ディスカヴァリー

和名:ディスカヴァリー

英名:Discovery

1931年生

栗毛

父:ディスプレイ

母:アリアドネ

母父:ライトブリゲイド

過酷な斤量を平気で克服して勝ち星を重ねて「蒸気機関車」の異名で親しまれ、ネイティヴダンサーやボールドルーラーの母の父としても名を残す

競走成績:2~5歳時に米で走り通算成績63戦27勝2着10回3着10回

米国三冠競走を勝つことが出来なかった上に、勝ったレースの多くは日本でそれほど知名度が高くないものであるため、日本においては数多くの優駿の母の父といった程度の認識しかない人が多いかもしれない。しかし尋常ならざる斤量を課せられながらも平気で勝ち星を重ねたことから、米国では“The Iron Horse(蒸気機関車)”の異名で親しまれ、米国競馬名誉の殿堂博物館のウェブサイトでは「20世紀における最も偉大な馬の1頭」とまで評されている名馬中の名馬である。

誕生からデビュー前まで

ニューヨークの不動産業者として数々の著名な歴史的建造物を手掛けたことでも知られる、米国ケンタッキー州メアワースファームの所有者ウォルター・J・サーモン卿により生産され、メリーランド州カントリーライフファームの経営者アドルフ・ポンズ氏に購入された。ジョン・R・プライス調教師に預けられた。

競走生活(2歳時)

2歳6月にベルモントパーク競馬場で行われたダート5ハロンの未勝利戦でデビューした。しかし直線で前との差を少し縮めただけで、勝った牝馬ウォッチハーから8馬身3/4差の4着に敗れた。それから5日後に出た同コースの未勝利戦では2馬身半差の3着。その後はアーリントンパーク競馬場に場所を移して、ダート5.5ハロンの未勝利戦に出たが、後にベルモントフューチュリティS・ウィザーズS・クイーンズカウンティH・トボガンH・サンタマルガリータ招待Hなどを勝ちサラトガスペシャルS・カーターH・メトロポリタンHで2着するシンギングウッドから11馬身差をつけられた5着と大敗した。翌7月に同コースで出走した未勝利戦ではスタートから逃げて5馬身差の圧勝を飾り、4戦目でようやく勝ち上がった。

初勝利から12日後には同コースの一般競走に出たが、後のシャンペンSの勝ち馬ハダガルに3馬身差をつけられて2着に敗れた。次走はアーリントンフューチュリティ(D6F)となったが、後のケンタッキーオークス2着馬ファースター、ハダガル、シンギングウッドといった面々に屈して、勝ったファースターから10馬身差をつけられた7着と通用しなかった。その後はニューヨーク州に戻り、8月にサラトガ競馬場ダート6ハロンの一般競走に出走。ここではゴール前でよく伸びて、後の好敵手の1頭となるハイクエストの3馬身半差3着に入った。翌9月のホープフルS(D6.5F)では、この年の米最優秀2歳牝馬に選ばれるバザールに4馬身差をつけられて3着に終わったが、2着ハイクエストには鼻差まで迫った。同月にはハヴァードグレイス競馬場ダート6ハロンの一般競走に出走して、2馬身半差で制して2勝目を挙げた。

続いてイースタンショアH(D6F)に出走したが、勝ったハイクエストから6馬身差の6着に敗れた。ハイクエストから1馬身差の2着には、本馬にとって最大の好敵手となるハイドパークSの勝ち馬カヴァルケイドが入った。さらに10日後にはリチャードジョンソンS(D6F)に出たが、シックストロー、サラトガスペシャルSを勝っていた牝馬ワイズドーターの2頭に後れを取り、勝ったシックストローからの2馬身半差の3着に敗れた(本馬から1馬身半差の4着がカヴァルケイドだった)。その2週間後に参戦したブリーダーズフューチュリティ(D6F)では、バザールと並んでこの年の米最優秀2歳牝馬に選ばれるマタハリ、ギリングの2頭の牝馬に屈して、勝ったマタハリから2馬身3/4差の3着に敗退。さらに1週間後に出たケンタッキージョッキークラブS(D8F)も、直線でよく追い込んだものの、マタハリに届かず2馬身半差の2着だった。

しかし勝ち切れない本馬に目を付けた人物がいた。それはアルフレッド・グウィン・ヴァンダービルトⅡ世氏だった。ヴァンダービルトⅡ世氏は、鉄道事業などで財を成した米国の富豪ヴァンダービルト一族の後継者で、10歳時に母親のマーガレット・エマソン・ヴァンダービルト夫人に連れられてプリークネスSを観戦したのを機に競馬に夢中になった。そして弱冠20歳にしてピムリコ競馬場の代表者に就任。21歳時には母親からの誕生日プレゼントとして、メリーランド州サガモアファームを入手して馬産を開始していた。彼は後にシービスケットウォーアドミラルのマッチレースのお膳立てをした事でも有名である。本馬に目を付けた時点で彼はまだ22歳だった。ヴァンダービルトⅡ世氏はポンズ氏から本馬を2万5千ドルで購入した。ポンズ氏はこの際に、本馬が種牡馬入りした暁には初年度の種付け権利を5頭分入手するという条件を付しているから、ポンズ氏自身も本馬のことをある程度評価してはいたようである。ヴァンダービルトⅡ世氏の所有馬となった本馬は、前走から1週間後のウォルデンH(D8.5F)に出走して、シックストローの首差2着と健闘した(3着馬カヴァルケイドは6馬身後方)。2歳時はこれが最後のレースとなり、この年の成績は14戦2勝でステークス競走勝利は無かった。

競走生活(3歳前半)

3歳時は管理調教師がジョセフ・ホレス・“バド”・スタットラー師に変わった。スタットラー師は以前からサガモアファームで働いていた人物で、サガモアファームがヴァンダービルトⅡ世氏の所有となった後も残り、ヴァンダービルトⅡ世氏の専属調教師として働いていた人物だった。これは後の話になるが、本馬が競走馬を引退した3年後に自動車事故で負傷したためにスタットラー師はサガモアファームの専属調教師を辞任した。しかしシービスケットの所有者だったチャールズ・スチュワート・ハワード氏の招聘を受けて、シービスケットを手掛けたトム・スミス調教師の後釜としてハワード氏の元で活躍することになる。

さて、主戦騎手にジョン・ベジャック騎手を迎えた本馬は、ケンタッキーダービーの1週間前に行われたチェサピークS(D8.5F)から3歳シーズンをスタートさせた。しかしここでカヴァルケイドが本馬の前に立ち塞がる。カヴァルケイドは一応前年の米最優秀2歳牡馬だが、ステークス競走勝ちはハイドパークSの1つだけ、2歳戦で一番活躍したバザールとマタハリがいずれも牝馬だったために米最優秀2歳牡馬になれた程度の馬だった。2歳時に本馬とカヴァルケイドは3回あいまみえて、対戦成績は本馬の2勝1敗、3回とも両馬共に1着にはなっていないという状況であり、2頭の2歳時の成績は似たり寄ったりだった。しかしカヴァルケイドの方は3歳になり急上昇していたのである。チェサピークSで本馬は、コースレコードで走破したカヴァルケイドだけでなく、フロリダダービー2着馬アグラリアンにも後れを取り、勝ったカヴァルケイドから1馬身1/4差、2着アグラリアンから鼻差の3着に敗れた。

次走のケンタッキーダービー(D10F)では、カヴァルケイドがフロリダダービー馬タイムクロックとのカップリングで単勝オッズ2.5倍の1番人気、バザールが2番人気、マタハリが3番人気なのに対して、本馬は6番人気止まりだった。レースでは人気薄を覆す好走を見せ、直線でマタハリをかわして先頭に立ったが、後方から来たカヴァルケイドに一気に差されてしまい、2馬身半差をつけられて2着に敗れた。しかし前走チェサピークSで本馬に先着する2着だった3着馬アグラリアンには4馬身差をつけていた。

1週間後のプリークネスS(D9.5F)では、カヴァルケイドの同厩馬でケンタッキーダービー不参加のハイクエストが、カヴァルケイドとの「プリークネスS史上最も壮絶な戦い」を鼻差で制して勝利。一方の本馬は、道中で不利を受けてしまい、ハイクエストから1馬身差の3着だった。しかしそのレース内容は、ブラッドホース誌の競馬記者ハンフリー・フィニー氏が「本当に偉大な馬はディスカヴァリーでしたが、彼は肝心のところで重大な不利を受けてしまいました。それでも彼は最後まで戦い抜きました。彼は3着に終わりましたが、私がかつて見たプリークネスS出走馬の中でも最上級でした」と賞賛するものだった。

その後は前走から13日後にベルモントパーク競馬場で行われたダート7ハロンの一般競走に出走して、馬なりのまま走り、2着ウォーレターに10馬身差をつけて圧勝した。そしてさらに8日後のアメリカンダービー(D10F)に出走したが、またもカヴァルケイドに負けて2馬身差2着に終わった(3着馬はケンタッキーダービーで8着に終わっていたシンギングウッドだった)。その翌週のベルモントSには出走せず、アメリカンダービーから2週間後のデトロイトダービー(D9.5F)に向かった。しかし結果は勝ったカヴァルケイドに14馬身差をつけられた11着に敗れ去った。6月末に出走したアケダクト競馬場ダート7ハロンの一般競走では、2着となったこの年のエイコーンSの勝ち馬フリームに6馬身差をつけて圧勝した。

翌週に出走したブルックリンH(D9F)ではフリームに加えて、前年の同競走の勝ち馬で後にジョッキークラブ金杯とマンハッタンHをいずれも2連覇するダークシークレットという強敵が出現したが、113ポンドという「二度と経験することが出来ない贅沢な」軽量に恵まれた本馬が2着ダークシークレットに6馬身差をつけて圧勝し、ようやくステークス競走初勝利を挙げた。

しかし次走アーリントンクラシックS(D10F)では、勝ったカヴァルケイドに4馬身差をつけられて2着に敗退。結局3歳時の本馬は、カヴァルケイドと6度戦い1度も先着できなかった。

競走生活(3歳後半)

その後シーズン後半はカヴァルケイドが全休したため、ようやく本馬の天下となる。まずは8月にケナーS(D9.5F)に出走して、2着サムボディに2馬身差で勝利。同月のホイットニーS(D10F)では127ポンドを課せられながらも、2着フリームに10馬身差をつけて圧勝した。9月にロッキンガムパーク競馬場で出走したベニングトンS(D8.5F)では、この年の米最優秀ハンデ牝馬に選ばれるアドバイジングアナの6馬身半差5着に敗れた。しかしその僅か2日後にナラガンセットパーク競馬場で出走した新設競走ロードアイランドH(D9.5F)では、1920年のマーチャンツ&シチズンズHでサーバートンが計時した1分55秒6を更新する1分55秒0という世界レコードを計時して、2着ハダガルに2馬身差で勝利した(ただしサーバートンがその時背負っていた斤量は133ポンドで、本馬は119ポンドだった)。

それから12日後に出走したポトマックH(D8.5F)では前走から一気に斤量が増えて128ポンドを課せられたが、12ポンドのハンデを与えた2着シックストローを4馬身切り捨てた。2週間後のハヴァードグレイスH(D9F)では、2歳年上のベルモントS・ジュニアチャンピオンS・ドワイヤーS・ローレンスリアライゼーションS・サラトガHの勝ち馬フェアレノとの対戦となった。しかし本馬は道中で進路を失ってしまい、ゴール前で追い込むも、フェアレノと後のサンタアニタH勝ち馬アザカーの2頭に届かず、勝ったフェアレノから1馬身差の3着と惜敗した。しかしシーズン最終戦となったメリーランドH(D10F)では130ポンドの斤量を克服して、この年のベルモントSで3着していたグッドグッズ(名馬アルサブの父)をゴール前で差し切って半馬身差で勝利した。最終的に3歳時16戦8勝の好成績を残した本馬だが、カヴァルケイドに6戦全敗は痛く、後年に選定された米最優秀3歳牡馬の座はカヴァルケイドのもの(同馬は米年度代表馬も受賞)となった。

競走生活(4歳前半)

半年間の休養を経て、4歳時は5月にベルモントパーク競馬場で行われたトボガンH(D6F)から始動したが、休み明けでレース勘が戻らなかったのか、それとも130ポンドの斤量が堪えたのか、アイデンディファイの2馬身半差5着に敗退した。次走のメトロポリタンH(D8F)では127ポンドの斤量だったが、ゴール前の大接戦で僅かに後れを取り、勝ったカーターHの勝ち馬キングサクソン、首差2着のシンギングウッド、さらに首差3着のオンリーワンからさらに半馬身差の4着に終わった。続くサバーバンH(D10F)では、1歳年上のプリークネスS・サンアントニオH・サンフアンカピストラーノ招待Hの勝ち馬ヘッドプレイに加えて、久々の対戦となるカヴァルケイドとの顔合わせとなった。カヴァルケイドが127ポンドのトップハンデで、本馬は123ポンド、ヘッドプレイは114ポンドの軽量だった。結果はヘッドプレイが勝ち、本馬は追い上げ届かず1馬身半差の2着。一方のカヴァルケイドはレース中に故障を起こして着外(記録上は落馬競走中止)に終わり、その後に1年以上の休養を余儀なくされたため、本馬とレースで対戦することは2度となかった。

宿敵がいなくなった本馬だが調子は上がらず、6月のクイーンズカウンティH(D8F)では、キングサクソン、オンリーワン、シンギングウッドの3頭にまたも屈して、勝ったキングサクソンから1馬身半差の5着に敗退。ロッキンガムパークH(D9F)では、アイデンティファイ、ディキシーHの勝ち馬ダークホープの2頭に屈して、勝ったアイデンティファイから3馬身差の3着に敗れ、シーズン初戦から5連敗を喫した。

しかしそれから1週間後に出走したブルックリンH(D9F)では、前年にステークス競走初勝利を挙げたこのレースが余程得意だったのか、2着キングサクソンに8馬身差をつけて、1分48秒2の世界レコードを計時して、同競走史上初の2連覇を達成した。なお、このレースには2週間前のベルモントSで米国三冠馬になったばかりのオマハも参戦していたが、キングサクソンからさらに4馬身差の3着に終わっている。

競走生活(4歳後半)

ここから一気に本馬の調子は上向き、この年のサンタアニタHを勝っていたアザカーとの2頭立てとなったデトロイトチャレンジC(D9.5F)では、アザカーを30馬身切り捨てた。前年7月のアーリントンクラシックS以来1年ぶりのアーリントンパーク競馬場となったスターズ&ストライプスH(D9F)では、130ポンドを背負わされながらも、20ポンドのハンデを与えた2着チーフチェロキーに6馬身差をつけて圧勝。この頃から、この時期の米国競馬最強馬の宿命で重いハンデが課される事になるが、本馬にはあまり関係なかったようである。

同月にエンパイアシティ競馬場で出走した新設競走バトラーH(D9F)では132ポンドが課せられたが、2着オンリーワンに1馬身半差で勝利。同月にサフォークダウンズ競馬場で出走した新設競走バンカーヒルH(D9F)では131ポンドを課せられた。前走より1ポンド減っていたが、本馬を破った前年のベニングトンSなどレコードタイムを連発して前年の米最優秀ハンデ牝馬に選ばれていたアドバイジングアナより28ポンドも重い斤量だった。しかし結果は本馬が2着ゴヴショルツに15馬身差をつける大圧勝劇を収め、アドバイジングアナは3着に終わった。翌週のアーリントンH(D10F)では135ポンドを背負わされたが、2分01秒2のコースレコードを計時して、2着スタンドパットに5馬身差で圧勝した。次走のウィルソンH(D8F)では125ポンドの斤量だったが、このレースはこの月5回目の出走だった。しかし結果は2着アイデンティファイを6馬身ちぎって勝利した。

翌月に出走したマーチャンツ&シチズンズH(D9.5F)では遂に139ポンドを課せられたが、それでも2着スタンドパットに2馬身差で勝利した。それから11日後に出走したナラガンセットスペシャルS(D9.5F)では、さすがに2戦連続の139ポンドは効いたのか、29ポンドものハンデを与えたトップロウの1馬身半差2着に敗れて連勝は8で止まった。しかしそれから3日後のホイットニーS(D10F)では、本馬にとって裸同然の125ポンドだったこともあり、アイデンティファイ、前年のサンフォードS・ホープフルSの勝ち馬サイキックビッド、2年後の同競走を勝利して2度の米最優秀ハンデ牝馬に選ばれるエスポサなどを一蹴。2着エスポサに6馬身差をつけて、同競走初の2連覇を達成した。

9月にはレースに出ず、次走は10月のホーソーン金杯(D10F)となった。ここでも裸同然の125ポンドだったため、2着トップドッグに8馬身差で圧勝した。それから11日後にサフォークダウンズ競馬場で出走した新設競走マサチューセッツH(D9F)では138ポンドを課されて、トップロウ、ワッパーとの接戦に屈して、勝ったトップロウから僅か首差の3着に敗れた。しかしそれから6日後に出たシンシナティH(D10F)では132ポンドを背負いながらも、28ポンドのハンデを与えた2着ゴールデンロックに12馬身差をつけて圧勝した。さらに4日後にはワシントンH(D10F)に出走したが、連戦の疲労に加えて138ポンドの斤量も響き、ローレンスリアライゼーションS・ジョッキークラブ金杯を勝ってきたファイアソーン、マンハッタンHの勝ち馬コートアーサー、オンリーワンの3頭に屈して、勝ったファイアソーンから5馬身差の4着に敗退。

これが4歳時最後の出走となったが、この年は19戦11勝の成績を残し、この年の米国三冠馬オマハを抑えて米年度代表馬・米最優秀ハンデ牡馬を受賞した。当年の米国三冠馬を抑えて米年度代表馬に選ばれた馬は本馬唯一頭である。なお、翌1936年からデイリーレーシングフォーム紙とターフ&スポーツダイジェストマガジン誌が米国競馬の年度表彰を正式に開始したため、本馬は後付けで米年度代表馬に選ばれた史上最後の馬ともなった。重い斤量をものともせずに勝利する本馬には、いつしか“The Iron Horse”又は“The Big Train”の異名が付いていた。“The Iron Horse”は直訳すれば「鉄の馬」という意味であるが、本来は「蒸気機関車」という意味であり、これらの愛称は馬主ヴァンダービルトⅡ世氏が鉄道事業にも携わっていた事と無関係ではないようである。

競走生活(5歳時)

5歳時は今まで主戦場としてきた米国東海岸ではなく、前年に創設されたばかりのサンタアニタH制覇を目指して米国西海岸から始動した。まずは2月のサンカルロスH(D8.5F)に出走。130ポンドの斤量が課されたが、2着アリエルクロスに5馬身差をつけて圧勝した。しかし次走のサンアントニオH(D9F)では138ポンドを課されてしまい、一昨年のナラガンセットスペシャルSの勝ち馬で前年のサンタアニタH3着馬タイムサプライや、前走で一蹴したアリエルクロスなどに屈して、勝ったタイムサプライから8馬身差の5着に敗退した。本番のサンタアニタH(D10F)では130ポンドの斤量だったが、トップロウ、タイムサプライ、前年のウィザーズSの勝ち馬ローズモント(翌年のサンタアニタHではシービスケットを破って勝っている)などに敗れて、勝ったトップロウから5馬身3/4差の7着に終わった。

その後は東海岸に戻り、しばらく休養した。6月にアケダクト競馬場で行われたダート9ハロンのハンデ競走で復帰して、134ポンドの斤量を難なくこなして、2着パルマに4馬身差で勝利した。次走のブルックリンH(D9F)では、一昨年の113ポンド、昨年の123ポンドより断然多い136ポンドを課せられた。しかし本馬はやはりこのレースが得意だったのか、前年のエイコーンS・テストSの勝ち馬グッドギャンブルを4馬身差の2着に、前年のケンタッキーダービー2着馬ローマンソルジャーを3着に破って3連覇を達成。同競走を3連覇したのは本馬と、1974~76年に勝利したフォアゴーの2頭のみである。

翌月に出走したスターズ&ストライプスH(D9F)では138ポンドを課せられてしまい、勝ったスタンドパットから8馬身3/4差の9着と惨敗。同月に出走したマサチューセッツH(D9F)でも136ポンドを課せられてしまい、勝ったタイムサプライから9馬身半差の8着に終わった。しかし斤量が少し軽くなって132ポンドとなったサラトガH(D10F)では、2着マンタグナに6馬身差をつけて圧勝した。さらに4日後のウィルソンS(D8F)では裸同然の125ポンドだったため、バッシュフォードマナーS・ホーソーンH・ケナーSの勝ち馬でアーリントンフューチュリティ・アーリントンクラシックS・トラヴァーズS2着のセントバーナードを8馬身差の2着に破って圧勝した。しかしこの圧勝劇が仇となったのか、次走のマーチャンツ&シチズンズH(D9.5F)では何と143ポンドを背負わされてしまい、100ポンドしか背負っていなかったエスポサに6馬身半差をつけられて5着最下位に終わった。

しかし125ポンドのホイットニーS(D10F)では2着エスポサを10馬身切り捨てて同競走史上初の3連覇を達成し、本当の実力の差を見せ付けた。ちなみに翌年のホイットニーSはエスポサが勝利している。また、ホイットニーSを3連覇したのは史上本馬唯一頭である(後にケルソが3回勝っているが隔年の勝利である)。そもそも同競走を2連覇した馬自体が本馬以外には1頭も存在しない。

ホイットニーSの翌週にはサラトガC(D14F)に出走。このレースの出走馬は本馬とグランヴィルの2頭だけであり、マッチレースとなった。本馬より2歳年下のグランヴィルはベルモントS・アーリントンクラシックS・ケナーS・トラヴァーズSと4連勝中の3歳最強馬だった。しかし距離適性の問題があったのか(本馬は10ハロンを超える距離のレースに出た事はなかった)、グランヴィルより10ポンド重い斤量も堪えたのか、不良馬場の中で行われたレースで本馬は8馬身差をつけられて大敗してしまった。

次走のナラガンセットスペシャルS(D9.5F)では130ポンドを課せられながらも、9ポンドのハンデを与えたサンタアニタH3着馬ローズモントの頭差2着と頑張った。しかし同じく130ポンドを背負って出たハヴァードグレイスH(D9F)では、ローマンソルジャーの4馬身半差5着に敗退。このレースを最後に、5歳時14戦6勝の成績で競走馬引退となった。この年の米年度代表馬はグランヴィルが受賞したが、本馬も米最優秀ハンデ牡馬を単独で受賞した。現役当初はステークス競走勝利に縁が無かった本馬だが、最終的なステークス競走勝利数は22に達した。

競走馬としての特徴

競走馬としての本馬の最大の特徴は、その抜群の斤量耐性であろう。「サルヴェイター」の筆名で知られたデイリーレーシングフォーム社の伝説的競馬作家ジョン・ハーヴェイ氏は「米国はもちろん他国においても、これほど厳しい条件下でも平気で走った馬はディスカヴァリーの他にはいないでしょう」と、本馬の類稀なる斤量耐性を賞賛している。本馬以前に厳しい斤量下で走りまくった馬としてはエクスターミネーターが挙げられるのだが、エクスターミネーターの勝利時における最高斤量が138ポンドだったのに対して、本馬は139ポンドだった(1ポンドしか違わないなどと思うのは素人的発想である)。本馬が厳しい斤量にも関わらず活躍したため、米国競馬においては最強馬に酷量を課すことがそれまで以上に当たり前になったとまで言われる。気性面では、父ディスプレイが異常に気性が激しい馬として知られていたのに対して、本馬にはそれが殆ど受け継がれておらず、至って行儀正しい馬だったという。

血統

Display Fair Play Hastings Spendthrift Australian
Aerolite
Cinderella Tomahawk
Manna
Fairy Gold Bend Or Doncaster
Rouge Rose
Dame Masham Galliard
Pauline
Cicuta Nassovian William the Third St. Simon
Gravity
Veneration Laveno
Admiration
Hemlock Spearmint Carbine
Maid of the Mint
Keystone Persimmon
Lock and Key
Ariadne Light Brigade Picton Orvieto Bend Or
Napoli
Hecuba Isonomy
Helen of Troy 
Bridge of Sighs Isinglass Isonomy
Dead Lock
Santa Brigida St. Simon
Bridget
Adrienne His Majesty I Ogden Kilwarlin
Oriole
Her Majesty His Highness
The Butterflies 
Adriana Hamburg Hanover
Lady Reel
Kildeer Darebin
Lou Lanier

父ディスプレイはフェアプレイ産駒で、本馬の生産者であるサーモン卿が生産・所有した代表馬の1頭である。現役時代は本馬と同じく“The Iron Horse”の異名で呼ばれるほどタフに走り、プリークネスS・ラトニアCSS・ジョッキークラブカップH・シャンプレインH・ボルチモアH・トロントカップH・ワシントンH・オータムS・ホーソーン金杯に勝つなど103戦23勝の成績を残した。しかし非常に気性が激しい馬として知られており、スタート時には必ずといってよいほど大暴れして人間を引き摺りまわすなどの問題行動を起こしていたという。そのため「米国競馬史上最強の馬は誰かという議論には意味があるが、米国競馬史上最もスタートで問題を起こした馬は誰かという議論には意味が無い。何故ならば満場一致でディスプレイだからだ」などと評されるほどだった。これだけの気性難にも関わらず、主に長距離戦を中心に一流の成績を残したわけだから、その競走能力が卓越していた事にも疑いの余地は無いだろう。

母アリアドネは現役時代4戦未勝利。繁殖牝馬としては本馬以外に活躍馬を出すことが出来ず、本馬の全弟アドヴェンチュアラーは不出走に終わっている。

アリアドネの母アドリエンヌの半姉には、コケット【デモワゼルS】とケランドリア【デモワゼルS】がいる。コケットの牝系子孫には、加国の誇る名牝系の祖となったノークラスと、その孫である加国競馬史上最高の名牝ダンススマートリー【BCディスタフ(米GⅠ)・クイーンズプレート・プリンスオブウェールズS・ブリーダーズS】とその一族、それに、ハビブティ【デルマーデビュータントS(米GⅠ)・ハリウッドスターレットS(米GⅠ)】、日本で走ったパーソナルラッシュ【ダービーグランプリ(GⅠ)】、イイデケンシン【全日本2歳優駿(GⅠ)】などがいる。

アドリエンヌの母アドリアナの半妹ブルームフラワーの牝系子孫には、アクラメーション【チャールズウィッティンガム記念H(米GⅠ)3回・エディリードS(米GⅠ)2回・パシフィッククラシックS(米GⅠ)】、マインザットバード【ケンタッキーダービー(米GⅠ)】、デュラハン【ブリーダーズフューチュリティS(米GⅠ)・ブルーグラスS(米GⅠ)・パシフィッククラシックS(米GⅠ)】、アイルハヴアナザー【ケンタッキーダービー(米GⅠ)・プリークネスS(米GⅠ)・サンタアニタダービー(米GⅠ)】、ビホルダー【BCジュヴェナイルフィリーズ(米GⅠ)・BCディスタフ(米GⅠ)・ラスヴァージネスS(米GⅠ)・サンタアニタオークス(米GⅠ)・ゼニヤッタS(米GⅠ)2回・クレメントLハーシュS(米GⅠ)・パシフィッククラシックS(米GⅠ)】などがいる。→牝系:F23号族②

母父ライトブリゲイドは英国で走り、ジャージーS・デュークオブヨークS・グレートヨークシャーS勝ちなど23戦16勝の成績を残した。英国クラシック競走には不参戦だったが、同期ではトップクラスの馬とされていた。競走馬引退後は米国ケンタッキー州で種牡馬入りして成功を収めている。ライトブリゲイドの父ピクトンは、現役成績10戦3勝。デューハーストプレートを勝った早熟馬だが、英ダービーでもスペアミントの2着に頑張っている。種牡馬としてはライトブリゲイド以外に活躍馬はあまりいない。ピクトンの父オーヴィエットはベンドア産駒で、サセックスS・ニューS・グレートヨークシャーS・ニューマーケットダービー・ニューマーケットセントレジャー・ノーフォークSの勝ち馬。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は、ヴァンダービルト氏が所有するメリーランド州サガモアファームで種牡馬入りした。種牡馬としても1948年の米最優秀ハンデ牝馬カナイヴァーなど26頭(米国競馬名誉殿堂ウェブサイトには25頭と記載)のステークスウイナーを出して平均以上の成績を残したが、それよりも繁殖牝馬の父としての功績が絶大である。母の父として、ネイティヴダンサーボールドルーラーインテンショナリーの3頭を出した他にも、米国顕彰馬ベッドオローゼズ、プリークネスSの勝ち馬ヘイスティロード、日本で走った皐月賞馬ヘキラクなどを輩出した。ヴァンダービルトⅡ世氏は「ディスカヴァリーの牝駒であれば、どんな種牡馬を付けても間違いは無い」と語っていたという。

しかしこれだけ繁殖牝馬の父として功績を挙げながら、北米母父首位種牡馬には1度もなれなかった。ベッドオローゼズが2歳だった1949年はサーギャラハッド、ネイティヴダンサーが2歳だった1952年もサーギャラハッド、翌1953年はブルドッグ、ヘイスティロードが3歳だった1954年もブルドッグ、ボールドルーラーが2歳だった1956年もブルドッグ、翌1957年はマームード、翌1958年はブルリーが北米首位種牡馬になっている。本馬のタイトルを阻止した馬はどれも繁殖牝馬の父としては大物ばかりであるから、単なる巡り合わせの問題ではあるだろうが、不思議と言えば不思議である。

孫のボールドルーラーが競走馬を引退した直後の1958年8月に27歳で他界し、サガモアファームに埋葬された。1969年に米国競馬の殿堂入りを果たした。米ブラッドホース誌が企画した20世紀米国名馬100選で第37位。後継種牡馬として期待されたノックダウン、ルーザーウィーパーの2頭が共に失敗に終わったために、直系は既に途絶えているが、ネイティヴダンサーやボールドルーラーなどの活躍により、現在の世界競馬界においては、本馬の血を引かない馬のほうが少数派であるほどとなっている。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1938

Dark Discovery

ギャラントフォックスH

1938

Dispose

フラミンゴS

1938

Traffic Court

フォールズシティH

1940

Too Timely

CCAオークス

1943

Knockdown

カウディンS・サンタアニタダービー・エクセルシオールH・クイーンズカウンティH

1944

Conniver

ブルックリンH・ベルデイムH・ヴェイグランシーH

1944

Miss Disco

テストS

1945

Loser Weeper

メトロポリタンH・サバーバンH・ディキシーH

1947

First Glance

パロスヴェルデスH・エクセルシオールH

1950

Find

グレイラグH・オハイオダービー・サンカルロスH・エクセルシオールH2回・クイーンズカウンティH・ニューオーリンズH・イングルウッドH・アメリカンH・サンセットH

1952

Sometime Thing

プライオレスS・バーバラフリッチーH

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