馬身差をつけて勝利。着差だけ見れば辛勝だが、当時の基礎資料には「馬なりでした」と書かれており、余力残しの勝利だったようである。
次走はケンブリッジシャーH(T9F)となった。前年のこのレースには、本馬と一緒に渡米したスペンドスリフトが出走したが着外に敗れてそのまま米国に戻っており、本馬の出走はある意味スペンドスリフトの雪辱戦でもあった。本馬の斤量はシザレウィッチHから大幅に増えており、126ポンドだった。対戦相手は31頭いたが、本馬より斤量が重かったのは134ポンドのベンドア、140ポンドのミドルパークプレート・スチュワーズC・ロイヤルハントC・ハードウィックSの勝ち馬ピーターの2頭の古馬のみだった。トリスタンは107ポンドしか無かったし、他の出走馬の中には斤量100ポンド以下の馬も多数おり(最軽量馬は80ポンド)、かなり厳しい戦いが予想された。そのために過去3戦の内容にも関わらず、ジョン・ワッツ騎手が騎乗する本馬は単勝オッズ11倍の4番人気止まりだった。単勝オッズ5.5倍の1番人気に支持されていたのは、シティ&サバーバンH勝利後にエプソム金杯・英チャンピオンSも勝っていたベンドアだった。
直線コースの他頭数なので、レースが始まると馬群が2つに分割された。本馬はベンドアやトリスタンなどと共にスタンド側馬群にいた。残り2ハロン地点で本馬が内埒沿いの隙間をすり抜けて先頭に立った。そのまま押し切ろうとしたのだが、後方から、英オークス2着・ミドルパークプレート・デューハーストプレート・ヨークシャーオークス・英セントレジャー3着の3歳牝馬ルーシーグリッターズ、トリスタンの2頭が差を詰めてきて、ゴール前ではこの3頭による大接戦となった。しかし本馬が凌ぎ切り、35ポンドのハンデを与えたルーシーグリッターズを短頭差の2着に、19ポンドのハンデを与えたトリスタンをさらに首差の3着に抑えて勝利。5着に終わったベンドアにシティ&サバーバンHの借りを返した。シザレウィッチHとケンブリッジシャーHの2競走を同一年に制覇する事を“Autumn Double(オータム・ダブル)”と呼ぶが、これを達成したのは1876年のローズベリー以来5年ぶり史上2頭目だった。
この頃、本馬と同じく米国産馬ながらも英国で競走馬生活を送っていた前述のイロコイが、英ダービー・英セントレジャーを制覇していた。本馬とイロコイは同世代馬だった事もあり、3万ポンドを賭けた2頭のマッチレースが企画された。しかし結果的に実現はしなかった。3歳時の成績は7戦5勝だった。
競走生活(4・5歳時)
4歳時も現役を続け、初戦はアスコット金杯(T20F)となった。対戦相手は、前年の同競走で本馬に先着する2着だった後にグレートヨークシャーH・ドンカスターCを勝っていたペトロネル、後にクイーンアレクサンドラプレートを勝つ3歳馬フォーアバラー(バードキャッチャーの全弟でリーミントンの父である英セントレジャー馬フォーアバラーとは同名の別馬)の2頭だけだった。ペトロネルも前年の同競走で本馬に先着した経験がある実力馬だったが、このレースでは当然のように本馬が大本命であり、単勝オッズ1.6倍の1番人気。レースでは他2頭が首差の接戦を演じているのを尻目に直線を快走した本馬が、2着フォーアバラーに5馬身差をつけて勝利した。このレースでは本馬とフォーアバラーの着差が首差だったとする資料も存在するが、基礎資料には5馬身差と書かれているため、こちらを信用する事にした。この翌日にはクイーンアレクサンドラプレート(T24F)に出走。しかしこのレースでは前年のシザレウィッチHで本馬の3着に敗れていたフィドラーという馬が乾坤一擲の走りを見せて6馬身差で圧勝。本馬は3着ペトロネルには先着したものの2着に敗れた。
その後はしばらくレースに出ず、その間にキーン氏とデイ師の間に不協和音が発生した。キーン氏はこの年の11月に本馬を3万5千ドルで売却する旨を発表した。この売却話はキーン氏がすぐに撤回したが、デイ厩舎にいたキーン氏の所有馬は本馬を含めて全てリチャード・マーシュ厩舎に転厩してしまった。結局4歳時はクイーンアレクサンドラプレート以降にレースに出ることは無く、この年の成績は2戦1勝となった。5歳時も現役を続けたが、結局二度と競馬場に姿を現すことは無く、5歳秋にキーン氏は本馬を今度こそ正式に売却に出した。そして後に英国首相となる第5代ローズベリー伯爵アーチボルド・プリムローズ卿により購入されて種牡馬入りする事になったため、そのまま競走馬生活に終止符を打った。
1886年6月に英スポーティングタイムズ誌が競馬関係者100人に対してアンケートを行うことにより作成した19世紀の名馬ランキングにおいては、第12位にランクインした。
血統
King Alfonso | Phaeton | King Tom | Harkaway | Economist |
Fanny Dawson | ||||
Pocahontas | Glencoe | |||
Marpessa | ||||
Merry Sunshine | Storm | Touchstone | ||
Ghuznee | ||||
Falstaff Mare | Falstaff | |||
Emilius Mare | ||||
Capitola | Vandal | Glencoe | Sultan | |
Trampoline | ||||
Tranby Mare | Tranby | |||
Lucilla | ||||
Margrave Mare | Margrave | Muley | ||
Election Mare | ||||
Mistletoe | Cherokee | |||
Black Eyed Susan | ||||
Jamaica | Lexington | Boston | Timoleon | Sir Archy |
Saltram Mare | ||||
Sister to Tuckahoe | Ball's Florizel | |||
Alderman Mare | ||||
Alice Carneal | Sarpedon | Emilius | ||
Icaria | ||||
Rowena | Sumpter | |||
Lady Grey | ||||
Fanny Ludlow | Eclipse | Orlando | Touchstone | |
Vulture | ||||
Gaze | Bay Middleton | |||
Flycatcher | ||||
Mollie Jackson | Vandal | Glencoe | ||
Tranby Mare | ||||
Emma Wright | Margrave | |||
Fanny Wright |
父キングアルフォンソは米国産馬で現役成績8戦4勝。米国の歴史的名馬ヒンドゥーの生産者でもある元ウッドバーンスタッドのマネージャー・ダニエル・スワイガート氏の所有馬で、2歳時は“ヴェロックス(Velox)”という名前で走ったが3歳時に改名された。マックスウェルハウスSというヒート競走を勝っている。種牡馬としてはかなりの成功を収めており、多くの活躍馬を出した。キングアルフォンソの父フェイトンはテンブロックの項を参照。
母ジャマイカの競走馬としての経歴は不明。近親には活躍馬の名前がなかなか出てこず、ジャマイカの祖母モリージャクソンの半姉ローラファリスの玄孫にストーンストリート【ケンタッキーダービー】が、モリージャクソンの母エマライトの全妹エレノアマーグレイブの曾孫にインスペクタービー【ベルモントS・トラヴァーズS】、ベラビー【アラバマS】がいる程度である。本馬の全妹アメリカンガールの牝系子孫が南アフリカにおいて21世紀まで続いている。
本馬の13代母セリマは1745年生まれの英国産馬で米国に繁殖牝馬として輸入された馬である。1791年に英国血統書(ジェネラルスタッドブック)が創刊された際にセリマの子孫は英国にいなかったためにセリマは登録されなかった。本馬が英国で活躍したのを機に追加登録されたが、この際にセリマや本馬は所謂ファミリーナンバー15号族として登録された。しかし実際には21号族に属する可能性が大きいことが後の研究で判明している。別ページの牝系図においても、セリマや本馬は21号族に掲載している。→牝系:F21号族②
母父レキシントンは当馬の項を参照。
競走馬引退後
競走馬を引退した本馬はプリムローズ卿が所有する牧場で種牡馬入りした。しかし種牡馬としてはあまり成功できなかった。1904年に26歳で他界した。
主な産駒一覧
生年 |
産駒名 |
勝ち鞍 |
1882 |
Dalmeny |
スチュワーズC |
1888 |
Corstorphine |
デューハーストS |